幕間:アルトヴァイス城の魔女Ⅱ

「椅子」

「喜んで!」

 御付きの屈強な男が喜色に顔を歪めながら身体をかがめる。その背に乗ってくださいと言わんばかりの体勢。主たるクラウディアは何の気なしにその背に座る。男は嬉しそうに、周囲の男は羨ましげに、大きな嫉妬とほんの少しの殺意を込めてその男を見る。

 レオデガーですら同じ視線を送っていた。

「この庭も、城も、領地全てが妾のモノよ。妾がひと撫でするだけで、ほれ」

 ひと撫で、所作一つで男は絶頂に身悶える。生臭い空気が充満し、鼻孔に入り込む匂いは嫌でも『性』を思い起こさせるものであった。あの王会議の最中、夜の街の空気に当てられ馬鹿三人組と入った娼館、その匂いをさらに熟成させ、濃縮したような――

(あの時は『彼女』との出会いがあった。誇り高き、他者のために身体を売る女性が。だが、こいつは違う。自分のために他者を貶とす……怪物だ)

 魅了し、魅惑し、魅貶とす。怪物のひと撫でで腰砕け、ひと舐めで絶頂し、その先は考えるだけでも昇天してしまう。呑み込まれるのだ、怪物の中に。それは大麻と変わらぬ、全身が陶酔成分の塊。極上の躰に、溺れぬ男はおらぬ。

「何が欲しい?」

 クラウディアは妖艶の笑みをウィリアムに向ける。欲しいものはくれてやろう。だが、代わりに貴様を喰らう。その眼はそう言っていた。

「先にお渡しさせて頂いた書状は」

「読んだ。道理にかなう。そこな男も必要だろうと結論付けた。ゆえに妾は思う」

 自分の旦那を指してそれと呼ぶクラウディア。そう呼ばれたことに隠しきれぬ快楽を覚えているレオデガーを見てウィリアムは顔をしかめた。深い付き合いがあったわけではない。しかし、書状に書かれた法改正、奴隷に対する法の緩和をよしとする以上、それなりに世情を解する聡明さを持ち合わせているのだ。

 ゆえに恐ろしい。今、顔をぐにゃりと歪め「くっく」と嗤う怪物が。

「何故急ぐ? 今焦る必要が、貴様自らが動き回る必要が、どこにあるぅ?」

 なるほど。蛇は獅子より賢かった。

「焦る必要はございましょう。一刻も早く国力を――」

「他国が追従するのお。さすれば相対的には同じこと。妾は間違っておるか? ん?」

 しゅる、蛇が舌なめずりをしている。白騎士の外皮を舐め回す。隙間から、その本当の姿を曝け出そうと、ぬちゃぬちゃと品定めしてくるのだ。

「少なくともネーデルクスは出来ない。かの国は誇りと歴史に縛られています」

「次はネーデルクスか?」

「はい。かの国を、青貴子を潰します。そのための一手です」

 クラウディアは軽く考え込み「ふむ」と頷いた。そして足先を軽くゆらめかせ、その所作一つで大の男が頭を差し出し足置きと成る。それはクラウディアにとって当たり前のことで、この城の中でもそれは当たり前となってしまった。

「なるほどのぉ。まさに道理。納得してしもうた。だが、妾は鼻が敏感でな。それだけではないと鼻が言っておる。が、まあ良い。今は泳がせてやるとしよう。時間はたーっぷりある。そうであろう?」

 その手がウィリアムに触れる。まずはひと指、撫でるように、這うように、ウィリアムをマーキングしていく。だが――

「……ん?」

 覗き見るのはクラウディアの専売特許ではない。

 指先、眼、息遣い、互いに別の方法であるが人を喰らい尽くしたモノ同士。一方が見ているのであれば、もう一方もそれを見ているのが道理。観察を深めるほどに、深淵に手を伸ばすほどに、その深淵もまた貴方が深淵を覗き見る。

「視られるのは初めてか?」

 どろりとした感覚に、クラウディアの手が止まる。

「なるほど、貴女は遊び相手が欲しかったのか」

 びくりと、その手はウィリアムから離れた。其処に妖艶さの欠片もない。はっとしたその貌は、まるで幼子がいたずらを見られた時のように紅潮している。見られたことへの恐怖、見つけてもらえたことの喜び、様々な感情がその眼から見て取れた。

「き、貴様。妾を愚弄するか」

「いえ、そう思っただけです。お気に障られたなら謝罪いたしますが」

 視えたのは一瞬、すぐにクラウディアは感情に蓋をした。その早さはさすがの一言。すでに揺らぎはなく、完璧に己をペルソナで包んでいた。妖艶な、その仮面で。

「……興が削がれた。妾は夕餉まで休む」

 その場を去るクラウディアの背中。見た目に何か感じることはない。

 しかし、レオデガーは震えていた。その背中に何か感じ入るところがあったのかもしれない。

「……気を付けるんだウィリアム。僕は彼女のあの顔を見たことがない。たぶん、あれは見せないようにしていたものだ。彼女は、それを見たであろう支配されていない存在を許さない。もう帰った方が良い。彼女は――」

 レオデガーが話している最中、先ほど足蹴にされていた使用人が近づいてきた。それによってレオデガーは言葉をつぐむ。この一件だけでもアルトヴァイス城での力関係が知れるというもの。

「クラウディア様よりウィリアム様を夕餉に誘うよう厳命されました」

 招待を厳命する。非常に無礼な話であるが、現状の立場が否定することを許さない。彼女の差配一つで大公、左大臣家が敵となる。おそらくレオデガーは逆らえない。逆らう牙は毒によって腐食されすべて抜け落ちていたのだから。

「ご招待、承知致しました。私も非常に楽しみにしておりますとお伝えください」

 ならば毒ごと彼女を喰らうまで。王宮という魔窟で育まれた怪物、されどそこは箱庭でしかない。底は遠く視えなかったが、少なくとも一端は垣間見えた。勝負にならないわけではない。それに、おそらく次の手で致命となることはないはず――

 もちろん油断すれば呑み込まれるだろうが。


     ○


 つつがなくその夕餉は終わりを迎えた。特に波乱もなく終始和やかなムードで行われた会食。上機嫌なクラウディアと何事も起きず安堵するレオデガー。いつになく饒舌に場を盛り上げるウィリアムと滑稽なほど安穏とした空気感。

 だからこそ、ウィリアムは理解する。

「ぐ、ぬ、ああ」

 少々遅刻したクラウディアが会食に参加した時点で、目的は達成されていたのだと。

(おそらくは食前酒。あの女自らが毒を仕込み、会食の場にいないことで殺気を隠匿した。遅効性、頭が働かない。ひどい吐き気に全身の痙攣……無味無臭か……良い毒だ。さぞ高かったろうに。うちを通して買っていただけたかな? くくく)

 ベッドの上で朦朧とする意識の中、ウィリアムは襲い来る毒の症状に苛まれていた。四肢に重度の痺れ、先ほどから何度吐いただろうか、吐しゃ物の海で度重なる吐き気が襲い来る。思考がまとまらない。目眩によって視界が定まらない。

(重症だ。さて、程よく弱らせた獲物を誰が調理しに来るかな?)

 正常であれば一城とはいえこの程度の範囲、殺気を捉えるのも難しくはない。足音、息遣い、心音、五感をフルで働かせ、敵の意を知る。だが、今は正常ならざる身。その証拠に――

(笑える。部屋の扉が開いて初めて気取るか。感度も使い物にならんなァ)

 二人の闖入者を此処に至るまで気取ることすら出来なかったのだ。無論、それなりに武を修めた二人なのだろう。足音がひどく静かである。ただ、息遣いは素人以下。興奮を隠しきれていない。

「お許しをウィリアム様」

「お許しを我らが英雄」

 彼らはおそらく、

「「すべてはクラウディア様のために」」

 クラウディアの忠実なしもべたち。本来の実力であれば消えているはずの息遣いも、あの女が目的達成の暁にくれてやるであろう快楽を前に、抑えることが出来ないでいた。ウィリアムの様子を見て目的達成を確信したのだろう。

 先への期待で下卑た息遣いが嫌でも耳に届いてしまう。

(吐き気よりも醜悪だな。自尊心を失った獣というのは)

 自分を見失い、快楽という虚に飲み込まれた哀れな男たち。彼らに救いはあるだろうか。クラウディアという麻薬を失い、それで彼らはまっとうな人生を送れるだろうか。

 おそらく送れる。だからこそ苛立つのだ。

「……俺を殺すのか?」

 二人の男は対象に意識があることを知って驚きを見せる。

「俺が、この国の、大将だと知って、の狼藉か?」

 意識にもやがかかる。思考が上手く働いてくれない。冷静にならなければいけないのに、頭が火照って制御が出来なくなる。

「こ、この国の王族が貴様を殺せと言っているのだ」

「ああ、俺たちは悪くない。悪いのはあの御方の機嫌を損ねた貴様だ異人!」

 ウィリアムは嗤う。彼らの弱さを嗤う。

(こいつらは弱い。弱いだけなら良いんだ。諦めても、縮こまっていても構わない。だが、弱さを笠に着て弱さを振りかざす、弱者であることを武器とするこういった輩は、気に食わないな。クラウディアに命じられてやった。クラウディアの色香に惑わされた。だから、俺たちは悪くない。くく、貴様らはそこまで考えていないだろう? だから救い難いんだよ、お前らは!)

 色香に溺れてなお無意識に弱者を武器とする彼ら。普段なら笑ってスルーできた。こいつらみたいな連中にいちいち関わっても時間の無駄である。世の中にはこういった輩がうようよしている。一皮むけばこんな連中の集まりが人の社会である。いつもなら笑って受け流せる。こんな連中でも自らが導いてやろうと、愚かな羊を正しく飼いならしてやろうと、そう思えた。

 ただ、今は虫の居所が悪過ぎた。

「……たまに、思う」

 二人は凶器の剣を取り出す。殺気が部屋に充満する。

「何故、俺だけ、がこれほど苦、悩せねばなら、ぬのか」

 二人が剣を構えてにじり寄る。

「何、故俺の守、りたいモノではな、く貴様ら屑を導かね、ばなら、ないのか」

 二人が殺意を持って突貫してくる。ウィリアムはそれをちらりと見て笑った。いつ見ても醜悪極まりない。彼女たちが見せてくれた『光』、同じ生き物とは思えぬほど歪んだ狂気。飲まれるのは仕方がない。すべての人間に自らのような自制心を持てとは言わない。

「くく、テメエで決めた、ことなのに、な。身勝手、な、野郎、だ。そうす、るしか、ないの、は、俺の弱、さだと言うのに。本当、に度しがたいよ、俺は」

 ただ、選ばされたのではなく自らが選んだ道だと、自覚して欲しいだけなのだ。自らが為すことを誰かのせいにして、予防線を張る醜悪な姿が人だと思いたくはない。自らの行動には責任を取るべき。もちろん、それが難しいことであるとウィリアムも知っている。

「悪い、な。日がわる、い。加、減は、できねえぞ」

 普段なら見逃せた。寛容な心で見過ごせた。しかし、ウィリアムは本来潔癖で、こういうモノを許せない性質なのだ。

 彼らの不幸は毒によって弱らされたことで、素のウィリアムが出てしまったこと。彼らの無自覚な弱さをウィリアムという怪物は心の底で嫌悪していたこと。こいつらは姉を頭陀袋に入れて捨てたあの男と同じ存在。

 名も亡き獣が姿を現した。


     ○


 その城の朝は侍女の悲鳴で始まった。

 城中の皆が集まってくる中で、その男は晴れやかな朝を迎えていた。

「……ッ」

 クラウディアは興奮気味にその光景を見ていた。悠然と起き上がり伸びをする男。その足元は血と臓物で埋め尽くされている。ただ殺しただけではこうならない。四肢を引き千切り、臓物を引っ張り出し、部屋中引き回さねばこのような醜悪な光景は生まれぬだろう。

 だというのにその男は、惨劇を作り出した後ゆっくりと睡眠を取り、良く寝たとばかりに欠伸をしているのだ。この光景を大したものではないと示すかのように。

「ああ、おはようございますクラウディア様。良い朝ですね」

 ウィリアム・フォン・リウィウスは惨劇を足蹴に極上の笑みを浮かべていた。

「……くひ」

 クラウディアもまた堪え切れず笑う。いつもの作り笑いではなく、彼女本来の笑みで。

 この男は今までの玩具と違う。思いっきりやっても壊れない玩具だ。クラウディアはこの光景とウィリアムの表情を脳裏に焼き付けた。

 新しい玩具は、やっぱり面白かった。

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