プレリュード:天翔ける龍
公務以外でほとんど王宮の外にすら出ないウィリアムにとって、門の外に出てアルカスの外を駆けるなど随分と久しぶりのことであった。こうやって走ってみると嫌でも感じる体の衰え。漲っていた、充実していた身体はもう無い。
「は、は、は」
一定のリズムで呼吸を刻み、出来る限り消耗を抑えて、出来る限り早く走る。逸る気持ちを抑えて、自制心と共に今己に出来る最速でここまで来た。
「……くそ」
なだらかな坂の下で繰り広げられている攻防。戦と呼ぶにはあまりに一方的な人数差による蹂躙劇。多数側は陣形含め何から何まで優位に事を運んでいる。戦い方がわかっているし、優勢な状況で焦ることもない。淡々とやるべきことをこなす。
恐るべき練度で。
対してたった一人の方は――
「俺とクロードの槍の使い分け、か。本当にあいつは、天才なんだな」
圧倒的不利な状況でありながら、未だ終局にまで至らないのはアルフレッド個人の戦力が突出しているから。ほぼ即席であろう槍の技術、アルカスに来てからほとんど乗っていないであろう馬を操る技量、戦の経験などないはずなのに目まぐるしく状況が変化する中で、最善の位置取りで戦う冷静さと判断力。
熟練のオストベルグ重装騎兵相手に抜け出している。まだ十代半ば、その頃のウィリアムではあの中に入って十秒も持たなかっただろう。一人一人が百将クラス。それがあれだけ連動した動きをすれば、その破壊力など数百人の陣を粉砕する。
その破壊力が発揮されない、出来ない戦いをしながら不慣れな槍で生き残る。それがどれほど難しいことか、その中で一人も死傷者を出していないことの意味を考えると、ウィリアムは頭を掻きむしりたい衝動に駆られてしまう。
「俺は、本当に父親失格だな。あの子は王に向いていない。人を斬るのも、斬られるのも、向いていないんだ。それがわかっているのに俺は――」
『向いていないからこそ、向いている。わかっているんだろ? 此処から数十年は土台作り、その先まで同じ性質の導き手が必要なわけじゃないけど、この数十年だけは僕が要るんだ。同じ性質、ビジョンを共有出来る、ね。あの子は、嫌というほど僕に似ている。同じ心に――』
「不相応極まる天才性を搭載した……俺の子、か」
『僕が成りたかった僕だ。でも、あれを見ると――』
「不幸せだ。俺は俺の意志で此処に立つ。選択した結果だ。あの子は、アルフレッドは選択肢すら持てない。俺が見出さずとも世界が、誰かが必ず見つけてしまう。一度知られたが最後、世界はあの子を放っておかない。凡人とは違い、天才は……周囲が生き方を狭めてしまう。もったいない、こうすべき、もっと良い生き方がある」
『嗚呼、なんて不自由か。凡人の中の凡人である僕の子がね。神様ってやつも本当に底意地が悪い。周囲が幸せになることすら、許してくれないんだから』
心の声と対話しながら、ウィリアムは戦局を見守る。
自在にしなる槍は龍が如し、最短最速の型は疾風が如し、本当に卓越した技量である。それほど煮詰めていない動きを、瞬時に引っ張り出し誤魔化し誤魔化し戦う。戦っている彼らには想像も出来ないだろう。知れば、動揺から包囲が乱れるかもしれない。憎しみよりも驚愕、畏怖が勝り後ずさりするかもしれない。
それほどのことをしている。ここで死なせるのはもったいない。
『手を貸すのは、ナシだよ?』
心の声の注意。ドスの効いた声である。いつもの制止とは異なり、本気でウィリアムが手を出すと思っているのだろう。さすが自分、己を良くわかっている。
「わかっているさ。そんなこと、わかり切っている」
今自分が手を出せば、裏で手を引くのが己ではないとアルフレッドにばれてしまう。今日、ウィリアムはアルフレッドを放逐するために様々な手を打った。今の状況は自分の作ったものではないが、もしここから抜け出せるのであれば、とても効果的な演出になるだろう。自分はアルフレッドに嫌われる必要がある。
嫌われて、依存から脱し、自由に、心の赴くままに世界を旅して、やるべきことを見出してもらう。そのための段取りであった。世界には課題が満ち満ちている。あの子ならきっとそれを見つけ、自分がすべきことを見つけて戻ってくる。
新たな王を作るための茶番なのだ。
『わかっているなら、その手を止めろ。間違っても、その弓を引くなよ』
此処で手を出せば全てが水泡に帰す。
「わかっている。俺は、間違えない。俺は最愛を二人、殺した男だぞ」
だから、震える手で矢を番えている自分が信じられなかった。弓を引く手を止めるのにこれほど力が要るとは思いもしなかった。事ここに至ってなお、自分は王に成り切れない。あの時、アルフレッドを殺しかけた時、成ったと思った。息子を斬れる、真の王に成ったと思っていた。だが、現実はこれ。あれは所詮児戯の延長戦で――
殺意を込めても殺す気など毛頭なかったことが、今の己を見れば明らかであった。
「あの子は、王の器だ」
『此処で手を出せば、あの子は王に成れない。父の愛という最も欲しいものを手に入れ、満足してしまう。王は孤独だ。孤独であらねばならない。頂点と言う山巓に愛など不要。寄る辺は、捨てさせろ。出来ねば間引け。間違った王を産むくらいなら劣化品の方がマシ』
「劣化品では、正しく人を導けない」
『わかりきったことを言わせるなよ。確かにあの子は最高だ。でも、だからこそ、それが裏返れば強烈な毒にもなり得る。あの子の治世でしか出来ない救済をしてみろ? なまじ出来るがゆえ、それが当たり前になった後、のちの世に揺り返しが起きる。下手をするとまた逆戻りする可能性もある。劣化品なら、そうはなるまい。精々千年が五百年になる程度、土台の劣化が早くなるだけ、だ』
強く、間違った存在程、恐ろしいものはない。アルフレッドは強い王に成るだろう。優しく、万人に愛され、万人を愛す名君になる。だが、それゆえに危ういのだ。状況にそぐわない正しさを、優しさを振りかざせば、かえって毒に成り得る。
それは名君が去った後に発芽するのだ。致命的な毒花が――
『手を出すな。出せば、お前は僕じゃなくなる。王では、なくなる』
ウィリアムは王と父の間で揺れていた。ヴィクトーリアを、ルトガルドを、その手にかけたあの時と同じ零度がその身に染みる。自分だけの絶望であればなんと楽なことか。己を追い込むだけの何と心地よいことか。罪を償う、その一心を満たすだけの作業の何と気楽なことか。今、目の前で最愛が蹂躙され、失われようとしていることに比べれば、その身を侵す病ですら気軽なもの。己の死の方がよほど容易い。
「……アルフレッド」
歯を食いしばり過ぎて口の端から血が零れる。
思い出すのはあの北方での日々。偽りだらけの準備期間であったが、それでもあの日々は現実にあった。良い賽の目が出なかった。ルトガルドの決死があった。だからこそあの日々は幻想で、本当の望みに近い日々で――
あの日々には三人だけ。三人だけで完結した、幸せな日々があったのだ。
○
「……お前やっぱ頭良いのな」
「超絶天才トップスタァのマリアンネちゃんをもっと褒め称えると良いよ」
「でも馬鹿だわ、やっぱ」
疾走していたクロードを騎乗したマリアンネが拾ったのがつい先ほどの事。とにかく走り出すことしか考えなかった武人二人組と、回り道をしてでも馬に乗ったマリアンネの知能の差が出た形。「乗ってく?」と見下ろしてきたドヤ顔をクロードは忘れないだろう。
ちなみにこの馬、マリアンネの愛馬ウィル二世はテイラー商会が経営する牧場で生まれた馬である。かの三大巨星ストラクレス駆るベルガーと並び称される名馬、アンヴァルの血を継ぐ馬で、白銀の毛並みは白騎士を彷彿とさせると人気の血統であった。
気性は優しく大人しい故、戦馬には向かぬと安く手に入ったがマリアンネはその点も気に入っている。足も速くベルシュロン種ほどではないが力もある。優秀な馬であった。戦いに向いていないとの欠点を除けば。
「……ごたついてるみたいだな」
「金属音、正門?」
「ああ、そうだな」
(血の匂い、しかも一人二人じゃねーな。戦っているどっちも化けもんとくりゃ)
クロードはちょんちょんとマリアンネの肩をつつく。
「何よエッチ」
「……そろそろ引き返せ。俺は――」
「いや!」
「いや、でもな。どう考えてもやばいぞ。この先にいる連中、たぶん俺と同じくらい、下手すると俺より強いかもしれねーんだ」
「マリアンネちゃんは馬鹿だからそういうの無視します」
「てめっ」
「もう舞台の外は嫌なの。みんなが苦しんでるのに、アルフレッドが苦しんでるのに、私だけのけものは、いや。お願いクロード」
「……死んでも知らねーぞ」
「そこは俺が守ってやるとか男らしい発言を所望します。マリアンネポイントを上げるチャンスだったのに……もったいないね!」
「バーカ」
ここを抜ければ血の匂いの大元。まずいのは騒ぎを聞きつけた人が集まり始めていること。生半可な技量では割って入ることすら出来ない達人同士の戦い。離れていても雰囲気が伝わってくる。強い、本当に強い、異様なオーラが見える。
(ったく、やるしかねえか)
クロードは渋面を浮かべながらも強気に笑う。強いが、勝てないとも思わない。今の自分ならやり合える。勝ち負けは微妙だが、そういう戦こそ武人の醍醐味でもある。
○
鮮血と臓腑に彩られた舞台。世界一、二を争う大国の中枢が戦場と化していた。
「くそ、下がるんだアルカディア兵!」
「しかし、自分たちの職務は――」
混沌の場を形成するのは一匹の獣。変幻自在に動き回り先を読ませない立ち回りは、天獅子と呼ばれる猛者をして容易い相手ではなかった。加えて続々と集まる兵士たちが対応の難しさに拍車をかけていた。
「……ギィ」
兵士を盾とし、死角とし、さらには武器とし、獣は縦横無尽に跳ね回る。ユリシーズ一人なら、すでに特殊な槍の軌道も動きも見極めつつあり、勝てそうな手ごたえはあった。しかし今、凡百の兵士たちの介入でユリシーズは守りながらの戦いを余儀なくされていたのだ。こちらは守りながら、気遣いながら、あちらは彼らを利用して立ち回る。実力差はそれほど大きくない以上、この状況での有利はあちら、レスターにあった。
死角となっていた兵士を貫通して槍が伸びてくる。右は死体が転がっており足場がない。槍の射程により後退が死路である以上、左に避けるしかない。
(我ながら、良いようにやられているな)
レスターはそのまま槍を振るい、ユリシーズの避けた方向に兵士を飛ばした。ずりゅり、血が舞い散る中でユリシーズはいずれ死ぬであろう兵士を無下に扱うことが出来なかった。いずれは死ぬ、血の出方から見て内臓を貫かれている。だから蹴り飛ばして、断ち切って、どんな手段を使っても死の結末は変わらない。
(戦場なら、そうするが……今の俺がアルカスの門前でそんなことをするわけにはいかない。国に、皆に迷惑をかける要素は避けねばならない)
ユリシーズにも立場がある。平時故好きに世界を放浪しているが、何かが起きれば彼はヴァルホールの将としてひとかどの立場を得る。世間は彼をそう見ているし、何を言い訳したところでそれが変わるわけでもない。
此処でアルカディア兵に危害を加えれば、両国にしこりを産む。
(受け止めるしかないな。さあ、どう来る!?)
自分の選択肢は一つ。相手は無数。こうなってしまえば後手に回るしかない。
「ギガッ!」
受け止めた瞬間を狙った薙ぎ払い。笑えるほど完璧なタイミングで放たれたそれを、ユリシーズは兵士を受け止めながらもう片方の手で受けた。人を支えながらでは華麗に捌く余裕も、受け流す隙間もなかった。それでも、此処は気合で受ける。
「ぐぬっ!」
レスターは特異な技ともう一つ、シンプルな力を手に入れていた。技だけであればユリシーズとてここまで苦戦しない。何が彼をここまで駆り立てたのか、異様な技と圧倒的膂力、この二つが混じり合いレスターと言う怪物を形作っていたのだ。
(退けと言っても俺の言葉じゃ職務に忠実な彼らは動かん。かといってこのままではじり貧だ。さて、どうしたものか)
吹き飛ばされながら死に体の兵士を別の兵士に放り投げ、さらに距離を取るユリシーズ。レスターはぐっと伸びをして――動きを止めた。
(ん? 追撃しないのか?)
先ほどまであれほど苛烈な攻めを見せていた獣が停止する。その視線の先にはユリシーズではなく別の誰かが映っているようにも見えた。無論、眼の端ではユリシーズを捉えていることも承知の上であるが――
「おいこら、全員下がれ」
力強い声がこの場に響く。
「し、しかし我らはこのアルカスを守る使命が――」
「俺が下がれって言ってんだ兵卒ども。テメエらは自分のボスも見分けられねえのかアホンダラァ。このクロード・フォン・リウィウスが下がれって言ってんだから下がりゃ良いんだよ。わかったか馬鹿ちん!」
「し、失礼しました大将閣下!」
ばっと、ユリシーズがあれほど言って動かなかった人垣が割れる。
「随分と派手にやってくれたなおい。んで、どっちが……って聞くまでもねえか」
クロードの命令で兵士たちは一斉に後退した。整然と、統率された動き。この混沌の中で彼らは冷静さを取り戻した。それはひとえに彼の存在があってこそ。
「まァた随分と様変わりしてるが……レスター・フォン・ファルケだな? 一応特級の指名手配だぜテメエ。首とりゃそこそこの小遣い稼ぎにもならぁな」
アルカディア軍大将、クロード・フォン・リウィウス。
「助かった少年。これで勝てる」
その一喝のおかげで不利な状況は消えた。死体が転がっているせいで足場は悪いが、その程度の条件であれば戦闘に支障はない。
「ああ!? 馬鹿か天獅子ィ! なんで部外者のあんたに手出しされなきゃならねえ?」
「……え!? いや、しかしだな――」
ユリシーズはクロードの反応に驚愕した。彼のレベルならレスターの実力はわかるはず。それを読み取ればこの場での選択肢など一つしかないはずなのだ。それなのに彼はその選択肢を捨てようとしている。
彼のことはエスタード対ネーデルクスの大戦で嫌と言うほど知っている。その後の最終大戦に置いても彼の活躍と実力は把握しているつもりであった。強くなったのだろう。それは見て取れる。それでも自分とレスターのいる場所にはまだ――
「ギィグァ!」
助走無しの跳躍。異常な膂力から生み出される高さと滞空時間は、眼の端で警戒していたはずのユリシーズの想定を超えていた。
「しまっ――」
レスターの狙いは――クロードを超えたその先、馬に乗る乙女。突然のことで反応できないのか、乙女は硬直したまま動けないでいた。助けねばと動き出すもユリシーズは間に合わないと結論付ける。
そう結論付けた瞬間、それが覆される様を見て、ユリシーズは愕然と立ちすくむ。
「龍を相手に天を取ろうなんざ、万年はええよ鳥野郎!」
槍を使って跳躍したのか、レスターよりも高い位置に彼はいた。レスターもまた自分が下にいるという事実に驚愕の色を浮かべる。それほどにレスターは高く跳んでいたし、それ以上にクロードは高く飛んでいた。
「俺はアルカディア軍の大将だ」
龍の爪牙が黒き鷹の羽ばたきを撃ち落とした。受け身も取れずに地面に叩きつけられるレスター。それを見降ろしながら悠然と舞い降りるクロード。
「んで、槍を握らしゃ世界一、ネーデルクスの三貴士様だ。一応、序列は一番ってことになってる。つまり、だ。テメエがそれを握っている限り、俺ァ負けられねえんだわ」
ユリシーズは戦慄する。乱世が終わり、平穏な世界になって彼は武人の歩みが止まったと思っていた。実戦でこそ武は磨かれる、その源泉が失われた今、強者が生まれたとしてもたかが知れている、と。
だが、それは大きな間違いであったと男の背が語る。
「全員、俺の背中から前に出るな。そうしている限り、ちゃんと俺が守ってやるよ」
正眼に構える。臨戦態勢に入ったクロードを見てユリシーズは確信する。彼は自分に近いところまで来ている。白騎士、戦女神、黒狼らに割って入ろうとした己と同じく、今彼は自分に手を伸ばしつつあった。
「ギガァ!」
「来な」
クロードとレスターが衝突する。その打ち合いは槍を扱う者にとって垂涎の光景となっているだろう。人智を超越した我流に対し、歴史と伝統を踏襲しその中で最難とされる龍ノ型を修めた男が挑む。
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