幕間:アルトヴァイス城の魔女Ⅰ

 ウィリアムは法改正の陳情のためフェリクスの下に訪れていた。フェリクスは羊皮紙をさっと興味なさそうに目を通していく。その辺りはウィリアムも想定済み。自分がフェリクス陣営についた頃にはとっくに政への興味が薄れていたのだ。

「好きにしろ」

 一番もらいたかった言葉を得てウィリアムは内心ほくそ笑む。もはやわずらわしい腹芸を通じて操作する必要すらない。政の興味のない王位継承権第一位を自分は押さえている。もちろん実質的にはエアハルトが候補としての優位性を持つが、それも今回の一件で大きく力を落とした。充分巻き返せる位置である。

「ありがたく。必ずやアルカディアを勝利に導いてみせましょう」

「うむ、励め」

 興味なし。少々気持ち悪いくらいフェリクスは穏やかな宮廷生活を送っていた。荒事には近寄らず、誰かを陥れることもなく、以前まで声を大にして言っていた弟への罵詈雑言も七年以上なくなっている。

「こたびの戦、ラファエル様には大きな力になって頂きました。御子息はとても優秀な将になるでしょう」

「……お前以下のな」

 唐突にとげのある言葉が出てきた。

「いずれは抜かれましょう。御子息にはそれだけの才覚があります」

「おべんちゃらは要らぬ。貴様にしろエアハルトにしろ、本当の競争相手に対して悠長な言葉など使わん。そのいずれは貴様が死んだ先の事。その頃にはラファエルも年老い力を失っている。あいつが貴様の上に立つことはない」

 フェリクスは諦めから後退し、一歩引いた位置でモノを見始めた。宮中の政争も、他国との戦も、我が事でなければ冷静に見定められる。第三者の目、この地位にいる男がこういう眼をするのは少しばかり危険であった。

(良く視えている。あまり好き勝手は出来んな)

 好き勝手したところで止めてくるとは思えぬが、それが出来る位置に誰かがいる以上、万に一つを考えてうかつなことは封じられている。そういう意味でフェリクスのこの気の抜けた様は、存外ウィリアムにとって厄介な状態であった。

 憎しみや嫉妬に目がくらんでいる者の方が何倍も扱いやすい。

「ならば私が鍛えまする。ラファエル様が強くなれるよう、私を超えられるよう」

「ふん、あれにそこまでの器量があるかな? まあよい、前にも言ったように政は委細任せる。お前の好きにやれ。俺を使いたいなら台本も含めてすべて用意しろ。俺は何もせんし、何も考えん。名前は好きに使え。今後はこのような報告もおべんちゃらも要らん。俺はお前たちを見ているだけでいいのだ。それ以上、望まんよ」

 一瞬ちらつく歪んだ貌。自らの小ささを自覚し、王位を諦めた男の歪んだ悦楽こそ『観察』であった。宮中にはびこる権力の亡者たち。それが織りなす人の業を濃縮した闘争劇を間近で観覧する。特に、エアハルトの歪む様を見るのがお気に入りのようだ。

 決して善人になったわけではない。むしろ歪み過ぎて完全に狂ってしまったのだ。

「承知致しました。この後、所用がございますのでこれにて失礼させて頂きます」

 ウィリアムに己が傘を貸してやるが、交流を持つ気はないようである。ウィリアムとしてもそれは望むところ。上手く利用して見せると決意を新たにする。

「挨拶回りか。ご苦労なことだ」

「今から向かうのは旧友が待つアルトハウザー家です。少々遠方ですが気は楽ですよ」

「……アルトハウザー、か」

「何か?」

「いや、貴様に限って問題はないだろうが――」

 フェリクスの顔に張り付いている表情を見てウィリアムは眉をひそめた。

「用心しろ。男にとって、『あれ』は猛毒だ」

 あれが何を指すか、察しはついていた。だが、その毒の強さに関しては認識を改めざるを得ない光景が、この先に広がっていたのだ。

 ウィリアムは魔窟、アルトハウザー家へ向かう。


     ○


 アルカスから南東に馬の脚で二日、そこには豊かな穀倉地帯が広がっていた。時期によっては広い大地いっぱいに黄金の穂波が揺れる圧巻の光景が見れるそうだ。アルカディア随一の豊かさを誇る土壌に、その城は君臨する。

「こっちには初めてだな。さすが大公家、桁が違う」

 アルカスの邸宅に入ったことはあったが、アルトハウザー家が任されているこの領地に足を踏み入れたのは初めてのこと。当然、このアルトヴァイス城に立ち入るのも初めてであった。

「ようこそアルトヴァイス城へ。ウィリアム・フォン・リウィウス子爵」

 城門の前には侍女と思しき女性がウィリアムの来訪を待ち構えていた。恭しく頭を下げる所作は一流の貴族と同質のもの。大公家の侍女ともなればその辺の貴族よりも格が上になる。実際、子爵や伯爵家の跡継ぎになれなかった者やほんの少しでも関係を作るために大事な一人娘を侍女に雇わせる家まであるらしい。

「ありがとう。レオデガー様へご挨拶に伺った次第。案内してもらえるかな」

「領主より伺っております。こちらへ」

 大きな門が開く。ギギギ、と軋むような音を立てて――

「お気を付けくださいウィリアム様。当家の闇に囚われぬよう」

 まるで地獄の窯が開かれたとばかりの言葉にウィリアムは苦笑いを禁じ得なかった。何度も死線を乗り越えてきた。血で血を洗う戦を繰り返し生き抜いた。英雄白騎士に対して地獄などと良く言えたもの。

 しかし、苦笑いと同時に、確かに感じる巨大な悪意への警戒は怠っていない。何かが潜むのは間違いないのだ。門を潜る時、肌がひりつく感覚を覚えた。ウィリアムにとってそれは久方ぶりの事。

 何かがいる。その元が想像の通りの人物であれば、ウィリアムの想像以上に膨張を続けたことになる。ある意味で今回の訪問、それを見定めるために来たと言っても過言ではない。


     ○


「よく来たね! 本当に久しぶりだ。そちらへ顔を出せなくて申し訳なく思っていたんだよ。嗚呼、とても懐かしい。良い気分だなあ」

 客間でウィリアムを迎えたこの城の主、その顔を見てウィリアムは絶句した。

「……お久しぶりです。久方ぶりの再会に胸が躍っていますよ」

 レオデガー・フォン・アルトハウザー。誰が見ても好感の持てる男であった。顔立ちが整っており、雰囲気は精悍、頭は冴え、家柄も相まって一切の隙すらなかった。それほどの男が、『この有様』では言葉も詰まるというもの。

「あの日以来だね。あの時はすまなかった。取り乱していたんだ」

「気にしていません。むしろ楽になったくらいで」

「そうか、それならよかった。ずっと気にしていたんだ」

 眼は落ちくぼみ、瞳に光がない。髪は最低限整えているがところどころに痛みが見受けられる。身体はやせ細り、全体的に覇気がない。何よりも、その立ち姿が、雰囲気が別人のそれであった。

 まず、目を合わせなくなった。合わせてもすぐそらし、きょろきょろと辺りを見渡す。本人は自然に隠せているつもりなのも正気でない証拠。

「レオデガー様。そろそろお外へ行かれてはどうでしょうか?」

 侍女の提言にレオデガーは「それは良い。時期は良くないがアルトハウザー領の誇る大農場をお見せしよう。きっと気に入る」などと思い付きのように言っているが、明らかに事前の打ち合わせ通りなのが透けて見える。

 それほどに、代替わりしてこの城の主と成ったレオデガーすら避ける存在。

「面白そうな話よのお。妾も雑ぜて欲しいものよ」

 レオデガーと侍女の顔が歪む。声一つ、よく通る声であった。ぬるりと、這い寄るような声色。決して大きくはない声量だが、絶対に聞き違えない自信がある。

「……奥様。領主様が客人の相手をしております。席を外してはいただけ――」

 侍女の言葉を一顧だにせず、その女性は視線を向けることもなく堂々とその場に現れた。

 妖しげで魅力的な声の持ち主は、その声を濃縮したような妖艶ないで立ちであった。ぞくりとするほど美しく、思わず言葉を失うほど性的で、女性が望み得る武器のすべてを兼ね備えた怪物が妖しく微笑む。

「お久しぶりですクラウディア様」

「この城にも厭いてきたところ。妾の相手をせよ、ウィリアム」

 名前を呼ばれただけで背筋があわ立つ。目に映る女性はとても魅力的であった。エレオノーラと双璧を成すアルカディアの美姫とされてきたのだから当然である。美しさは互角。ただ、妹の持つ誰からも愛される、愛したいと思わせる美しさとクラウディアのそれはまるで違うものであった。

 其処に愛が無くとも、其処に欲望がある限り彼女はそれらを惹きつける。強烈に、半ば強制的に、匂い立つほどにその躰はぬるりとした甘い香りを放つ。常人であれば抗えない。どれだけ清廉潔白な者にも性的欲求はある。生き物である以上、男である以上それは備わっているモノなのだ。そして、それを持つ限りその毒牙からは逃れられぬ。

(なるほど。考えを改めねばな。女狐などという可愛らしいものではない。この女、蛇だ。強力な毒をもち、皆が引き寄せられてしまう甘い香りも放つ……獲物が勝手に虜になるのだから始末に負えない)

 クラウディアに名前を呼ばれた瞬間、其処に含まれる色香を感じたのは当人であるウィリアムだけではなかった。クラウディアに視線を移し、視界が共有されなくなった瞬間、その男は殺意をウィリアムに向けてきた。

 あれほど高潔であった男ですら虜にする怪物と対面し、ウィリアムは余裕を保てなくなる。

 あのレオデガーですら堕ちた。その事実がウィリアムに少しばかりの怯えを植え付けていたのだ。ヴィクトーリアへの想いは本物であったはず。自らよりも強いと思わされたほど、強力な想いを抱いていた。それが掻き消え、蹂躙され、上書きされている。

 クラウディア・フォン・アルトハウザー。この女の色香ひとつで――

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