進撃のアルカディア:二つの巨星
その咆哮は全天に響き渡った。声など届くはずのない距離でも、空気から伝わる絶望的な圧力は届いてしまう。ポール、リュテス、ボルトースらは感度の高さからか即座にそれを黒狼王ないし戦女神と見抜く。その登場によって何が起こるのか、各々が頭に思い浮かべる。当たり前であるが良い予感ではなかった。
「急ぎなさいよあんたたち!」
「御意!」
マァルブルクを挟んでいたため多少の遅れはあったが、それを差し引いても十二分なほど、その軍団の速度は尋常ならざるものであった。
誰よりも速く『疾風』は駆ける。先ほど感じた怖気が本陣を喰らう前に――
その背後で追従する『迅雷』と共に。
ポールは悪い予感が当たったことを肌で感じた。感覚を確信と取ることを普段のポールはあまり良しとしないが、今回ばかりはあまりにも大き過ぎた。急がねばならない。先ほど戦場にて轟いた威圧。人間がまとっていい代物ではない。
「これが新たなる巨星、か。どちらかはわからぬが、凄まじいものだ」
「ですね。しかし、あれだけの速度であれば騎馬隊のみの到達でしょうし、やりようはいくらでもあると思いますが。少数と仮定して、ですが」
「一人であればそうだろう。だが、忘れているな、あの場にはもう一人いるのだ」
「……強さのランクはかなり落ちると思いますが」
「どうかな? まだあの男も底を見せておらん。黒狼が王と呼ばれ、さらなる飛躍を見せたように、あの男もまた立ち止まっているはずもなし」
「……ですか。なればなおのこと急がねばなりませんね」
「その通りだ。皆よ、普段緩めている分を取り戻すぞ!」
追従する黄金騎士団が「応ッ!」と叫んだ。ガリアスでも屈指の練度と力を兼ね備える彼らの到達で戦局は変わる。問題は、戦局が左右できる状態で留めておけるか。
(ここまでの算段を整えたの男であれば、この状況で動かぬはずはない。隠していた実力、如何ほどのものであろうか。お気を付けくだされ、新たなる王の頭脳よ)
それだけである。
○
門が開く。その一大事に気づいたのは五万いるはずのガリアス兵の中で、ごくごく一握りだけであった。他の者は、離れていても黒狼王の引力に目を引かれていたのだ。あまりにも恐ろしい存在感。遠くで舞い散る臓物と血。破壊の光景がそこにある。いずれは己のもとに来る破壊。蹂躙されることを受け入れられる者などいないだろう。
だから大勢は眼前の恐怖にばかり目が行くのだ。
「門が、まずいぞダルタニアン!」
「僕が行く。リディは少し距離を取って、状況を整理し立て直すんだ」
「右翼のアクィタニアを待った方が」
「そのわずかの時間で彼なら何でも出来るさ。それは断固阻止する。安心して、僕だってそれなりに強いよ。僕らは王の左右だ。君を、ガリアスの頭を守るさ」
兄のように慕う男が笑いかけた。その笑みはいつも通りで、その背中はいつもより大きく見える。リディアーヌは知らない。彼女にとってその男がどれほど大切な存在であったかを。彼女は知らない。想いが強いほど――
○
ウィリアムの参戦はとても静かなものであった。誰も彼もが強襲してきた狼の群れに視線を持っていかれている。それも仕方ないことであろう。ウィリアムの背後に構える騎馬隊、彼らですらちらちらとあちらを見ているのだから。当事者であるガリアスならば仕方がない。仕方がないが――
(嫉妬してしまう。いつだってお前は俺より強かった。今も、視線を独り占めだ)
胸に宿るのは負の感情。それはいつだって己の中にある。七年前、それより以前から自分はその大き過ぎるコンプレックスを制御し切れていなかった。今もなくなったわけではない。しかし、切り離して物事を見る術は身に着けていた。
「ああ、今日も良く視える」
先頭のウィリアムはゆるりと加速を開始する。まだ、視線は彼方、西の方向ばかりを見ている。このまま接近して斬られるまで彼らは気づかないかもしれない。
「白騎士ィ!」
しかし、ガリアスという国はそれを許してくれるほど甘くなかった。
猛然と突き進む騎士。先頭で、突出した頭を叩き潰そうとその騎士は全速力でこちらに向かってきた。虚を突かれたのはアルカディア陣営。誰もウィリアムをカバーできる位置にいなかった。
「ふ、『銀冠』か。やはり良い感性だ」
その男の名は『銀冠』ジャン・マリー・ド・ユボー。ガリアスでも有数の武力を誇り、一対一の強さは特筆すべきものがある。特に、格上との相手においてその戦力、闘争心共に頂点をたたく。格上キラーとしても知られる男は――
「僕が貴様を倒すぞ! 白騎士ィ!」
今、最高に燃えていた。最大出力、こうなったマリーは強い。
(この前は後出しの変化を止められた。ならば――)
美しくしなやかな細剣を抜き放つ美丈夫、マリー。
馬が接近する。剣の間合いに入った。
(先に変化させてやる! これが僕の、『銀冠』の剣だ!)
突きの所作。されどその切っ先はぶれており、どこから放たれるかわからない。マリー自身先出しの変化を制御するため、長き時を要した。初見では受けることの叶わぬ不可視の剣。『銀冠』の集大成である。
「受けてみろッ! 万様自在に変化する我が剣を!」
そこから放たれる鋭い突き。自在の剣に受けは決まらない。
(僕の勝ちだ!)
そこからの刹那。マリーは確信した勝利に溺れてしまった。目に映る現実が理解できない。したくない。だから脳が彼に勝利の映像をエンドレスで供給する。
その剣はウィリアムの指で心臓を突く直前に白刃取りされていた。その手は左手、利き腕がこの局面で遊んでいるはずもなし。剣を掴んだ直後に抜刀。その剣はマリーの胴をあっさりと両断する。あまりにも容易く、その絶命は確定してしまった。
「人間の可動域には限界がある。大元に限りがあれば、変幻自在とはならない。君の敗因は知らなかったことだ。人体というものを」
その切っ先はウィリアムをして見えなかった。しかし、見えずとも推測する術はある。切っ先は見えずとも、その動きの大元である手の動き、手を動かす筋肉の躍動、すべて辿れば答えが逆算できる。答えに逆らわず、自分の弾き出した解を疑わない。
その思考の速度と実行力は、常人の理解を超えていた。
刹那の驕り、終わりを前に出てしまった己の弱さ。痛みに幻想が消え、気づけばその痛みすら消えかけている終わりを前に、マリーは口を開いた。皆に自分の死を気付かせ、目の前の男を警戒させる。それだけで犠牲はかなり減るはず。
「全員逃げろッ!」
魂の叫び。されど――
大気に伝わったのは風切り音だけ。叫べたと思ったのはマリー一人だけであった。誰も視線を向けず、誰も反応を示さぬ光景に、両断され地に落ちたマリーはようやく自分の状態に気づいた。両断、そして、のどに刻まれた鋭い傷。空気が漏れている。気づかぬ内に言葉を奪われていたのだ。
(ばけ、もの、め)
一瞬の攻防。ウィリアムは圧勝し歩を進める。その静かなる蹂躙劇に背後の部下たちが恐れ戦いてしまう。あれほどの強さを誇った男を、まるで雑兵でも相手するかのように圧倒して見せた怪物。しかも、まだ誰も視線すら向けていないのだ。
この極大の危険を目前として。
「さて、軽く頭を減らしておくか」
ウィリアムは静かに弓を引き絞る。放たれた矢は寸分違わず敵将と思しき男の頭部を射抜いた。そのままウィリアムを先頭に、二千の騎馬隊がガリアスの五万に埋もれてしまう。するすると敵の中に食い込んでいき、騒ぎが伝染する暇も与えず、静かに優秀な人材だけを奪っていく。乱戦が、ガリアスの自らの群れが敵を、アルカディアを隠していた。
狼の王が吠える。その熱情とは対照的に、ウィリアムは静かなる動きで遅効性の毒を仕掛けていた。優秀な人材の喪失は、時に万の兵を失うよりも大きな痛手となる。若ければなお良い。それは未来にもダメージを与えることになるのだから。
「哀しいな、人材が失われていく光景は」
そう言いながらも、その手は一切緩めない。
白騎士の底は見えない。底知れぬ戦に、ガリアスの多くはまだ気づいてすらいなかった。
○
ランスロはまさに敵無しと化したヴォルフを見て在りし日の怪物を思い出す。自分たちが尊敬してやまない騎士王を打ち倒し、敬愛してやまなかった戦乙女を討ち果たした、あの怪物、『烈日』の姿に重なって見えるのだ。
「ガハハ、どうした超大国!? びびってんじゃねえよ!」
今、黒狼の牙によって雑兵の如く切り伏せられた男は、ガリアスでもそれなりに名の知れた武人であった。ランスロも幾度か手合わせをしたが、あのように手も足も出ず敗れ去ることなど考えられなかった。
それだけ地力に差がある。
「この、ケダモノがァ!」
「ガリアスを舐めるなよ!」
二人の騎士が飛び掛かった。彼らは若くして百将の末席に至った次代のホープである。力に満ち溢れ、日ごと経験を積み将として熟成していた。完熟の暁にはきっとガリアスにとって多くをもたらす人材になっただろう。
二人の剣を同時に受け止めるヴォルフ。その表情に陰り無し。
「双剣使いってのはなァ、片方を防御に回すとか小細工する以外、凡人には許されていねえんだ。俺みたいな超絶天才、最強無敵の超生物にのみ許されている。何でかって? 見りゃあわかんだろ? 片手で、一人分。両の手合わせて二人分。凡人の倍は強くねえと、そもそも成り立たねえんだわ、双剣ってのァよ。つまり何が言いたいかって?」
両の手で全力で押し込んでもびくともしない。むしろ圧は増すばかり。若き彼らは分別を知らなかった。勢いに任せて飛び込んでしまっていたのだ。
狼の牙が並ぶ、咥内へ。
「俺様は強いってこった!」
そのままヴォルフは剣を横に押し込み、寝かせるような形が出来た瞬間、力任せに押し潰した。若き彼らは信じられないモノを目撃して散る。己が両の手を、剣を、鎧をまとった、鍛え上げた身体を、たくましい骨格も、すべて一瞬にして粉砕されたのだ。二人まとめて肉塊となった。両断などという生易しい光景ではない。力づくで上半身と下半身を引き千切ったかのような惨状。人間業ではなかった。
血と臓物が舞う。ひしゃげた剣は何かの臓器を巻き込んで地面に落ちる。
烈日ばりの剛力。七年前よりもさらにたくましさを増した身体は、ローレンシア全体で見ても巨大で、しかもしなやかな体つきという奇跡がそこにあった。
「んで、次はテメエが相手か、湖の騎士様よォ」
ヴォルフの嗅覚が接近するランスロを捉えた。
「一人ならやめとけ。今の俺は、エル・シドよりつえーぞ?」
まとう雰囲気が人間を超えていた。己が対峙したエル・シドよりも桁外れに強い。そもそもランスロとヴォルフでは同じ烈日を思い浮かべても、その強さには大きな開きがあった。片や騎士王と戦乙女を喰らい多少の充足を得た状態。片や自分を上回られて限界の先まで高めた状態。同じエル・シドでも違い過ぎる。
そしてヴォルフはこう言っているのだ。
今の俺は、最も強かったあの時のエル・シドよりも強い、と。
「なら二人でかかろうかねえ」
別方向から現れたのは『竜殺し』のガロンヌ。今まで息をひそめていたアクィタニア最強の武人が黒狼を討たんがために馳せ参じる。
「嫌とは言わせないよォ」
「悪く思うな。今はガリアスの武人、国の勝利が第一だ」
湖の騎士と謳われたガルニア最高の王に仕えたガルニア最強の騎士。今はガリアス最強の騎士として『王の剣』を冠した王の左右と対等の存在。そしてもう一人は長く戦場を駆けずり回り、巨星たちとも幾度となく刃をかわした歴戦の武人、ガロンヌ。
「手を貸すか?」
ヴォルフに問いかけるのはその腹心、
「いらねーよ。勢いも落とす気はねえ。ガンガン押すぜ、遅れんなよ野郎ども!」
アナトール以下は苦笑して王の好きにさせる。ようやく多少の歯応えがある敵が来たのだ。楽しみたいと思っても仕方がない。この七年、まともに組み合ってくれる相手がいなかった。強くなり過ぎた王にとってこういう出会いは何よりも大事なのだ。
「おいおいィ、集団戦の片手間にやろうなんてねえ、すこーし舐め過ぎじゃないの」
「いや、出来ると思うぜ?」
ランスロとガロンヌはしれっと言い放たれた答えに闘志を高めた。
己たちにも武人として高みに上がった自負がある。それを二人がかりどころか戦の流れの中でやろうというのだ。あまりにも舐め過ぎている。
「では試してみようッ!」
「いくよォ」
二人の怪物がヴォルフ目掛けて殺到してきた。それを見てヴォルフは破顔する。
「本当はじっくりやりてーんだが、こっちも超少数だし、そっちは超多勢だ。だからよ、わりーけど一切手抜きはしねえ。慄けガリアス、最強を刻んでやる!」
黒狼が歓喜の咆哮と共に剥き出しの牙を抜き放った。
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