愚者の鎮魂歌:冬の到来

 冬に入り、ルトガルドの体調は目に見えて悪化していた。原因不明の病、医者も匙を投げるしかなかった。まさか、医者とて想像すら出来なかっただろう。病床の妻を誰よりも案じ、仕事を早く切り上げてでも妻のそばにいる男が毒を盛っているなどと。その殺意を知り、笑顔で毒を身に宿す女が存在することなど。

 常人の理解が及ぶところではない。

 緩やかに、しかし確実に死期は迫ってきていた。

「ごぶ、げぼっ」

 吐血をぬぐう顔は青白く生気を感じさせない。体調の悪化により長い睡眠をとれず、くっきりと刻まれた隈は睡眠が足りていない証左。痩せて骨ばった手足はまともな歩行も困難な状態にまで衰えた。

 衰弱はさらなる病を呼び、ルトガルドは幾度も生死の境をさまよう。

「無事か?」

 しかし――

「ええ、大丈夫ですよ。まだ、死にません」

 その眼だけは爛々と生命の光を宿していた。強烈な輝きを、まだ、まだ、生き延びてやるという強い意志。どれだけ衰弱しても、どれだけ病が深刻化しても、眼が、心が折れない。生きて、共にある。

「そうか。なら、俺は隣にいよう。お前が生きている限り」

「ふふ、そうしたらもっと長生きしそうです」

 隣で看病しながら読書にいそしむウィリアム。時折せき込みながら、それでも幸せそうに微笑むルトガルド。あと何度、この静寂を感じられるだろうか。穏やかで、緩やかな、あの頃と同じこの静寂を――


     ○


 ちょこちょこと我が家のようにテイラー家を歩くのはマリアンネ・フォン・ベルンバッハであった。彼女は見舞いに赴いた後、アルフレッドとひとしきり遊び寝かしつけ、また散歩に興じていた。貴族の屋敷としてはそれほど広くないが、こじんまりとした中庭は彼女のお気に入りである。

 そんなこんなな道中、マリアンネの視界に一人の影が――

「あー、ベアちゃんだ」

 マリアンネが声をかけたのはベアトリクス・フォン・オスヴァルトであった。ベアトリクスは「ベアちゃんと呼ぶな」と返すもマリアンネが変わることなどとうに諦めているので、あくまでいつものやり取りでしかない。

「ベアちゃんもお見舞い?」

「ああ、へなちょこの姉上だからな。私が見ておいてやらんと」

「へなちょこ……クロードのこと?」

「全然違う。あとあの阿呆の名を私の前で出すな」

「まだ怒ってんだ? ふっふーん、入れ込んでるねえベアちゃんったら」

「あんな男に興味はない。忠義も知らず、恩義も忘れ、この国から出ていこうとしている裏切り者など……少しは見込みがあると思っていたが気のせいだった」

 ベアトリクスは戦争の後、クロードの無事を知って周囲が驚くほど喜んでいたが、クロードが目覚めてこの先の進む道を述べると激怒し、それ以降会ってすらいない。

「まー忠義はないよね。外人さんだし。でもさー、恩義は痛いほど感じていると思うよ。この前も姉ちゃんのお墓に来てたし、ヒルダ先生やイグナーツ先生のとこにも挨拶来てたよ。ここにもしょっちゅう来てるしさ」

「ならばこのままこの国にいればいい。出ていく必要などない」

「そんなん私もわかんないよ。戦士じゃないもん」

 二人の間に沈黙の帳が下りた。二人は仲が悪いわけではない。学校でも違うなりに上手くやっていた。だが、いつからだろう。今みたいに微妙な距離感が生まれてしまったのは。

「ルトガルドさんが大変な時期なのだ。せめて一冬、今である必要があるのか?」

「だからわかんないって」

「メアリーも珍しく怒っていたぞ。彼女が人をぶったのは初めて見た」

「わーお、そりゃあ珍し。ま、でもさ、男の子なんて女の私たちにゃわかんないよ。男が私たちをわかんないのと一緒でさ。そーいうの全部ひっくるめて、行くんでしょ、たぶん。あいつは馬鹿で阿呆で貧乏で、でも、薄情じゃない。むしろ、逆だもん」

 マリアンネは「にしし」と笑う。全部見通しているかのような眼。この眼をした彼女をベアトリクスは少し苦手としていた。凄く遠くを見ているような、ずっと近くを見ているような、そんな眼を彼女は持っている。あの学校の中で、ベアトリクスが知る年齢層の中で、彼女が一番賢い。それなのに彼女はその才を使おうともしないのだ。

「噂をすれば影。にいちゃんと一緒にいるの、あれクロードでしょ」

「むっ?」

 さっと物陰に身をひそめるベアトリクス。面白そうと思ったのかマリアンネも追従する。

「槍を持ってるってことは、稽古かな?」

「そもそもあいつが槍を使っていること自体気に食わん。剣の方が筋が良かったのに、何故槍などにうつつをぬかす。剣であれば私がいくらでも教えてやれたというのに」

「……だからだと思うよ」

「何か言ったか?」

「べっつにー。ほら、始まるよ。一手、二手、あ、もう負けた」

「病み上がりを差し引いてもひどいレベル差だ。まあ、この国で一番の槍使いを相手にすればこんなものだろう。あの程度で外に出ようなどと考えるのが間違っている。へなちょこの分際で」

「その一番にとっちゃ、槍って所詮サブなんだよねえ。だから、かな?」

 二人の視線の先で、またクロードは転ばされていた。


     ○


 クロードは本日何度目か数えるのも億劫になるほど転ばされていた。槍を使っても己が憧れは強い。剣、槍問わず的確に泣き所をついてくる技はおそるべき精度であった。勝てる気がしない。やればやるほどに痛感する恐ろしいまでの開き。

 やはり強い。それなのに――

「少し休むか。そこの噴水で顔でも洗って来い」

「うす」

 心が、

「俺は、強くなれるんでしょうか」

 震えない。隻腕の槍使い、巨躯の槍使い、どちらからも感じたあの震えがなかった。強さとしては槍を使うウィリアムとそれほど変わらない。剣を使えばウィリアムの方がかなり上だろう。

「そのためにネーデルクスへ行くんだろう?」

「そうなんですけど、いや、そもそもこの状況で俺は行くべきなのか、って。ネーデルクスとはひと段落ついても、一気に広がった領 土を統治するために、先輩たちもラファエルも、ベアトリクスも苦労すると思うんす。そこで俺に何ができるかわからないけど、こんな状態で俺だけいなくなるのは、よくないんじゃないかって」

「くだらんことを気にするんだな。馬鹿のくせに」

「え、いや、馬鹿って結構ひどくないすか」

「まともに算術も出来ない。文章は読めるだけで書けば文法ぐっちゃぐちゃ。ここからのアルカディアに今のお前がいたところでくその役にも立たん」

「……ひどすぎないすか」

「お前の選択は正しいよ。お前の仕事は強くなることだ。それこそがお前に出来る最大の貢献で、お前にとってもアルカディアにとっても最善の道だと思っている」

 クロードは目を丸くした。

「お前が感じている通り、アルカディアという国に槍を教えるメソッドはない。極めようとしても積み重ねが皆無だ。剣のアルカディア、槍のネーデルクス、国力に差はあれど隣国の意地かその対比はずっとあった。遥か昔からな」

 ウィリアムは軽く槍を旋回させた。そのなめらかな動きは一朝一夕の物ではない。

「俺の槍は『疾風』のリュテスをベースに磨き上げた。それなりには仕上げたつもりだが所詮にわか仕込み。俺が槍を使った強さは剣の延長戦でしかないんだ。剣で培った経験と力を槍に乗せているだけ。槍の技術自体は薄っぺらいと思っている」

 これだけの強さを持ちながら、自分の槍は大したことないと言う。普段なら嫌味にも聞こえたが、ウィリアムの真面目な眼が冗談ではないことを示していた。

「リュテスやテオ、ローエングリン。各国に槍の天才はいたが、彼らは天才で独自の進化を遂げた者たちだった。真似することは出来ない、とまでは言わんが難しい。何よりも真似したところで他者が強くなれるとは限らん。これに関しては俺の槍も同じだ。自分用に特化させ過ぎている。自分さえわかればいい。それでは後に続かない。過程をすっ飛ばして、本当に大事な基礎が定まっていないのだ」

 そう、クロードの感性も同じことを思っていた。ウィリアムの槍は強い。しかし、真似をしても強くなれる気がしなかった。剣と同 様に、相手の弱みを見出し正確に其処をつける見切りがあって初めて強さを持つ槍。自分にはそれを見切る眼がまだ備わっていない。自らも死地の中で見切り正確に射抜ける恐怖心の制御も出来ない。

「基礎は莫大な試行回数により生まれる。槍に関して、ネーデルクスほど試行回数の多い国はない。多くの者が研鑽し、競い合い、高め合う。それを繋げて繰り返し、積み上げた厚みこそがネーデルクスの槍だ。それはアルカディアでは学べない」

 クロードの心から迷いが消えていく。

「強くなって来い。俺たち異人が評価されるためには同じじゃダメだ。行くからにはトップを目指せ。ベアトリクスにもラファエルにも負けるな。俺をも超える気持ちで学んで来い。お前は戦士だ。戦士としてモノになると思って俺の義息子とした。それを恩義と感じるなら強くなれ。それが一番の恩返しだ」

 最後に背中を押したのは義父であるウィリアムであった。これだけ期待されている。目をかけてもらっている。その上、こんなわがままを正しいとして送り出してくれるというのだ。もはや迷いなどあるはずがない。

「強くなってきます。誰よりも」

「期待しているぞ」

 クロードの覚悟は決まった。前に進むべき時が来たのだ。


     ○


「まだ冬も入り口だし、雪も降ってないし、たぶん、明日にでも出るんじゃない?」

 マリアンネは暗に「会わなくていいの?」と声をかけた。ベアトリクスはマリアンネに視線を合わせずに下を向いていた。

「知ったことか。あんな奴いなくなって清々する」

 その頑なな姿勢は色々と察するには充分で、マリアンネはため息をついた。どうして皆素直になれないのだろうか。想いを真っ直ぐに伝えて、思った通りに行動できないのか。出来なくて後悔するのはわかり切っているというのに――


     ○


「よっす」

「……意外だな。お前が来るとは思ってなかった」

 翌日、まだ日も昇り切らぬうちに城門前で二人は邂逅した。

「まー、誰も見送り来ないだろうからねー。かわいそうだし」

「うるせー。あんがとな、マリアンネ」

 クロードとマリアンネ。学校時代には何度も衝突してきた間柄である。仲が良かったと言えば首を傾げるが、互いに触れ合った回数は同期でも多い方であろう。

「ま、頑張りなよ。にいちゃん結構本気で期待してると思うよ。私はさ、戦いのことはわかんないけど、でも、自分を超えて欲しいってのは本音、のはず」

「……白騎士博士のお前が言うなら間違いねーな。いっちょ、気張ってみますか!」

「無理だと思うけどねー」

「どっちだよ。ま、そっちも頑張れよ。主役になったら見に行ってやるよ」

「年功序列の壁は厚いぜ。んー、ま、マリアンネちゃんも頑張っちゃおうかな」

「んじゃ、行くわ」

「ほーい、行ってらっしゃい」

 クロードはマリアンネに背を向ける。クロードの性格からして振り返ることはないだろう。マリアンネも呼び止めるつもりはない。迷いなく我が道を往く背中は、どことなく少女の愛する白き騎士に似ていた。

 その陰で腕組みするもう一人の少女。小さく息を吐く。

 三つの白い息が空に舞う。季節は冬、もうすぐアルカスにも雪が降る。

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