始まりの悲劇:――遅し

 満身創痍、青息吐息で辿り着いたベルンバッハ邸。

 そこの門に構える、一見普通の守衛を見てヤンは顔を歪めた。

(……どこからこんな連中を拾ってきたんだろう? ハハ、本当に、本当に――)

 自然体の立ち姿、その奥に垣間見える一本の芯。それなりの場数を踏んでいることが見て取れる。それなりの腕であることが匂い立つ。そして、普段こんな連中を配置していないベルンバッハ邸が今、こうしている理由は一つしか考えられなかった。

「こちらは関係者以外の立ち入りを現在――」

「ああ、別に良いよ。そういうのは」

 ヤンは道化に付き合うつもりはない。

「どうせ君たち、『真っ当』じゃないんだろ?」

 戦士でも騎士でもない。ならば彼らは闇の者。この国において奴隷よりも下、存在証明できぬ見えざる者たち。本来、それは彼らにとって武器なのだ。見えぬことで多くの仕事をこなしてきた。何も残さず、奪い続けてきた。

 だが、権利とは本来、人を守るもので――

「これを機に足でも洗えばいい。出来るものなら、ね」

 無いことを逆手に取られた時、奪われた時、彼らは何の抵抗も示すことは出来ない。

「ぐ、がぁ!?」

「や、ヤン・フォン――」

 重たい身体、引き摺った剣。ゆらりとした体重移動。何故、こんな状態で、これほど切れ味鋭い斬撃が放てるのか、闇のモノである彼らには分からなかった。分かったのは、一人の腕が宙に舞い、一人の足が断ち切られた結果だけ。

「邪魔」

 奪うことに慣れた彼らも、奪われることには慣れていない。それにすら慣れた連中は、おそらくこの家に巣食う握魔程度に飼われはしないだろう。

「アルレット。大丈夫さ。大丈夫、大丈夫じゃなかったら、嗚呼、どうしようかな?」

 ヤンは嗤う。彼らが門を守っていた。文官が軍へのコネクション無しに彼らを用意するならば相当無理をしなければ引っ張ってこれない。相当な無理をするか、暗部にコネクションがあるか、どちらにせよ、真っ当ではない受け。

 その警戒度が、自分の想定とは違う、彼女を守るためであったなら許そう。

 そうではなく、伯爵を、己を守るためであったなら、教えてやらねばならない。お前が奪った者の大きさを。それを守ると決めた男の強さを。

 破壊にて示そう。

 獣が嗤う。狂気が全身を伝い、何もかもを破壊してしまいたい衝動に駆られる。

 獣が嗤う。全部、壊してやる、と。


     ○


 薄暗い部屋の片隅で、八人の姉妹が肩を寄せ合っていた。

「駄目よヴィルヘルミーナ。今はお外に出ちゃダメ」

「何で、お姉さま」

 小さな子たちを上の世代である姉たちが囲み、外に出させないようにしていた。内側の悪意が膨らみ、今は制御が出来ない状態。せめて小さな子たちだけは守ろうと弱い彼女たちは守り続けてきた。そして今、素人の彼女たちにすらわかる害意が、外から来たのだ。

「もう、壊してよ。こんな家、あんな奴ら」

 次女である少女は妹を抱きながら、涙を流した。何故、あんなにも優しい長姉が傷つかねばならないのか。何故、あんなにも優しかった使用人が死なねばならなかったのか。何故、自分たちは親の狂気に怯え日々を過ごさねばならないのか。

「びえ、びええ」

「泣かないでヴィクトーリア。お願い、刺激しないでよ」

「……この子が生まれた時から、お母様の体調は悪化した」

「やめなさい!」

「でも!?」

 親が狂った原因かもしれない。そんな末妹を見て、暗い気持ちが浮かんでくるのを、彼女たちは止められなかった。本当の原因は別にあっても、そうとしか見えねば、真実はねじ曲がってしまう。人が見出せるのは常に自分の視点から見える一面のみ。

 彼女たちを責めることなど誰にもできない。悪意は誰の心の中にも芽生える。誰だって幸せに、健やかに、穏やかに生きたいと願うから。

 それが破壊された時、人は悪を成すのだ。大小関わらず、業を積む。そして、後になって気づくのだ。その悪意が、業が、取り返しのつかないものであることを。

「……ヴィクトーリア」

 幼きヴィルヘルミーナは、ぽつりとつぶやいた。大好きな姉、大好きだった使用人、全部、全部、この子が原因で傷ついた。いなくなった。

 その間違った認識が――認識を抱いた方にも一生消えない傷を残す。彼女の傷が小さな小さなヴィクトーリアを歪めてしまうのは、少しだけあとの御話。


     ○


「失礼するよ」

 ヤンは扉を蹴飛ばして入室する。其処にはヴラドとヘルガ、そして顔以外の、肌が見えぬ箇所の多くを傷つけられ、涙すら枯れたテレージアが其処にいた。

 悪意の獣は静かに闖入者へと目を向ける。

「本当に失礼ですな。これで貴族だと言うのだから……所詮武官など獣と変わらんと言うことか。まったく、度し難いものだ」

「机の上でおしゃべりしているだけなら市井の御夫人だって出来る。井戸端会議をして仕事をした気になっている君たち文官の方が度し難いと思うけどね」

「愚弄するか」

「そちらこそ」

 ヴラドはちらりとヘルガを見る。自信満々に頷くヘルガ。それを見てヴラドは余裕の笑みを崩さない。今の彼であれば勝てるとヘルガは踏んだ。ならば、臆す必要など何処にあろうか。下手に出る必要などない。

 今のゼークトはガタガタ、社交界においての価値は急落しているのだから。

「一つ、問う。彼女はどこにいる?」

「彼女? 誰の事ですかな?」

「……アルレットと言う使用人がいたはずだ」

「ほう。使用人の名など当主である私は一々把握などしていないものでね。ヘルガ、その名の使用人、今、どうなったのかな?」

 ヘルガは極上の笑みで――

「粗相をしたので私が暇を出しておきました」

 質問に答える。その貌を見て、愉悦に満ちた表情を見て、ヤンは全てを悟った。

「そうかそうか。と言うことだヤン殿。当家には現在、そのような使用人は、いない」

 ヴラドもまた嗤う。滑稽なヤンを、間に合わなかったヤンを見て、嗤う。

「きさ、まら」

 ヤンは激昂と共に飛び出した。熱情全てが殺意へと変換される。獣のような咆哮と共にヴラドに接近し、その喉笛を切り裂いてやろうと――

「残念でしたァ」

 ヴラドしか見えていなかった。いや、使用人であるヘルガのことも視界に入っていたが、警戒に値しないと外していたのだ。外の連中とは違い、この女、完全に武の気配を消していた。普段のヤンであればそれでも見抜いたかもしれないが――

「ぐ、くそッ」

 それでも、怒りに目が眩んでいてもなお、ヤンは天才であった。無理やり足を組み替えて反転、突進の勢いを気合と理屈で捻じ曲げ、別方向へ変換した。

 だが――

「ひと、掴みィ」

 握魔は指先だけでも肉を摘むことが出来る。そしてその部分は、ストラクレスから負わされた完治していない大きな傷。見る見ると、ヤンの服が血に染まっていく。一掴みの肉が起点と成って、傷が広がり始めていたのだ。

「お前だったのか、あの時の、暗殺者は。迂闊だった、まさか、内側に」

「伯爵。他家に押し入った武官、殺してしまっても構いませんか?」

「ああ、正当防衛と成るだろう。何しろ、今のゼークト家は文官全てから嫌われておるからな。高嶺の婚約者がおりながら、他家の奴隷にうつつをぬかし、嗚呼、その結果の敗戦、貴殿を信頼し子弟を預けられた家もあったと言うのに、全て、かえらぬモノと成った」

「……なるほど。それが僕の寝ている間に組み上がった、文官連中のシナリオか」

「ただの事実だよ。君は信頼に泥を塗ったのだ」

「勝手にねじ込んだ連中が偉そうに。贔屓の剣闘士に有り金全部賭けて負けたら掌返し。本当に、クズだよ貴様らは。損をしたくないなら賭けねば良いだろうに。他人に寄生するしか能の無い文官には、何を言っても無駄だろうがね」

「今の言葉も記憶しておこう。貴族会で報告させてもらうよ。愚かで矮小な武官の、末期の言葉としてね。終わらせろ、ヘルガ」

 指を鳴らすヘルガ。血が滴り落ちるヤンを見て、美味しそうな獲物を見る目を歪めた。

「どの部分を千切って欲しい?」

「どの部分も貴様にくれてやる気はないよ。溝鼠」

「……負け犬の――」

 ヘルガは満面の笑みでもって近接戦を仕掛ける。満身創痍、傷口が開いた状態。これだけ悪条件が揃えば、如何に上手でも勝てる状態ではない。

 勝利を我が手に、ヘルガは嗤いながらその手を――

「もういいや。全部、どうでも良い」

 噴き出る血潮。ヤンの眼もまた狂気に染まっていた。とっくに彼は振り切れている。確認して、答え合わせをした。だからもう、全部がどうでも良いとヤンは嗤う。

「お前ら全員死ね」

 真紅が零れる。

 血潮を加速させるような無茶な体勢で蹴りを放つヤン。ヘルガが驚きに目を見張った時には、すでに肉を掴まんと伸び切った腕の真ん中、腕の連結部分である肘に完璧なる蹴りが入る。腕が跳ね上がり、同時に骨も完全に外れた。

 歪んだ腕を見て、ヘルガから笑みが消える。

「全部、壊れちまえ」

 ヤンは嗤いながら剣を振るった。ヘルガの髪の毛を引っ掴み、離すまいと殺意が迸る。

「ひっ」

 奪われる恐怖。奪う側が、一瞬で反転する。

 怪我も痛みも恐れず、より加速させながら相手を奪わんとする手負いの獣。

「死ね」

 剣が奔る。肩口に入る切れ込み、この角度、この太刀筋、致命。

「い、いやだ、私はヴラド様の横で」

 それが末期と成る。このまま振り下ろせば、このまま全部断ち切ってしまえば、それで終わるのだ。悪意は死滅し、もう一人の方とも相殺すればそれで終わり。全部終わり、全部、全部全部全部全部――

『私の大事な宝物』

 蹴った勢いか、切られた勢いか、ヘルガの胸元からこぼれた趣味の悪い、悪意に満ちたアクセサリー。それを見て、そのまま全てを断ち切ろうとした刃を、ヤンは無理やり止める。

 何故止まったのか、それを理解することなくヘルガは生存本能の赴くままに血を噴き出しながらも距離を取った。傷口を無理やり押さえつけ、失血を止める。

「……貴様らは、どこまでも」

 怒りで振り切ったつもりであった。だが、自分が見惚れた美しい眼が、瞳が、あのような形で奪われたと知り、怒りと言うのは際限なく湧き出し、己を焼き尽くすのだと知る。

 今のは『彼女』を傷つける恐れがあったから手を止めた。

 次の一手で、傷つけずに必ず殺す。

「ここで死んでも良いと思っていた。でも、僕にはもう一つだけ残っている」

 ヤンはここで死ぬつもりであった。彼らを殺して自分も死ぬ。だが、思い出したのだ。彼女の眼を見て、彼女が何のために戦っていたのかを。それを守る道を思い出した。復讐を成した手で彼を抱く道は無いかもしれないが、遠くから見守り、育むことくらいは。

 彼女の願いを守ることくらいは、今の己でも出来るかもしれない。

「守るよ、アルレット。そして、お前らはやはり死ね」

 ヤンの咆哮。痛みも、限界も、此処に捨て置き、全てを刃に乗せた。

「ヘルガ、何をしている!?」

「わ、私は、私は、強い、強い強い強い強い」

 言い聞かせても、対峙することすらかなわない。

 今のヤンはあの時に比する。ストラクレスに手を伸ばし、ベルガーを討ち取った瞬間に。

 ならば――

「僕は――」

「馬鹿野郎ッ!」

 誰にも負けない。一対一、狭まった視界の中であれば、誰にも負けないのだ。

 しかしそれは、ヤンの強みである視野の広さを捨てるに等しい愚行。

「ふざけるなよヤン。貴様、今どういう状況か分かってるのか!?」

 激怒する友人たち。背後から現れたヤンの立場を想う気持ちが、ヤンの想いを砕いた。

「グスタフ!? ヘルベルト!? 何故、放せ、放せよ!」

「ただでさえ繊細な時期に、貴族を、伯爵を、しかも文官をぶっ殺して、どうなるかくらいテメエにもわかるだろうがよ! いい加減にしろ、これ以上はバルディアス様だって守れなくなるぞ! 頭冷やせ馬鹿野郎!」

「そんなこと、どうでもいい! 僕は――」

「どうでも良い、か。くく、本当に、お前は、そうなんだな。噂通りに、お前は」

 グスタフの膂力でヤンを抑えつけている隙に――

「こいつは俺たちが連れていく。ベルンバッハには近づかぬよう我らから厳しく言い含めておこう。それで手打ちとして頂く。色々とほじくり返されたくないのは、そちらも同じであろう? 傷物を売りつけようとしているのがバレるぞ」

 ヘルベルトは隅で縮こまっているテレージアに一瞬、視線を向ける。

 その所作だけでヴラドは押し黙るしかなかった。今のヴラドにとってそれが一番効果の高い攻撃なのだ。彼女たちで地盤を固めようとしている中で、その価値を暴落させてしまえばそれこそ浮かぶ未来が失われる。

「グスタフ、拘束を外すな。ヤン、これ以上失望させてくれるなよ。まだやると言うのなら、俺とグスタフが相手だ。殺してでも掴みたいものならば、やってみろ。俺も、お前を殺したくて仕方がない。何のために、あいつらは、お前に夢を託して散ったと……それが全て女のためだと? 国ではなく、ただ一人のため? それは、大将の姿ではない」

 ヘルベルトは涙を流しながら、自分が主と定めたはずの男を見る。

「お前が変わったことを喜んだ。そのお前に俺は未来を見た。ふっ、所詮、俺は贋物。剣を捧げた先まで贋物では、救いなどないな。手枷を持て、この愚者を拘束して輸送する」

 グスタフの全力を跳ね除けようとヤンがもがく様を見て、ヘルベルトは髪を掻き毟った。あと少しで届く気がしていた空が、遠い。

 あの日見た予感が、あの日感じた確信が、砂上の楼閣が如く、消えていく。

 悪意は消えず、虚無だけが其処に残った。

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