愚者の鎮魂歌:小さな理想郷
背中の温かみがなければ恐怖に凍えそうなほど、アルの駆ける道は腐った肉の匂いで満ち満ちていた。この腐敗臭のいくばくかに死人が含まれるのだろうか。死なずとも身が腐り、焼けただれ、病をまとう臭い。少年の背中越しでなくば近寄る気も起きなかっただろう。それほどにここは地獄であった。
「大丈夫。僕の予想だとペンダントは大丈夫なはずさ」
アルが元気づけようと声をかけてくる。ピントの合っていない励まし方だが、それはアル自身もこの場について言及を避けたいがため、無意識の逃避であった。
「そ、そうなんですか?」
アルは少女を背負いながらひょいひょいとボロ板の上を跳ねる。軋んだ下には死んだ魚のような眼がうようよと。落ちたら何が起きるかわからない。
「僕が探そうと思ったのも『あそこ』に落ちたからなんだ。底の底、そういう奴らすら近寄らない場所。僕だって普通なら近寄りたくはないけれど」
さらに駆ける。少しずつ視線が消え、その代わりに鼻をつんざくような死臭が襲い来る。
「何ですか、あれは」
視界が拓け、二人は見た。
「雨が続くとね、この辺りの色々な『モノ』を含んだ水が此処にたまる。死の沼とかセンスのない名前で呼ばれているよ。死人すら避ける、死をノーシュクした水たまりさ」
凄まじい激臭。少女の生きてきた中で最悪の臭い。長い時間いたら気が狂いそうな臭いの中、アルは腕まくりをした。
「たぶんペンダントはあの中だよ。僕の見た通りなら」
明らかに無理をした笑みを浮かべてアルは一歩踏み出す。意図を察した少女はアルの服、袖を掴んだ。あの中に踏み込むのは常軌を逸している。自分にとって大事なものなのに、肝心の己の心が折れかかっている。
「わ、わたしも手伝います」
それでも奮い立たせて言葉を放つ。めいいっぱいの勇気を込めて。
「君はダメだよ。本当はこの近くにもいるべきじゃないんだ。君、すり傷まみれでしょ? ほんの少しの傷口でも、あの水に触れたが最後、地獄を見た後に死ぬ。僕は大丈夫。最近鞭で打たれてないし、傷もないから。死にはしない……と、思うんだけど」
勇気を拒絶したアルも顔が歪んでいた。おそらく、アル一人ならここに来てぐるりと踵を返しただろう。久しぶりにこの地に足を運んだが、やはりここは別格であった。昨日まで続いていた長期にわたる雨、最大規模の水たまりにはどれだけの死が含まれているのだろうか想像もつかない。
「まあ見ててよ。僕は騎士になる男だから。こんなところでへこたれないんだ!」
アルは、ゆっくりと、死の沼に足を踏み入れる。少女は袖を離した指の感触、するりと何かが抜ける思いを感じた。死にはしない。死ぬわけがない。どれだけ思ったところで、此処は死人すら近寄らぬ地獄の最奥。
少女は賢しく、神を信じていない。しかし、この場だけは神に祈るしかなかった。少女はまた一つ賢くなったのだ。祈りとは、無力な者が最後に出来る行為なのだと。
○
少女は必死になって他人のペンダントを探す少年を見つめていた。他人のためにそこまで頑張れる姿は、利害渦巻く商の世界を住処とするテイラーの人間からすると、理解から遠くそれゆえに胸が高鳴る思いがあった。
同時に、商の怪物の血を色濃く受け継ぐ少女は、少年の特異な才覚を見出していた。見る能力と論理的思考、この二つがずば抜けているのだ。一度ちらりと見ただけの落下物、その落下点を弾き出したのは二つが高いレベルで組み合わさったから。
思考を鈍らせる激臭漂う巨大な水たまり、この中でモノを探す。それだけでも少年の才覚は発揮されていた。子供の半身がつかる程度の深さだが、濁り切った水は底を映さない。にもかかわらず同じ個所を重複して探すことなく、効率的に探索範囲を広めていく。
「もうちょっとだと思うんだけどなあ」
再度、落下し始めた始点を見て、落下地点である水たまりを見る。ただ瞳に映すだけではない。その瞬間、瞬間、彼の頭の中では独自の計算式が動いている。誰に教わったわけでもない。紙の上で表現できるわけでもない。されど、確信をもって弾き出せる解答。そこに至るまで休みなく稼働する思考力もまた見事。
彼が数字を、数式を知れば手に負えなくなる。そんな予感があった。
(この人は――)
だからだろうか――
「いよっしゃあああ! 見つけたぞぉ! 僕天才ッ!」
(いつか、すごいことを成す気がします)
泥にまみれたペンダントを掲げる少年、そこにそれほど大きな驚きを覚えなかったのは。彼の才覚なら必ず見つけられる。他人のためであっても目的のために初志貫徹する心の強さ、ブレなさ。それを見ている内に期待は確信となって、気づけば当たり前となっていた。
その事実に少女は驚きを見せる。
「これで合ってるよね? あ、近づいちゃ駄目だよ。汚いからさ」
良く見るまでもない。泥にまみれていようとそれは紛れもなく母の形見のペンダントで、付着した泥の隙間から見える緑は、母の大好きだった翡翠の淡い輝きであった。
少女は首を大きく縦に振った。それを見て少年の顔が嬉しそうにほころぶ。
「よかったー。あとは汚れを落として帰るだけだね」
少年はもちろんのこと、少女もこれだけの臭気の中にいては臭いがこびりついているだろう。これを落とすとなればそれなりのやり方が求められる。
「その、元来た道を帰るのでしょうか?」
少年は何が含まれているのかわからない泥まみれで、少女を背負えるような状態ではない。擦り傷に泥が付着すれば元の木阿弥である。
「うん。あ、安心していいよ。ちゃんとおんぶして帰るからさ」
「いえ、その、好意はありがたいのですが」
あっけらかんと答える少年を見て少女は少し評価を下げ――
「もしかしてこのままおんぶすると思ってる?」
「え、と、そういう意図では?」
「馬鹿だなー。そんなのしたら傷についちゃうじゃん」
馬鹿、少女には縁遠い言葉である。のろまやどんくさいなら近い言葉は向けられたことはあるし、陰ではそれ以上に言われていることも知っている。だが、馬鹿だけは今までなかった。だって賢かったから。
「こっち。ついてきてよ。ファヴェーラと僕で見つけた秘密の場所があるんだ」
少年はいたずらっぽく微笑む。そこは年相応の笑みで、何となくほっとした。
少年が手招く場所は『死の沼』より少し外れて――さらに下へと至る道。誰もが近寄らず、此処を終点だと思っていた。しかし、死の沼はただ水がたまりやすい構造が産んだモノで、下ではあっても最下層ゆえの現象ではなかったのかもしれない。事実として其処が在る以上、少年の認識としてはそうなっていた。
大多数の認識としては最下層で、彼らにはそう見えているのだが――
ほんの少し上がって、また下る。そもそも先ほどまではこんな道があることも認識出来ていなかった。死の沼が強烈過ぎて見ていなかったのか。はたまた――見えなかったのか。
(なぜでしょうか。わたしには、この道の方がさっきよりも、怖く感じます)
視線もない。いつの間にか臭いも消えている。そこまで歩いていないはずなのに、臭いが完全に消えていた。ずんずんと進む少年の背中だけが頼りに感じる。
「せっかく見つけたのにファヴェーラは来たがらないんだよね。なんでだろ?」
少女は思う。何故、彼は此処を怖いと感じないのだろうか、と。
この道に比べれば、先ほどまでの方がよほど人間味があった。温かみすらあった。
「ついたよ。ここが僕らの見つけた一番下さ。とりあえず、ね」
どこか人工物的な気配を帯びた洞窟を抜け、ぽっかりと空いた空間は行き止まりであった。そこは来た道よりもさらに人工の香りを残す場所で、中央には顔の欠けた美しい女性をかたどった像とそれを挟むように二人の騎士が睨み合っている台座があった。天井は吹き抜けで空を映し、周囲には野花が咲く。現世から離れてしまったかのような幻想的な風景。それがさらに少女の不安を掻き立てていた。
「あ、ヒルダはこの辺に立って。僕は準備するから」
少女は指示通り台座のそばに立ち、少年はせこせこと動き回る。近くにあった金属の取っ手に手をかけ、思いっきりそれを回した。その瞬間――
「へ?」
少女は足元から噴き上がる水流をモロに受けた。突然のことで特にリアクションを取るでもなくすてんと尻餅をつき、そのぽかんとした表情がツボに入ったのかゲラゲラと少年は笑う。
少女が立っていた場所は小さな噴水であったのだ。台座から噴き上がる水は野花の合間に備わった小さな水路を伝い放射状に広がっていく。水路が織りなす模様は不規則なようで規則的、まるで一つの街のようであった。美しい光景である。
大地の緑と天水の青、野花の淡い色彩に囲まれる二人。幻想的な光景だが、景色を楽しむには二人は少し幼過ぎた。
少女は賢いが、まだ年相応の子供でもあったのだ。
「笑わないでください!」
少女は服を用いて水を受け、こぼれきれぬ内にそれを少年にぶつけた。思いっきり水をかぶる少年。「やったなー」と、そこからは子供らしく水の掛け合いが始まった。
ひとしきり掛け合いが終息すると、少年は台座の上に腰掛ける。水が止めどなく流れていて水浸しになっているが、今の少年はそれほど気にしていなかった。
「いやー、楽しかったね。服も綺麗になったしイッセキニチョーってやつだよ」
「はしゃぎ過ぎました」
気恥ずかしさからか頬を赤らめる少女は、野花咲く小さな原っぱに座り込んでいた。こちらもぐしょぬれであるが、やはり楽しさのあまりそれほど気にしていない。
「僕はもうちょっと細かい汚れを落とすね。あ、ペンダントも洗っちゃおうか。汚れを落としたら返すよ」
少年は噴き出る水に頭を突っ込みがしがしと洗い出す。
少年が汚れを落としている間、少女はひと心地つき、状況を客観的に見て、あまりにも不思議な状況に顔をしかめた。
考えれば考えるほど、この状況はおかしいのだ。
これだけ澄んだ水が大量に出てくる、人気のないところに存在する噴水。その存在理由と誰がどうやって作ったのかを考えると何一つ答えが出てこないのだ。小規模にもかかわらずこの水量、からくりが何一つ見えてこない。
まるで魔法のような光景。
「うわー、あらためて見ると……きれいだなあ」
台座の上に一人の少年が立っていた。水しぶきを浴びながら、きらきらと輝くペンダントを掲げて天を見つめる。翡翠を通して空を見ているのか、空を背景として翡翠を眺めているのか、わけがわからなくなる。何がどうと言うわけではない。ただただ、美しく――
「いいなあ」
少年はその石に魅了されていた。少女は美しい光景が少年を飲み込む渦に見えた。美しさは欲望を掻き立てる。地の底では見出せなかった、泥の中では見つけることのできなかった美。この幻想の中にあって、緑の石は蠱惑的な魅力を放っていた。
「ねえヒルダ。絶対返すからさ。もう少しだけ……僕が持っていてもいい?」
少女は父の言葉を思い出していた。
『宝石に価値を与えているのは私たちだ。しかし、同時に石自体もまた魔力を秘めていることは認めねばならない。遥か昔から人を惹きつけてやまない、魔性を持っているのだから。だからこそ私たちは警戒せねばならないよ。商品に呑まれた商人にならぬために、ね』
宝石の魔力。ここはそれが最大発揮される場所であったのだろう。先ほどまであれだけ他人のために骨を折ってくれた心優しい少年でさえ――
「……お預けいたします」
「やった! あとで絶対返すからね。絶対、ぜったいに」
獣のような貌をするのだから。
少女は少年との出会いに感謝していた。少年のおかげで自分は生きている。少年のおかげで形見が見つかった。たとえ返すという言葉が嘘でも、少女は少年に対して微塵もマイナスの感情を抱くことはないだろう。
あの石一つで彼は身分が買える。二人分、買っておつりが出るだろう。そういった環境で惑いを覚えぬ者などどこにもいない。仕方がないのだ。
少年もまた、人なのだから。
○
日が傾き始めたアルカスをアインハルトは走り回っていた。元部下を用いて探索範囲を広げ、カールもまた仲の良いイグナーツとフランク、その商会員と共に探し回る。もうすでに行方不明から相当な時間が経過していた。
「坊ちゃん。もう、無理ですぜ」
「無理なものか。母上を失って、ルトガルドまで失うわけにはいかないんだ。俺が、家族を守らなきゃいけない。あの男に代わって」
「……坊ちゃん」
失うことへの恐怖。今、テイラーという家に巣食う感情がそれであった。母を失った矢先に妹を失えば、アインハルトは永遠に自分を許せなくなるだろう。絶対に探し出して見せる。諦めず、アインハルトたちは靴底をすり減らしていく。
「なんでえ、さっきから妙に兵士が多くねえか?」
日が赤く染まり始め、世界が紅に包まれる中、色々な非日常が交差する。
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