始まりの悲劇:天才が壊れた日

 ヤンは退屈の極みに在った。目の前で己を悔し気に睨む男の槍は、確かに激しく強かった。だが、荒過ぎたのだ。粗が大きい、ノイズが耳障り、ゆえにそこを突いて崩しただけの事。欠陥を抱いて戦う方が間違っている。

 まさか、本当に気づかず戦っているなど、ヤンの思慮には無い。

「そんな、馬鹿な。あのジャンが、槍で、負けただと」

 ネーデルクスの者たちは一様に信じ難い顔をしている。信じたくないと言った方が正しいか。どちらにしてもヤンの視界には入らない。どうでも良いから。

「弓で我が国のエウリュディケを破り、お次は槍のネーデルクスが誇る天才を一蹴、か」

 ぞろぞろと新鋭を引き連れてきたガリアス勢も絶句の結果。弓でも槍でも、剣でも負けた。誰一人あの天才を破ることが出来なかった。特に弓は、衝撃的である。絶対に勝てると確信があったからこそ、ガイウス王はこのような戯れを提案したのだ。

 その結果が、これである。発起人のガイウスは笑顔のまま凍り付いている。若手の腕比べを提案した時はあれほど溌剌とした笑顔を浮かべていたのにも関わらず、今は冬。

「キモンが負けるのも無理ない、か」

「申し訳、ございません!」

 オストベルグの若手、キモンもまた剣でヤンに敗れた一人。しかもキモンは先日も戦場で大きな敗北を喫したばかり。悔しさが滲む。

 大将軍の右腕であるベルガーが頭を撫でてやるが、あまり効果は無いようである。

(衝撃的だな。ストラクレスもエル・シドも来ていないが、来ていたらどうなっていたことか。食って掛かるか、挑発して食べるか、何であったとしても良い結果には成らなかっただろうよ。英雄王がニコニコしたままってのは不気味だが、さて)

 英雄王は我関せず、敵には成らないと思っているのかあまり興味はない様子。まあアルカディアと聖ローレンス、地理的にそれほど重要ではないと言われたならば其処までだが。

 だが、隣国オストベルグはそう悠長に構えていられない。

 すでにヤン相手にずっと負けっぱなしの状況。ラコニアまでの距離を随分離されてしまった。大国ガリアスに主力を向けている内に、このザマである。

 ネーデルクスもルーリャ川近くまで押し戻され、このままでは泣く泣く川を渡ってフランデレンに閉じこもるしかないという状況。そう、今のアルカディアは彼のおかげで絶好調なのだ。いや、彼らの世代、か。

「ふっ、キモン相手は俺が削ったから勝てたんだぞ、ヤン」

「いや、それが無くても僕が勝ってたけど?」

「おいおい、やめろとけよっと。各国の重鎮が見てる前だぜ」

「言わせておけば! 俺はオスヴァルトだぞ!」

「一度捨てなよヘルベルト。君にとってオスヴァルトは枷だっていつも言ってるだろ?」

 ヤンを中心とした世代。剣聖の末裔オスヴァルトの長子ヘルベルトと巨躯を生かして大物を喰らい一躍名を上げたグスタフ。この三人が今のアルカディアの原動力であった。

 若き星、他国からすれば羨ましい限りである。

(嗚呼、退屈、だなあ)

 くあ、と欠伸を一つ。当たり前のように勝利を飾る男にとって、同世代と言うのはもはや友達かそれ以外かの区別しかなかった。グスタフは友達。ヘルベルトも一応友達。キモンも、良く戦場で会っているから友達。他は、興味の範疇にない。

「俺の槍は、そんなに退屈だったか?」

 男の眼を見て、その奥に宿る熱を見て、ヤンは苦笑する。

「どうだろ? 普通、だったかな」

 どうして彼らは下手くそなのに、こんな簡単なことも出来ないのに、心を燃やせることが出来るのだろうか。男の瞳の奥、炎が揺れる。戦う前はあんなにも激しく燃え上がっていたが、今は惑うように小さく道を探している。

 可哀そうだと思う。彼はきっと選ばれていない。

「でも、皆、充分強いと思うよ」

 一応体裁は大事だから、そう言っているが、本気である者ほどその温度差に、彼の瞳の奥に宿る冷たいモノが微動だにしていない、つまり心底興味が無いのだと分かってしまう。

「俺は、何のために、今日まで、アナトール、俺は――」

 ヤンの興味はすでに失せた。と言うよりも、最初から上の世代にしか興味がなかったのだ。人生を楽しむならば、彼らとじゃれ合った方が良い。

(でも、彼らの全盛期は精々あと十年、劣化されちゃうと、たぶん、僕のピークが来る前に超えちゃうわけで。だからと言って準備不足で挑むのも、ただの自殺だし、一番つまらない。あんまり燃えないよね、正直。鍵探しの方がよほど楽しかったなあ)

 最善を尽くすならば、勝てる時まで待って勝てば良い。それが出来てしまう年齢差なのだ。それをせずに無理やり勝利したいと思うほど、ヤンは戦場に熱を持っていなかった。待てば勝てる。わかり切った方程式を崩す必要はない。

 ゆえに退屈、倦怠の極み。

(つまらないなあ)

 全てを兼ね備えた天才は、熱情だけを持ち合わせていなかった。


     ○


 王会議から戻ってきてすぐのこと――

 とある貴族主催の晩餐会。当主である父に参加を強制され、嫌々出席したヤンはあまり好きではない酒を付き合いで飲まされ、すでにやる気の無さ全開で椅子に座っていた。嫌いなのだ、この建前に満ちた空間が。見栄っ張りな貴族たちが。

 着飾っている彼らの何処に優秀な人間がいるというのか。全部漏れなく馬鹿ばかり。文官と言いつつ、実務に精を出すわけでもなく、夜な夜な付き合いと称して遊びに耽る馬鹿ばかり。それが貴族にとって重要なのだと父は言うが、ならば貴族そのものが要らないだろうとヤンは思う。一部の働き者だけで国が回っている。

 この半分も貴族は要らない。いや、三分の二、もっと、か――

「ヤン、また不貞腐れて。一緒に踊りましょう?」

 ヤンは幼馴染に目を向ける。誰もが羨む美貌、アルカディアでも一、二を争う美しさを持った美しき社交界の華。この場で対抗出来ているのはベルンバッハの長姉くらいのもの。他は並び立つ気概も湧かぬほどに差があった。

 そんな美しき彼女が幼馴染で、婚約者。何と幸せ者かと皆が言う。グスタフなど初対面の頃はそれで決闘を申し込んできたほど。まあ結果は見え透いているが。

「いやだ」

 場がざわつく。まさか彼女の誘いを断る者がいるはずも無いと皆が目を剥いていた。

「いつもそればかり。たまには私の我儘も聞いてくださらない?」

 ただ彼女も慣れたもの。こんなものは序の口とばかりに押す。押さねば動かぬことを彼女が一番よく知っていたのだ。押してすらなかなか動かない男なのだから。

「面倒くさいもの」

「もっとしゃっきり、眼を見開いて」

「これは生まれつき。残念ながら僕の眼は開きません。悪しからず」

「んもう!」

 どたどたどた、と怒れるゼークト家当主、ヤンの父が鬼の形相で近づいてきた。

「御義父様に怒られるのと踊るの、ヤン師団長閣下はどちらがお好みかしら?」

「……わかったよ、踊れば良いんだろ踊ればさ」

 そう言って貴族らしく踊り始める二人。

 やる気なさげであったが、やり始めるとさすがの技量、天才性をいかんなく発揮し周囲を圧倒していく。彼女の美しさも相まって、一瞬でこの場の主役をかっさらってしまう。

「ヤンはやればできるんだから」

「知ってるよ。だから詰まらないんだ」

「まあ、なんて傲慢な人」

 つまらない時間。わかり切っている時間。退屈な時間。

 早く終われとヤンは願う。本でも読んでいた方が楽しい。最近では本すら楽しくなくなってきたが、とにかく、退屈で退屈で死にそうなのだ。


     ○


 踊り終わって、彼女が貴公子たちに囲まれた隙を見計らって外に飛び出したヤン。酒気を帯びた空間から、外の、夜特有のひんやりとした空気に触れ、息を吐いた。

「……気持ち悪い」

 酒に酔ったわけではない。あの場に満ちた空気に酔ったのだ。気色の悪い笑顔が並び、虚飾を纏った道化たちが跳梁跋扈する世界。婚約者の彼女は、嫌いではない。むしろ人物としては好きな方だろう。昔は良く庭で遊んでいたし、踊りの練習も初めは彼女とやっていた記憶がある。まあ、すぐに練度に差がついてしまったが。

「うぉー! 俺たちの時代だァ! どこだヤーン! おいこらぁ、オスヴァルトが褒めてるんだ、もっと喜べ馬鹿野郎!」

「この馬鹿、強くねえんだからあんまり飲むなって言ってんだろうがよっと!」

「んもー、ヘルベルトもグスタフも暴れちゃダメでしょ」

「お、おう。いや、暴れてんのはこいつだけなんだが」

「喧嘩両成敗!」

「け、喧嘩じゃねえよっと」

「ヤーン! どこだー!」

 絶対に戻らないとヤンは固く心に誓った。

「くぁ、何だろ、世はほんと、生き辛いなあ。突然死したりしないかなあ」

 退屈病で死ねたら良いのに、そんなことを想いヤンは自嘲する。

 本当に自分はどうしようもなく欠陥品なのだ。彼らほどの熱が持てず、野心も無く、ゼークトの名声のために、特にやりたいことも無いから戦場で戦って、結果として全部良い方向に回っている。でも、つまらない。面白いことがない。

 かつて、自宅でやっていた宝探し、あれ以来まともに心が動いていない。

「退屈だにゃあ」

 退屈過ぎて猫の真似をする。彼女なら可愛さの塊と成るのだろうが、あいにく自分はヤン・フォン・ゼークト。全然可愛くない。

 そんな馬鹿げたことを考えていたら、近くで声が聞こえた。

「いいこ、いいこ、大丈夫ですよ。お嬢様なら大丈夫」

「ひぐ、ひぐ、でも、緊張して、上手に踊れなかったら、御父様に怒られちゃう」

「その時は私も一緒に怒られますから平気です」

「ほんとにほんと?」

「ほんとにほんとです。一緒に怒られて、終わったらぎゅーってします」

 少女を抱きしめる女性を、ヤンは嗤いながら横目で見ていた。

 嗚呼、何とつまらない茶番なのだろう、と。

「きゃはは、じゃあわたしもぎゅーってしてあげる!」

「ええ、楽しみにしてますね、ヴィルヘルミーナ様」

「うん! あれ、でもうまくいったらぎゅーってできないの?」

「その時はもっとぎゅぎゅってします!」

「やった! アルレットだーいすき!」

 立ち直ったのか満面の笑みで会場に戻っていく少女に手を振っている乙女。ヤンと同じ黒髪、自分と違うのは月光を反射するほどに煌いていること。

「素晴らしく職務に忠実だね。まさに使用人の鑑だ」

 普段なら気にも留めないし、こんな絡み方もしない。退屈で退屈で死にそうで、この世界を心底嫌になって、だから、何となく苛立っただけ。茶番であろう。貴族の令嬢と使用人、どれほど優しい言葉を吐きかけようとも、其処には常に建前と打算がある。

「……お気に障ったなら申し訳ございません」

「あの子のお世話係?」

「あの方だけに限りません。御息女皆様のご面倒を見させて頂いております」

「わお、信頼されているんだ。ヴィルヘルミーナ、ヴィルヘルミーナ、ああ、今日がデビューの子か。ベルンバッハの、くく、女を売って高みを目指そうとする愚か者の家だ」

「それもまた貴族なのでしょう」

「哀れな子たちだ。自ら戦う力も持たず、家のためと人身御供。生贄さ。しかもあのヴラド伯爵だ。最近は知らないけど、女癖が特に悪いって評判だね。君も、だろ?」

「はい。そうです」

 あまりにもあっさりと肯定する女性。その眼を見てヤンは一瞬気圧されてしまった。戦場で、王会議で、グスタフやヘルベルトが持つ炎と同じモノが、彼女の瞳からこぼれていたから。いや、これほど強烈な炎、ヤンは女性から見たことがない。

 女性からどころか男からも――

「貴族様の在り様に私如きが口出しする権利はございません。しかし、あの子たちを哀れむのはやめて頂けないでしょうか。この社交界はあの子たちにとっての戦場です。毎日遅くまで稽古をして、踊りを、作法を習得し、勝つための力を蓄えている。よりよい明日を目指すために、魅力と言う力を積み重ねていく。私は、それを軽いと言われたように感じました。それは侮辱です。あの子たちの努力を馬鹿にしています」

 かつて、女性にこれほどまで気圧されたことがあっただろうか。

「ここはあの子たちの戦場。幸せを掴むために命を燃やしています。だからこそ、緊張で押し潰されそうにも成る。それは、頑張っているからです」

 何でこんなにも彼女の言葉は、眼は、強いのだろうか。

「それを馬鹿にされるのは、その努力を間近で見ている者として、あの子たちのお世話を務めさせて頂いている者として、あまりにも失礼に感じました。いえ、失礼なのは私、ですね。口が過ぎました。申し訳ございません」

 女性は申し訳なさそうに深々と頭を下げる。貴族と奴隷、本来であれば言葉を交わすことも躊躇われる間柄である。それなのに彼女は、真っ直ぐと自分にぶつかってきた。そんな経験はヤンの人生、今まで一度としてなかった。

「い、いや、僕も口が過ぎた。悪いのは僕だ。気にしないでくれ」

 気圧された。許したのではなく、許させられた。そんな馬鹿げた考えが過る。

「過ぎた非礼をお許しいただき、ありがとうございます」

 スカートのすそをちょいとつまみ一礼をする女性。

「それでは、失礼いたします」

 ヤンの衝撃を置き去りにして女性は躊躇なくヤンに背中を見せた。あっさりと去って行く背中を見て咄嗟に――

「ちょ、ちょっと待ってくれ」

「何か?」

 去り際に呼び止めたヤンであったが、自分でも何故呼び止めたのか全然分からなかった。とりあえず言葉を探すも、驚くほど何も出てこない。気圧されてしまったからか、そもそも気圧された理由だって自分には分からないのだ。

「き、君も、戦っているのか?」

 何でこんなこと聞いたのか、もっと聞きたいことは色々あった気がする。

 それでも彼女は少し驚いた顔になって――

「はい。学も無く、力も無い私には、これしかありませんから」

 とても綺麗に微笑んだ。眼の奥に、強い光を宿しながら、真っ直ぐに。『これ』と言ってその手は自らを指す。身体を売るという行為、世間一般ではあまり良い目で見られない。ヤンも同じ気持ちであった。この瞬間までは、彼女に出会うまでは。

「何のために?」

「守りたいものがありますので」

 何と強い覚悟。自分には無い熱量。圧倒された、ただただ、圧倒されてしまった。

 黒髪が月光に煌き、夜にたなびく。去って行く背の、何と力強いことか。

「あ、な、名前。聞くの忘れてた」

 ヤンはぺたりと尻餅をついた。思考が、かつてないほどにぐちゃぐちゃに入り乱れ、何も考えがまとまらない。さっきまでひんやりしていた空気が、今は暑くて仕方がない。

 その感情の名を、ヤンは知らなかった。

 少ししてヤンを探しに来たグスタフが目にしたものは、呆然と佇む親友の姿。

 そして、付き合いの長いグスタフでさえ見たことが無いほど、普段閉じているのか開いているのか分からない眼は、大きく見開かれていたのだ。グスタフが仰天するほどに。

 この日が、零度の天才が壊れた日。

 そして、世界を変えるかもしれない本当の天才が生まれた日、である。

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