始まりの悲劇:始まりに至るまで
ストラクレスが王都を経て、勢いに乗るサロモン率いるガリアス軍と接触したのはヤンの処遇が決まる前であった。もし、この戦いが先に行われていたのならば、処遇の方向性も変わったかもしれない。
常勝たる王の頭脳、サロモンの軍。若きボルトース、ダルタニアン、エウリュディケ、アクィタニアの王族であるガレリウスも並ぶ。サロモンの策を理解し、実行させられる将だけが此処に集っていた。
「こんな、ところまで――」
絶句するキモン。アルカディアに掛かりきりの内に、此処まで攻め込まれていたのかと愕然としてしまう。オストベルグ建国史上、此処まで到達されたことは無い。アクィタニアにすら踏ませなかった土に、新鋭のガリアスが踏み込んだ。
「わしゃあ大将軍失格じゃなあ」
ストラクレスは申し訳なさそうに頭を掻く。
「閣下。敵方、我らの五倍はいる模様。どうされますか?」
「……部下に疑問を持たせてしまうとは、ますますもって度し難い」
サロモンは『蛇』によってベルガーの死をいち早く入手していた。ストラクレスと言う怪物に首輪をつけて御していた男がいなくなったのであれば、バランスを欠いた軍に成る。勝てる、とサロモンは考えていた。
この進軍は勝つためのモノである。
「あれがストラクレスか」
「まともに陣を敷く気も無いのか。いったいどういう将なんだ?」
「矢が届く距離に成ったら呼んで頂けるかしら?」
「…………」
実戦のほとんどをアクィタニアより東で戦ってきたボルトース、ガレリウス、エウリュディケ、ダルタニアンの若手たち。特にガレリウスとボルトース、ダルタニアンはほとんど蛮族との戦いに駆り出されてきた。
ゆえにストラクレスは初見。
「まあ、案ずるまでも無い。五倍近い兵力差で、捌くは王の頭脳サロモン殿。我らは駒として機能しよう。最善を尽くせば、負ける要素など皆無だ」
ガレリウスの見立ては正しい。至極、真っ当な見立てである。
だが――
「すまんかった。オストベルグの同胞たちよ」
先頭に立つ男が――
「疑問を持たせてはならぬ。兵が鈍る。弱さを見せてはならぬ。兵が慄く。いかんなァ、ベルガーよ。大将軍がこんな貌では、いかんじゃろうがッ!」
盛大に笑った。それだけで、全天が震える。凄まじい圧がガリアス軍を襲う。
「わしゃあストラクレス、大将軍じゃア! 全軍わしについてこい! 征くぞォ!」
一言で世界が、五万対一万の空気が、変わる。
「……貴様の理不尽は承知している。それでも勝つ。我が全霊をもって、貴様を嵌め殺す」
サロモンは知っている。少し上の世代なら誰もが知っている。若き世代でも話では聞いている。それでも、其処には齟齬がある。実際に見てきた者と話だけの者、見てきた者の中にも本気とそうでない姿が入り混じる。
そして今のストラクレスは――
「来るぞッ!」
正真正銘、完全無欠の大将軍。勝利を与えるのが彼らの役割。連綿と続く大将軍の歴史。その輝かしき栄光を背に、最後の大将軍が咆哮する。
最後にして最強。
ヤンも、ウィリアムも、戦争と言うカテゴリーであれば勝負を避けるしかなかった怪物。その本領を知るからこそ、サロモンと言う男は自らの誇りをかけて正面から策で看破しようとする。大将軍を自らの力で、英知で打ち破ってこそ我が英道。
その意識の差が、結果に現れる。
「負けるなりにもっと粘れェ、楽しめんじゃろうがァ」
全ての策が、最新の、練りに練った対ストラクレス用の新手が、あっさりと破られていく様を見て、サロモンの顔が歪む。その道中、まるで埃のように払われた若き新星たち。いずれも超一流と成る存在、現段階ですら全体でも頭一つ抜けている。
されど大将軍の前には無意味。
三大巨星で最も戦争に特化した化け物。個の武力でも充分に渡り合えるが、平地での戦争となればこの男が最も強い。相手の策を嗅ぎ分け、急所を突く。機先を征したはずが、即座に対応してくる様は、一種の恐怖体験であろう。
新手でも、旧い手でも、関係ない。ストラクレスと戦争をすると言う選択肢を取った時点で、勝負は決していたのだ。
「……く、そがァ」
この男に勝つには、この男と戦ってはならない。
動けば動くほどにストラクレスが歪を見つける。バルディアスはストラクレス以外を絞り、彼が後背のために無理攻めを敢行して初めて動く。後の後、ストラクレスに対する唯一の解。それ以外は、個で勝るか、彼以外の戦場で勝つか。
「……これが、巨星、か」
「……一生勝てん」
ヤンを見た時よりも遥かに大きな壁を感じ、彼らは戦場を後にする。
敗残の兵として、此処まで押し込んだ彼らは圧倒的戦力差の上で完全な敗北を突き付けられたのだ。言い訳の余地はない。何一つ、文句なく、この男が最強であった。
戦場の王、『黒金』のストラクレス。
「これと渡り合ったヤン、か」
改めて知る。頂点の高さ。
「どうやったら――」
血濡れ、狂気と共に血風を撒き散らす男は自分のやり方では届かないと知った。彼が自分の主である少女と出会うのはもう少し先の話である。
○
ラロは自室でヤンの処遇を聞いた。
微笑みは変わらない。変わらず、張り付いている。だが、拳は、力いっぱい握られているそれは、血が滲んでいた。見えていた未来絵図が霞んでいく。予感の風が、絶える。
「ラロ、ネーデルクスが和平を申し込んできてそうだよ。上は受けるだろうね、今の財布事情じゃ仕方ないけど」
「……そうか。まあ、仕方ない、な」
「仕方ない、君ほどそれが似合わない男はいないだろうね」
そう言ってピノはラロの部屋から出て行った。
ラロは一人、己が手を見る。
全てを掴むと思っていた。だが、流れが変わりつつある。凪の世界で武人が、将が生きる道は無い。凪いだ戦場を破壊する狂気、彼は其処までは持ち合わせていなかった。己が業で世界を破壊する、熱はあれど理性が押し留める。
「何故、かは問うまい。それが君の選択ならば受け入れよう。生涯見えることなき戦友よ。運命は交わらなかった。ただ、それだけのこと」
葡萄酒を口に含む。昨日まであれほど甘美なる渋みを、香りを放っていた液体が、今は味気なく、薄い何かへと変じる。
望んだ明日は来なかった。それでも明日はやってくる。明日を生きねばならぬ。
将として、武人として、ラロもまた新たなる明日を考える時が来た。
○
ヤンが北方へ送られ一年、何も起きず平穏なる一年が過ぎた。『白熊』がどれだけ挑発を仕掛けて来ようと、虚ろと化したヤンには何も響かず、自分たちから仕掛ける大義すらない彼らにとって苦渋の停滞。挑発の日々、国境線で宴会を催す『白熊』。
されどヤンはそもそも屋敷から出ず、怒れる部下の報告を聞き流すだけの日々。
ラトルキアには先んじて手を回してある。
小国の英雄ゆえに上層部に恐れられ、冷遇されている『白熊』を封じることは容易い。
「……味、しないなあ」
好きだったはずの紅茶。今は、何の味もしない。
そんな日々が緩やかに、虚ろに続く中――
「お坊ちゃま、いえ、旦那様」
アルカスから客人が現れた。ゼークト家の執事長、であった老紳士。今は屋敷を離れオスヴァルトで研鑽を積む弟や妹の身の回りの御世話をしていた。
「やあ、久しぶりだね爺や」
ヤンの空虚な笑みを見て、老紳士は哀しげに微笑む。
「本日は旦那様にご報告があり、こちらへ参りました」
「旦那様なんてくすぐったいね。今の僕に報告することなんてないだろうに」
「いいえ、今のヤン様にこそ、ご報告する意味があろうかと思います」
老紳士の微笑みに、ヤンは薄くとも興味を持った。
「私のいきつけの輸入本屋でいつもの通りに本を買いに行った時のことです。奥から一人の少年が本を棚から取り出してきました。その時は珍しい髪色だと思った程度だったのですが、そこの主人が話好きで、色々と教えてくれたのです。家が焼けた少年が何でもするので雇って欲しいと飛び込んできて、身の回りの手伝いをさせていたところ、気づけば店を手伝えるまでに成長していたそうです」
家が焼けた少年。その言葉に、ヤンの虚ろが揺らぐ。仄かに、光が――
「手伝いの合間に商品を見て、自分で学び取ったと自慢しておりました。算術も奥方様が教えているらしく、そちらも飲み込みが早く、もう少ししたら店頭に立たせてみるとのこと。名前は――」
ヤンは生唾を飲む。
「アル、と言うそうです。髪の色は白髪でしたが、年のころ、境遇から鑑みるに、旦那様のおっしゃられていた子に適合するかと思われます」
「生きて、いた? いや、そんな、はず……いや、いや、そうか、ロザリーは死体を確認したとは言っていない。家が焼けた、当然のように死んだと思っていたが……であれば何故、伯爵はあの子を見逃した? あの使用人が見逃すとも思えない。それに白髪とは」
ヤンの眼に光が灯るも、信じきれぬ様子。淡い期待を抱いて人違いだったでは、もう一度喪失を味わう、あの痛みを受けることとなる。耐え難い、あの痛みを。
「容姿の変化はわかりかねますが、ヴラド伯爵が見出せなかった理由は推測できましょう。冷静に成って考えて見てください。家が焼けた奴隷の、失礼、解放奴隷の子が輸入本屋を働き先に定めましょうか? 今までの働き口から当たるのが常道。しかも、ほとんどが内働き、現住居はノルマン夫妻の家に住み込み。本屋の手伝いは最近になっての事なれば」
「……あの使用人が見出せぬのも無理からぬこと、か?」
物凄い幸運であろう。アルと言う少年はあの使用人を知らない。それから逃げるために本屋を選んだわけではないはず。ならば、何故、そこにまでヤンは頭が回らなかった。一つの納得が、渇いた心を光で満たす。胸の中で、虚ろが消える。
「想像の外にいる一人の人間を見出すのはよほどの運が無ければ難しいでしょう。アルカスは広いですから。もし、懸念が晴れぬようでしたら、秘密裏にご自身でお確かめ頂ければ……私が手引きいたしますので」
「いや、其処までは迷惑をかけられないよ。まだほとぼりは冷めていないだろうし、今の僕が彼にしてあげられることは多くない。ちなみに、輸入本屋のご夫妻は……どういう方だい? 良い人か? それとも厳しい人か?」
ヤンは見に行きたい欲を押さえ、老紳士に問う。
「仕事に対しては厳しく、妥協はありません。私もその姿勢に惹かれて、あそこを贔屓にしておりますので。ただ、私人としては良き人物かと。子宝に恵まれず、諦めていたところにやってきた、欲し続けてきた我が子、自慢げに語る眼にはありありとそういう色が浮かんでおりましたので。私も世間話の間、自然と笑みがこぼれてしまいました」
「……そうか。お前の見立てなら、信じられる」
ヤンは安堵の息を吐く。内心は今すぐにでも北方を飛び出し、会いに行きたい。会って、話して、謝罪して、許されるのであれば共に北方で暮らしたい。欲望が胸を渦巻く。だが、今の自分は咎人も同じ。輸入本屋の夫妻に疑問符が付けば、すぐにでも飛び出していただろうが、其処に問題が無いのであれば、今の自分よりも彼らの方が良い。
「爺や、たまにで良い。たまに、変だと思われぬくらいの頻度で、その店に顔を出してくれないか? そして、手間でなければ、その、様子を書にしたためて、送ってはくれないだろうか? 自分が招いた状況で、お前たちには迷惑をかけた身だ。こんなこと頼める義理は無いだろうが……出来ればで、構わない」
「旦那様がそう望まれるのであれば」
ヤンの顔が晴れる。ずっと虚ろな表情をしていた男が、このわずかな時間の間にどれだけ多くの喜怒哀楽を見せたことか。
「店主にもそれとなく彼の情報を、確信が得られるまで探ってみましょう」
「すまない。助かるよ、爺や」
まだ確証は得られていない。髪色が変化する、其処に関しては未だ疑問符しかないのだ。それでも、現状出揃った情報からでも十中八九、同一人物だと思われる。
そう信じるだけで、世界が華やぐのだ。
もう、その夢想を押し留めることは出来なかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます