愚者の鎮魂歌:初恋
少年の背から感じる揺らぎ。まだ迷いがある。その時点で少年は優しく、真面目な人物だと少女は思う。父の商売柄、今まで多くの人間の堕ちる姿を見てきた。窮地に達した人間は醜い。彼らは平気で大事なものを手放し、目先の輝きにくらむ。
欲望は誰にでもある。そして誰もが欲望には抗えない。
(鞭の痕。たくさん、たくさん、痛かった、ですよね)
少年の背中、服の間から垣間見えるそれは、貴族として生まれた自分には想像もつかないほど凄惨な傷跡を残していた。少年の生きる世界を少女は想像できない。それほどにかけ離れているのだろう。奴隷と貴族、共感できるはずがなかった。
(貧しさ、飢え、こんなに、細くて冷たい)
背に浮かぶ骨、少女の知る同世代と大きく異なる肉付きの少なさ。少女のぷにっとした指とは違い過ぎる感触。自分の身体はこんなにもやわらかいのに、少年の身体はとても細く、硬い。自分の指はこんなにもあたたかいのに、冷たい。
(宝石の魔力はあなたを魅了した。あなたによこしまな、欲望を与えてしまった。でも、それだけならあなたは耐えられたかもしれない。それだけなら、あなたの優しさが介在する余地もあった)
だけど――
(あなたは気づいてしまった。これがあれば、自分ともう一人、大事な人をこの地獄から救い出せる、と。わたしたちが、父が与える虚構の価値。其処に目が行ってしまった。その気づきにあなたは抗えない)
貧困から抜け出せる道がある。細く小さな糸。少女にとって大事なものだが、同時に少年にとってもそれは千載一遇の機会。簡単な悪事に手を染めて、たったそれだけで自分ともう一人大事な人も救うことが出来る。
(何度も話に出てきた『お姉さん』。きっと、あなたにとって一番大事な人)
二人救える。ほんの少し、良心を騙せばいい。
(あなたにはリクツもある。わたしの命を救ってくれたこと。背負ってくれた。守ってくれた。探してくれた。今だって、わたしを背負ってくれている。あなたにはリクツがある。この宝石はそれらの正当報酬。そう言えばいい)
決して筋道の通った話ではない。後出しで奪うだけ。それでもカタチは整う。自分に言い訳ができる。そうなってしまえばもう抗えない。ずるずると堕ちていくだけ。
(そうなったら、わたしも、堕ちていいですよね?)
少女の中で膨れ上がるもの。少年と同じ、暗い欲望。
(どうせ奪われるなら、わたしはあなたと取引をする。あなたのリクツに肉付けと許しを与えて、あなたを手に入れる。わたしの大事なものと引き換えに、あなたを奪う)
少女は少年を欲していた。優しく、勇敢で、ちょっと口は悪いけど、一緒にいると楽しい。母を失ったあの日から続く灰色、それが解けて少しずつ色が取り戻せる気がする。だから少女なりの方法で少年を手に入れる。
(あなたは何も悪くない。人間だもの、欲には勝てない。わたしも、同じ)
この世は全て打算で出来ている。どれだけ表面を綺麗に取り繕っていても、その裏側は醜く歪んでいて、その癖とても合理的。少女は賢かった。賢過ぎて、見なくていいところまで見えてしまう。
(こういうところ。わたしは、わたしが嫌いです)
人が嫌い。自分が嫌い。何もかも、嫌い。
「ついたよ。ここが僕と君の境目だ」
影と光。一歩でここまで違う世界。少年の世界と少女の世界。
「ここからなら歩いて帰れるよね?」
「はい、大丈夫です」
「本当かなあ。君、どんくさいし」
少年は少女を下ろした。少年は一歩下がる。陰の世界へ。少女は一歩前に進む。光の世界へ。この区切りもほんのひと時のこと。少年は世界を超える方法を手に入れた。少女もまたそれを利用して少年を手に入れる。この境など、もうあってないようなもの。
「ありがとうございました。あなたのおかげで助かりました」
ありがとう、そう言われた時、少年の顔が歪んだ。それは少年が奪おうとしている証左で、少女の中でさらに暗い欲望がちろちろと舌を伸ばしていた。
少女はその貌を見て安心して頭を下げた。この頭を上げたら問いかけよう。そして取引をしよう。己が血に逆らわず、己が血の赴くままに、奪う。どちらも幸せになれる道。大事なものを諦めれば、どうせ奪われるのならば、別で益を取る。それが賢い人のやり方というモノ。少女は賢い。
「それでは――」
それでは失礼いたします。その後に思い出したかのように問う。それで――
「はい、忘れ物」
それで――
「ほんとどんくさいなあ。大事なものなんでしょ」
少女は賢い。だから、少年の行動の意味が分からなかった。その手に握られた翡翠のペンダント。差し出されたそれを見て少女の思考はパニックに陥る。
「え、そ、それは、あの」
慌てる少女を見て苦笑する少年。
「盗むと思ったでしょ。ひっどいなあ。僕傷ついちゃったよ」
「そ、そんなことはありません。でも」
「冗談だよ。本当はギリギリなんだ。僕、見ての通りすごいビンボーでさ。見たまんま奴隷だし、君みたいにぷにぷにしてないし、くさいし。正直、のどから手が出るほどこれが欲しい」
少年の手は震えていた。足も、力を入れて押さえ込んでいるが間違いなく揺らいでいる。笑みも明らかに強がりで、いつでも前言を撤回しそうなほどの、薄氷の覚悟。
「でも、僕たちド底辺でも、キョージってやつはあるんだ。今までたくさんのものを盗んできたし、奪ってきた。奪われもしたけど。りんご、たまご、パン、たくさん。……でもね、その人の、本当に大事なものを盗んだことはないんだ。自慢にならないけどね」
その姿は決して格好いいものではない。
「君たちには君たちの、僕たちには僕たちのリクツがある。生きるためには盗むよ。そうしないと飢えて死ぬ。でも、盗んだことで相手が死ぬなら盗まない。別の裕福なところから盗むくらいの分別はある。だから、これは盗めない。話してる中で何度も出てきたおかあさんの形見なんでしょ? それなら、やっぱりこれは大事なものだ」
それでも何故だろうか――
「君に返すよ」
何故こんなにも――
「はやくしてよお。結構無理してるんだからさあ」
綺麗に見えるのだろうか。押したら倒れそうなほど薄弱の覚悟。それでもそれがどれだけ揺らごうとも少年が崩れることはない。リクツがあって、窮地があって、欲望が呑み込む条件は十二分なのに、少年は抵抗して弱弱しくも屈服してみせた。
少女は手を近づけた。震える細い指。軽く触れただけでその振動は力を増す。必死に自分の本能を、リクツを、押さえ込んでいるのだ。少女は意を決してその手を握った。相反する二つの手。光と影、あたたかく冷たい。
冷たい方の指が、ゆっくりと解かれた。ペンダントが、少女の手に戻る。
「ごめんなさいわたし、あなたを」
少女は己を恥じた。勝手に少年を己と同じ、人は皆一緒だと決めつけて考えていた。その考えが間違えで、この世界にはこんなに綺麗なモノがあるのだと知った。光のようにあたたかく、粒子のように柔らかい。少女はこの名を知らなかった。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
突然大粒の涙を流し始めた少女に戸惑う少年。
「な、泣かないでよ。僕は疑われても仕方がないし、実際盗む気だってあったんだ。君は何も悪くない。泣くことなんて、謝ることなんて何もない」
「でも、わたしは、あなたにひどいことを考えて」
少年はそんな彼女を見て「いい子だなあ」と思った。普通、平民ですら奴隷が何をしてもそのことに対して感謝も謝罪もしない。貴族ならなおさらである。だが、少女はその枠組みを意識していないのだ。彼らにとって一番嫌いな無意識の壁、それがない。
「泣いて謝るくらいなら僕はありがとうが欲しいな。ほら、それを返したら僕、タダで君を助けたってことになるでしょ? それってすごく騎士っぽいじゃん? ねえさんの騎士を目指す僕からすると、ごめんなさいよりもありがとうが良いな、ね」
少年は自らの手で希望の糸を断ち切った。その姿を見た瞬間、少女の世界、灰色の世界が一気に色づいていく。色彩豊かに、少年をかたどっていく。母の死からここまで、ほぼ灰色だった景色が全て塗り替わった。その中心は、アルという少年である。
少女は色を取り戻した。光が、あたたかさで満ちていく。世界は思っていたほど悪いモノじゃない。この人は、自分の思うよりずっと格好良かった。
「あ、良かった。泣き止んでくれた。これで僕も安心して帰れるよ。もうたぶん会うことはないと思うけど、今日はすっごく面白かった。じゃ、さよなら!」
翡翠のペンダントへの欲望が尾を引いているのだろう。このまま長居すれば危ないと少年は判断し、名残惜しいが素早くお別れしようと考えた。
少年は身軽ですばしっこい。どんくさい自分では絶対に追いつけない。だから少女は急いだ。生まれて初めて、思考を介さず感情だけで言葉を放った。
「ありがとうアルッ! すっごく楽しかった! また遊んでくれますか!?」
その言葉は少年に追いつき、彼は驚いて声のした方を見る。
そこに咲いていた花を見て、アルの顔は夕焼けに負けないほど真っ赤になった。少し地味だけど、良く見るととても綺麗で、いい匂いがして、やわらかくて――
○
ウィリアムはルトガルドに視線を合わさずポリポリと頬を掻いていた。その様子にルトガルドはくすくすと笑う。
「思い出していただけましたか?」
「少しは、な」
一向に視線を合わせようとしないウィリアム。いたずらっぽく微笑むルトガルドはその様子だけで満足しているようであった。
「その後はお父様が依頼していた第三軍の方に保護していただきました。あの時のアインハルトお兄様の顔ったらなかなか強烈でした」
「……今でも内輪相手だとすぐに熱くなる。そういう気性なんだろうな、義兄上は」
「そうですね。アル、ウィリアムはその後どうしていました?」
「あの後すぐに高熱を出してな。あまり覚えていないが生死の境をさまよったらしい。皆から怒られたよ。流石は死の沼。別にその後も忘れていたわけじゃなかったんだが……まあ、色々あってな」
「そうですか」
むやみに詮索してこないのは調査範囲だからか、興味外だからか。おそらく、十中八九前者だろうが。
「……シチューを作ってこよう。食べられるか?」
「はい、喜んで」
「喜ぶな馬鹿が」
ウィリアムは立ち上がって調理室に足を延ばそうとした。ふと、何かを思いついたのかにやりと笑みを浮かべてルトガルドの方を見る。
「ウィリアム・リウィウスにとって最愛はヴィクトーリアだ」
「知っていますよ。今更ですね」
大したショックも受けていない。言葉にこそしていなかったが、そこを譲ったことはない。すべて知った以上、なおさらその序列は確固たるものになった。
「だが、アルにとっては地味でどんくさい、いい匂いがしてやわらかい少女が初恋で、もしかしたら最愛になっていたかもな。それも俺の一部なわけで」
ウィリアムにとっての最愛がヴィクトーリアなら、アルにとっての最愛はルトガルド。その二つは矛盾しない。あの日分かれたもう一人の己、決別し、今はまた一つになった存在。どちからが本物ということでもない。どちらも本物で、どちらも本当。
だから二人の最愛は矛盾せず其処にある。
「まあ、そういうことだ」
ウィリアムは頬を掻いて退出した。残されたルトガルドの表情は、あの日のアルに負けないくらい真っ赤であった。
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