神の子と叛逆者:神亡き世界
地上に堕ちて初めて分かることがある。狂奔する世界、自分はいつだってそれを見下ろす側であった。餓え、渇きにもがく人を嗤い、盗みや凌辱、殺人を滑稽な劇のように見ていた。悲劇も喜劇も変わらない。いつだって自分は見ているだけ。
「ふ、あはは、あっはっはっはっはっは」
ルドルフは笑った。今の自分は彼らと一緒。おびえ逃げ惑う有象無象である。
そこに何の違いがあるのか。今の自分を見て神の子などとのたまう者などどこにいるというのか。ルドルフは心の底から笑った。
『天よ、我が子に祝福を』
「うるせーよ。今いい気分なんだ。邪魔すんな」
意識することでようやく認識に至ったそれ。ヘルマと呼ばれる魔術をルドルフは哀れに見ていた。きっと、この魔術は昔の人のやさしさ、慈しみ、思いやりから生まれたのだろう。これから先、人が魔術という力を喪失してもやっていけるように、そういった願いからこの魔術は完成した。ただ、それは今と成っては大きなお世話で、過保護が過ぎたのだ。
「もう十分もらった。だから、消えていいよ」
ルドルフはヘルマを優しく撫でた。一瞬、悲しげな表情を見せるそれは空気中に霧散していく。力は限界を迎えていたのだ。無駄に幼少期から使い続けてきた天運によって、ヘルマという魔術は終焉を迎えた。
『貴方によき人生があらんことを』
いかづちが鳴る。ルドルフの頬を裂き、目の前の兵が倒れ込んだ。最後の最後でヘルマはまた自らを守ったのだ。その貌はとても美しく、どこか母の面影を残していた。
「ありがとちゃん。これで僕は揺り籠から出たわけか」
ルドルフは天に手をかざした。その何と遠きことか。いつだって手を伸ばせば全てが其処にあった。しかし、今は――
「退けよッ!」
ゴスン、名も知らぬ兵の拳がルドルフの顔を吹き飛ばした。ゴロゴロと転がるルドルフ。踏み荒らされた土が泥のようにまとわりついてくる。逃げる兵士の足に腹を撃ち抜かれた。またも痛みで転げまわる。
「ぐ、がはっ。あ、はは。いってーなおい」
口の中に広がる血の味。鼻孔に飛び込んでくる土の香り。ここは地獄だが、どこか心地よい気分であった。今までは天にて一人きり、孤独であったがここにはたくさんの人がいる。自分の味方とは限らないが、同じ視点を共有する者たちがいた。
「とりあえず生きてみようか。運のない僕が生き延びられるか、試してやる」
ルドルフの瞳に初めて光が芽生えた。それは生き抜いてやると言う生命力であり、新たな人生に対する希望を胸に。きっとこの先、死が待っていようともそれは自らが招いたことで、天が決めたことでないのなら誇りをもって逝ける。
「さあ、冒険だ」
天から産み落とされた神の子が、今、地を歩き始めた。
○
マクシミリアーノと黒装束の攻防は人混みに紛れながら密かに続いていた。本来、こういう戦いは己たちの領域であると黒き男は思っていた。相手はきっとそれほどこの状況を得手としていない。にも拘わらず自分と互角なのは――
「白龍やあの人以外でも俺より強い奴がいるんだな」
黒星と名乗る暗殺者はこの出会いに感謝する。自分は白龍ほど割り切れない。強くなりたいし、そのために遥か東方よりこの地に至ったのだ。
「毒は使わないのですか、暗殺者」
背後を取られた。声のする方向を察知し黒星は苦い笑みを浮かべる。
「あれに頼ると技が鈍るんでね」
背後から飛来する矢を、背中越しに弾いた鉄の玉が粉砕した。咄嗟のタイミング、針では威力を殺しきれぬと雷火筒の玉を用いて対処してのけたのだ。応用力はさすがの一言。しかし、それは魔法の種を一つさらすことにも繋がった。
「ほう、先ほどから幾人か、今貴方がした動作と同じことをして、魔術を放っていましたね。この鉄の玉を取り出し、筒に込める。さしづめいかづちの元、ですか」
あれがただの鉄の玉だとバレたら、筒に仕掛けがあるとバレてしまう。それでも回答には程遠いが、回答への距離は遠ければ遠いほど好ましい。まだ、己が主はこれを世に出す気がないのだから。
歴史の闇に葬るために、黒星がすべきことは一つ。
「殺気、こぼれていますよ。この玉を持ち出されると都合が悪いらしい」
「あんたとやり合うのは楽しいけど……仕事は果たさなきゃ、なッ!」
黒星が放った針には水滴が付着していた。それを毒と見てマクシミリアーノは大げさに回避行動をとる。かすりでもしたら致命傷、その可能性は与えない。
「だから、毒は使わないって言ったろ?」
黒星の狙いは――
「なるほど。後ろですか!」
背後の黒装束、自分の先輩にあたる男がマクシミリアーノが回避した針を受け取り、接近して脳を目掛けた一撃を見舞う。回避行動は間に合わない。
必殺の間合いであった。
「遥か昔、弓騎士に接近戦で後れを取った」
マクシミリアーノは左手で敵が針を持つ手を防ぎ、右手には矢を握りしめていた。
「弓だけの私はとうに死んでいるッ!」
それを敵のこめかみに叩き込み吹き飛ばした。かなりの腕を持った暗殺者、それも接近戦主体の男があっさりと葬られる。その動きは幾度となく修練を重ねた者のそれ。卓越した動きに驚愕する黒星であったが、まだ攻撃は途切れていない。
「そのおかげで、私の弓もまた飛躍した」
遠くから飛来する矢。誰が撃ったかは黒星にもわからない。しかし、それは黒星の知覚外から放たれたもので、針と暗殺者で意識をそらした以上、知覚することも難しいはず。
「遠間は、私の領域ですよ」
あっさりと、マクシミリアーノは持ち前の連射速度でその矢を撃墜。さらにもう一発、お返しとばかりに矢を放った。
威力は、飛来した矢を遥かに上回るもので――
「まだまだ未熟。研鑽しなさい若者よ」
まさに怪物。マクシミリアーノという怪物の大きさを黒星は痛感する。ここまでの状況は自分に圧倒的優位だったのだ。おそらくマクシミリアーノは乱戦を得手としていないどころか、苦手としているのだろう。本来拮抗するわけがない戦力差。
「少し、カンペアドールに対する理解が遅れているようで」
「……その筆頭があっさりと斬られていたからね。それほどでもないと思ってたのさ」
黒星は先ほどちらりと見た光景を思い出す。あっさりと断たれた威勢ばかりの男。共有していた情報、警戒すべき相手であるとあったが、相手が悪過ぎた。
「筆頭、ディノですか? この戦場で彼に勝るのは剣聖と白騎士くらいのもの」
「ご明察、剣聖が討ち取ったよ。ただの一撃でね」
騎馬でのすれ違い、刹那の邂逅を征したのは二代目剣聖。
「……首までしっかりと刎ねましたか?」
それを聞いてなお、マクシミリアーノは微笑む。
「いや、でもかなりの深手で、俺から見ても致命傷――」
「なるほど、やはり、理解が遅れている。彼を止めたいのなら、首を刎ねなければ」
その男の笑みに、黒星は嫌な予感がよぎった。
○
人ごみに紛れて矢を放ったラファエルは会心の手ごたえに微笑む。まさかその矢が防がれ、返しの矢が飛翔してくるとも思わずに――
「ラファエル様ッ!」
その矢は、胸に突き立つ。
「あ、がっ」
ラファエルは己が敗因を理解せず、崩れ落ちた。
○
ウィリアムとラインベルカは互角の攻防を繰り広げていた。しかし、互角と言っても消耗の度合いは比較にもならない。縦横無尽に動き回りがむしゃらな攻撃を続けるラインベルカと、それを最小限の動作で捌くウィリアムでは体力消費に大きな差があったのだ。
「よく動く。消耗を容易く見せぬやせ我慢も悪くない。だが――」
ウィリアムが此処にきて攻めの姿勢を見せた。
「確実に消耗はある。そして、俺はもう少しだけ『先』があった。俺の勝ちだ」
素早く、正確に、最短最速最善をトレースする白騎士の剣。相手の強みをかき消す闇の剣、それが攻撃に回った場合、相手は本来の強さ以上にその剣を感じてしまう。攻め手であっても相手の好きにさせない。自分の狙い通りに受けさせる。
「頭、取るぞッ!」
王手。ウィリアムの剣がラインベルカの兜を捉える。
「ギガッ!?」
超反応で回避、し切れず兜に縦一文字の亀裂が走った。
「これで魔法は解けた。貴様の、負け――」
「ギ、グゥ、ウルさいッ!」
今度はラインベルカがウィリアムの想定を超える。狂気から解放されて、ヘルマの残滓、凶戦士の残り火も消えた。これでラインベルカは普通の三貴士と同等の存在となる。ウィリアムが後れを取る相手ではなくなった、はずであった。
「私は守るッ! どれだけあの子が孤独であったか、どれほどの苦難を、重荷を背負わされてきたか、誰がわかるというのですか! わかるはずがない! 私だけが、同じ存在として、彼を守るための刃として生み出された私だけしか」
「こいつッ!?」
明らかに、狂っている最中よりも、強い。
血色の雰囲気が迸る。
「守ります! 世界が敵になっても、神が守らずとも、私がルドルフを守るッ!」
死神として在った頃の人外じみた身体能力とラインベルカが人として築き上げてきた力が組み合わさる。ウィリアムはそれを死力を尽くし捌くも闇の剣が悲鳴を上げていた。つまり、『今』のラインベルカはあの男の領域に近いところにいる。
「ハッ! 守りてえなら、表に出てくんじゃねえぞ女ァ!」
ウィリアムは苛立ちを覚えていた。これだけ人の躯の上に立ちながら、彼女の眼にはただ一人しか映っていない。そんな傲慢が、そのようなふざけた話が、許されて良いのだろうか。曲がりなりにも一国を背負う者が、勝手なことを述べても良いのだろうか。
「許せねえな。どちらかにしとけ。国か愛か、二つ両立させるほど、世界は甘くねえよ」
自らが手放した道を選ばんとする傲慢。
「ならば、私はルドルフを選ぶ」
迷わず、ラインベルカは言い放った。その思いっきりに、極限での戦闘中であるジャンは微笑んだ。ようやく、捻くれ者の二人の内一人が素直になった。国家としては損失だが、人としてその真っ直ぐさは眩しく、好ましい。
「……く、くく、何故選べる? この世界を見ろッ! お前たちが、俺達が産んだ景色を見ろ! どの口でそれが言える!? この地獄を見て貴様は何も感じないのか!?」
「感じない。私の心は、ルドルフと共にある。他が死のうと、生きようと、私の心は震えない。あの人が笑えば、私は嬉しい。泣けば、悲しい。それだけです」
ウィリアムは呆然となる。自分の心、虚無に一陣の風が吹く。迷いなきラインベルカの瞳。自分にも、あの道はあったはずなのに。なぜ自分は、自分だけがこの道を選ばねばならなかったのか。彼女のように胸を張って、自分は彼女と、友と、生きると、そんな道も、あったのだと彼女の瞳は告げる。
「……俺は――」
一瞬、ウィリアムは自分の仮面が剥がれかけるのを感じた。必死に取り繕ってきた王の仮面。今更外すことなど出来やしないのに、こぼれそうになるそれを、止めるのに精一杯で、胸が、あの日々を思い出し締め付けられ――
「良い女だなオイ! 将としちゃあ最悪だがよッ!」
その一瞬に男が現れた。血を撒き散らし、笑いながらその男は猛進してくる。普段なら容易く察知し対応出来たはずのタイミング。しかし、この瞬間だけウィリアムは見逃してしまっていた。それでも、普通の攻撃であれば何とかなったのだが。
「俺ァ嫌いじゃねえぜ! オッラァ!」
巨大な、何とも形容しがたい巨大な石斧が迫る。人間が扱う重量ではない。振るうだけで常人を超えたそれを容易く使ってのける男こそ、
「ディノ・シド・カンペアドールッ!」
エスタード最強の男、『激烈』のディノ。単純な膂力だけならばヴォルフすら上回る生粋の怪物。この七年でさらに力に磨きをかけ、その部分においては誰も届かぬ頂に達した男の一撃は、城塞の門扉すら破壊する一人破城槌であった。
「ば、かな」
受け流すことも受け止めきることも出来ず、ウィリアムは力の逃げ場である後方へ飛んだ。唯一の正解である。多少吹き飛び後退することは想定済み。しかし、こうして空を舞うことになるとは思ってもいなかった。
「よーし、ぶっとんだァ!」
ディノは会心の一撃に満足げに笑う。
アルカディア、ネーデルクス、この場に残る皆が絶句する光景。
「さっさと行けよ。ここは戦士のいる場所だ。テメエは違うんだろ?」
「……恩に着ます」
ラインベルカは迷いなく逃げる道を選んだ。誰もそれを止めることは出来ない。皆思うところがあれど、止められぬという思いで一致していたのだ。彼女は誰よりも早く三貴士を辞した。きっと、そういうことなんだろうと、ネーデルクスの者たちは理解していたのだ。それでも頼った。この状況になるまで、頼るしかなかった。
「充分働いたさ。ご苦労様。あとは、俺たちの戦だ」
ジャンの槍はこれまでで一番輝いていた。アメリアの未熟を補ってなお、その絶技は天才と呼ぶにふさわしいもの。ずっと歯に引っ掛かりを覚えていた。本当は望んでいない、彼らに重荷を背負わし続ける己たちを。
「さあ来いやァ! 今の俺は、強いぞ」
ジャンの咆哮。きっとこの戦は負ける。だが、その負けは納得のいくものになるだろう。
「剣聖がなんぼのもんだ! 俺はジャン・ジャック・ラ・ブルダリアス! ネーデルクス最強の槍使い。槍が、剣に負けるかよ!」
憎くて仕方ない敵。しかし、何故だろうか、ギルベルトの顔に笑みが深まる。今までで一番の手ごたえ。やりたかった闘争が此処に在る。存分に己が絶技をぶつける相手がいる。その幸福を噛み締める。
戦場はここ一番の盛り上がりを見せていた。ただ一人を除いて――
「人の幸せってのは、なかなか祝福できねえもんだな」
白騎士、ウィリアム・フォン・リウィウス。誰も吹き飛んだあとの彼を見ている者はいなかった。誰もが思ったのだ。あの高さまで飛ばされて戦線復帰など常人には不可能だと。しかして、この男もまた怪物。
「一度は人の上に立ったんだ。逃がすかよ!」
怪物は歪んだ笑みを浮かべて矢を放った。かの騎士もまた弓の達人。人ごみに紛れたはずのラインベルカの居場所を感覚が探知し、そこを射る。
「なっ!? 白騎士テメエ!」
見えていないが、手ごたえはあった。
「くっく、いい感じに場が煮詰まってきたじゃねえか」
吐血するウィリアム。されどその眼はギラギラと危険な輝きを放っていた。
「やはり俺は貴様を好きになれん」
「カール殺されてんだぞ。へらへら笑ってんじゃねえよ。さっさとガキとオカマくらいぶっ殺せ。テメエにゃそれしか出来ねえんだろうが。なあ、剣聖さんよ」
「仮面の下にはさぞ醜い貌が刻まれているのだろうな。……言われずともわかっている」
「さっさとこの不快な茶番を終わらせるぞ」
ウィリアムはさらに矢をつがえた。警戒する周囲をよそに、強く、強く、全力で弓を引く。狙いがわからない。何を考えているのか、何もわからずに不気味さが漂う。
「不愉快極まりない。半端者どもが俺の前に立つな」
矢が放たれた。皆の想像を超えた速度で、大きな弧を描き――
「全員に告げるッ! どんな手を使ってもいい。全力でネーデルクス軍を追い立てろッ! 三貴士、青貴子を討った者には昇進はもちろん爵位もくれてやる。成り上がるチャンスだ。人生に勝ちたきゃものにしてみせろッ!」
ウィリアムは弓を投げ捨て剣を握った。それを振りかざし、号令を放つ。
「ぶっ殺せ!」
欲望に鞭打つ愚者の群れ。王は彼らに狼の皮を着せる。自分たちを肉食獣だと、捕食者だと思った彼らは狂ったように攻め立てるだろう。
いかづちが鳴った。大小問わず、王の苛立ちを代弁するかのように――
○
黒星の前に立っていた怪物。マクシミリアーノ・カンペアドールは己が知覚範囲の外から矢で打ち抜かれ倒れ伏す。信じられない面持ちで、背後から心臓を貫き目の前に飛び出た矢じりを撫でた。
「……白騎士か。見事です」
自分が、近接戦でとうとう『構え』を取らされた。暗殺者としてある内は使うまいとモノを出しかけた。そうせねば勝てる気がしなかった怪物は、さらなる怪物に喰われたのだ。ただの片手間で――
「ばけもんばっかだ。ローレンシアってのは」
黒星は改めて知る。己が主の怪物性を。その強さの広きを知る。
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