始まりの悲劇:美しい薔薇には

 治療の後、脱走しないよう第三軍の地下牢に放り込まれたヤンは腑抜けのように虚空を眺め続けていた。幾度も考えた復讐、ヴラドを殺す方法は百、二百を超え千通り以上考えた。全て時が経てば実行できる。出来るのだが、虚しさが募るばかり。

「…………」

 結局、あの男を、あの女を殺しても意味がないのだ。彼女が戻ってくるわけでもない。自分の気が晴れるだけ、自己満足のために彼女を言い訳に使う薄汚い行動。彼女はそれを選ぶだろうか、それを選んだ己を褒めてくれるだろうか、そう考えると虚しくなってくる。

 それに、今の自分にはやるべきことがある。

 殊勝にして、彼らの求める反省した姿勢を見せて、一日でも早く自由を得る。そして会いに行こう。彼女の大事な宝物を。あの子を守るための生涯としよう。

「ヤン、大丈夫?」

「……ああ、君か」

 ヤンは幼馴染の来訪にのそりと重たい身体を動かした。相変わらず整っているなあと思う。ただ、それだけなのだ。ヤンが求める美しさ、強さを彼女からは感じない。

 いや、ほんの少しだけ、普段と違うような――

「何か心境の変化でもあったかい?」

「まあ、ヤンったら。嬉しいわ、私の事、ちゃんと分かってくれて」

「長い付き合いだからね。おっと、そうだ、もうそうなっているとは思うけれど、大事なことを君に伝えなきゃいけない。本当はもっと早い方が良かったんだろうけど」

「……何かしら?」

 普段と違う感じが、どことなく強まった気がした。

「婚約を解消しよう。君にはもっと相応しい人がいる。君ほど魅力的な女性を家の都合でいつまでも縛り付けておくわけにはいかないからね。まあ、今の状態ならそちらの家から破断の申し込みが在ったろうし、僕から言うまでもないだろうけど」

 ヤンはあっさりとそれを口にする。彼にとってはそれだけ軽いモノで、分かっていてもとても傷つく言葉であった。死にたくなるほど、それは深く深く身に突き立つ。

「大丈夫よ、ヤン。御父様もおっしゃられていたわ。男の子にはそういう時期もあるって、ほとぼりが冷めればすぐに分かるって、だから大丈夫、婚約を解消する必要なんてないわ」

 足が砕けそうなほどの想いで、言葉を連ねていることも、彼は見ていない。

「……軍をやめようと思う」

 彼女の顔が歪む。

「何で?」

「ヘルベルトの言う通り、誰かのために全部を捨てられる人間は大将に成るべきじゃない。僕は、たぶんそれが出来ない人間だ。自分でも驚いているんだけどね」

「貴方は……そんなに弱い人間じゃないわ。だって、今までだって――」

「大事じゃない人は切り捨てられる。でも、大事な人は無理だ。それが分かった。いい勉強になったよ。僕は将に向いていない。上に立つべき人材じゃない」

 あっさりとヤンは切り捨てた。今までの全部を。彼の言葉が言っている。お前たちは全部、大事じゃないのだと。本当に、どこまでも冷たいのだ。彼は彼の愛する者以外に対して。何一つ執着がない。だから言える。こんな残酷な言葉を。

「グスタフが聞いたら、きっと怒るわ」

「ぶん殴られるだろうね。ヘルベルトには殺されるかもしれない。でも、それが僕だ」

 ヤンにとっては付き合いが長いだけの、その他大勢。

「ねえ、ヤン」

「ん、何だい?」

 ヤンの眼はこちらを向いていない。何処にあるか分からない明日だけに向いている。そんなもの、もうこの世にはどこにも無いと言うのに。

「軍をやめてどうするの?」

「さあ、どうしようかな。田舎で狩人でもして生きようかと思ってるんだ。でも田舎過ぎると本屋がないし、勉学には向かないから、さて――」

「……一人で?」

「そうだねえ。寂しいから養子でも取ろうかと思っているんだ。一人で良い、うん、一人だけ連れていくよ。きっと楽しい日々になる。まあ、その前に顔合わせはしなきゃだし、あちらに嫌だと言われると、目論見は全部パアなんだけど」

「うふふ、まるで、もう目星がついているみたいね」

「あはは、そんなことは――」

「その子、もういないけどね」

「……え?」

 ヤンはゆっくりと、彼女に眼を向けた。その顔を見て、そのひび割れた仮面の下から覗く内面が滲み出す様を見て、怖気が走る。何故、彼女がこんな顔をしているのか、ヤンには理解できない。お人形のように可憐で、整っていて、誰もが羨む美しさを持った女性。

 それが歪んで、壊れていた。

「はい、ヤンの大好きな……答え合わせ」

 ずたずたに引き裂かれた一枚の絵が、無造作に牢の中へと放り込まれる。

「え、どういう、だって、そんな、ありえない。だって君は、馬鹿な、じゃあ、部屋も、鍵、あ、鍵、君も、持って――」

 虚ろな貌をした女性が胸元から鍵を取り出す。

「考えても無かった? そうよね、貴方は私になんて興味が無いから、だから忘れる。無駄なことは記憶しない。名前も、覚えるの苦手だものね、昔から。本当に、おかしいんだから。だって、こんなにも私は貴方が好きなのに、貴方はほんの一欠けらだって私を好きに成ってくれないもの。ううん、好き嫌いの範疇にさえ、私はいない」

「君は、そんな――」

「だからこれは私の復讐。お勉強になった? 貴方がどうでも良いと思っていた私の手で、私が欲しくてほしくてほしくてほしくて、ずっと欲しかったものを奪ったあの女が死んだの。私が見つけたこの絵で、あの愚かで醜い伯爵が動いた。哀れで薄汚い従者が、動いた」

「おい、それ以上、言うな。それ以上は――」

「弟がいたらしいわね。そっちもヘルガにお願いしたのだけれど、嗚呼、可哀そう。手を下す前に、もう死んじゃっていたらしいわ。おうち、燃えちゃってたみたい」

 ヤンは、足元が崩れていく思いであった。今、何とか持ち直せていたのは、彼女との繋がりであるアルを守ると言う目的を見出したため。それすら奪われたのでは、それすら無いと突き付けられてしまえば、それはもう、絶望するしかないだろう。

「やめろ、嘘だと言ってくれ」

「嘘じゃないわ。ぜーんぶ、おしまい」

 彼女はもう一つ、何かを懐から取り出した。それはヘルガも身に着けていた悪趣味なネックレス。彼女の眼、ヤンが愛したあの光が其処に――

 それを彼女はその手から零し、地面に落ちたところを、踏みつけて、潰した。

「ロザリーッ!」

 ヤンは感情の爆発そのままに牢の外にいる幼馴染の女性、ロザリーへと向かって駆け出した。鉄格子の間からこれでもかと腕を伸ばし、その首をへし折ってやると怒りにその眼を燃やしながら、全身からこいつを殺してやると憎しみに駆られる。

「ふふ、やっとヤンが私を見てくれたぁ。嬉しいわ、もっと早く、こうしておけばよかった。そうしたら、ふふ、こんなに長く無駄な時間を過ごすことも無かったのに」

 社交界の高嶺の花、誰もが羨む美貌を持つ彼女もまた、未来永劫ただ一つ、欲した者が手に入らぬことを知り、絶望した。奪った者に復讐をして、それを道具にようやく興味を引き出した。身勝手な理屈、それでも彼女は望んだのだ。

 憎しみであっても大好きなヤンに興味を持ってもらうことを。

「ねえ、ヤン。私は初めから、ありもしないモノを求める気なんてなかったのよ。貴方に愛なんてない、それでも良いって、隣にいてくれたら、それで良かったの。それだけで良かったの。でも、ヤン、駄目じゃない。貴方にそれがあるって分かったら、私は絶対にそれを求めてしまう。どんな手段を使ってでも、ね。だって私、貴方が死ぬほど好きだもの」

「僕は嫌いだ。君のことが、心底嫌いだ!」

「間違えたのは貴方でしょう? 私にもっと興味を持てば、いいえ、あの女に興味を持たなければ、ぜーんぶ丸く収まっていたのに。貴方が全てを引っ繰り返した。違う?」

「違う! ちが、う。それは、そ、れは。そんな、こと――」

「ふふ、可愛いわね。やっぱり大好きよ、ヤン。私を憎んで、私を想って、そして貴方自身を憎悪して! もしかして、もし、もし、何度も繰り返す度に、貴方は最後、私に辿り着く。その度に私を想う。それだけで、充分よ」

 ヤンは見る見るとトーンダウンしていく。

「御機嫌よう、私の大好きな人。また、来世で会いましょう」

 美しい所作で礼をして、彼女は去って行く。

 その背を睨むことすら出来ないヤン。気づいてしまったのだ。

 すべて壊したのは自分であったことに。

「ああ、ああ、ああ、あああああああああああああああああああああああああああ!?」

 ヤンは叫ぶ。悔恨に打ちひしがれながら、最後の希望すら打ち砕かれ、完全なる虚と化す。もはや、彼を支えるモノは何もない。一片すら、この世界には残されて、いない。

 彼はそう思った。彼はそう理解した。


 その翌日、社交界に咲く花が自室で首を吊り自害していたことは大きな話題と成った。多くの貴公子たちを悲しませ、そして、同時に原因であろうヤンを大勢が憎んだ。特に実父の怒りは凄まじく、ゼークト家に直接乗り込み絶縁と敵対を告げたほどであったと言う。

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