始まりの悲劇:天才の処遇

 ヘルベルトの拳がヤンの頬を捉えた。力なく吹き飛ぶヤン。

「……殴り返しても来ないのか」

「……もう、どうでも良いんだ。全部」

「……そうかよ」

 グスタフは止めなかった。ヘルベルトが本気なら受け身すら取らなかったヤンが無事ですむはずがない。手前勝手に剣を預けた己の分ではなく、彼と共に戦って命を賭して退路を守った者たちの分なのだろう。

「俺は貴様を許さん。どんな理由であれ将として立ったならば責務を全うするのが武人の務めだ。それを放棄したお前がどれほど才に溢れていようと、俺がそれを認めることは無い。預けた剣は返してもらう。ふっ、お前にとっては、どうでも良い、だろうがな」

 そのまま去って行くヘルベルトを、ヤンは見ることすらしなかった。申し訳ない気持ちはある。友に失望され、痛む心はある。だが、何もする気が起きないのだ。立って抗弁することさえ億劫なほど、指一つ動かす気力が湧かぬほどの、がらんどう。

「……せめて視線くらい合わせてやったらどうだっと?」

「……合わせてどうなるものでもないだろ」

「そうかい」

「君も去ったらどうだ? 今の僕と君が一緒にいる理由は無い。戦う気力すらない者に槍は不要だ。君は強い。腐らせておくにはもったいないぞ」

 ヤンはやはり俯き、視線を合わせずに言葉を連ねる。淡白で、色の薄い言葉。裏には「もう僕には関わるな」という意図が秘められていた。

「……お前はいっつもそれだ。全部テメエの尺度で決めやがる。なあ、もう少し誰かの声を聞けよ天才。お前が興味無くたってよ、そいつがお前に興味ねえわけじゃ、ねえだろっと。ヤン、腐るのは良いぜ。好きにしろ。だけどよ――」

 グスタフはヤンの襟首を引っ掴み、無理やり顔を向けさせた。

「俺の顔も見ずに俺のことを勝手に決めるな。俺が義務感や利害で一緒にいたって思われんのは、俺にとっては何よりもの侮辱だ。俺も、ヘルベルトも、ロザリーも、テメエを利用してやるって思って一緒にいたと思うのか? 天才だから好きに成ったと思うのか? そこまで俺は、あいつらは、薄っぺらいかよ、天才!」

 ヤンの顔が歪む。がらんどうの中を一陣の悔いが吹き抜ける。

「俺ァあいつにみたいに御立派な看板背負ってねえ。没落寸前の貧乏貴族だからな。逃げられると思うなよ。テメエが死ぬまで付きまとってやる。そして俺のでかい図体見るたびに思い出せ、テメエに夢を託した連中のことを。ヤン・フォン・ゼークトって男のために死んだ奴らを。テメエにとって、俺は罰だ。俺にとっても、な」

 ヤンは知る。自分が思っていたよりも自分の周りは熱くて、それを知らなかった自分の愚かしさに、死にたくなってしまう。見ようとしていれば、知っていれば、明日は変わったのだろうか。誰もが納得できる結末は訪れたのだろうか。

 今のヤンには、確かに視えていたはずの何かが、見えなくなっていた。


     ○


「――卿らの期待は分かる。余とて巨星と並び立つ怪物ベルガーの大きさは理解しておる。余もまたあの麒麟児に夢を見た者の一人よ。だが、余は王なのだ。これを看過すれば王権が揺らぐ。アルカディアを束ねる者として、許容出来ぬこともあろう」

 エードゥアルト王は眼前にて頭を垂れる三大将を見つめていた。

「全て承知の上で、命だけは。あの男、必ずアルカディアの役に立ちまする」

 バルディアスの悲痛なる声。任命責任、此度の事件で最も重い責を負わされるであろう男は、あろうことか直接王に許しを乞いに来た。

「ストラクレス未だ健在なれば、優秀な武官を失うは莫大な損失。教育不足は我らの落ち度。咎めるべきは、まず我ら三人」

 ベルンハルトもまた、おそらくこの男が最も忌み嫌うであろう将としての責務を放棄した男、自暴自棄の極みに落ちた天才を擁護する。

「御前に首を差し出す気で馳せ参じた次第。非才なれど大将。三つ首にてお許し願う」

 カスパルの言葉にエードゥアルトは渋面を浮かべた。

「余を困らせるな。卿らを失うわけにいかぬことくらい理解しておろう。まったく、まこと今のアルカディアは人材不足よな。それを理解する者の少ないことよ」

 王は文官らの前では絶対に見せぬ苦い笑みを彼らに見せた。

「数はそれほど多くないが、それを理解する者たちからの嘆願書も届いておる。文武問わず、な。アルトハウザーめが秘密裏に取りまとめていたようでな、卿の嫡男も長ったらしい文を送り付けてきよったわ。締めは極刑なれば自死する所存、と。脅しかよ」

 にやけるエードゥアルトもそう見れるものではない。心の底から信頼を寄せる三人だけの空間だからこそ、王の素顔が垣間見えるのだ。彼は才人ではなく賢王でもないが、自らの器を理解し、優秀な他者に預けることが出来る度量を持ち合わせていた。

「非礼をお許しください。きつく言い含めておきます」

「よい。そもそもこうやって首を差し出しに来た卿らが言えるセリフか。難しい橋よ。弱き者の結束を侮るな。彼奴等は自らを脅かすモノに対して敏感である。声ばかりでかく、行動が伴わぬ者ばかりであるが、その声こそが厄介極まるのは卿らも理解しておろう?」

 それに加え、人を見る目は並大抵ではない。評価を公然で口にすることは無いが、良血統ではないバルディアスを、王に成ってすぐ王権で無理やり大将に据えたのはこの王である。万年軍団長と揶揄されていたが、その実力は誰もが知るところ。対ストラクレスに関してはずば抜けたものもあり、反対意見は『予想』より少なかった。

 今回は当然、その比ではないだろう。

「……嘆願書は伏せておくが、卿らの行動は世に出す。済まぬがしばらくは雑言に付き合ってもらうことと成ろうよ」

 三人が顔を上げる。困り顔なれど腹は括っていたのだろう。そもそも王が信頼を寄せる左大臣家が秘密裏にとは言え動いていた以上、これもまた既定路線か。

「ヤンとやら、今はやる気がないのであろう? ならば北方にでも幽閉しておくがいい。血気盛んな『白熊』率いる戦士たちをかわしてくれさえすれば十分だ。欲をかかぬ将も使い道、などと賢王らしくのたまってみたが、柄ではないな」

「我らの王は陛下のみにございます」

「文官慣れしてきたではないか、カスパル。このまま王宮で飼い殺してくれよう」

「ご勘弁を。すでに次の戦場に胸を躍らせている次第で」

「くっく、世界はアルカディアを軽んじておるし、実際に余は大した王ではない。だが、余はこの国に絶望してはおらんよ。お前たちがいる。危険を冒して嘆願書に名を刻んだ者たちがいる。凝り固まった群れだが、それはどの七王国も似たようなもの」

 王は知る。先代も知る。繰り返す歴史を。

「浮き沈みはある。沈み切らねば機会もあろう。命あれば再び天才が舞い戻る可能性もある。余に出来るのは此処までよ。あとは本人次第」

「多大なるご高配賜り感謝致します」

「ベルンハルトは固いのお。しかし、勝てぬ王、か。くく、耳が痛い」

「……後で鉄拳を見舞いに行こうかと」

「よいよい、どうせ無気力な者には何も届かぬ。放っておけ」

「ハッ」

「されど、三名ともより一層の働きはしてもらう。特にバルディアス、此度の一件で念願の引退は遠のいたと知れ。余が在位の間は大将で通してもらうぞ」

「……そ、それは」

「なに、勝てる将が現れるまでの間のこと。存外早いかもしれんぞ」

 器を知るがゆえに多くは望まぬ姿に失望する者は多い。だが、隣国のオストベルグを見れば、今の王がどれほど安定しているかわかるであろう。権力に憑りつかれる王は多い。圧し潰される者も少なくない。されど、この王は何とか立っている。

 正気で玉座に座れるものが果たしてどれほどいるか――

「勝てる王はエアハルト待ち、か。ただ、線が細いのは気になるが」

「賢者であることは間違いありません」

「どう育つかはわからぬが、まあ、余よりはマシな王と成ろうよ」

 エードゥアルトは自らの器を理解している。だからこそ安定しているのだ。多くを求めず、多くを得ず、何とかこの混迷の世界を渡り切ろうともがく者。その姿に三人は王を見る。ゆえに彼らは躊躇いなく剣を預けるのだ。

 されど――

「フェリクス様も負けじと頑張っておられる様子。クラウディア様やエレオノーラ様もすくすくと成長され……陛下?」

「……うむ。よいことであるな。先が楽しみだ、うむ」

 知るがゆえに恐れるモノもある。

 エアハルトは自分を超える。フェリクスも自分を理解して呑み込めたなら先もあろう。エレオノーラはまさに花。王宮を照らす光と成るはず。

 問題はもう一人、幼くとも何かがズレている。王である男にはそれが見えている。実子であるがゆえ遠ざけることも出来ないが、彼女の中に潜む何かに怯える己がいるのだ。

 杞憂であればそれで良し。もしそれが花開く時が来たら――

(杞憂である。余の子だ。信じずしてどうする。物心ついたばかりの幼子に何を怯えることがあろうか。なあ、エードゥアルトよ。せめて、足だけは引っ張りたくないものだ。余の愛するアルカディアを汚すようなことだけは――)

 自らの眼を否定する王。されど、王は王が知るよりも非凡であったのだ。この時、彼女がズレていることに気づいていたのはこの王のみ。それが花開くのは少し先の事。確信を得て対策を講じた時にはとうに遅かった。警戒し、距離を取っていたことがあだと成った。花開いた時に同席していれば、間に合っていたかもしれないが――

 すべては先の話である。


     ○


 ヤンは紆余曲折あったが北方へ送られることと成った。王を侮辱した者に対してあまりにも手緩いと大きな『声』が上がるも、それもとある一件で鈍化する。

 ゼークト家の当主が自らの首を断ち切って許しを乞うたのだ。全ては自らの責務、監督し切れなかった、真っ当な貴族に育てることが出来なかった家長たる男の責任である、と。そう書き残し、自らの手で散った。それを見届けた夫人もまた共に旅立つ。

 残された妹、弟はヘルベルトがオスヴァルトの門弟として預かる、という名目で保護。実質的にゼークト家はおとり潰しのような状態と成った。

 さすがに名家のこの惨状では強く出る者も多くなく、結局なし崩し的にヤンは許された。アルカスから遠く離れた北方へ飛ばされてしまえば、もう復権は叶わないだろう。北方諸国もかつての勢いはない。連合を組んで戦争、など仕掛ける力も残っていない。

 武官としては死んだ。

 あとは全てが風化するのを待つばかり。

 白い景色が全てを飲み込むのを待つばかり――

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