始まりの悲劇:時すでに――
ヤンが目覚めるとそこには憔悴しきったグスタフの姿が在った。
(……酷い顔だ)
声に出したつもりが、出ていない。
(……そうか、僕は――)
記憶が甦る。ストラクレスに勝ったと思った。その瞬間、割って入った影。影が笑う。今日はお前の日には成らない、と。想像していなかった闖入者、誰がどう考えてもそのタイミングで間に合うなんて思わない。
共に斬られ、死んだかと――
背中に残る、引っ張られた感覚。あれがなければ死んでいた。
いったい誰が、そう思うも思考に靄がかかり、何も考えることが出来ない。
「ヤン!?」
グスタフが気付いたのか駆け寄ってくる。
「……すたふ」
「お前、やっぱり生きて……良かったなぁ。本当に、良かった」
男泣きするグスタフを見て、ヤンはくすぐったい思いに駆られた。それと同時に思う。負けて申し訳なかった、と。負けてしまった責任、その場で言えばベルガーを討ち取ってこちらは生き延びた。勝ったのはヤンとも言えるが――
「……いま、どうな、って」
消え入りそうな声でヤンは問う。脳裏に浮かぶのは猛追する巨星の姿。靄がかかっていた思考が動き出す。己がいなくなった戦場、そこから本気のストラクレスが襲い来るならば、まともな戦場にはなり得ない。返しの刃に対する備えはしていなかった。
絶対に勝つつもりであったから。
(僕のせいで、僕の驕りが、この状況を作った)
ラコニアが抜かれるのは仕方ない。最悪オルデンガルド、大将の位置を思い出そうにも出てこない。配置と情報の伝達速度自体では最悪すら上回る可能性が――
「安心しろ。ストラクレスはラコニアで張り付けだ。凄まじい激戦らしいけどよ、何とか持ちこたえてる。伊達じゃねえよ、そもそもあそこに三人が構えてることがおかしい話で」
(三人? まさか……ふふ、信用ないなあ。でも、そのおかげで、そうか、嗚呼、よかった。すこし、ねむいな。安心したら、気が、抜けて――)
「おい、ヤン! ったく、仕方ねえな。でも、山は越えたようだぜっと」
ヤンの寝顔を見てグスタフは安堵する。決して楽観視できる状況ではないが、何となく大丈夫だと思った。まだ終わっていないのだ。少なくともヤンは、もう一度立ち上がることが出来る。立ち上がらなければならない。
「ヤンが起きたのか?」
病室に声を聞きつけてヘルベルトが顔を出す。彼も相当な手傷を負っていたが、すでにほぼ完治していた。ラコニアに増援として赴こうとするも、部下であるヴィリブランドたちに「御当主から厳命されております!」と押し留められ今に至る。
「……暢気に寝やがって」
「そう言うな。生きてりゃ浮かぶ瀬もあるだろっと」
「浮かぶ瀬もある、か。まあ、しばらくはないだろうがな。『上』がベルガーをどう見るかって話だろうが、文官連中だぞ? 期待するだけ無駄だ」
「それでもいずれ必要とされる日が来る」
「気の長い話だ」
そう言ってヘルベルトは踵を返す。
「起きたら伝えておけ。剣は磨いておく。使い時は任せる、とな」
ずんずんとその場から立ち去っていくヘルベルトの姿に苦笑するグスタフ。何となる。きっと、何とかなるのだと、この時の彼『ら』はそう思っていた。
○
次に目が覚めた時、ヤンは見慣れた天井を見ていた。きちんとした手当、身体も動かないことは無い。おそらく、記憶にないだけで食事を摂ったり、水分補給をしたり、要所要所で起きていたのだろう。そうでなければこの状態に説明がつかない。
「……アルカス、か」
身体を少し起こし、部屋をぐるりと見渡す。普段と何ら変わらない景色。いつもの部屋が其処に在った。
「さて、どうしたものかな? しばらく動けないだろうし、少なくとも文官の方々からの評価は随分落としただろう。先は長くなりそうだ。本当に、意外と僕も勝負弱――」
いつもの景色。いつもの――
「……おい、待てよ」
ヤンは痛みを、動き辛い身体を無視して立ち上がった。歯を食いしばりながら、本棚の前に立つ。出立前、きまぐれで仕込んでいた可愛らしい罠。爺やが気づけば少しにやけて、そのままにしておくであろう仕込み。
いつもの本棚。決まり切ったその並びを一冊だけ、ヤンはずらしていたのだ。
爺やであれば気づいてもそのままにしておく。あとでちょっとした話のタネにする程度であろう。問題は、気づかずに直した場合。それは、家人で唯一鍵を持たせてある爺や以外が侵入して、並びを動かし、爺やが元に戻したケースであった場合――
「絵は?」
たった一枚の絵。横顔で、分かり辛く描いた。だから良いだろうと、毎日見たい欲求を抑えるために仕込んでいた、自身の甘さ、隙、弱さ。
やはり、無い。
それが無いと言うこと。そして、自身が目覚めていようがいまいが、微妙に張り詰めている屋敷の空気感。いつもと同じなのに、いつもと違うのだ。
「嘘、だろ?」
ヤンは髪を掻き毟る。
何故こうなったのか、ヤンには理解できない。何故かは理解できないが、どうなったのかは容易に想像がつく。父親にバレようと、妹にバレようと、いつもの部屋に差し替えられた空間にあの絵が無いのだ。それは、つまりそう言うことで――
ヤンは駆け出す。嗚呼、何故気づかなかったのであろうか。
「ヤン様?」
扉の前に立っていた、父親よりも信頼する爺やの顔。其処に浮かぶ色を見て、彼がこうして立っている理由を察する。警戒、屋敷に感じた違和感は、それであった。目覚めた自分に対する、逃がさぬための、檻。
「爺や、説明しろ」
「それは……わたくしめには」
「くそ、父上も絡んでいるのか。いや、当たり前だな、この屋敷全体がそう成っている以上、其処に父上が絡んでいないわけがない」
家人が続々と集まってくる。普段能天気な妹すら、あの顔。
「ヤン、貴様は謹慎だ。ほとぼりが冷めるまで大人しくしていろ」
「父上、説明願います。何故、僕の部屋に他人が入り込んでいるのか? 何故、僕の部屋から私物が無くなっているのか? 寝起きで、気が立っています。返事を――」
「下衆な色香に惑わされよって! 恥を知れ恥を! ゼークトの面汚しが。ベルガーを討ったと聞いた時は喜んだものを、ぬか喜びさせてくれる。この愚か者めが」
「……ああ、本当に、貴方は、全部僕に教えてくれるんですね」
ヤンは天を仰ぐ。そして、誰よりも冷たい眼で父を見据えた。
「動くな。病み上がりで無手、如何に貴様でも何も出来まい」
剣を構える父。それを止めようとする爺や。妹は悲鳴を上げて目を閉じている。
「本当に、馬鹿だなァ」
ヤンは無造作に距離を詰めた。父は躊躇いなくその剣を振る。素直で、分かり易くて、嗚呼、本当に分かり易い剣筋。これでは勝てない。
こんなものでは自分を止められない。
「貴方じゃ僕には勝てませんよ。天地が引っ繰り返っても」
すっと足を組み替え、半身と成っただけで避けられる縦一文字の刃。避けて、剣を握る手を掴み、軽く捻るだけで、容易く無力化、さらに力を入れると――
「ぐ、あああ!?」
剣を落とす。その剣を拾ってヤンは父の髭を断ち切った。
「僕の邪魔をするな。次は、首だ」
あまりにもあっさりと逆転した力関係。父は、崩れ落ちる。プライドを、家長としての全てを破壊して、ヤンはその父親に眼を向けることすらしない。
「お前たちも僕の邪魔をしてくれるなよ」
殺すぞ、その眼が全員に言う。
熱がない。欠片も無い。彼らを見る目は無機質で、情の一滴すらなかった。腰砕けになった父親を無視して、ヤンは一人歩き出す。
もし、今浮かんでいる想像が現実になったなら、全て破壊してでも足りない。熱が、どんどんと抜けていく。胸の奥で虚が鳴る。ひゅうひゅうと、鳴る。
ヤンがいなくなってしばらくするとグスタフとヘルベルトが見舞いに来た。
不穏な状況を見て、泣きながら話し始めるヤンの妹の話を聞き、爺やの補足もあって彼らもまた状況を把握した。特に、多少中身を知るグスタフの顔色は見る見る青くなっていった。そのただならぬ様子に、ヘルベルトもまた嫌な予感に冷たい汗を流す。
何かが起きようとしていた。何かが、終わろうとしていた。
○
ヤンはアルカスの街中を、重い足を、重い剣を引き摺って進む。
歩くと言うには必死で、走ると言うには遅過ぎる。アルカスの民がぎょっとした眼でヤンを見つめていた。細く、華奢で、今にも倒れ込みそうな青年が、目をぎらつかせながら凶器をもって歩むのだ。誰もが近寄ること、関わることを忌避する異質さ。
「アルレット、大丈夫だ。あの男は固執していたはず。お気に入りなんだ。命は、助かっていてもおかしくない。会えなくてもいい。生きてさえいてくれたなら、それで――」
ヤンは望みをこぼしながら、意志の力だけで前進していた。
願いを届け、想いよ、届け。
高望みはしない。ただ、彼女が生きていてくれさえすればそれで――
それだけで良いのだ。それだけでもう一度立ち上がれる。
しかし、それが失われたとしたら、この天才はもう二度と立ち上がることは出来ないだろう。それだけのために情熱を燃やしたのだ。それだけのために生きると決めたのだ。
奪ってくれるな、ただ、そう願う。それだけを、願う。
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