幕間:ネーデルクスの明日Ⅶ

 クロードは不思議な心地であった。本に目を落とした瞬間、すっと染み渡るように内容が理解できたのだ。感性が近いのだろう。白騎士やイグナーツらによって矯正されたが、本来のクロードは感覚で物事を判断し、感性によって決断する。

 言葉の一つ一つ、其処に込められた意味、意図を理解し、その奥すらも、込められた想いすらも、そう書いてあるかのように読み取ることが出来た。

 師への感謝。龍ノ型を世に出せた喜び。それをもってしても天へと届かなかった己が無力、それに対する嘆き。何よりも――

「俺が止めるべきだったんだ。あいつらの暴挙を。ティグレの爺さんが良く言っていた。シャウハウゼンとキュクレインは対極なのだと。同じ槍でも、重さが違う。片方は明日のために戦い、片方は昨日のために戦い続けた。俺も、チビの頃に指導を受けたよ、すげえ分かりやすかった。でもな、たぶん、あの人も、爺さんも、俺も、お前と同じ、天才で、出来てしまうやつだ。だからこそ、俺はあの二人を尊敬する。繋げるために、必死になって言語化し、後世に残した。肝心要の神ノ型はキュクレインが独占しやがったが」

 止められなかった後悔。深く、深く、本の端々から感じる悔い。

「俺は、気づくのが遅過ぎた。武人として出来上がって、散々好き勝手戦い散らして、気づいた頃には手遅れで、遅まきに書物を残して見たものの、まあひでー出来だった。部下には馬鹿にされるわ、息子には首を傾げられるわ、本当に、散々だ」

 滲み出る師との記憶。自分の才能を型に変えてくれた男の背中。今、クロードの目の前に広がっている多くの背中、その中でもひと際大きく、ひと際派手で、虎のような男の背中を見つめる龍の眼は、とても郷愁に満ち、申し訳ない想いで溢れていた。

「だが、お前が現れてくれた。『俺』を理解できて、『俺の槍』を継承するに適う才能。何よりも、真っ直ぐと、ド派手に明日を見つめるその眼が、気に入った。お前に任せる。お前が明日に繋げろ。忘れるな、こうやってネーデルクスは、俺たち人は、連なっていく。槍に限った話じゃねえ。そのために俺たちは、生きている!」

 無数の背中。どれも大きく、自分は未だ小さい。悔いている男ですら遥か高みにある。

「ド派手に生きろ! お前の切り開いた明日が、皆の今日に繋がる。その背を見て、皆が明日を夢見る。それが人の導き手、ネーデルクスにおける三貴士。異国の坊主、お前に感謝を。そして叶うのならば、槍だけでなくネーデルクスも――」

 感性が共鳴する。身体の中で、積み重なった基礎、全ての型が組み合わさっていく感覚。ぴたりと、ハマった。己の中の何かが爆ぜる。クロードは極限の集中の中、誰に構うことなくページをめくり続けた。伝えようとしていること、ほんの一滴とて零さぬために。

 わずか三冊、そこに込められたすべてを、今この瞬間、飲み干した。

 そして、クロードは静かに泣く。

「俺、この国に来て、良かった」

 誰もが、この少年の身に何が起きたのか分かっていなかった。いきなり、貪るように、凄まじい速度で本を読み込み、そして泣き出しただけ。異常な光景で、普通ならば頭のおかしい奴と思うだけ、それだけのはずなのに――

「……クロード・リウィウスだったか」

「うす」

「表に出ろ。俺が、見定めてやる。この場の誰よりも龍を目指した、俺が!」

「うっす!」

 何故だろうか、今にも、涙が零れ堕ちそうなのだ。それを必死に抑え込み、龍であった男の息子は、可能性を見たいと言った。その意図も、少年にはきちんと伝わっている。その背が語る。その身が叫ぶ。早く、戦いたい、と。


     ○


 クロードとリントブルムの当主が庭先にて槍を構えていた。

 知らぬ間に集まった老若男女、『赤龍鬼』の副官であったおばあさんもいれば、シャウハウゼン、キュクレインと筆頭の軍団で戦い抜いた者もいる。ティグレの最後に居合わせた者、ユーサーの、キュクレインの、『双黒』の、多くの才溢れる者たちが失われ、ネーデルクスが崩れ落ちていく様を見つめ、何も出来なかったと悔いにまみれた者たち。

 そして明日を見るためにクンラートも馳せ参じていた。

 だが、そんなギャラリーなどどうでも良い。

「俺が立会人を務めよう。双方、異議は無いな」

 アナトールの言葉に無言で頷く両者。準備は万端。

 片や未熟な少年。片や欠損し戦場に赴くことが出来なくなった出来損ない。

 それでも、伯仲する視線は、何かを感じさせるには充分で――

「それでは、始めッ!」

 合図と共に少年は駆け出す。そして、地の利を捨て、天へと飛ぶ。

(嗚呼、皆そうしたさ。真似をする者は皆、まず天へと飛んだ。俺もそうだ。そして知るんだよ。そこは人の領域じゃないことを。手が続かないんだ。立派なのは最初の一撃だけ。対応されて、地に墜ちれば、ただのトカゲだ。それはもう、失ったモノなんだよ!)

 男は咆哮と共に、かつてベルンハルトに叩き落とされたように、今度は自分が龍の成りそこないを叩き落とさんと牙を剥いた。その覇気、すでに現役を退いた身のそれではない。三貴士を嘱望された男の槍は、それほど軽くないのだ。

「墜ちろォ!」

 その言葉とは裏腹に、男の眼は逆のことを望んでいた。

 この槍で、こんな槍で、落ちてくれるな、と。

「ハハ、すげえ!」

 そう、望んでいたのだ。本当は自分がそう成りたかったけれど、そう成れないと理解した後、ただ、望むしか無かった日々。誰も理解出来ぬものに蓋をして、忘れようと努めた日々。父の背が、日に日に遠ざかる悪夢に怯えた日々。

 望んでいた。心より、望んでいた。

 天に伸びた男の槍が宙にて軽くいなされ機能を失い、がら空きに成った男の心の臓を貫かんとクロードの、龍の槍が伸びる。

「や、やべ!」

「そこまでだッ!」

 アナトールの横槍が無ければ、男は死んでいた。

「す、すんません。俺、まだ加減が出来なくて」

 恐縮するクロードをよそに――

『父上、稽古をつけてください!』

『派手に駄目だ。意地悪してるんじゃねえぞ。龍ってのは手加減が出来ねえ生き物なんだ。いつか、お前が成長して、手加減無しでやれるようになったら稽古をつけてやる。だからそういじけるなって、なあ――』

 過去の記憶が浮かび上がり――

「く、くく、龍が、そんなくだらぬこと、二度と言うな」

 男は滂沱の涙を流していたのだ。本当に、嬉しそうに。

「龍は加減などしない。出来ない。だから、俺も稽古をつけてもらったことは無い。天を得るは地を捨てると同義。ゆえに、全撃殺意と共に放て。殺さねば、死ぬは龍」

 男は崩れ落ちた。ようやく、肩の荷が下りたのだ。背負うことすら出来なかった大きな荷が、預けるに足る男を見つけて、自らの下を去った。

「すまん、アナトール。お前が稽古をつけてやれ。終わった俺では、力不足だ」

「ああ、承知した」

「クロード・リウィウス。貴殿に感謝を。先ほどまでの無礼、許して欲しい。今日この日より、このリントブルム家はお前のモノと成った。好きに使え」

「え、いや、い、要らねえですよ。ってか俺なんかが、こんな立派な屋敷を」

 覚醒の瞬間を彼らは見た。

 長き眠りより甦りしネーデルクスの龍。本当に長かったのだ。誰もが失われたと諦めていた昨日が、遥かなる時を超えて今、今日に繋がった。

 老人たちもまた泣く。繋げることが出来なかった弱い自分たち。時代に取り残され、戦うことすら奪われた彼らはずっと待ち望んでいた。あの背中が、ネーデルクスに帰ってくることを。槍を振るい、生きている間だけは絶やさぬように、そのために生きてきた。

「……白騎士はわかっていて彼を寄越したと思うかい、マルサス」

 呆然と、予想を遥かに超えてきた少年の飛躍を見て、クンラートは戦慄を禁じ得なかった。多少、鍛えた自分でもわかるのだ。あれは違う、と。おそらく、武を知らぬ者にすら伝わるであろう。彼の龍、俺の槍、は。

「いいえ。特別な期待はしていたでしょうが、此処までとは想像も出来ないでしょう。どんな手を使ってでも、彼を手に入れるべきです。まだ、彼の真価を理解出来るのは、彼をずっと待ち望んでいたネーデルクスの民のみ。今は、ですが」

「そうか。ならば、手を打っておこう。必ず、モノにしてみせるさ」

「そうなれば、明日はきっと、明るいはずです。陛下」

 マルサスは一つの覚悟を決めた。父であるマルスランは自らを谷間と称した。自分もきっと、何処まで行っても本当の意味でネーデルクスの民が望んだ三貴士には成れない。だから、彼は心に決めた。自分が死しても、彼を繋げるために剣を振るおう、と。

「少年! 俺とやろうか。かつて、父上が言っていた怪物、『豪烈』のチェ・シド・カンペアドールとの一戦。力及ぶかはわからぬが、再現してみようじゃないかッ!」

 マルサスは自らの剛力を誇示せんと両の拳を打ち付ける。凄まじい轟音が庭に響き渡り、桁外れの膂力を見せつける。クロードは「うす!」と叫び天へと飛ぶ。

 そして、また一つこの世界に伝説が蘇った。

「……異人ッ!」

「……負けてられない、ね」

 追い抜かれまい、追い越されまい、死に物狂いで駆け抜ける覚悟が若き彼らにも備わった。そうでもせねば誰が龍を捕まえられようか。足りていなかった熱情すら、此処に何かがあると感性だけでこの地に訪れた少年は、この国にもたらしたのだ。

「ジャン、見ているか。お前の予感は、正しかったぞ」

 誰もが彼らを見て明日を想う。

 それが本来の、この国における三貴士の在り様であった。


     ○


 そして彼らは戦場に赴く。

 奴隷が解禁され、素人が混じった戦場は夥しい数の屍を生み、その上に成っていた。

「ディノ様とマルサスの一騎打ちだッ!」

「人間じゃねえぞあの二人!」

 怪物たちの饗宴。

「ハッ! 地獄上等、俺らは此処に成り上がるために来たんだ!」

「我が全霊と共に、虎よ、我が手に!」

「義母上、貴女のくれた槍で、僕は証明してみせます。そして貴女の言葉を否定する。貴女の存在が無意味であったなどと、僕が言わせないッ!」

 若き新星たちの胎動。

「天、獅子」

「何だよこいつ、何なんだよ! 止まれ、止まれよォ!」

 巨星をも喰らいかねない獅子。

「傭兵が向かい合えば、殺し合い、か」

「アナトールさん。貴方では、今の俺には勝てない」

 ヴァルホールの、傭兵であるがゆえに、仲間である二人は命を奪い合う。

「サンス・ロスッ!」

「す、すいません。マルサスさん、俺」

「影はまだ近くにいる。気を抜くなッ!」

 影の一刺しが世界を変え――

「取りたかったのはクロードか。ならば、絶対に俺が貴様を殺すぞ。光を求め続ける影よ。俺たちの光、絶やしてなるものかァ!」

 それによって戦場はさらなる熱を帯びる。

 そして――

「天獅子ィ!」

「ははは、来い、少年! 何度でも立ち上がり、何度でも昇り、この獅子を、最強のレオンヴァーンを、俺を止めてみろォ!」

 獅子と龍が邂逅する。

 どの国も力を蓄えている中、ただこの一点のみ、ネーデルクスとエスタードのみが世界の何処よりも熱く、それゆえに夥しい数の屍を、業を築き上げ、戦争を形成していた。

 歴史ではこれより先に行われる最終戦争の前座扱いであるが、その熱量、決して劣るものではないと二つを知る者は語る。

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