進撃のアルカディア:伝説の幕開け

 そして七日目の朝、まだ夜闇が混じる空の下で、一人の男が鼻歌交じりに何かをしていた。黄金に輝く雲海を運ぶ風、なびく白の長髪はキラキラとした金色を映す。その男は眼を瞑っていた。瞳の奥に何を映すのか、今の表情に見合った微笑むような光景なのか、何を思い描くのか。まるで指揮者のような動きで虚空を刻む。

 朝焼けに染まる男を夜闇の残滓が見つめていた。

「気でも狂ったのか? 自分の鼻歌に合わせて指揮者の真似事など」

 闇の王が影である自分たちに疑問はない。役割は白騎士のサポートである。対価はすでに支払い済み。とはいえ暗殺ギルドをまたしても総動員し、その上で負けたとあってはあまりにお粗末。負けた時に闇の王の怒りを考えたなら、のほほんと奇行を見ている余裕はない。悪態の一つでも付きたくなってしまう。

「そんな可愛いものなら笑えるさ。お前は今回が初めてだろ、あの方の御付きは」

「ああ。俺にはあの動作も意味も、あの男が何を考えているのかも、何もかもわからん」

 もう一つの影がころころと嗤う。

「わかってたまるかよ。わかるはずがない。俺たちが影だからとかそういう話ではなく、人であることをやめられぬ者が、あの怪物を理解しようなどと考えるべきじゃない。俺は五年間、あの方の御付きをやったが、何一つ理解出来なかったし、理解したくもなかった」

 影は憑りつかれたかのようにゆがんだ笑みを浮かべていた。

「あれは本物の悪魔だ。嗜虐的思考を持つ狂人ならわかる。彼らはそれを嗜むし、それによって何らかの欲を満たしている。わかりやすいさ。理解出来なくもない。だが、あの方は違う。そんな思考など欠片もない。ないはずなのに、禁忌を犯すことに躊躇いがない」

「何が言いたいんだ?」

「ああ、悪かったな。あの動作の意味なら『視た』ままさ。ほら、今左手で対面する人の右腕を支えているだろ? そしてあの右手には小さく鋭い刃物が握られている。すっと、ほんの少しのぶれもなく綺麗に裂いた。その切り口から中心を開いて――」

 もう一つの影が実況する光景。あまりにも美しく、あまりにも神々しく、理解不能だった動きは一瞬にして血塗れた景色の変貌する。対面には人間が、そしてその男はそれを何の意味があるのか解体しているのだ。淀みなく、行われるそれは一朝一夕の動作ではない。

「……何人斬った?」

 影は察する。おぞましい光景が浮かんできたから――

「老若男女合わせて三百近くは|解体(バラ)している。大体いつも夜中だ。工房の地下に頭のいかれた連中が集まっていた。狂った武器デザイナーに医者数名、俺が持ってきた死体を研究目的で弄繰り回していたよ。闇に生きる俺が、あの光景を見て吐き気を催したほどだ。他の者には躊躇があった。しかし、あの方だけは最初から躊躇なく、今みたいな表情で解体していたんだ。どうだ、理解できるか? 俺には無理だ」

 鼻歌交じりに、笑みを浮かべてリラックスしながら、死体とはいえ人を切り刻む。常人ではとても無理だろう。死を切り取って観察することなど。何人も、何人も、七年かけて、人の体を研究した。男も、女も、老人も、子供も、赤子すら、解体した。

「あれはその復習だ。今は成人男性だな。骨が何本あってどう繋がっているか、筋肉の種類、どことどこが連動しているのか、臓物だって種類ごとに切り分けていたし、その機能も、何を損失すれば致命的なのかも、全部あの方は知っている。『視えて』いる」

「その行為に何の意味がある?」

「誰よりも深め、誰よりも知る。そのために禁忌は避けて通れない。人をより深く知るための研究、医者を帯同させているのはついでに医療の肥やしとするため。無駄なく命の残り火を喰らう。七年前とは人物が違うぞ。いいか、あの方はこの七年間で犯した罪は数えきれない。アルカスでは出来なかったことを、目の届かぬ遠方の地であることを利用して、ありとあらゆる禁忌に触れた。俺たちが用意した禁忌を、すべて平らげて見せたのだ」

 闇の王が寵愛する白騎士。暗部を知らぬ者にとって彼は美しく高潔な英雄に見えるだろう。事実、こうして人体を解体していると知らねば、あの光景は黄金の朝焼けも相まってとても絵になるものであった。だからこそ知らば恐ろしい。

「理解は遠い。理解すべきじゃない。あの方と同じ精神を持たねば、我ら闇の住人ですら取り込まれるだろう。狂気の底なし沼に」

 朝焼けに浮かぶ英雄。その本質はおぞましき怪物であった。誰も知らず、誰も止められず、この七年間で喰らったすべてが今の『ウィリアム』という怪物を形作った。もはや七年前とは違い過ぎる。それを相対する者は知らぬのだ。

 怪物が笑う。何かを感じて――


     ○


「周到だな。朝の稽古にそれを加えるのは珍しかろう」

 ウィリアムが解剖を終え一息ついたところで、背後の物陰から声がかかった。低く陰のある声が耳朶を打つ。見るまでもない。背後にいるのは暗殺ギルドのまとめ役、白龍であった。相変わらず気配が見え辛い。先ほど覗いていた二人は見え透いていたが。

「今日は良い日だ。俺はオカルトを信じぬが、何かが起きるならこういう日さ」

「……『門』が開いたか?」

「それは神のみぞ知る、だ。出来ることは全てやった。あとは機を待つだけ。今日か、明日か、それとも明後日か、さらに先か、それともすでにご破算、計画が崩れていることもあるだろう。誰にもわからぬさ。人はそれほど万能じゃない」

「本当に勘とはな。そもそも今、こんな賭けに出る必要があったのか?」

「出ねばガリアスは乱れんよ。今、ガリアスを囲うのはアルカディア、アークランド、ヴァルホールの三国だ。この内二国は旧七王国の土地に居座っているが、国力に関しては足しても一国に及ばん。アルカディアもジリ貧。しかも上層部は繋がっている。ここで奇跡を起こさねば、エアハルトが国を売る。無論、それは間違った選択ではない。国を案じた結果そうなるだけのこと。俺は否定するがな」

 アルカディアを売らせぬためには、ガリアスを打ちのめし勝利という奇跡を突き付けねばならない。それは生半可では逆効果、ガリアスの逆鱗に触れるだけ。やるなら徹底的に、二度と歯向かう気が起きないほど蹂躙する必要があるのだ。

 そのためには奇跡が要る。

「このままでは負けるぞ」

「言われずとも。まあ見ていろ。勝負所での勘はあまり外したことがない」

「……では、その予感を信じるとしよう。あの御方は勝利だけお望みだ」

「仰せのままに。ニュクスの機嫌を損ねぬよう頑張ってみようか」

 時代の英雄となるか、時代の敗者となるか、復帰初戦から賭けに出た男は静かに笑う。確信などない。理屈で考えたなら、この賭けは多少分が悪いだろう。それでも賭けてみた。勝つために、時代の頂点になるために必要な奇跡。

 予感は、確かに其処にあった。その眼は朝焼けとは逆の方に向いていた。


     ○


 七日目、盤面平穏に、ゆっくりと締め上げられていく感覚。将兵たちの心身は摩耗し、見えぬ希望に心が折れかける。もはや戦わずして勝利が手に入る状況。味方すら心の中では白旗をあげて欲しいと願い始めていた。

 あと数日は持つだろう。敵軍は焦って攻める愚を犯さず、じっくり腰を据えて構えているのだから、引き延ばすことは難しくない。逆に言えば付け入る隙も無かった。逆転の目はない。一か八かの突貫すら許されぬ盤石。

 揺らがぬ敗勢。それは静かに心を蝕んでいく。

「……ウィリアム様、もう、限界です」

 そんな中、クロード、ラファエル、ベアトリクスの三人はウィリアムのもとに召集されていた。何故呼ばれたのかもわからず、呼ばれてきたは良いものの、呼んだ本人はこの状況で食事をとるという謎の行動を見せつけられ、三人とも呆けていた。

 やっと口にのぼった言葉が、弱音。三人とも口に出さぬが同じことを考えていた。

「グレゴール様の奇襲が頼みの綱でしたが、相手は常に背後を警戒し力を温存しています。これではとても奇襲など出来ません。いえ、奇襲にならないではないですか」

 ラファエルは三人の、皆の言葉を代弁していた。ガリアスが勢ぞろいする前に放ったグレゴール軍。総勢二千の騎兵は東方をぐるりと回りガリアスの背後をつく算段であったはず。であればそれは叶わぬ策。ガリアスの目は常に背後を見ており、それでもなお戦場を優位に進めるほどの力差があったから。

 これだけ余裕のある軍、東西南北どこにグレゴール軍という強力な駒を打ち込んだとしても、その効果が発揮される前にすり潰されるだろう。もちろん、挟撃したところで粘られて他軍が合流、やはり潰される。

「グレゴールは来ない。奴には別の仕事を任せてある」

 驚きの目でウィリアムを見る三人。我慢できなかったのかクロードが前に進み出る。

「ふざけんなよ! 今ここで、窮地の俺らと戦う以外、どんな仕事があるってんだ!」

 その言葉に苦笑するウィリアム。それがまた癪に障ったのかクロードが叫んだ。

「笑ってる場合かよ! 四方八方包囲されて補給もできない。グレゴールさんも来ない。せめて策をくれよ。ないならさっさと――」

「降参しろ、か。く、くく、くっはっはっはっは」

 我慢しきれなかったのかウィリアムは笑い出した。笑うような状況でもないのに、とてもおかしなものを見たかのように笑うのだ。まるで喜劇の山場を見ているかのような、道化が滑稽なことを言い放ち、耐え切れず笑い出したかのような、そんな笑い。

「こいつは英雄ではない。ただの狂人だった。なればこの戦、勝ち目はない」

 ベアトリクスは断言する。七年前は英雄だったのだろう。しかし、七年間で白騎士はバランス感覚を失っていたのだ。そうでなければこのような敗勢になるはずがない。この状況を是とするはずがない。いくらでもやりようはあったはずなのだから。

「いや、すまんな。ふふ、あまりにもお前たちが面白くて、耐え切れなかったのだ」

 ウィリアムは深呼吸をして息を整える。そうして三人に目を合わせた。

「この戦で随分と自信を喪失したようだな。クロードはバンジャマンに、ベアトリクスはマリーとロランに、ラファエルはアダン、アドンか。いずれも優秀な人材だ。武人なら誰でも知っているガリアス有数の戦士で、強いのは当たり前。だが、頂点じゃない。お前たちは頂点以外に鼻っ柱をたたき折られた。だからこそ堪えたのだろう? 頂点の遠さに、今までの自分が否定された気分になったか? 個人の敗北感を全体のものとして、皆で傷を舐め合いたくなったか? いやはや、本当に、お前たちは面白いなァ」

 食事の手を休め、ウィリアムは立ち上がった。その眼は、もう笑っていない。

「己惚れるなよガキ。お前たち程度の努力など皆やっている。お前たちは才能があったから少しばかり先んじただけ。大した努力もせず、経験も知識も、何もかもが足りないお前たちが一丁前に挫折とは、くく、笑うしかなかろう? マリアンネと同じ道に進んだ方がいい。その滑稽さは才能だぞ三人とも」

 彼らの、かすかに残ったちっぽけなプライド。それがくすぐられる。挑発する相手にやり返してやれと心が叫ぶ。しかし――

「言いたいことがあるなら言ってみろ。ただし、弱い言葉は吐いてくれるなよ。己の弱さすら呑み込めぬ弱者は俺の兵に要らぬ。自分の今を直視してみろ。三人とも、俺にそれらしい『負け』を提言してきた。己が負けた、ならば他も……それは弱さだ。先に進みたくばこの場で捨てておけ。さあ、何かあるか?」

 何も、口から出ることはなかった。

 ウィリアムは満足げに頷いた。

「お前たちは弱い。確認出来ただろう? 己が立ち位置を。それは収穫だ。噛み締めろ、弱さを。お前たちには期待している。いつか必ずものになる。だからこそ、今回は負けてもらった。弱さと向き合えたな? それでいい。それだけでこの戦には価値があった」

 まるで戦が終わったかのような言葉。三人はいぶかしげにウィリアムを見つめる。

「あとは勝つだけだな。今日は良い日だ。天気が良くて、遠くが良く見える」

 しかし、ウィリアムは三人を見ていなかった。

 その視線の先には――

「門が開いた。俺たちも準備をするとしよう。時間はないぞ」

 煙が一筋。

「奴は、速いからな」

 それは『西方』の山間から立ち上っていた。


     ○


 最初に気づいたのは北に布陣するジャン・ポール・ド・ユボーであった。

「西? 東ではなく西から動いた?」

 想定では伏兵を仕込むのならば東を大回りするルートしかないと考えられていた。辺境の、荒れた土地を、山々を迂回して回り込む。そこからの強襲が本筋だと睨んでいた。想定が外れた、それは良い。筋を外すことなど良くあることである。西とて完璧な索敵網を敷けているわけではない。抜けがある以上、ありえないことではなかった。

 しかし――

「二本目……速くないですか?」

 アルセーヌは二陣目への到達時間をいぶかしむ。あの煙は間違いなく敵が到達したことを知らせる合図で、一陣目と二陣目の距離はそれなりに離していたはず。狼煙一つで敵の速度すら把握する。無駄のない配置、かつ攻め難い地形を利用した――

「三本目。アルセーヌ! すぐに騎士団をまとめよ。東周りで本陣へ向かう!」

「包囲は解けますがよろしいのですか?」

「構わん。もはや状況はそのような段階ではない」

 二陣目から三陣目、この距離をものの数分で踏破する速力。明らかに速過ぎる動きに、ポールの脳裏にちらりと映る最悪のビジョン。

「悪い予感は、往々にして当たるものだ」

 外れていてくれ。ポールはそう願わずにはいられなかった。


     ○


 次に気づいたのはアダン、アドン。すでに四本目が立ち昇る異常事態に目を見張った。戦の中、後ろに目が向かなかったのは決して咎められることではない。目を離して数十分も経っていないのに、四本目までいかれていること自体がおかしいのだ。

「「嘘、だろッ!?」」

 ボルトースもまたほぼ同時に気づいた。己から見て南西、あまりにもあっさりと上がった五本目、索敵網における最終ラインの合図。

「今すぐ動ける者は俺に続け! 下手をすると喰われかねんぞ!」

 三人の脳裏にはポールと同じ最悪のビジョンが浮かび上がっていた。それは意識的に削除していた選択肢。これはありえない、そうタカをくくっていた、そうであって欲しいと願っていた。もし、その想定を考慮に入れると、計算出来なくなるから――

 それは王者ガリアスですら遭遇したことのない敵。


     ○


 五本目が立ち昇り、騒然としていたガリアス本陣であったが、そこから現れた一団を見て一気に緊張がほぐれてしまった。総勢五百騎ほどの集団が五万をも超えるガリアス本陣に向かって来ている。その愚行を彼らは哂っていた。

 リディアーヌもまた緊張を解く。素早く索敵網を突破してきたが何てことはない。ようは味方すら置き去りにして速度を重視した結果であり、驚愕の速さでそれらを抜けたとしても、今度は本陣を抜く力が足りないのでは本末転倒。

 リディアーヌですらそう考えた。多くの将兵が同じ考えでも無理はない。

「リディ! 集中するんだ! 相手の速力が落ちない。むしろ上がっている!」

 ダルタニアンはその弛緩を一喝で吹き飛ばす。皆、どこかで目を背けてきていた。そんなことはありえない、と。いつだって彼らは強大で、いつだって彼らは孤高であった。

「歩みに迷いがない。あれは勝てると思っている集団だ! そして、その数でそれが出来る奴らなんて、ローレンシア広しと言えども一つしかないだろう!」

 ダルタニアンも、リディアーヌも、気づいた時にはすでに遅い。否――

「よーし、野郎ども。頃合いだァ……旗を掲げろァ!」

 彼らが速過ぎた。

「黒い、旗。そんな、ありえない。だって、奴らは、奴らがこんなところにッ!?」

 さらに加速する集団。加速と共に爆発する戦意。彼らは五万の群れを、王者ガリアスを恐れていない。それもそのはず、彼らもまた王者に率いられているのだ。ガリアスを世界の王とするなら、彼らの主は戦場の王。ありとあらゆる点で劣れども、ただ一点、戦場でだけは絶対無敵。七年間、ただの一度ですら負けはなく、ガリアスをして勝負を避けてきた戦場の支配者。

「中心にて黒き獣が咆哮す。たなびくは黒狼旗――」

 呆然と彼らはその瞬間まで立ち尽くした。泣こうが喚こうが逃げられぬことを悟ったがために。生きることを諦めた。ただ視線が合っただけで、魂まで抜かれたかのような感覚。ガリアス本陣の後背、受ける準備もできず、弓兵を入れ替えることも間に合わず、ガリアスは棒立ちにも等しい状態でその男の突貫を受けた。

「派手に征くぜェ! 俺が最強だァ!」

 彼らの名は『|黒の傭兵団(ノワール・ガルー)』。ヴァルホール王国の中核部隊にして、地上最強の生物と評される王が率いる大陸最強の部隊。連戦連勝、彼らの後に負けはなく、彼らこそが勝利と化していた。

「ガァァァアアアアアアアッ!」

 黒き狼の王は吼える。それは戦場における死の宣告と同じであった。全天が震える。世界が恐怖に包まれる。近寄る必要もない。確かめる必要もない。

 この男こそが最強。

「何故、貴様がここにいる!? 『黒狼王』ヴォルフ・ガンク・ストライダー!」

「あン? 傭兵が戦場にいるんだ、仕事に決まってんだろボケ」

 力も速さも、この男に勝る者なし。ゆえに最強最速。ゆえに無敵。

 戦場の王者が君臨する。


     ○


「門を開けよ。俺が出る」

 そしてもう一人は静かに――準備を終えていた。

「さあ、進撃を再開しよう。目指すは王、一気にこの盤面を詰ませて見せよう」

 自身の共犯者である妻が用意した衣装を身にまとい、新たなる仮面は己にさらなる深みを与える。誰も彼を理解できない。誰も彼らに届かない。

 ゆえに巨星。新たなる巨星が二つ、天を支配する。

 ここから始まり。伝説が幕を開けた。

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