進撃のアルカディア:心折る最善手

 それは苛烈な追撃であった。白騎士と黒狼王が対になって背後から全力で追い縋ってくるのだ。殿として残した捨て石たちをかき分けて、ただ一点を、彼らの総大将であるリディアーヌの首を狙う。目の前の実よりも先に見える木そのものを薙ぎ倒す。

 寡兵となっても関係ない。楽をさせねば、一息つかせることがなければ、極少数の突撃でも絶大な効果を生む。捨て石は後続の歩兵が相手をするだろう。適当に蹴散らしておけば良い。とにかく前へ、前へ、首を狙い続ける。

「見えたぞ」

 しかもウィリアムには長距離の飛び道具がある。これによって追われる側のプレッシャーは一気に跳ね上がってしまうのだ。常に背後に気を使い、今のように隙間を見せれば果断なく矢を打ち込まれる。

 それをリディアーヌの側近が盾で受ける。先程から何度となく繰り返された行動。そしてその矢は木製の盾を貫き、盾を持つ腕を貫き、眼前にて制止する。そう、白騎士の矢は盾をも貫く。この側近は先ほどまでの『失敗』を生かし腕をかませたおかげで防げたが、片手を機能不全にされてまともな戦働きが出来ない状態にされた。

「ッ!」

 それを見てリュテスたちがしっかりと蓋をする。射線が現れぬように。これで主力をその場に封じ込めることが成功する。今の矢により、矢を放たずとも張り付けに出来た。それだけで充分過ぎる効果を生む。

 これでさらにかき回せる。

 ヴォルフもまた執拗な攻めでガリアスを蹂躙する。背中を向けながら黒狼王と戦うことなど不可能に近い。事実、先ほどまで剣を交えていたランスロたちは全力で逃避していた。今戦えば必ず負ける。時が来るまで生き延びねば、止める者すらいなくなる。

 問題は――

「オラオラどうしたァ! 俺ァまだまだ元気だぞオラッ!」

 時が来るまでにガリアスの兵が残っているかどうか、である。


     ○


 日が落ちるまで続いた追撃。それを凌ぎ切ってガリアス軍はようやく一息つくことが出来た。このまま一休みし、早朝出立からのここからそれほど離れていない街に逃げ込む。決して戦争向きの造りではないが、薄い守りとてないよりはマシである。それに、必要なのは地の利や砦の強度ではない。皆がもう一度集まれる、集まって同じ方向を向くための拠り所であればいいのだ。

 どれだけ減ったとしても一日での損耗はたかが知れている。全軍が集結すれば圧勝できる戦力は既存でもあるはずなのだ。問題は、今現在集まれていないこと。ただそれだけである。無論、それはアルカディアも重々承知しているところ。

「会議中のところ申し訳ございません! アルカディアが夜襲を仕掛けてきました!」

 リディアーヌらは絶句する。

「……そこまで、やるのか」

 絶対に楽をさせない。たとえ無理をしてでも、無理をさせてでも、息つく暇は与えない。

「リディアーヌ様。奴ら火矢を用いてこちらの馬を」

 火のついた獣は狂騒する。たとえ訓練された気性の大人しい動物でも関係はない。人間ですらのたうち回るのだ。馬が炎に呑まれて耐えられるはずがなかった。

 暴れ回る馬を押さえつけようと何人も跳ね飛ばされていた。休息の時間が一瞬にして騒然とした戦場に作り替えられたのだ。

 リディアーヌは見た。遠くで、様子を見に来たのだろう篝火に照らされた白騎士の姿を。自分に矢を射かけた時と同様、平静そのもので燃えるガリアスを眺めていた。リディアーヌは吼える。吼えずにはいられなかった。

「ゆるさんぞ!」

 まだ、地獄は始まったばかりである。

 結局、この夜が明ける頃までアルカディアの攻撃は続いた。散発的に、もう終わりだと思った頃に攻めてくる。少数の騎馬隊で夜営地に突撃し、ようやく眠りにつけた者の腹を踏み潰しながら攻め立てる。攻撃するでもなく銅鑼を鳴らし、音だけの威嚇もまたこの状況では立派な攻撃となる。

 徹底的にやる。その宣言通り、ガリアスにひと時すら安らぎはなかった。


     ○


 アルカディア軍にとってもこの進撃は楽なものではなかった。交代で休んだとはいえ夜通し攻めていたのは事実。その上、翌日も前の日と同じように全力で攻め潰すというのだからたまったものではない。疲労が高揚感を上回り始める。

 それでも攻め手を緩めぬ理由はひとえに――

「緩めるな」

 言葉短く耳朶を打つ声。それほど大声ではないのにすっと耳に入り込んでくる。ひんやりと、ぬるりと、根源的な恐怖が押し寄せてくる。

 そう、彼らアルカディア軍を突き動かすのは白騎士という絶対者への恐怖であった。ガリアスすら手玉に取り、彼らに勝利を与えてくれた救世主。だが、その徹底したやり方は人々に恐怖を抱かせる。それが翻って己に降りかかったら、などと考えてしまうのだ。

 ウィリアムはそうなることを重々承知して、あえてそれをさらに徹底させた。この一戦、この瞬間に関しては恐怖で背中を押すと決めていたのだ。そうでもせねば羊は動かない。羊に無理をさせることは出来ない。恐怖すら利用して兵士という羊を操る。

「どしたーガキんちょども。一徹ぐらいでへたれてんじゃねーぞォ」

「酒だ、酒、酒が足りねえから元気が出ねえのよ」

 元気いっぱいの黒の傭兵団御一行。夜通し銅鑼をかき鳴らし、その周囲で酒盛りをしていた彼らは、交代で休んだアルカディアの正規兵よりも元気であった。ヴァルホールきっての精鋭たちだけはある。

「くっそ、負けてられるかよ!」

 連日の戦闘と徹夜明け、それが何の言い訳にもならぬ状況でクロードは己を奮い立たせる。実際、経験値の桁が違う白騎士や黒狼王、白熊などは平然として攻め立てている。きつくないはずはないが、おくびにも出さない彼らが戦っている内は弱音など吐けないし、吐く気も起きない。カラ元気でもないよりはマシなのである。

「む、へなちょこが一丁前に張り切るな。あと私より前に出るな」

「うるせーぺちゃぱい。俺が前だ!」

「……成長期が遅いだけだもん」

「あ!? なんか言ったか?」

「シネ、カス、ゴミ」

 罵詈雑言の応酬。それを遠くで眺めていたヴォルフは「ほほーう」とにやにや笑っていた。たまたま並走して攻める形になっていたウィリアムは嫌そうな顔をしてそれを見る。ヴォルフがくるりと振り向きざまに幾人かの首が舞った。

「あれくれ」

 ヴォルフが指さすのは口論をしながら戦闘を続ける二人の新鋭。

「やると思うか?」

「思わねーな」

 白騎士と黒狼王。二人の怪物が居並び押し込んでくる。もはや誰にも止められぬ二つの巨星、その行進を前に有象無象は塵と同じ。

「でもよ、あのガキはテメエのとこより俺のとこのが輝くと思うぜ? とりあえず貸してくれよ。鍛えて返すからさ、な!」

「ガキってどっちだ?」

「男の方に決まってんだろ。言わなくてもわかってるくせに」

「ふん……考えておこう」

 ウィリアムとしても秘蔵っ子の一人であるクロードを渡す気はない。だが、ヴォルフの下でこそ輝くというのも一理あるのだ。クロードの資質として目指すべき頂は、己でなく黒狼の方が近いだろう。共に戦うことで得られる経験は計り知れないものとなり得る。

「んで、そっち『は』この先を抑えてあんのか?」

「それなりに。楽をさせる気はないさ」

「ほーん。ま、期待しとくぜ」

 そう言ってヴォルフは別の群れに飛び込んでいった。血風が舞い、肉が散る。もはやあのレベルとなると一種の災害である。

(そっち『は』、ね。なるほど、『本隊』はそう指し回したのか)

 ウィリアムは頭の中で描いていた戦場の絵図を更新する。今やるべきことはプレッシャーをかけ続けること。人数を減らすことはそれほど重要ではない。プレッシャーをかけ続けて、それでも彼らには『街』という希望がある現状。

 今は折れない。希望がある限り人の心は折れぬのだ。窮地が極まれば極まるほど希望の灯は大きくなる。プレッシャーはその灯を大きく、より際立たせるためのエッセンス。

 折るためにはひと手間必要なのだ。

 ウィリアムもまたプレッシャーを与え続けるために戦火を撒き散らす。目先の目的とは別にして、己の脅威を刻み込んでおくのは今後きっと役に立つ。人は権威や地位、そうであるとされるものに弱い。強者としての印象を深めることも大局を見据えた目的の一つ。

「あの時打った不可思議な手。その意味を……知る時が来た」

 ウィリアムはふと思い出す。

 そこは小さな盤上であった。生涯でもほとんど負けることなく、勝ち続けてきた男がアンゼルムとの一戦を除けば、この七年間で唯一喫した小さな黒星。何十、何百と指し合った中で一度負けただけ。しかしその一敗が白騎士の完成度をさらに上げてしまった。

 心の中のどこかで自分は、少なくとも大局観、視野の広さと深さにおいて負けることはない、などとほんの少しでも考えてしまっていた。あの日の敗北はそれを覆してくれた。愚かな慢心をいさめてくれた。

『やったー! 兄ちゃんに勝ったー!』

 敗因は浮いていたはずの駒であった。紐付きでない大駒が浮いた状態。最初は悪手だと考えた。彼女はよくそういう手を指す。妙手、悪手、好手、定跡から離れたところで指したがる癖。今日は悪い方に出た、そう考えてしまった。

 しかし、気づけばその一手が大きな意味を持っていた。悪手が好手に化けた。否、見えていなかった最善手を指されていたのだ。自分が間抜けだったわけではない。己の学習範囲、研究範囲を超えた一手であれば見逃しではなく単純な力量差。

 彼女はその一戦、間違いなく己より強かった。

 ウィリアムは知った。こんな小さな盤上ですら、未だ見えぬモノで溢れている。最善手とされているものの、どれほどが本物の最善手であるのか、誰もわからないのだ。だからこそ面白い。だからこそ研鑽のし甲斐がある。

 たった一つの黒星が、完成されていたとされる白騎士を、もう一段解上へ引き上げた。

 だからこそ、その一手を放つことが出来たのだ。

 己にとっての最善手は敵にとっての――


     ○


 絶望の一手となる。

「あ、ああ、そんな、嘘だ」

 ガリアスの心が砕ける音がする。膨らんだ希望がはじけて、残ったのは絶望の現実のみ。リディアーヌでさえ頭が働かぬほど、その一手は強烈にガリアスの心臓をぶち抜いた。

 ガリアスにとっての希望、マァルブルクから一番近い『街』。ここで体勢を立て直すはずであった。ここから反撃に移るはずであった。集合し、もう一度誇りを取り戻す。そのための拠り所であったはずなのに――

 その『街』にはアルカディアの旗が上がっていた。その中心に立つのはグレゴール・フォン・トゥンダー。『戦鬼』と呼ばれるアルカディア有数の武人は静かに仁王立つ。並の者が守りであれば死に物狂いで取り戻すことも考えられたが、グレゴール相手では背後の敵が来る前に落とすことは難しい。

 しかも、アルカディアの旗と共にもう一つ旗が掲げられていた。それもまた絶望を加速させる。その旗は黒狼旗、掲げるは狼の王の番い。副団長ニーカその人であった。

 グレゴールが率いる騎馬隊二千、ニーカ率いる歩兵五千。アルカディアの妙手とヴァルホールの好手が重なり、最善手に化けた。

 希望の灯が大きいほど、それを奪われた時のダメージは大きい。

「白騎士が来るぞっ!?」

「黒狼王もだ!」

「逃げろ!」

「何処に逃げるってんだよ!?」

 精強かつ忠実、優秀な軍も一皮剥けばただの人の群れ。折ってやれば烏合の衆。かすかに残っていた忠誠心や統率は完全に消えた。背後から猛追してくる白騎士と黒狼王、白熊。前には戦鬼らが控える。

「……折れたな」

 ウィリアムがその光景を見る頃には、てんでバラバラな方向に逃げるガリアス兵とそれを必死に統率しようとする将とが狂奔するカオスが広がっていた。あとは軽く小突いてやるだけで良い。それだけで――

 折れた彼らは蜘蛛の子を散らすように崩壊するのだから。

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