愚者の鎮魂歌:思い出噺

 ウィリアムの献身的な介護で家庭は明るくなった。多くの見舞客も来た。栄養のあるものを持ってきて、祈りの言葉をささげて、心優しい女性には存外多くの味方がいた。アルフレッドも母のために庭掃除や花の水やりなど手伝いをするようになった。

 早く元気になって欲しい。皆がそう思っていた。

「今日はいい天気ですね」

「ん、そうだな」

 当の本人であるこの二人を除いて――

「朝はご迷惑をおかけしました」

 早朝、ルトガルドが吐血して倒れたことで、ウィリアムは全ての予定をキャンセルし、彼女のそばで看病をしていた。アルフレッドはヒルダの元へ一時的に預けている。今頃、イーリスと共に学校の見学にでも行っているだろうか。

「いいさ。仕事をさぼる口実が出来た」

「お仕事、大事な時期でしょう?」

「当面のやるべきことはリスト化して各部署に投げてある。緊急事態でやることが明確化していない時は忙しかったが、見える化して分配すればあとは作業だ。進捗の確認と指示出し程度はやるべきだが、とりあえず山は越えたよ」

 今は二人っきり。だからこそ落ち着く。いつだってそうだった。この空気感こそ二人の最適解。はたから見れば気まずそうに黙りこくる間も、彼らにとっては居心地の良い静寂なのだ。ずっと浸りたくなるほど、この空気は穏やかであたたかい。

「であればいいのですが」

「体調はどうだ?」

「少しずつ悪くなっています。身体の中で毒が残留して日に日に弱っていく自分がいるのです」

「この毒は自然死に見せかけて殺すものの中で、最も殺意の高い複合毒だ。日を跨いでも体の中に残り、一定の量を超えると体調に異変が生じ始め、摂取を続けると徐々に弱り死に至る。病での死と区別出来ず、痕跡もほとんど残らない。外法中の外法だ」

「そんなものが国内に存在したのですね。私の希望通りの毒が手に入ってびっくりしました。ああ、こんなものもあるのか、って」

「お前だから買えたんだ。俺が懇意にしている怪物がお前を殺したがっている。渡りに船とでも思ったんだろう。俺が用意していた毒を売りさばきやがった」

「まあ。ふふ、どちらにしても私はこの毒で死んでたんですね」

 殺意を自供した相手に屈託なく微笑むルトガルド。もはや彼女の精神状態は余人の理解できるところにない。理屈、本能、全てを捻じ曲げて彼女は笑うのだ。誰よりもはかなげに、路傍の花のようにひっそりと、されど毅然に美しく、微笑む。

「俺の作った毒だ。復活させた、と言った方が正しいか。昔、この世界には魔術があった。その媒介の一つとして使われていたらしい。これをある魔術に反応させると物質に対しての結合率が上がるそうだ。毒としての機能はあくまで副産物。ま、今となっては毒以外で使いようがないがな」

 ウィリアムは最近二人っきりになると自分しか知りえない、知るべきでない話を語る。ウラノスのことも話した。ガイウスとの生活、アークとの邂逅、今となっては不思議と化した過去の歴史。そんなことばかりを話している。

 相手に絶対の信頼と、明確な終わりがあるからこそ語れることもある。

「貴方の作った毒ですか。少し食欲が出てきました」

「くく、お前は本当に度し難いな。今、シチューを作ってこよう。アルフレッドには不評だが」

「私は好きですよ。素朴で、あたたかくて、優しい味。本当の、貴方の味がするから」

 ウィリアムは頬をぽりぽりと掻く。自分と彼女の関係は本当の意味で共犯者である。隠していたことを互いに洗いざらい話していく中で、彼女がとっくの昔に自分の片棒を担いでいたことを知った。彼女は自分を殺す武器を持っていた。それをずっと使わなかった。使うどころかその場で隠滅した。

 その狂気にウィリアムは苦笑するしかない。もし、彼女がもう少し行動的であったなら、能動的であったなら、他の者が割り込んでくる隙もなかっただろう。ただ、彼女には踏み込む勇気がなかっただけ。そこだけが欠けていた。あとはすべて揃っていたのに――

「本当の俺、か。俺すら忘れている俺を、お前は覚えているんだったな」

「ええ、私の、一番の思い出です。素敵な、格好いい男の子でした」

「やせっぽっちの奴隷のガキが、か? それ本当に俺なんだろうな?」

 ウィリアムは疑わしげにルトガルドを見つめる。そのまなざしに耐え切れずルトガルドは噴き出す。若干血が混じっていたので笑うに笑えない絵面であったが。

「じゃあ話しましょうか? もしかしたら、こうやって話せるのも最後かもしれませんし」

「聞きたいような、聞きたくないような。まあ聞いておこうか。思い出すかもしれんしな」

「ふふ、では……あれはまだ私が小さく、そうですね、丁度母が亡くなった年でした」

 ルトガルドが思い出すように言葉を紡いでいく。それは少しずつ輪郭を与えていき、その度にウィリアムの脳裏に景色が、湧き出してきた。

 それは遥か昔の、まだ少年が奪われる前の話である。


     ○


 大好きな母が死に、母との遊び場であったローザリンデからも明かりが消えたまま。兄二人も消沈し、特に長兄はそれが原因で父ともめて仕事の手伝いから遠ざかっていた。それで学者の真似事などをし始めたのだから家人一同頭を悩ませるしかない。

 少女もまた長兄の愚行を内心笑っている一人であった。母の死と父の仕事には何の因果関係もなく、父に憂さ晴らししても母は戻ってこないし、意味がない。それで食えもしない学者の真似事なぞしているから性質が悪い。生活資金は誰が工面していると思っているのだろうか。自らが稼いだ金も、所詮は父の築いたテイラーあってのもので、仕事を辞めて隠遁生活など反抗と呼ぶにはあまりに幼稚であった。

「今日はダンスを学んできなさい。貴族の令嬢たるもの、踊りの一つでも嗜まねばな」

「はいお父様」

 少女、ルトガルド・フォン・テイラーは賢い娘であった。自分に何が求められているのか、何をすべきか、貴族の令嬢としての責務をしっかりと理解していた。踊りや作法などで魅力度を高め少しでも良い殿方を捉まえる。それが使命であった。

 自分に器量が欠けていることも理解しており、それを補うために日夜努力を積んでいた。望まれているままに。ただ一つ、難点があるとすれば――

(わたしは、不器用みたいです)

 踊りも楽器も、どうにもうまくいかない。頭ではわかっているのに、体が上手く動いてくれないのだ。冴えない次兄でももう少しうまくやる。その時点でルトガルドは自分が出来損ないなのだと理解する。

(裁縫は得意なのに)

 母譲りの才覚、そして本当の意味での努力。彼女は賢かったが、真の意味での努力を知らなかった。好きこそものの上手なれ。皆と同じことをトレースするだけでは努力とは言わない。自分で試行錯誤し、道を見つけ、突き詰める。そこまでして初めて努力。

 彼女は『貴族の令嬢』にそこまでの熱量を注いでいなかった。裁縫は好きだから、大好きな母と一緒だったから、得意にまで高められた。彼女は知らなかった。否、忘れてしまっていたのだ。最初の、不器用だった頃を。指に何度も針を刺し、泣いた日々を。

 がたごとと好きでもない習い事に向かう馬車。出来損ないの自分を垣間見るだけの時間。皆が華やかに、上手に踊る横でへたくそに這いずり回るだけ。

 ルトガルドは首にかけられた翡翠のペンダントを手に取った。母の形見であるそれは決して高価なものではない。しかし、彼女はこの石が好きであった。地味で、目立たなくて、何処か儚い。ルビーやサファイヤなど目立つ存在とは違う、花形から遠い存在。

 自分と、少し似ていたから。

 母を失い、残った唯一の色はこの石だけ。他はすべて灰色がかって見える。

 少女は賢くずっと昔から皆が求めていることが手に取るように分かっていた。父や兄が期待する『貴族の令嬢』、それになるには器量も才覚も足りない自分。家人がちやほやしてくれるのもテイラーの娘だから。こうやって馬車に乗っているのも、使用人が言うことも聞くのも、全て人の力で、そこに自分はいない。

 せめて求められる存在になれるなら救いもあったが、それも無理。唯一、自分に何も求めなかった母はもういない。次兄は――たぶん何も考えていないだろう。自分と同じ出来損ない。期待に添えない存在である彼は自分のことで手一杯。きっと、彼はずっとそう生きていくのだろう。誰かに寄生して、愛想笑いを浮かべながら。

 だから、あまり次兄のことも好きではない。自分と似ているから。

 そう、彼女はこの世で一番自分が嫌いだったのだ。出来損ないの自分が――

 ガタン、何か石でも踏んだのか、突如馬車が大きく揺れた。

「あっ」

 ルトガルドは手に持っていた石を衝撃でこぼしてしまう。こぼれた先は、外。

「まって」

 この地区はアルカスの中で高低差がある通りで、ペンダントはからんころんと下へ落ちていく。ルトガルドの知らない世界へ、暗き深淵へと飲み込まれて――

「止めてください!」

 あれは母の形見であった。なくすわけにはいかない。あれだけが、唯一の色なのだ。

「お嬢様?」

 御者が馬車を止めた瞬間、ルトガルドは外の世界に駆け出した。いつもの陰鬱な灰色はどんどんと暗闇に飲み込まれていく。それでも彼女は思い出を手放せなかった。同じようなペンダントならそれこそ山のようにもらえるだろう。父は宝石王なのだから。でも、それは同じじゃない。

 ゆえに少女は駆け出す。己が知らぬ、未知なる世界へと。見知った世界からはみ出て、見知らぬ世界へと。少女は知らなかった。この世界には自分の思う灰色等及びもつかぬ場所があることを。其処に生きる人がいることを。


     ○


「ん? あっちで何かきらっとしたものが見えたような」

「気のせいだろ。つーかファヴェーラも来ないし解散しようぜ」

「……僕とは遊べないって言うのかよ」

「いやー、やることないだろ。腹も減ったし、りんごもファヴェーラ抜きじゃリスクがたけえ。あの親父だいぶ警戒してやがるしな」

「ふんだ! じゃあいいよ。僕はさっきのキラキラ探してくるから!」

「あんまり遅くなるなよー。アルレットさんが心配するからな」

「僕はねえさんの騎士だぞ。心配なんてさせるもんか」

「……またそれか。やせっぽっちのちびが騎士ねえ」

「むきー! いつかカイルなんてぶち抜いて見下ろしてやるからな!」

「やってみろよアル。ま、その日は来ないけどな」

 遠ざかる友の背を心配そうに眺めるカイル。アルと呼ばれた少年はよくわからないものを探しに行った。暇なので追いかけても良いが、こういう時凝り性なアルはなかなか折れてくれないので付き合う方も大変なのだ。

 カイルはぽくぽくと損得を勘定し――

「もう少しここで昼寝するか。ファヴェーラも来る可能性あるし」

 その場でごろんと眠りについた。

 暖かな陽光、穏やかな日常。鞭に打たれた箇所が痛むも生きていれば上々である。そんな日常の一ページ。ほんのちょっと非日常と交差する、そんなお話である。

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