プレリュード:黒き亡霊たち
アルフレッドは小休止をしていた。客観的に見てすでに己は疲労困憊。それでも精神は高揚の一途をたどっており、まるで躁病にかかったかのようであった。自制が効かない。今、こうして抑えつけているので精いっぱい。
だから気づいた。休まず、感性がどんどん鋭敏になっていくのがわかる。だから逃さなかった。気配を、そのかすかな手掛かりを――
「蹄鉄の音? 複数、森に、近づいている?」
アルフレッドは歪んだ笑みを浮かべた。愛していたのだ。どれだけないがしろにされても、三人の弟達が産まれて用無しとの烙印を押されても、あの北方での日々を思い出して耐えてきた。父と母、そして自分。三人だけで完結していた、穏やかで温かい家庭。ああ、ばあやも入れても良いだろう。思い出しただけで幸せになれる。アルフレッドの宝物。
そこにとうとう大きな亀裂が走った。
自分を暗殺者に狙わせた。ミラを斬った。客観的に考えて何故、が浮かぶも動いていた確たる証拠の前では疑問など爆ぜる。そして最後のこれは――
「はは、父上、そこまで僕が嫌いなの? 追い出しただけじゃ、足りなかった?」
宝物を壊すには充分過ぎた。
アルフレッドの顔から笑みが消える。残ったのは冷たい雰囲気と能面のような貌。
「……死んでたまるか」
生きる。父が死んでほしいと望むなら、逆に生きてみせる。
それが最大の復讐に成るとアルフレッドは思ったから。
○
建設を開始したばかりの塔。世界最大の建造物となるはずのそれは、現状でさえアルカスを一望できる高所にあった。少しでも高くするために高所に陣取ったそれを二つの影が駆け巡る。戦っているのは人、衝突しているのは拳、しかして音は鉄塊をぶつけ合っているように聞こえた。
「……黒星」
「白龍ッ!」
作業現場に積まれる石。その上で踏み込むたびに石が砕ける。人の脚力とは思えぬ破壊力だが、彼らにとってそれはただの土台であり、拳、蹴を打ち出す準備運動でしかない。
ゆらりと蝋燭の揺らめきが如し立ち居振る舞い。
ガギリと鋼を重ねたような立ち姿。
砕けるは大地。放つは互いに一撃必殺とばかりの強き拳。
「柔剛併せて天下無双。地に堕ちたかよ白龍サン」
「無駄な戦いだ。最強でも無ければ輝ける者でもない、何者でもない俺たちの戦いに何の意味がある? 何の価値がある?」
打ち合えば打ち合うほどに白龍のモチベーションは低下していく。自分は弱くなった。届かなかったあの頃よりもずっと弱い自分と同じ程度の相手。最強には程遠い。天下無双など夢のまた夢。この戦いに意味はない。
すでに今宵の茶番は終わりを告げた。あとは王の庇護から解放されたあの子がどれだけ飛翔するか、それを遠くから眺めるだけ。伝え漏れる話に耳を傾けるだけ。
「今の俺が言える事じゃねえんでしょーけど……天下無双を目指して無間砂漠に入ったあんたはどこに消えたんだよ」
「……貴様がそれを言うのか」
「俺が言うんですわ」
間違った方かもしれない。それでも黒星はある程度の覚悟をもって暴走したのだ。だから言える。何度でも言える。
「……天下無双など、分を弁えぬ望みだった。先に西方へ渡った師の名を『入り口』以外で聞いたことがあったか? 師でさえ呑まれた。俺も……呑まれた。それより劣る貴様に何が出来る? 衰えた俺と互角の貴様に、何が――」
届かなかった頂。最も充実し、最も強かったあの頃でさえ、技の限りを尽くして暴力に屈した。ただの力、黒き鋼の獣に蹂躙されたことで、彼の心は折れてしまった。技に屈したのなら耐えられた。だが、ただの力に屈するは拳士の名折れ。
天下無双は遠かった。そのことには折り合いがついている。
呆然と佇むのはそれにあらず。
「劣るかどうか、まだ決まってねえだろ!」
黒星は構える。柔らかく、それでいて芯の通った構え。
「どうでも良い。どうせも良いことだ。この場など、どうでも良い」
白龍はそれを見ずに、アルカスの城下を眺めていた。先ほどまでとは異なる苛立ち、驚愕。彼の眼には何が映っているのだろうか。一流の暗殺者、夜目は条理を超えている。
「何が起きた?」
「あン?」
そして黒星もまた同じ方向を見た。彼もまた一流の暗殺者なれば――
「……おいおい、マジかよ」
そこには脚本にない光景が広がっていた。
○
エルネスタはクラウディアが何をしたのか――想像すら出来ない。彼女の悪意を推し量ること自体、無意味なのだ。狂人の考えを読み解けば己もまた狂う。狂わねば彼女と同じ地平には立てない。エルネスタはそんな方向を目指していない。
だから、わからない。
それでもわかる。
「例えばの話ですが……もし陛下がアルフレッド殿下を出来損ないと――」
「その仮定が間違っておろうが。まず、それが逆。アルフレッドを王の器であると見込んだとして、その才を引き出すために国から放逐する。そういう『もし』であれば語る意義もあろう」
彼女にはすべてが見えている。
「では、それを行うに当たり陛下が打つ手、貴女様には見えますか?」
見えているから、これほど愉快げに嗤うのだ。
「下水路の整備……この事業をあえて後ろに倒した。妾の耳にも入っておるが、ただの繋ぎでしかない塔の建造と並行してやるほど、優先順位が低いかの?」
「ただ順番が前後しただけでは?」
「あの男の優先順位に曖昧などと言うものはない。妾はあの男を心の底から信頼しておる。あやつは間違えぬ。ならばその順序、そうあらねばならぬのだ。下水路という朽ちた道、それを残しておく必要があった。それだけのことであろう?」
彼女はきっと、別のやり方で『あの人』を超えようとしている。王宮における最大の敵として、この平時における最強の敵として君臨し、王のすべてを注がせる。歪んだ愛の発露、魔女の愛情表現とはあまりにも歪で――
(あまりにも、純粋)
エルネスタは顔を歪めながら問答を続ける。
「では、そこで気づいた、と」
「阿呆が。それは理屈よ。論理武装に過ぎぬ」
「……では貴女はいつ、陛下の考えを――」
クラウディアは微笑む。誰よりも邪悪に、誰よりも妖艶に、何者よりも純粋に――
「最初からよ。あの男があれを連れてきて、妾に見せた、あの瞬間から、あの男の特別であるあやつは我が敵で、その特別視が気に食わぬ。ゆえ――」
クラウディアは笑みを深めた。
「一番大事なところで覆す。これで特別なのは、妾だけよ」
間違いなく愛。だからこそ度し難い。王を愛すがゆえ、王の意に反する。最高のタイミングで、彼女は全てをぶち壊した。
○
アルフレッドは木の上に乗り息を潜めていた。すでにアルカス郊外の森は外縁部を包囲されており、穴がないわけではないが人の足で目視されず逃げ切れるほどの隙は無い。数騎が森の中に入り何かを探しているが――
(ターゲットは僕。ただ、彼らは囮、なんだろうな)
それが誘いだとアルフレッドは見抜いていた。彼らの馬を奪って逃げるところを狩る、それが狙いだと推測する。手練れなのは間違いない。周囲を囲んでいる者たちも含め、囮と言うには少し上等な気がする。
(逃がさないのが第一。ただ、朝まで捉えられないってのも、ナシ、なんだろうね)
囮役である狩人でもある。索敵も的確、すでにこちらが下水路から水場まで通ったルートも捉まれている。夜目が利き、鼻も利く。小さな物音ひとつ、獣の足音すら逃さない聴力も備えている。理想的な狩人だろう。それに武も、相当使えるのが見て取れる。
(黒い鎧。あのいで立ちは確か……オストベルグの重装騎兵。前にパロミデスが見せてくれたものと同じだ。なら、周囲を囲うのもきっと同じ。帰属する国も無く、使えるべき主も失った、亡国の騎士団。まるで亡霊みたいな、嫌な雰囲気だ)
アルフレッドは同じ立場である彼らを見て、これから先自分もああなるのではないかと考えてしまう。国を失い、愛する父からは拒絶され、今の自分は世界から浮いた存在、居場所のない存在という点で同じ。
(強い、けど勝てない相手じゃない。いや、たぶん勝てる)
幽鬼のような雰囲気に惑わされることなくアルフレッドは敵の技量を見抜く。決して侮って良い相手ではないが、おそらく一人一人はそれほど手こずることもないだろう。
だからこそ判断に迷いが生まれる。
(勝って、馬を奪えば包囲を抜けられるんじゃ)
広大な森ではないとはいえ、包囲していると言ってもたかが知れている。一騎一騎にはかなりの間があり、そこを突破することは不可能とは思えなかった。
(あっちの狙いもそこにある。それはわかっているけど)
このまま待ちの姿勢で隠れ潜むリスクと突破するリスク。二つを秤にかけるとどうしても隠れる方に分の悪さを感じてしまうのだ。彼らのぎょろっとした落ちくぼんだ眼、血走った眼を見ると逃げ切れる気がしなくなる。
(いま、僕は安全とは言えない。この状況がリスクの塊なんだ。そもそも衣服の臭いは消せているのか。消えていないとしたら、やっぱりリスクの方が高いかもしれない)
彼らは夜闇をものともせず、簡単に自分の痕跡を発見してのけた。消し切れないと判断し放置していたのだが、発見までの迷いの無さとそこからの動きは刮目すべきところがあった。衣服は十分に洗ったし、臭いは緩和出来ていると思っているが――
(体臭ばかりは自分じゃ判断できないからね)
臭い抜きでも彼らの索敵の動きを見ると発見は時間の問題に思える。考えれば考えるほどに戦うと言う選択肢が大きくなってしまう。
それが自らの高ぶり、精神状態が判断を揺らがせているとまでは、若いアルフレッドには考えが至らなかった。器用に何でもこなすがゆえ、彼には苦戦の経験が足りなかった。窮地の経験が足りなかった。ゆえに――
(……やろう)
この判断が正しいか正しくないか、その見極めに練達のそれはない、出来ない。
近づいてきたら、自分のテリトリーに入ってきたらという条件付きでアルフレッドは戦う選択肢を選び取った。
静寂の時間。覗き見る場所に自身を探しているのであろう騎兵が、テリトリーへ入って来るのにさして時間はかからなかった。やはり逃げ切るのは難しい。そう自分へ言い聞かせ――アルフレッドは静かに跳躍する。
狙うは馬、落とすは重厚なる騎士。
「……ッ!?」
騎士が気付く。しかしそれは奇襲にさしたる影響は与えない。
「シッ!」
跳躍と落下の勢いを十分に込めた蹴り。如何に重装備の騎士とはいえ体勢を崩すのは必定。そこからの手数もアルフレッドは織り込み済み。一手目で体を崩し、二手で相手の得物を奪う。槍を持つ腕を極め、肩を外せば抵抗することなど――
「なっ!?」
「ガァ!」
この反応はアルフレッドの想定外であった。肩を外して痛みを産み、その隙に落馬させる計画であったが、肩を外して痛むそぶりも見せず反撃に出てくるとは思わなかったのだ。しかも、外した方の手で。
「くそ!」
その反撃の腕を受け止め、相手の攻撃の勢いを用いてコンパクトな動きで放り投げる。その際、こぼれた槍はアルフレッドが回収した。上手い動きであったが考えての行動ではなく、咄嗟に出た動き。アルフレッド自身は予期せぬ反撃に頭が真っ白になっていた。肩が外れ、落馬して、背中から地面に叩きつけられてなお――
「見つけたぞ、白騎士の息子ォ!」
憎悪が彼らを突き動かす。
「逃げ切ってみせる」
森中に響くような憎悪の叫び。これで自分の位置は捕捉されたも同然。本来ならうめき声一つ上げることなく完封するつもりであったが、彼らの感情までは計算に入れていなかった。激痛をも凌駕する憎しみの感情までは――
アルフレッドは奪った馬を駆る。普段乗っていた馬に比べて鈍重だが、動きの端々に力強さを感じる。ベルシュロンという種であり、戦馬としては無類の強さを持つ彼らの背に跨ると改めて理解できる。
(強い馬だ。それに、戦いやすい)
力強さ、そこから生まれる安定感。スピードこそ劣るが、今までにない力はその欠点を補うに足る強さを備えていた。だが――
「追え、祖国の仇はそこにいるぞ!」
追われている。包囲に擁していた騎士も位置取りを変え、進行方向に集まりつつあった。雰囲気から察するに相手の方が――早い。
(……敵の足が速い? 違う、僕の足が遅いのか! やられたッ!)
囮に使う人物はかなりの腕であり本物の騎士であった。馬も、おそらく戦場に突貫する用途であれば超一流だろう。だが、足に関してはやはり遅かったのだ。同じベルシュロンの中でも相当遅い方だろう。これでは逃げ切れない。
(何で、そのことに気づかなかった。思い至らなかった! 僕は、馬鹿か!)
奪わされた馬。敵もむやみやたらに距離を詰めてくる真似はしない。彼らは知っているのだ。この馬の脚であれば少しずつ『絞る』だけで行動を制限できることを。こうなってしまえばアルフレッドに出来ることなど何もない。
(馬を捨てて、いや駄目だ。今乗り捨ててもある程度の居場所は捕捉されている以上、隠れたところで小一時間も持たない。それならまだ、各個撃破の方が勝ち目はある!)
戦って生き残る。そうするしかない。そうするしかないのだが――
(でも、敵が孤立しない。集団行動を徹底している)
敵は練度が高く老獪で、戦いを知っていた。無理に追って陣形を崩すこともなければ、浮いた駒を作ることもしない。手堅い戦、それはオストベルグと言う国家の色であり、軍の基幹戦術であった。番狂わせは、ない。
「森を抜けて、一番近い街まで……いや、明日の早朝にアルカス入りする行商たちのたまり場で良い。そこまで逃げ切れば良いだけさ。やってやる!」
まだ終わっていない。
森を抜けたアルフレッドを追う黒い影。続々と後背につき、状況が整うのを待っていた。オストベルグと言うことであまり得手ではないのだろうが、後ろの騎士たちは騎乗しながらでの弓の心得もあるようであった。
(後ろを取られて遠距離もある。対して僕は奪った槍と折れた剣、か)
戦力差は絶望的。抜けた位置から遠かった騎士たちも少しずつ群れに合流し始める。一直線に進んでも逃げ切れない。戦うにも勝てる見込みは薄い。
「僕だって、白騎士の息子だ。奇跡の一つや二つ――」
それでも逃げ切るより、戦う方がまだ――
「起こして見せるさ!」
勝ち目がある。
「ッ!?」
騎士たちが弓を射ようと持ち帰る瞬間、練度の高い彼らが合図と共に、一斉に動き出す瞬間を狙ってアルフレッドは馬を回頭させた。姿勢を低く、迷いなく群れに目掛けて突っ込んでいく。その動きは戦を知らない若造のものではなかった。
「勝つぞ! 僕にこの馬を与えたこと、後悔しろ!」
まるで槍を得手としている者のように旋回させ、獰猛な表情を浮かべてアルフレッドはローレンシア随一と謳われたオストベルグ重装騎兵の群れに突っ込んでいった。勝ち目は薄くともゼロでない限り、試行する価値はある。
アルカスを出て、父の脚本からも逸脱し、アルフレッドは自らの意志で戦い始める。武人アルフレッドは今日、この瞬間生まれたのだとのちに本人の口から語られている。
誰にも知られぬ小さな戦が始まった。
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