幕間:世界が壊れた日

 その日は突き抜けるような蒼空が天に広がっていた。ふと見上げればそこに空がある。ふと手を伸ばせば天泳ぐ雲すら掴めそうな、そんな日であった。

「おとーさん! 広場がすごいことになってるよ!」

 こんな日に相応しい快活な笑みを浮かべる少女。褐色の肌は異国の匂いを漂わせる。整った顔立ちは将来を期待するに十分な器量が備わっていた。

「お父さんは疲れているんだ。最近腰も痛くてなあ」

 少女が父と呼ぶ男はごろりと巨体を転がす。一目で常人ではないと理解してしまう体躯に、気だるげな表情の組み合わせは腹の満たされた熊のようである。

「……剣闘士だった時の稼ぎで暮らすごくつぶしめぇ」

「お前が大きくなるまでの蓄えはあるから良いんだよ」

「お母さんが泣いてるよ。朝から晩までごろごろしてばかりで」

「それを言われると辛いなあ。よーし、お父さんも始動するとしよう」

 男は「よっこらっしょ」と巨躯を弾ませて立ち上がった。見た目より身軽な動きで、思ったほど振動もしない軽い着地を見せた男は首をぽきぽきと鳴らす。うんと背伸びをして、天井に手をぶつけてしまうのはご愛敬、いつものことであった。

「それで、広場で何があったんだ?」

「えーと、よくわかんない」

「……わかんないかー。じゃあ行ってみるしかないなぁ」

「うん! お父さん、お母さんに行ってきますだよ!」

「ああ、わかっているよミラ。じゃあ行ってくる、ファヴェーラ」

 男は少女を肩車して家を出る。扉を閉める間際に見たものは、今は亡き妻の絵画。この質素な家で唯一の飾り気であり、残された家族二人にとって大事な思い出である。

 元剣闘士、解放奴隷のカイルは男親一人で愛娘を育てていた。


     ○


 アルカスの広場は想像以上に混沌としていた。歓声や疑問の声、喜色と疑惑の色が入り乱れるこの場で、親子はぽつりと立ち尽くす。明らかに尋常ならざる雰囲気であるが、肝心の理由がさっぱりわからない。

「すごいでしょ」

「すごいな。すご過ぎてもう帰りたい」

 最近では人混みすら避ける真の駄目親父になっていたカイル。案の定、娘のミラからブーイングがこぼれる。とはいえここの空気感は大事な娘を置いておきたいものではなかった。プラスの感情三割、中庸二割、残りはマイナス方向へ振れている。

 あまり良い雰囲気ではない。それに雰囲気の偏りもどこかおかしい。

(喜んでいるのは貧民層……いや、奴隷か? 特に若い奴の喜びようは凄い。難色を示しているのは市民、特に富裕層は微妙な面をしている。かと思えば悪くない顔をした身なりの良い奴もいるわけで、単純な話じゃない。賛否両論、というには少しばかり否が強いか?)

 カイルは顔をしかめて様子をうかがう。大事なのは間違いないが、同時に面倒ごとでもあるようで、様々な人々が様々な顔を見せている。

「お、旦那がたいがいいねえ。身なりから察するに奴隷かい?」

「……一応身分は買った。今は解放奴隷だ」

 唐突に声を掛けられただでさえしかめっ面だった顔がさらに歪んだ。ミラは「ほらきちんとしないから」と的確な指摘を入れる。今のカイルよりよほどしっかりしていた。

「おお、すまないね。おいらも解放奴隷さ。いやー凄いことになりましたぜ」

 男が解放奴隷であることにカイルは少しばかりの驚きを覚えた。男の身なりはきっちりしており服など上等な生地を使っていることが見て取れる。解放奴隷といったところで奴隷上がりにそこまでの服が着れるだろうか。着れたとしてもここまで着こなせるものなのだろうか。男はにこにこと笑顔を振りまいている。そこに奴隷特有の暗さはない。

「何があったんだ?」

 カイルの問いに男はにやりと微笑む。

「旦那に声をかけた理由にもなるんですがね。なんと、な、な、な、なんと、この国の法律が変わったんでさ」

「……そこまで珍しいことか? よくあることだろう」

「馬鹿言っちゃいけねえ。今日のは前代未聞、あのアルカディアがとうとう奴隷身分について権利の緩和を図ったってんだから驚愕も驚愕」

 カイルは目を丸くした。確かにそれは前代未聞のこと。アルカディアとネーデルクス、この二国はローレンシア全体で見ても相当奴隷に対し権利を絞っていた。ガリアスなどが生産力向上のため緩和したいと思っても出来なかったのは、この二国が王会議などで反対を続けていたからである。

 アルカディアやネーデルクスに緩和の動きはない。あるとしたらガリアスが強行に緩和し他国が追従する形だろう。しかし、ガリアスにとってもこれ以上の緩和をして現状のバランスを崩したくない狙いがあり、今の状態で膠着していたのが世界情勢。

 そこにアルカディアが、

「奴隷身分の戦争解禁。同時に解放奴隷も戦争参加の権利を得やす」

 一石を投じる。

「馬鹿な。それじゃあ解放奴隷と市民の区別が」

「政の参加くらいになるって話でさ」

 とはいえ一般的な市民が政治に参加することはない。豪商や大地主が影響力を持つことはあっても、普通の市民にそういったものがない以上、実質敵に市民と解放奴隷の差がなくなったに等しい。

「当然他国も追従するでしょうが……とはいえガリアスはすでに防衛には奴隷を用いてますし、ヴァルホールやアークランドはその辺をうやむやにして使ってたって話もちらほら。本当の意味で封じていたのはアルカディアとエスタード、そして……ネーデルクス」

 男の笑みは悪魔的な色を含んでいた。どことなくあの男に似ているそれはカイルをざわめかせる。

「法案を通したのは我らが英雄白騎士。我が主、ウィリアム・フォン・リウィウス」

 男の言葉に、その所作に、顔に、眼に、うっすらと宿る――

「その法案を通したのが白騎士で、お前がその配下だと?」

「左様で。まあ、テイラー商会の小間使い、末端も末端ですし、あの御方に名前を憶えて頂いてはないでしょうが。それはおいおいとしてこのエルマー、いずれは世界に羽ばたく大商人として名を上げますぜぇ!」

 エルマーと名乗る男の意気込みは置いといて、カイルは思考を張り巡らせる。久方ぶりに起動した頭は、容易にあの男の本当の想いに到達する。最後に会ったのはファヴェーラが死ぬ前だったか。奇病を患い一縷の望みをかけて北方へ赴いた時の、あの悔しげな、無力感に満ち溢れた表情をカイルは忘れない。

 また重荷を背負わせてしまった。そういう後悔があった。

「これで戦争の規模は、桁がひとつ上がりかねないって話でさ。武器も売れる。食い物も売れる。人も売れるってすげー時代の到来で――」

 だが――

(お前は一つの世界を破壊したんだな。奴隷の世界を、平等には程遠い、理想にはなお遠い。それでもお前は壊して見せた。壊して創った)

 親友は全てを背負って今もなお生きている。奴隷に生まれ、存在を捨て、奪い、そこからスタートした『ウィリアム』という男の物語。苦難ばかりがそこにあっただろう。幾度も壁にぶち当たり、その度に苦悩したはずである。

(世界にとって、とても大きな出来事なんだろうな。でも、お前はきっと心の中で、心の片隅でこう思っている。これで、この国で、『ウィリアム・リウィウス』が生まれることはない。アルはアルのままで、上を目指せるのだと、上を目指していいのだと。世界からすればちっぽけな執念だが、お前には重いさ。きっと、お前の一番最初の後悔だろうから)

 カイルは、泣き出しそうになる己をぐっと堪えた。もし、『ウィリアム』の前に同じ存在が現れていたら。もし、あの時点で解放奴隷でも上を目指していいのだと、今のような制度であったなら、アルはどうなっていただろうか。そう思うと涙が止められない。

「――で、モノが売れるって、うお、どうしたんでさ!?」

「おとーさん!?」

 そこにはノルマン夫妻がいて本屋に勤める傍ら、アルとカイルは肩を組み戦場で功を競い合う。ファヴェーラはそれを羨ましそうに見送り、三人は誰かに隠すことなく酒場で土産話に花を咲かせる。そしていつか、憎悪は薄れ、その時にアルはアルのまま、あの子に出会う。幸せが満ち、取り返しのつかない業を背負うこともなく、アルは――

「いや、何でもない。年かな、最近涙もろい」

「ははあ、やっぱ旦那も戦場に行くんですかい? 旦那ほどの体格なら相当稼げますぜ」

「ああ、それも悪くないな」

 カイルの言葉にミラは驚きの目を向けた。

「この子が大きくなって俺の手を離れたら、そういう道もあるか」

 カイルは我が子を手に抱いた。このぬくもりを守るのが己の第一。ここがブレることはない。だが、もしその先があるのならば、そのために剣を持っても良いと世界が言うのならば、カイルの第二として親友の道を守る選択肢もあり得る。

「あとはこの子を守るために戦わねばならぬと成れば、もう言い訳は出来んさ」

 そう、親友はきっと己にも選択肢を突き付けてきているのだ。あのしたり顔で、生意気にも自分に問うているのだ。『お前はどうする』、と。

「なるほどー。まあ旦那であればすぐにでも――」

「うおッ!? あれ剣闘王カイルじゃねえか!?」

「マジだ! ってことあの怪物が戦場に!? すっげえ!」

 広場の視線がカイルに集中する。エルマーもミラもぽかんとして――

「えーっと、結構有名人なんで?」

「大したことない。今は朝晩と鍛冶屋で手伝いをしているしがないおっさんだ」

「おとーさん逃げようよ。みんなこっち見てる!」

「ああ、そうだな。ありがとうエルマー。君が大商人になれることを祈っている!」

 カイルはミラを担いでその巨躯に見合わぬ速度でするすると広場を抜けていった。あまりに素早さにエルマーは唖然としてそれを見送ってしまった。とりあえずこのざわつきの元、剣闘王のことを聞いて回らねばと動き出した。金の匂いがぷんぷんである。

 その少し後で自分の上長であるメアリーに見つかり取引先に連行されたのは別の話。


 カイルはふと王宮の方を見る。そんなはずはないだろうが、アルが見ているような気がしたのだ。めいいっぱいのドヤ顔で、こっちに拳を突き付けてくる。やってやったぞと言わんばかりの、当時を知る三人にしかわからぬ顔で――

 だからカイルは軽く拳を突き上げた。こつんと、繋がった、そんな気がした。


     ○


「ウィリアム様? 何か面白いモノでも見えますか?」

 ウィリアムの副官として手伝いをしているラファエルが問う。ウィリアムは苦笑して首を横に振った。何か見えたわけではない。ただ、今日という日に、ほんの少しだけ目が合えばなどとメルヘンチックなことを考えていたのも事実。

「何も。良い天気だと思っただけだ」

「確かに、こんな日は馬で何処までも駆け抜けたくなります」

「そうだな。気持ちのいい、蒼空だ」

 そう言いながらもウィリアムの視線は空ではなく、地上の方に向けられていた。ふと、自分の中に衝動が生まれた。突き抜けるような蒼空はどこまでも羽ばたいていけそうで、今日という日も合いまって、衝動に身を任せるのも悪くないと思った。

「おお、どうだと言わんばかりのポーズですね。僕も真似しようかなぁ」

 ウィリアムは天に、地に、今はただ二人だけになった死した己を知る友に向けて拳を突き出した。俺が変えてやったぞ、と。どうだと言わんばかりの顔つき。

「馬鹿を言ってないで行くぞ。会議が詰まっている」

「え、あ、はい! すいません!」

 それも一瞬のこと、ウィリアムはすぐに『仮面』を被った。こんなところで満足する気はない。これは小さな一歩でしかないのだ。これからもっと変える。血もたくさん流れるだろう。障害は依然として大きい。

 ただ、何となく拳に伝わった感覚は、久方ぶりにウィリアムの頬を緩ませるものであった。世界が変わったぞ、お前はどうする? 俺は進み続けるがな、などと浮かれた言葉が頭の中で浮かぶのは、自身も浮かれているからであろう。

 頭をこれから先に切り替える。まだまだ道は遠いのだから。

 ウィリアムは邁進する。見据えし覇道を。

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