プレリュード:獣の貌
クロードとレスターの戦いは想像を絶する展開と成っていた。
想像よりも、大人しいのだ。否、クロードの槍がレスターを大人しくさせていると言うべきか。とにかく苛烈自在の槍捌きに対して、クロードは基本姿勢を崩さず対応し続けていた。奇策には最善手で応手する。一時は後手に回ることはあるかもしれないが、最善手を放ち続ける限り、いずれは優勢に回る。
強力自在の槍を粛々と叩き落としていくクロード。落ち着いた槍捌きに普段見せる粗野な一面はない。攻めているのはレスターであるのに、攻めあぐねているのもレスターと言う奇妙な図が出来上がっていた。
どっしりと構えるクロードからは積み上げられた伝統が垣間見える。
「君は彼の関係者かい?」
「腐れ縁でございます」
「心配じゃない?」
「んー……だってあいつ、大将で三貴士ですよ。しかもそれに誰も文句を言わない。いや、言わなくなった。前代未聞のことなのに、たった数年で皆受け入れている。単純で、まっすぐで、裏表がない。その分強いんです。馬鹿なので」
全幅の信頼、と呼ぶのは少し異なるだろう。少なくともこの場において彼女だけがクロードを心配している。それをおくびにも出さないのは、信頼のまなざしを浮かべている兵士たちの心にわずかの揺らぎすら与えないため。
(……いいなあ可愛い子にモテて! 気も回るし!)
女っ気のない己を顧みると死にたくなるので、ユリシーズはやるべきことに頭を切り替えた。白の王からの依頼はすでに意味を為さない。ここから計略の中にいるであろうアルフレッドを救うのは契約外である。
(さて、契約はどうすべきか。別に構わないが……彼は気にするだろうな)
救うためには足が要る。ちらりと横に目を向けると毛並みの良い馬が一頭――
(速そうだな。あと毛並みが良い。ずっと撫でていたいであります)
気づかぬ内に人様の馬を撫でまわしていたユリシーズ。若干童心に帰ってしまうくらい良い毛並みであった。白いし、触り心地は最高。あと速そう。
「君、クロード君と知り合いということはアルフレッド君とも知り合い、と言うことかな」
「今、アルフレッドが何処にいるか知っているんですか!?」
想像以上の喰いつきにユリシーズは苦笑いを浮かべる。
「いや、ある程度の予想しか出来ないが……ちなみにさる御方から彼の面倒を見るように言われていて、救出に赴きたいのだが足がない。その馬をお貸し頂けるとありがたいのだが……如何だろうか? 報酬は、あいにく手持ちが――」
「マリアンネ! 貸してやれ! 想像以上にこんがらがっちまってるが、たぶん元の計画は悪いもんじゃねーんだろ。ハハ、水くせーよほんとによォ!」
ユリシーズが手持ちに関して言い訳を始めようとした矢先、クロードが会話に割って入ってきた。ユリシーズと言う男がアルフレッドの世話を依頼されている。その一点で充分なのだ。今宵の計画、少なくとも『あの人』はただ息子を放逐したわけではなかった。
それさえわかれば――
「っしゃァ! やる気出てきたぜ!」
クロードのモチベーションはうなぎのぼりである。
もちろん、マリアンネも微笑みながら――
「アルフレッドを、お願い致します。あの子は私たちの弟みたいなものなのです。どうか、あの子をお救いください騎士様。あの子が望む未来へ、導いてください」
切実な表情で頭を下げるマリアンネを見てユリシーズは深く足を折り騎士の礼を尽くす。
「我が剣に誓い、その約定――」
「ガッハッハッハ! 宜しい、その役目、我が引き受けた!」
「「「え?」」」
颯爽と馬に跨る老騎士。ユリシーズですら呆気に取られて身動きがとれぬほど堂々と、何の躊躇いもなしに老騎士は「ハイヨー!」と馬を走らせた。
「ちょ、おい待てゴラァ! 止めろよ天獅子ボケてんのか!?」
レスターの猛攻を捌くクロードにはとても止める余裕はない。
「う、馬ドロボー! マリアンネのウィル二世を返せー! 仔馬からマリアンネが育てたんだぞ! 高かったんだからー!」
マリアンネの叫びに馬を走らせる老騎士は「ううむ」と唸る。ごそごそと胸元をまさぐり指輪を一つ引っ掴んだ。それを後方に「代金である!」と放り投げる。
それは綺麗な放物線を描いてマリアンネの手元に降り立った。
「……指輪、緑色の石だ。わー、エメラルドかなぁ。って、そーじゃなくて」
あっさりと買収されかけるマリアンネだったが、あの馬がアルフレッドにとっての救済になるかもしれなかったのに、奪われたことを思い出し憤慨する。
ただ一人、ユリシーズだけは天を仰ぎ笑った。
「笑ってないで追ってください!」
「いや、もちろん追うさ。この奇妙な夜の顛末は見届けたい。いや、いや、しかし面白い。あの御方を呼び寄せたのは誰だ? 何が彼を引き寄せた? くく、まったくもって世の中は読めんことばかりだ。あの男ですら読みを外すのだから」
気の抜けたような顔をするユリシーズを見てマリアンネは疑問符を浮かべる。
「ああ、心配なのはわかる。だが、安心していい。あの御方であれば私などよりもよほど上手くやるだろう。あの御方は誰よりも騎士であった。誰よりも王であり、その眼は千里を見通すと言われていたそうだ。あの御方なら、正しく導くだろうさ」
ユリシーズの眼はキラキラと輝いていた。まるで憧れを見るような眼。誰もが知っている栄光と挫折、折れてなお色褪せぬ輝きを前に笑う以外の何が出来ようか。
「レスターは君に任せる。此処から負けてくれるなよ。君には俺と戦い敗れると言う役目が残っているのだから……俺に負けるまでは勝ち続けろ」
「抜かせへっぽこ! さっさと追えよ!」
「……へっぽことは失礼な。ではアルカディアの諸君、いずれどこかでまみえよう」
ユリシーズはそのまま走り出した。周囲の兵がどよめくほどの快速。
天は龍に譲れども地は獅子のもの。
(もちろん天もいずれは取り返させてもらうがね)
馬を駆る老騎士に遅れること十数秒、ユリシーズもまた正門からアルカスの外に消えた。
「あとはこいつをぶっ潰すだけだな」
「ギィ!」
クロードとレスターの戦いはさらに熾烈を極めた。
○
少年の消耗は誰の目にも明らかであった。敵も、傍観者も、己自身も限界が近いことはわかり切っていた。しかし、三方の考え方には相違がある。
敵方であるオストベルグ重装騎兵たちは当初、少年の奮戦、粘りに多少の驚きを浮かべていた。されどそれは隊列を乱すほどではなく、彼らの復讐心を薄めるほどのことではない。
だが、今この時に至っては驚きを超え疑心によってそれらは薄まり、隊列や戦いに極僅かな乱れを産むことになっていた。理由は一つ、これだけ打ち合い、乱れ交える中で、死傷者が未だゼロであるから。少年は殺さない。細かい裂傷は数え切れず、急所は外しているが矢や槍による大きな傷もある。その中で、少年はまだその手を血で汚していない。
(……何故?)
幽鬼のような彼らとて元は人、武人である。敵を殺すことの難しさより、敵を殺さずに倒すことの方が難しいことなど熟知している。この窮地で何故彼は殺さずを貫いているのか。殺せないのか、殺さないのか――殺さない場合、それによって一皮むける可能性もあり得る。殺すことの容易さを知れば、修羅と化せば、この優位が崩れる恐れもあった。
だから踏み込めない。優位を継続し、真綿で首を絞めるような戦い方を選択する。
傍観者は殺せない理由をよくわかっていた。殺さないのではなく殺せない、人を斬ったことがない張り子の剣、槍、過程の技術はあれど殺し切る経験値がゼロでは話にならない。生来の気性もあるが、まずは一人、殺さなければ覚醒などありはしない。
(殺せアルフレッド。一人殺せば恐怖が生まれる。二人、三人と殺せば躊躇が生まれる。十人殺せばその規模の群れは機能不全に陥る。あとは目星をつけている足の速い馬を奪って崩れた包囲を抜ければいい。俺なら、そうする。お前の実力なら不可能じゃない)
彼らの復讐心を塗り潰すほどの恐怖を与えれば活路は生まれる。自分ならそうする。自分ならそれが出来る。そして同時に、今のアルフレッドではそれが出来ないことも知っていた。姉を失わなかった己がこの場でいきなり人を斬れるか――その想像だけで充分。
(せめて気を失え。死ぬ前に。そうすればこの手を止める理由は消える)
傍観者は未だ弓を構えたまま動けない。力いっぱい引こうとする己を、力いっぱい止めている。そのせめぎ合いはヴィクトーリアを、ルトガルドを切り捨てる覚悟を決めた時に似ていた。全身を掻き毟りたい、切り捨てようとする己をズタズタに引き裂きたい。今だってそう。何故この手を止めねばならぬのか、最愛を守って何が悪い、エゴを通して何が悪い、俺は王だ、特別であることに矛盾はない。
奴らを殺せ。我が宝物を簒奪しようとする賊を討て。
『つくづく僕はどうしようもないね』
(ああ、俺もそう思う)
いつまで経っても自分は弱いまま。超越したと思っていてもついて回る生来の弱さ。こんなものを優しさだとウィリアムは思わない。
(俺は、卑怯者だな)
『撃てば、そうなるね』
王は撃たない。確かにアルフレッドは玉石で言えば玉側だろう。しかしこの時点であれば替えは効く。幼い頃、王とする気などなく育てた息子。王を作るならそのつもりで産んだ三人がいる。繋ぎはラファエルで充分。
ここで撃てば王が特別な愛を示した証拠が残る。それは禍根、十年、二十年先に崩壊を招く火種と成りかねない。賽はとっくに投げられている。もうアルフレッドは王に成るかただの人としてアルカディア以外の世界に埋もれるか、二つに一つなのだ。
例外はない。例外を作ってはならない。すべては群れのため、そのためにわざわざ特別をすべて遠ざけたのだ。消したのだ。
王は平等である。だから――
少年、アルフレッドは己がこれだけ生き汚く足掻いていることに驚きを覚えていた。今まで自分の価値など無いと思ってきた。父にとって利用価値がない肩書だけの王子。商売だって他者から奪い取るのが嫌で隅へ逃げた。逃げて逃げて、気づけばこんなところで父の放った刺客に殺されかけている。
何のかんのと理屈をつけて逃げた。口を開けば言い訳ばかり。
そう、自分は無価値だと言っていたその言葉もまた言い訳だったのだ。
本当は父に認められたい。愛されたい。皆が仲良く手と手を取り合って、恨みつらみのない、幸福な世界であって欲しい。愛されたい、愛したい。
誰も不幸にならない仕事がしたい。零れていく人を見るのは嫌だ。ニコラと競ってお金を稼ぐために蹴落とした、あの人の目が嫌だ。お金を手に入れて見る目が変わっていくあの眼が嫌だ。自分が剣を振るい、誰も向かってこなくなったあの場が嫌だ。
思い出すのは嫌な記憶ばかり。せめて走馬燈ならもっと綺麗な記憶を見せて欲しい。あの北方での日々を、父と母と自分、三人だけで閉ざされた優しい世界を――
(嗚呼、でも……あれは嘘だったんだ。父は僕を愛していなかったし、母すら、愛していなかったのかもしれない。テイラーと繋がりを持ち続けるための結婚で、いずれ復権するまでの繋ぎでしかなかった。そう考えればすべてつじつまが合うんだ。母も、今の僕のように不必要になったから切り捨てた。間引いた。嗚呼、心が、思い出が、壊れていくよ)
アルフレッドは泣き出しそうになる。
(助けてよ父上。嘘だと、愛していると言ってよ。僕が、僕である内に――)
壊れていく心。少しずつ鋭さを増す槍。今まで無意識に避けていた急所。少しずつ攻撃がその近くを射抜き始めた。
(僕は、はは、無価値だと言い続けてきたのに、客観的に見ても無価値極まるお荷物なのに、生きたいんだ。死にたくないんだ。本当に、僕は僕が嫌いだ。醜い、綺麗じゃない、エゴイストで、それを直視する強さも無くて、卑屈に、与えられるのを待つばかり。縋るのは思い出、ミラたちの優しさに甘えるばかり。イーリスに踏み込む勇気もない)
アルフレッドの貌から感情が消えていく。ひび割れた心から温かなものが零れていっているかのように。少しずつ、それは確実に、彼を変えていた。
(僕は僕が嫌いだ。でも、『俺』は俺が大好きでたまらないらしい)
槍が、馬の口元から頭蓋を射抜きそれに跨る敵兵の二の腕に突き立った。兵が防いだから腕で済んだが、狙いは明らかに鎧の継ぎ目であり駆動部である首、急所であった。
アルフレッドの貌に笑みが浮かぶ。それは、父と同種の笑み。
「ごめんなさい父上。『俺』は、死にたくないよ」
獣の貌。
「全員距離を取れ! 遠間で仕留める!」
アルフレッドの変貌を察し彼らは最適解を選び取った。父であるウィリアムですら読み切れなかった息子の変貌。彼らは長い戦歴の中から人が獣に堕ちる瞬間を何度も目にしていた。あのラコニアで英雄の卵がそうなるのも見ていた。その経験が、記憶が、正しい対応を産んだのだ。
獣は力で殺すのではない。獣は知恵で殺すのだ、と。
加えてアルフレッドの対応もまずかった。殺すことに気が行き過ぎた。高ぶりが今まで距離を取らせず混戦に持ち込ませるよう仕向けていた動きを、喰らいつく動作を怠らせてしまった。あと一瞬、せめてほんの少しでも思考の隙があれば――
「くそ、せめてそっちの馬を寄越せ!」
対応が早過ぎた。策謀を張り巡らす暇などない。殺して乱れさせる余地もない。
「その馬である限り逃げ切れん。復讐心から己が手で、じっくり追い詰め刃で討ち取ろうとも考えたが、そこに活路があるのなら手を変えるまで。これは誅罰である」
合図と共に放たれた矢。それは雨となって降り注ぐ。掃える数じゃない。
「死ね、国を滅ぼした悪鬼の子よ」
アルフレッドの脳裏に浮かぶのは「生きる」という言葉だけ。だから彼はシンプルにそうするための行動を取った。矢が落ちてくる瞬間、ぐるりと馬の背を滑りその体躯を盾としたのだ。あまりに生き汚く、醜悪な避け方。
「悪鬼の子は、悪鬼か」
オストベルグ重装騎兵の生き残りたちは一様に顔をしかめた。あの瞬間を生きたところで足を失った以上、彼に活路はないのだ。さらに距離を取り、矢を射かけるだけで詰む。彼にはその距離を潰す足も猶予もない。
それなのに彼は生きるため別の命を差し出した。
「ごめんね、でも、死にたくないんだ」
アルフレッドは自分の行いに対してか、その窮地に対してか、獣の笑みを浮かべながら泣いていた。暗がりで見えないが、それはまるで鮮血、血の涙のように見えた。
「悪鬼滅すべし。オストベルグの夜明けは近い!」
もう一度矢が放たれた。今度こそ防ぐ手はない。
「助けてよ、父上」
ぽつりとこぼした言葉は獣か、人か。
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