愚者の鎮魂歌:やせっぽっちの騎士

 少女は初めて人の、本当の悪意というモノに触れていた。暗闇に少し立ち入っただけで年若いならず者に囲まれるなど貴族の令嬢である少女には想像も出来なかった。普段目にする人間とは種類の違う雰囲気、ぎらついたようで死んでいるような眼。

 少女は恐れた。

「高そうな服だぜ兄貴」

「剥いて犯しちまうか。まだ新入りは未経験だったよな?」

 法を法とも思わぬ存在を。法の届かぬ暗闇を。

 ここは貧民街。アルカスという大都市の暗部であり恥部。ここに生きる者を表側に住まう者は見ようとしない。同じ人間ではなく、牛や馬と同じ。関わらず、踏み込まなければ己が領域では家畜同然。

「お嬢ちゃん。金持ちがこんなとこに、きちゃダーメ」

 悪意と欲望に満ちた笑み。下卑た表情からこぼれるのは、『下』を見つけた愉悦である。彼らは普段虐げられし者で底辺に生きる存在。上は腐るほどいる。横並びの存在もまた同じ。しかし、『下』はなかなかお目にかかれない。

 普段の鬱憤を晴らすにはうってつけの弱者。

「悪いのはお嬢ちゃんだぜ。ここはそういうところなんだからよォ」

 彼女の保護者が探しに来た時にはすでに命も含めて全て奪った後。証拠はない。何もかも失って、そこらに捨てれば餓えた者が死肉も喰らってしまうだろう。骨だけの存在をいったい誰が見つけられるというのか。

 ここは地獄。入り込んだのが間違い。自分たちの領域では家畜の彼らも、彼らの領域では餓えたケダモノなのだ。

「……こないでください」

 そう言われて引き下がる者はいない。むしろ嗜虐心をくすぐられ、舌なめずりする者もいる始末。少女は顔を歪ませる。ほんの少しの偶然で大事なものを落とした。そこから転げ落ちるように命まで危険にさらしている。

 死、突然突き付けられた事実に少女は立ちすくむことしか出来なかった。

「なんだかなー。人がキラキラ探しをしている最中に嫌なもの見せないでよ」

「あん?」

 突如、その緊迫した空気を和らげるような気のない声が降ってきた。若いならず者たちは声のする方へ視線を向けた。

「テメエ、邪魔すんじゃねーよアル。カイルの腰巾着が!」

「かちんときたね。君らのシマだし見逃してやろうと思ったけどやーめた」

 少女は建物の屋根でぶらぶらと足を揺らしている少年を見た。艶めいた黒の髪と中性的な顔立ち。身体は目の前のならず者たちと比較して一回り小さい。おそらくは年が二つ三つ離れているのだろう。しかし、気後れする様子は見せない。余裕すら感じられる。

「兄貴、気を付けてください! そいつはへぎゅッ!?」

 警戒を呼び掛けた少年の鼻っ柱に石がぶつけられた。

「あんまり騎士っぽくないから好きじゃないんだけど。ま、体が大きくなるまでの辛抱かな」

 器用に石を一つ、二つ、三つとお手玉、ジャグリングの要領でくるくる回す少年はにやりと獰猛な笑みを浮かべた。彼のような小さいものがこの地獄で我を通すために身に着けたスキル。人間が最初に手に入れ、その後数万、数千年もの長きにわたり利用されてきた最古かつ現行優秀とされる武器、それが投石である。

 アルの得意技であった。

「テメエ卑怯だぞ!」

「女の子一人に複数人で囲むのは卑怯じゃないのかよ!」

 少年、アルはこの地獄にて誰よりも正確にモノを投げることが出来た。そして体格に見合わずその投擲物は飛距離と威力を持つ。すっと伸びていく軌道はその破壊力に反して美しい軌跡を描いていた。

「いでえ! テメ、このくそ野郎降りてこい!」

「何であいつあんなに石を持ってるんだよ!」

「アルの野郎。色んなところに石を仕込んでるんですよ。嫌らしいところを陣取って事前仕込みの石を投げまくるのがあいつの必勝法で」

「先に言えよあぢッ!? くっそ、歯が折れやがった」

「なーっはっはっは。誰が見世物小屋のゴリラの腰巾着だって? 謝れバーカ」

「くそっ! 覚えてろよ! 大兄貴に言いつけてやる!」

 逃げていく者たちの背におまけとばかりに石を投げつける。お尻に当たり痛みでぴょんぴょん飛び跳ねるさまを見て、アルはゲラゲラと笑っていた。

「いっしっしっ。あー面白かった。サイナンだったね。でも君も悪いよ。そんな格好でこの辺うろついてたらあいつらじゃなくても襲ってくるさ」

 ひょいひょいと身軽な動きで降りてくるアル。あっという間に少女の前に辿り着いた。

「初めまして。僕の名前はアル。とりあえず出口までは送ってあげるよ」

 いきなり向けられた善意に少女は混乱していた。見ず知らずの少年のおかげで窮地を脱したが、この少年が新たな災難である可能性もある。そもそもなぜ助けてくれたのか、それもわからないのだ。

「な、なんでわたしを助けてくれたの?」

 疑惑の目、アルは首を傾げた。

「君がかわいいから」

 真っ直ぐ、あまりにも真っ直ぐ過ぎる言葉に少女は絶句した。頬を紅潮させ、重なっていた視線はきょろきょろと別の方向へうつろう。

「それにいい匂いもするね。んー、ねえさんやファヴェーラとも違うや」

 くんくんと近づいて匂いを嗅ぐアルに少女はびくりと後退する。

「あとは今冒険中だからね。気分がこうぐわーって上がってたところで女の子が泣いてるんだもん。そりゃあ見捨てたら気分も落ちるし、ねえさんの騎士として見過ごせないよ。女の子は大事にしましょうってねえさんがよく言ってるから」

 泣いている、そう聞いて少女は初めて自分が泣いていたことに気づいた。目じりをぬぐうとそこには湿り気があり、自分が無意識に涙を流していた証拠で、恐怖で心が折れかけていた事実に今更ながら理解が及ぶ。

「わ、わたしは可愛くありません。地味で、のろまで」

「えー、かわいいと思うけどなあ。でものろまなのは事実だね。あんな頭の悪い連中に囲まれてるんだもん。あの程度の奴らに捕まっているようじゃダメダメ。ここで生きてけないよ。あんなのかわいいもんだぜ、本当にさ」

 実感のこもった言葉に少女は改めて大変な場所に迷い込んだのだと理解した。

「さ、送ってあげる。僕の気分がぐわーってなってる内がチャンスだよ」

 それでも――

「すいません。わたし、探し物があるので」

「探し物?」

「ペンダントです。緑の石がついている金色の」

「……むむ?」

「あの辺りから落として、拾いに来たのですがどこにもなくて」

 少女が指をさす場所。其処を見てアルは少し考え込んだ。上を見て、下を見て、首をかしげて、ぽんと手を打った。

「それ僕が見かけたやつだ! あの辺から結構な勢いで落ちたやつでしょ」

「え、あ、はい。たぶんそれです」

「うわー、やっぱり見間違えじゃなかった! だから言ったんだあのゴリラ。何が気のせいだよ。おーし、盛り上がってきた! それって君の大事なもの?」

「は、はい」

「じゃあ一緒に探そうよ! 僕探し物得意なんだ。君へたくそでしょ? あそこからこんな感じで落ちたのにこの辺で探してるんだもん。どんくさいよね」

「……そこまで言われたのは初めてです」

「そう? まあどうでもいいじゃん。早く行こうよ……えっと、君なんて名前だっけ?」

 怒涛の勢いに押され、一緒に探すことが既定路線と成った状況。少女としてはありがたい流れだが、何とも不思議な縁である。

「わたしはル――」

 しかし、少女ははたと気づいた。まだこのアルと名乗る少年が信用できると決まったわけではない。父がたびたび「人を信用させろ。そして人は信用するな」と言っていた。裏表のある人物には見えないが、この非日常では何があるかわからない。

 石橋は叩いて損はないだろう。少女は賢く、そして怖がりであった。

「ひ、ヒルダと言います」

「へー強そうな名前だね。全然似合わないや」

「……わたしもそう思います」

 アルは大して気にすることもなく偽名を騙った少女に手を差し伸べた。

「じゃあ行こうかヒルダ」

「は、はい」

 繋がれた手のぬくもりは、少女に久方ぶりの安息感とほんの少しの緊張を与えた。その感情の名を少女はまだ知らない。


     ○


「……嘘だよね?」

 アルは呆然と背後で息絶え絶えになっていた少女を見つめる。アルとしては少し歩いた程度、階段の上り下りがあるエリアなので楽な道ではないが、それにしてもこの距離で限界を迎えるのはいささか『彼ら』の常識からかけ離れていた。それに此処に至るまでで何度も転び、少女はすり傷だらけとなっていた。

「だ、だいじょうぶです」

 見るからに大丈夫ではない少女を見てアルはため息をつく。

 普段、よく遊ぶメンバーの中でアルが一番体力で劣っていた。そのためこのようなケースはあまり経験がなく、アルとしてもどう対応すべきか悩みどころであったのだ。

(んー、あそこから落ちてあの屋根で跳ねたから……もうちょっと下だし、そのためにはまだ上がったり下がったりあるわけで)

 直線距離はそれほどではなくとも、曲がり、うねり、住人の心象風景を映し出したかのような貧民街でもひときわ面倒くさいエリア。元の地形、高低差を利用して独自の階段とルート、家屋を形成し、アルカスの守護者である第三軍ですら滅多に立ち入ることのない魔境。先程のようなならず者、アルたちですら近寄らぬエリアでこれ以上足踏みするのは――

(シシューのする視線……長居はキンモツだね)

 危険だとアルは判断した。彼の友人も一人此処に迷い込み行方不明となっている。貧民街で最も争いの存在しない空間、だからこそ恐ろしいのだ。

(あのゴリラは無理だけどファヴェーラはいけたから大丈夫なはず)

 アルは決心した。

「ヒルダ、背中につかまって。このままじゃ日が暮れちゃうよ」

 いつか姉を乗せるために温めておいた特等席。まだ少し姉を乗せるには心もとないが、それでも同世代なら大丈夫なはず。カイルが特別で、ファヴェーラが普通なのだと心に言い聞かせるアル。若干の不安はあった。

「で、でも、ご迷惑じゃ」

「ここの連中にのまれたら本当にやばい。こうしている方が迷惑なの。はい乗って」

 初対面の相手に体重を預ける。そのことに対する戸惑いもあるが、それ以上に気恥ずかしさのような、もやもやする気持ちがあった。それでも選択の余地はない。アルの言う通り、此処は先ほどの場所とは違う意味で危険な匂いを放っていた。少女にもわかるほど表側とはかけ離れ過ぎている。

 長居は出来ない。だから――

「よ、よろしくお願いします」

 少女は少年に体重を預けた。アルは背中越しなので見ることが出来ないが、少女の顔は爆発しそうなほど真っ赤に紅潮していた。そして少年もまた――

(か、軽い。あとやわらかくて、すごく、いい匂いがする)

 初めての経験に頬を赤らめていた。少女はうつむいていたのでそれを知ることはなかったが。

「よーし、いくぞー!」

 アルはその熱を振り払うかのように加速する。少女もまたいきなりの加速に驚き力いっぱい少年にしがみついた。その結果、さらに加速しよりしがみつくという悪循環というか好循環というか、そんな二人の冒険は加速、加熱していった。


     ○


「申し訳ございません。何とお詫びしてよいか。誠に、誠に――」

 テイラー商会の長にして男爵の地位を持つ商の怪物、ローランは頭を地にこすりつける御者を一瞥し、首を振った。

「ルトガルドが自分で飛び出した。君の弁が確かなら非はルトガルドにある。君が頭を下げる必要などないだろう。君の仕事は馬車を動かすことで、あれの保護管理は仕事の枠外だ。無論、その弁が嘘偽りであれば、問題ではあるがね」

「誓って嘘など申しませぬ。大恩あるテイラー家を偽るなど私にはできません」

 ローランは頷いて読書に戻る。その様子に噛みついたのは――

「何で探しに行かない!? 家族だろうが!」

 長兄、アインハルトであった。ローランは激昂する長兄に一瞥をくれることもなく、パラパラとページをめくっていた。その姿がなおアインハルトの苛立ちを増長させる。

「もういい! 行くぞカール」

「う、うん!」

 半ば引きずられるようにこの場から消えていくカールとローランの冷たい態度に激怒するアインハルト。その背をローランはちらりと見る。

「お前はいつも勝負所で熱くなる。だから何者にも成れないというのに」

 ため息をつくローラン。本を机に置き――

「そろそろ準備も出来た頃だろう。さあ、君の仕事をしてもらうよ」

 隅で立ち尽くしていた御者に声をかけた。

「まずは商会本部まで。その後は――」

 家長であるローラン。その足は先んじた者たちよりも遥かに深く、遠くへ向かっていた。

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