進撃のアルカディア:英雄の帰還※改稿済
ウィリアムの前には穏やかな表情を浮かべたルトガルドが立っていた。此処に至るまでさまざまな苦悩があっただろう。少しずつ聞こえてくる世界の足音に怯えながらの日々は、果たして幸せだったのだろうか。
「賭け、負けちゃいました」
はにかむルトガルドに後悔の念は見えない。
「勝つと思っていたか?」
その眼は真っ直ぐと――
「いいえ。それでも賭ける価値はあった。負けても、この七年を私は得た。充分です」
ウィリアムの心を射抜く。嗚呼、どうして死を覚悟した者の顔はこうも安らかなのだろうか。死を前にしてそれを受け入れた姿の美しさは、他の何物にも変えがたい。覚悟が、自問が、苦悩が、絶望が、押し寄せてくる中で、それらを全て受け入れ、包み込む奇跡。
「俺はずっと考えていた。君は、たぶんヴィクトーリアとは違う。君自身言っていたように、理由があるはずだ、と。初対面のはずの君が、どうして視線をそらしたのか。何もしていない俺に、何故君は好意を向けてくれたのか。ずっと、考えていた」
ルトガルドは幸せそうにそれを聞く。どんな想いであれ、ずっと自分のことを考えてくれた。そんなことにすら幸せを感じてしまうのだ。もし――
「結論から言えば、俺は何もしていない。俺に成る前の、やせっぽっちのアル。そう、君がこぼしたあの名が成したんだ。何をしたのか、それは思い出せない。あの時代を思い出そうとしても、全部、あの日、ぐちゃぐちゃになった。ぐつぐつ煮え滾った憎悪が、あの日の前を歪めている。思い出せない、が、そうとしか思えない」
それが核心に近づいたなら――
「薄いが理由だってある。最初、疑ったのはとある女が残した刃、それが届いたのかと思った。ルシタニアの女……俺の喉元にまで迫った女、彼女が何らかの手段で俺の正体を誰かに伝え、君がそれを得た。俺が見せた致命の隙は其処しかない。ただ、その場合おかしなことになる。彼女は俺がルシタニアのウィリアムでないことは知っていた。しかし、俺がアルと言う奴隷であったことまでは知らないはず」
ゆえにブリジットが残した刃ではないと推察できる。では残りは何が考えられるか。あの日以降の記憶ははっきりとしている。如何に貴族の令嬢として地味なルトガルドでも、貴族の令嬢が基準でない自分が忘れるはずは無い。市民含めた平均ならば彼女は綺麗で、自分に好みがあるとすれば、きっと彼女のような雰囲気を持つ女性だから。
だから忘れない。あの日以降であれば――
「私からすると隙だらけ、でしたよ」
くすくすと笑うルトガルド。からかわれていると思いウィリアムは少しむっとする。
「昔はずっと下を向いていましたね。道を歩きながら本を読んで、路地の隅っこで地面に字を書いていた。死に物狂いで、血眼になって、力を欲していた。全てを拒絶し、誰かが声をかけようとも、殴ろうとも、決してその眼が他者を映すことはなかった。ただ知識だけを貪って、自分の肉にしようと、一生懸命でした」
彼女はアルと呼ばれていた時代を知っている。自分が本屋で働き、其処で知識を得たことも知っている。ならば当然、彼女は知っている。その本屋が、親代わりをしてくれていた彼らがどうなったのかを。
「私は貴方の判断を正しいとは思いません。でも、アルという少年があの国で成り上がるためには、あれしかなかったのだと思います。貴方がルシタニアのウィリアムとして私の前に現れたときは驚きました。遠くで、見ているだけで良かったのに。自分の器量の無さは知っていて、魅力が無いこともわかっていたはずなのに……欲が出ました」
あの時点で確信に近いところにいた。
「私だけが知っている。そして、私が一番近いところにいる。自然と、空気のように、邪魔にならぬよう、でも必要とされるよう、そうしていれば、いつかほんの少しでも近くに……その弱さを私は憎みます。あの人に負けるのも当然です。踏み込む勇気が、覚悟が無かった。待つだけでは何も掴めない。わかっていたはずなのに」
ルトガルドは微笑む。
「私はずっと私のことが嫌いでした。貴方に相応しくない。貴方が目指す先で、私はきっと邪魔になる。言い訳ばかりで、逃げてばかりで、臆病な私が一番嫌いでした。でも、だからこそ、私は今の私が少しだけ好きです。貴方の隣に立つために全てを賭して、踏み込んだ。この七年を掴み取った。貴方の隣に、今、私はいる」
七年間、色褪せること無かった想い。ウィリアムの想定よりも遥かに前から彼女の心は決まっていたのだ。踏み込む勇気が無かっただけで、賢いがゆえに、見え過ぎてしまうがゆえに、何度も機を逸したのだろう。
「私は貴方に会ったことがあります。遠い昔、まだ貴方の髪が黒かった頃に」
「すまない。覚えていない」
「ほんの少しだけ運命が重なっただけですから。でも、私にとっては大きな事件でした。私の価値観が全部壊れて、モノトーンだった世界が、色づいた。貴方の背中には真っ赤な夕日が、その美しさを、私は、忘れられない」
ウィリアムの記憶をあさってもルトガルドの記憶は出てこなかった。おそらく、アルと言う少年にとってその出会いはそれほど大きなものではなかったのだろう。彼女の価値観が崩れ去るほどの出会いが、少年にとっても同じ衝撃とは限らないのだから。
「真っ赤……だから、ルビー、か」
「……安直でしょうか?」
「少し、な」
笑い合う二人はとうとう全てを曝け出した。もはや隠すものはない。
「あっという間だったな」
「ええ、本当に。幸せな時間でした。ウィリアムにとってはどうでしたか?」
「ああ、幸せだったよ。だからこそ――」
ウィリアムは哀しげに微笑んだ。
「俺は君を切り捨てるぞ。世界が俺を選んだ。ならば俺は最善を尽くさねばならない。そして俺の最善、その中に、君はいないんだ。否、誰もいちゃいけない」
ルトガルドは静かに頷いた。
「わかっています。こうなることはわかっていて、切り捨てる方こそ辛いのがわかっていて、私は貴方に踏み込みました。自分の分不相応な幸福、その揺り返しは私の命で」
「勝手に死ぬことは許さんぞ。俺が君を奪わねば意味がない。分不相応な幸福というのなら俺も同じだ。血塗れたこの手で君を抱き、アルフレッドまで授かった。その幸福の喪失、痛み、俺もまた享受せねばならない。むしろ俺こそが負うべき痛みだろう」
ウィリアムにとってルトガルドという女性はいつだってそばにいた。気がつき、賢く、都合が良い。其処に甘えたことは何度もある。
「俺は君を殺す。だが、それは今じゃない。いいな」
「はい、全て任せます」
きっと、そうすることが互いにとっての罰なのだ。ウィリアムは罪にまみれ、ルトガルドはそれをことごとく見逃してきた。片棒を担いだこともある。罪には罰がいるのだ。ルトガルドは己が命を持って、ウィリアムは奪うことしか出来ない。
奪えば、あの時のような虚無が胸を巣食う。アルレットを失った時、絶望に己は喰われた。ヴィクトーリアを失った時、絶望の冷たさに死をも超える孤独を知った。そして、これが最後の喪失である。
「私は貴方の罰足りえたでしょうか?」
「充分過ぎるさ。言ってなかったが、俺はずっと君が好きだったんだ。ただ、俺は俺が幸せになれないことを知っていたし、好きだからこそ距離を取るべきとも思っていた。だが、俺が好きになった連中はどうしても距離を縮めて来るらしい。折角、俺が気を使ってやってるのに、馬鹿なあいつはともかく賢い君まで踏み込んできた。本当に、君たちは男を見る眼がない。こんな愚者を愛するなんて、それこそ本物の愚者さ」
「その言葉だけで充分です。おべんちゃらでも、並べてもらえたから」
罪も罰も、愛すらも己が手で決する。
「俺は前に進むよ。その先で俺は一人だ。ヴィクトーリアも、君も、誰も近寄れない高みへ俺は征く。道の果てで、何を成すのか。君や、ヴィクトーリアの死に意味はあったのか、彼岸にて見ていてくれ。必ず、意味を生み出して見せるよ」
奪うたびに強くなってきた。奪い続けて此処まできた。今度もまた奪う。そしてさらに強さを増す。誰もついて来れない。誰よりも高いところへ――
「見ています。ずっと、死した先でも、ずっと。待つのは得意なんです」
また一つ、ウィリアムは業を得る。
○
ウィリアムとルトガルドが屋敷から出てきた時、その雰囲気の変化にカールは話がまとまったことを察した。同時にヒルダもまったく別の心境であるが察する。決まってしまったのだ。この夫婦だけではない。この国の、世界の、向かう先が――
「明日、発つよ。善は急げと言うしな」
「準備は出来ているのかい?」
「俺一人なら準備など大していらんだろ。ルトガルドとアルフレッドは後発でアルカスに向かってもらうさ。どうせすぐ戦場、剣一振りあればいい。気を張る必要もない」
「君のいるべき場所に戻るだけだからね」
「此処も気に入っていたんだがな」
ウィリアムとカールの会話を少し離れたところで聞き耳を立てているクロードは、とうとう思い浮かべていた夢想が叶ったことを知った。少しずつ、じわじわと敗北を重ね領土が削られる度に味わってきた無力感。
現状を打破する可能性が現れた。
「クロード、アルフレッド、話がある。大事な話だ」
「今行きます! ほれ行くぞアル坊!」
「うん、まってよクロードにい」
アルフレッドは後になって思い出す。この日、この時、自分にとっての黄金の時代が終わったのだと。自分を無条件に愛してくれる父と母。たびたび訪れてくる面白い兄貴分や姉貴分。穏やかで、満ち足りた日々を、得難い日常を、
思い出す。もう二度と、この時は戻ってこないのだから。
黄金の時代が静かに終焉を向かえ、停滞していた時が動き出す。
○
「これが、今のアルカスか」
小さくとも敗戦、重ね続ければ大きな影響となる。久方ぶりに訪れたアルカスは大きく様変わりしていた。ウィリアムが最後に訪れたのは四年前に一度きり。その時に感じた雰囲気とは大きく異なっていた。
「そうだよ。これがアルカスだ」
大通りというのに活気は無く、人々の顔も何処か暗い。大通りにまで溢れる貧しい者の群れ。彼らは、おそらくだが元はそれなりの職に就き、それなりの稼ぎがあったのだろう。しかし、今の彼らにはそれがない。じわじわと奪われ続ける戦争と、
「敗戦だけではないな。昨年は飢饉、今年も調子は良くないか」
「うん、不幸は重なるものだけど、最近は本当に酷いよ」
「この国は天にも見離されたのか。ふ、俄然やる気が湧いてきた」
「頼もしいよ。本当に」
七王国、もはやこの名が使われることは無いが、そこに並び称された国の首都とは思えぬほどこの国の病巣は広がっていた。七年 間、最初の数年は良かった。カールがブラウスタットを奪取し、ヤンがしっかりとガリアスを抑える。アンゼルムはウィリアムの必要性を喪失させるほどの活 躍。世界からは黒騎士と恐れられた。
全てが狂ったのはたった一度の敗戦。そこまで調子の良かったアルカディア軍が小石に躓いた。国民は大して気にも留めず、総指揮であったアンゼルムも咎められることはなかった。しかしこの小さな敗戦から、アルカディアは怒涛の勢いで堕ちていく。
大将ヤンの裏切り。敵国ガリアスに懐刀であるグスタフと寝返った事実は世界に大きな衝撃を生んだ。すでに例外として王剣として迎え入れられていたランスロと並ぶ、王槍としてヤンは迎えられたのだ。
裏切られたことに激怒したアルカディア王家は総力戦を挑み、これをヤンが華麗に捌くという皮肉な結果に終わった。この敗戦で一気に力を落としたアルカディア軍であったが、それでもアンゼルムは脅威の粘りを見せる。何とか、此処までこらえてこれたのはアンゼルムあってのものであっ た。
「――『戦女神』がガリアスと渡り合ってくれたおかげで、この国はまだ生きている。もう一人の怪物、『傭兵王』は何処にでも現れ るし、現れたなら絶対に勝利をもぎ取ってくる。ガリアスが相手でも、関係なしに。あの二人がいたから最低限、ガリアスを抑えることができていたんだ。もちろん、僕らも相当痛い目は見ているけどね」
あとは世界情勢の混迷もアルカディアがぎりぎり生き残る一助となっていた。数多の英雄がしのぎを削り、斬った斬られたを繰り返すこと幾たびか。気づけば均衡を保つような絵図が完成していた。多くがにらみ合い、大きな動きが出来ないでいたのだ。
「そういえば一度うちに来たぞ。くだんの傭兵王様が」
「え!? 来たの? あの傭兵王、黒狼のヴォルフが!?」
「ああ、ガキを見せびらかしに来たな。あそこの夫人はいいぞ、しっかり尻に敷いてる。思わず笑ってしまったよ。息子も年の割には良い体つきだった。あれは英雄の卵だ」
「うわー珍事だよ。クロード君は知ってた?」
先導するクロードに声をかけるカール。クロードは困ったような表情になった。
「知ってたってか俺もいました。稽古と見せかけたあの可愛がりは許せないっす」
「昔、お前はあいつに一発かましてるからな。その分でも返されたんだろ」
「子供のやったことでしょうに。ムキになっちゃって」
カールの驚きをよそに世間話のような感覚で話が進んでいく。しかし、ことはそう簡単な話ではないのだ。傭兵王と謳われる男、 ヴォルフはれっきとした一国の王である。旧サンバルトを母体としたヴァルホール王国の王で、傭兵国家と揶揄されるほど戦力の輸出入に力を入れていた。
烈日を討ったヴォルフの力に集った戦力は、数こそそれほどでもないが優秀な者が多く、世界中でヴァルホール印の戦闘狂たちが猛威を振るっていた。今、ローレンシアを席巻する王がおしのびでかつて同等とされていた怪物と接触していた。この話が当時広まっていれば、それだけでウィリアムは罰せられていたかもしれない。それだけ危険なのだ。もし、かのヤンのごとく裏切られたのならアルカディアにとっては大き過ぎる痛手である。
「あとはエルンストも来ていたな。レスターと一緒に」
「ふーん、エルンストね。……エルンスト?」
「「え!?」」
二人の顔が驚愕に歪んだ。
「随分と様変わりしていたよ。危うくルトガルドとアルフレッドが殺されるところだった。危険度で言えばこいつらも相当なものだ。まあ最後は撃退したが」
「いや、そもそも彼らの生存は誰も確認できていないはず」
「来たものは仕方がない。丁重に剣でお相手したさ」
「危険って、危険過ぎでしょそれ! アルカディアってかウィリアムさんに恨み満々じゃないすか! ってか世間話の範疇じゃ」
「とにかく面白いやつらに事欠かぬ時代と言うこと。そこで勝ち続けることが俺たちの使命だ。この弱者どもに勝利と言う水を与えてやろう。一回、二回、重ねるたびに上向くさ。勝ち続けりゃ元の姿に戻るし、それ以上にだって出来るはずだ」
ウィリアムは道の果てにそびえる王宮を見据える。
「さあて、まずはひと山、軽く超えるとしよう」
勝てばいい。勝つことだけが自分の価値の証明となる。ひいてはこの国の価値も自分たちの行いで決まってくるのだ。それを引き上げにウィリアムは此処に来た。
○
エアハルトにかつての輝きが失われてどれだけの時が経っただろうか。勝っていた時はよかった。英雄を地方へ追いやったが、その英雄の強さに内心恐れていたものは想像よりも多く、ほっと胸をなでおろしたものも少なくない。その後の数年にわたる勝利も今思えば悪かった。彼らに勘違いさせてしまったのだ。自分たちの強さを、世界の強さを、自分たちが追いやった英雄の強さを。
負け始めると状況は一変する。誰も彼もが戦犯を粗探しし、一時は武官の多くを更迭する事態にも陥った。しかし、勝てない。頭を挿げ替えても泥沼は深まるばかり。敗戦により戦力が失われ、戦力補充のため更迭した者たちを呼び戻し、それでもなお負ける。
そんな中で、誰といわず出始める白騎士待望論。口には出せぬ。更迭を先導した王子の不興を買うことはわかりきっているから。されど負けは続く。飢饉も重なり国内は荒れ、貴族も含めて国民の心はすさんでいった。
天国から地獄へ、アルカディアは堕ちて行く。大きな分岐点はヤンの裏切りであることに異論は無いだろう。ガリアスに格別の席を用意されて祖国を捨てた二人の名は、この国でも忌み名であり口に出すことすらはばかられる。
しかし、もう一つ、分岐点を挙げるとするならば、多くの国民はこう答えるだろう。白騎士を更迭した日、あの日こそ祖国の分岐点であったと。あの日以来、明確な領土の拡大はカールのブラウスタット取りのみ。白騎士、ウィリアムが健在であった時代に比べると、面積の上では何ともささやかなものである。勝つことが当たり前となった、小国など敵ではなく、出れば勝つ。常勝の男。
そんな英雄を捨てたのは誰か、本当の戦犯は――誰か。
「……騒がしいな。愚民どもめ」
一時は玉座を約束された男として黄金の輝きに満ちていた。男の姿はすでにその面影は無い。目じりには深いくぼみが、くっきりと浮かぶ隈には疲労以上のものが見え隠れする。眉間には常に力がこめられているのか、深くしわが刻まれており人相を悪くする。
第二王子エアハルト・フォン・アルカディア。生まれた瞬間から選ばれし存在であった男は、荒れ狂う世界の壁に阻まれて輝きを喪失してしまったのだ。平時であれば名君になっていただろう。普通の時代であれば後世に語り継がれる存在となっただろう。
されど今はローレンシアの歴史でも類を見ない乱世。時代に一人いればいいはずの傑物がそこかしこに存在し、桁外れの輝きを持つもの同士がしのぎを削る異常が日常になった世界で、普通の名君が生きる道は無かったのだ。
「殿下、ご報告が!」
ノックもわずかに入室する側近を見て、エアハルトは眉をひそめる。普段、礼節を欠くことのない男が慌てるばかりに意識すら飛んでいる。
「ウィリアム・リウィウスがアルカスに。王宮に向かっております!」
その報せを聞いた瞬間、エアハルトの思考からも無礼の件は吹き飛ぶ。ウィリアム、その名は彼にとって忌み名であった。追いやった直後はむしろ愛おしさすら感じ、哀れみも覚えていたが、数多の敗北が男を地に落とした。地に堕ち余裕を失った男にとって、徐々に膨らんでいるであろう白騎士への期待が、自分への糾弾に感じてしまう。失ってなお輝く本物の輝きに、嫌でも自分の輝きが本物でなかったことを知る。
その男は間違いなく傑物であった。その輝きはめっきなどではなかった。しかし時代は傑物を超える者たちが跋扈する時代。彼の劣等感は正しい感覚である。それを受け入れられるならば先はあった。分を受け入れ、其処から先を探したなら道はあったかもしれない。
「……誰が呼んだ?」
「不明です。しかし随伴としてカール大将が」
「……王命か。なら兄上が手を回したな。今の陛下にそれをする胆力など無い。自分では何も出来ぬから、私に逆らうことはしないだろう。まあ、無能だが小心者である分救いがあるよ父上は。くく、本当に兄上は救えない。どいつもこいつも、愚か者ばかりだ」
切れ者であるから堕ちてなお手に取るようにわかってしまう。凡人の考え、窮地ゆえ強き者を呼び戻す。それが毒に転じるとは考えられない。刹那的な考えで生きているから、その後のことが考えられないのだ。
「浮上はさせんよ。すでにアルカディアの道は私が決めている。今更出てきて状況をかき回すなど許せん。絶対に、阻んでやるぞ、ウィリアム・リウィウス!」
エアハルトは即座に立ち上がり、騒ぎとは逆の方向に向かう。市井がどれほど騒ぎ立てようと関係ない。押さえるべきは頭。王を押さえてはじき返す。そろそろ胸のうちを曝け出してもいいかもしれない。安心させてやるのも悪い手ではないだろう。
○
誰かが言った。「白騎士」と。下を向いていた市民たちの顔が少しずつ上を向く。光の見えない状況が続き、人々はいつしか空の色を忘れていた。太陽の輝きを、天に広がる青々とした空を。もう一度、天を、輝ける時代を、勝利をもたらしてくれる存在を。
「あ、ああ。神様」
飢えに苛まれ、骨と皮だけになった女性が天に祈りをささげた。最後の希望が、自分たちの前に現れたのだ。明日にも尽きる命、希望が見えぬゆえそれでもいいと、心が折れていた。しかし、其処に希望が現れる。心にほのかな熱がともる。
「カール様だ! ブラウスタットの英雄もいるぞ!」
隣に並ぶカールもまたブラウスタットの守護神として君臨する英傑。敗戦続くアルカディアの中で、唯一不動の戦場を指揮する最後の英雄こそ彼であった。
「白騎士様、どうか、どうか我らをお救いくだされ」
ひれ伏す国民を見てウィリアムは苦笑した。そして馬から下りて伏せている老人の肩に手をかける。英雄に触れられて慌てふためく老人。気に障ったのかと「申し訳ない」と連呼する。この卑屈さこそ敗戦国の、弱さの証左。
「善処はする。必ず勝利をもたらせるとは限らないが、少しでも状況が好転するように務めよう。ゆえに顔を上げるのだ。卑屈になる必要など何処にある? 我らは誇り高きアルカディアの民だ。生まれは違えど志は同じ。共に戦おう。私は剣で、貴女は心で。上を向こう。勝利は……地に落ちてなどいないのだから」
老人の目に歓喜の涙が溢れてきた。本来なら触れることすらためらわれる身分の差。湯浴みなどいったいいつからしていないだろうか。そんな穢れた己に触れて声までかけてくれた。英雄が共に立とうと言ってくれた。
其処に感動が生まれないわけが無い。
「ウィリアム!」
誰かが叫ぶ。
「ウィリアム!」
誰かが呼応する。
重なる声。高まっていく熱。皆が上を向き始めた。ウィリアムと言う存在を通して、天へと目を向ける。その先に勝利があると信じて。
○
「……陛下は何処にいる?」
がらんどうの玉座を前にエアハルトは立ちすくんでいた。恭しく頭を下げる大臣が申し訳なさそうに言葉を発する。
「フェリクス殿下が下へお連れに。誰かとお会いさせると言っておりました」
(ふざけるな。本当に…………救いようが無いな。あの男は)
憤怒のエアハルトはすぐさま玉座の間から飛び出していく。もはや一刻の猶予も許されぬ。声が、雰囲気が近づいてくる。一言入れておかねば接触するだけで雰囲気と話術に取り込まれかねない。度重なる勝利とその後の敗戦。あらゆる事象が現王の時代とは違い過ぎた。器を超えてしまうのも無理は無い。
だからこそ、この王宮での強者であったエアハルトが御せてきたのだ。だが、昨今での敗戦で自分への信頼も少し揺らぐ余地が生まれた。其処をつけ込まれたなら愚かな王はそちらへ揺れる可能性もある。
先んじる必要があるのだ。一言、ただ一言入れておくだけで印象を操作することは可能。あとはフェリクスもその場には同席させない。愚かなだけでは飽き足らず、分不相応な大望を抱き自分を追い落とそうとするクズ。もはや言葉を交わす必要もない。
「もう先の道は出来ているんだ。私の邪魔をするなよ、無能ども!」
エアハルトの足が速まった。
○
久方ぶりに姉と再会し、二人だけのお茶会を自室で開催していた最中、遠くから騒がしい音が聞こえてきた。最初は、姉である元第一王女のクラウディアが気づいた。愚民が騒がしい程度に思っていたが、どうにも様子がおかしい。
「……そう、もう一度昇ろうと言うのか。やはり、面白いのお」
次いで妹である第二王女エレオノーラの表情に朱と輝きが戻る。昨今の政情で心を塞ぐことの多かった王女は久方ぶりの笑みを浮かべた。
「嗚呼、ようやく、やっと、戻ってきたのですね」
ずっと待っていた。待つだけではなく己が裁量で呼び戻せぬかと色々画策もした。結局それらが実ることは無かったが、待ち望んだ日が来たことにエレオノーラは歓喜していたのだ。ようやくこの国に光が戻る。
それに、結婚していることは承知の上であっても、想い人が近くにいるのは嬉しいものである。数多の誘いを袖にして、多くの殿方に甘い言葉を向けられ、その度に想いは募っていった。
「ウィリアム様!」
待ち人、想い人、来る。
「御暑くなっているようだが、お兄様の近くにいた方が良いのではない?」
クラウディアの言葉にエレオノーラはハッとする。エアハルトが彼を呼び戻すことは無い。手を回したのはフェリクスしかいないだろう。であれば当然エアハルトは妨害を試みるはず。
エアハルトは病的なほどウィリアムを恐れているから――
エレオノーラは脱兎のごとく駆け出した。その真っ直ぐな様をクラウディアは面白くなさそうに眺めていた。彼女は知っているのだ。王族にとって、王族と言う血統を守るためならエアハルトの行いは至極正しいものなのだと。
「毒には毒を……ほんと、おもしろ」
クラウディアの浮かべる表情は、誰も見ていないところゆえに誰も見たことの無いものであった。否、これから先も含めて一人を除きこの表情を見る者はいないだろう。彼女はゆるりと立ち上がり、結果の見えた舞台の見学へ赴く。
己はまだ配役をもらっていない。しかし、自分にそれが与えられないとは露とも思っていなかった。その配役をこなし、主役を喰らう。それを楽しみに喜劇を眺める。
○
フェリクスは己が矮小な人間であることを知っていた。弟が出来たと知った時、自分の胸に宿ったのは歓喜ではなく不安、皆が祝福する中一人だけそれを別の視線で見ていたのだ。もちろんいずれ政敵と成る以上、不安視するのは当然である。しかしそれはもう少し大きくなってから、政治を知ってからのはずであった。
フェリクスは臆病で、怠惰で、極端に努力を嫌った。王族である自分が何故努力せねばならないのか。不遜に振舞っていたが何てことは無い。何でもこなせる腹違いの弟と比較されたくなかったのだ。
言葉とは裏腹にどんどん自分を嫌いになる毎日。生まれついての差だと自分を慰め、されど兄であるがゆえに諦めることすら許されぬ。エアハルトはどんどん先へ行く。とっくに自分の手の届かぬところへ。知識も経験も、己とは比較にならず、才気は膨れ上がる。自分を立てるものたちは軽い御輿を求めているだけ。
母が死に、自分に期待する者のいない王宮でフェリクスは一人嗤う。己が矮小さを、絶対だと思っていた男は、その実決して完璧ではなかったのだから。あの男の嫉妬に狂う表情を、恐怖のあまり自分のような狭量な手段をとる男を、それを見た時に浮かんだ感情がまた小さいのだ。
(……愉悦だ。本当に、嗤えてくるだろう、弟よ)
王宮の入り口にフェリクスはいた。父王にはすでに話を通してある。国の、王族の、己の存続のためならば何にでも縋るという父の弱さも、あの男が現れてから明確になった。才気溢れる弟も、偉大なる父も、その輝きはこの小さな箱庭の中でだけ。
「兄上、陛下は、何処にいる?」
殺意に満ち溢れた表情でエアハルトは腹違いの兄を見下ろしていた。ニコニコと、飄々と、しかし腹の中にはあったであろう格下を見る眼。表に現れたそれは、なるほど、あまり見栄えのよいものではない。
「急遽公務が入られたようだ。俺も知らん」
エアハルトの顔に青筋が走る。エアハルトが知らぬ公務などあるはずが無い。国家の運営、ほぼ全てが己を通して行われているのだ。実質的な王は己である。そして今のエードゥアルトが自発的に行動するわけが無い。その体力も、気力も無いはずなのだ。
「私を謀る気ですか、兄上」
「謀るなど、人聞きが悪いぞ弟よ」
其処にいつもの余裕は無かった。それほどに恐れているのだ、あの怪物を。自分が絶対だと思っていた弟が。もはや嗤うしかない。巨大に見えたエアハルトの輝きを、飲み込んでしまうほどの力。その力から見れば自分の何と小さきことであろうか。
フェリクスは嗤う。哀れな弟を、小さき己を。これだけ惨めな道化に堕ちてなお、弟の貌を見て愉悦を感じてしまう度し難い自分を。
「あの男が王家に何をもたらすか、貴方は何も理解していない!」
「さあな、俺にとってそんなことはどうでも良い」
「王家が滅ぶぞ!」
「だから、どうでも良いんだよ」
エアハルトは己が兄を見誤っていた。
「俺に先のことなどわからん。ただ、お前のその貌が見たかっただけだ」
これでもかと見下していた。格下だと明確に定義づけていた。だが、それでもなお足りなかったのだ。フェリクスという男の小ささは。エアハルトの想像を遥かに超えていた。言っていることの意味がわからない。考えていることの真意が見えない。
愚か過ぎて、小さ過ぎて、エアハルトは見落としていた。
「馬鹿なのか、貴方は」
「今頃気づいたのか、随分理解が遅いじゃないか」
「理解できない。こんなのが、私の兄だというのか」
エアハルトの貌を見て、フェリクスは余計惨めな気持ちになった。愉悦と同時に膨らむどうしようもない自分。笑えるほど小さな己に、フェリクス自身呆れる想いであった。
だが、同時にもう一つ、確信にも似た感覚があった。
「馬鹿な俺だが、一つだけお前より見えている部分があるぞ」
ずっと弟を見てきた。優秀な、勝者たる弟の貌を見続けてきた。だからこそ、フェリクスにはわかったのだ。弟が潜在的に抱きながらも、絶対に認めないであろう貌を、フェリクスは見た。勝ち続けてきた男が抱いた――
「お前自身より俺の方がエアハルト・フォン・アルカディアを理解している。だからこそ見えた。お前は潜在的に、とっくの昔に、負けていたんだよ」
劣等感。王族として生まれ、将来を約束されたはずの男が、ただ一人の異人、平民上がりの男に劣等感を覚える。それを敗北と言わずに何と言う。
「奴の方がお前より優秀だ。なあ、我が弟よ」
自分たちとは似ていない妹が此方へ走ってくる。息を切らせて、顔を紅潮させて、その眼は二人を認識に、そしてその先へと移った。
王宮の扉が開く。外から光が差し込み、人影を際立たせた。
(俺はその貌が見たかった。俺と似た、醜き弱者の貌を。俺たちは、似ていたな。哀しいほど、似ていた。その貌をした奴は、勝てないんだよ。俺のように)
エアハルトの貌を見てフェリクスは渇いた笑みを浮かべた。醜く歪んだ敗者の表情を、恐れ、嫉妬、羨望、憎悪、さまざまな感情が織り成す敗者の貌を、それを見て心の中で嗤う。自分と、自分に似た弟の滑稽さを。
「お久しぶりです、両殿下。この日を心待ちにしておりました。七年の研鑽の果て、今一度この剣、アルカディアに捧げられる至福を胸に。ウィリアム・フォン・リウィウス、此処に参上致しました」
勝者が現れた。貌を見ればわかる。へりくだっているが、その中に敬意など欠片もない。この場全てを格下と認識し、遥か高みから見下ろしていた。一生、勝てない。何故なら自分が一生勝てないと思っていたエアハルトが潜在的にそう思っているから。
「良く来たな。全て王命の通りだ。貴様には再編される俺の軍を率いてもらうぞ。貴様が大将だ、ウィリアム・フォン・リウィウス」
「身に余る光栄です。謹んでお受け致します」
「陛下がお待ちだ。俺の部屋にいらっしゃる。貴様の決意と今後の方針でも表明するが良い。俺に恥をかかせるなよ」
「はい、準備は出来ております」
全てが仕組まれていた。ここぞとばかりに機転を利かせるフェリクスに、エアハルトの感情は荒ぶるばかりであった。王命という形に成った以上、自分が頭を押さえる以外止める手段は無い。父王を説得して王命を撤回させる。その手しかないのだ。
だからフェリクスは先んじて王を囲った。唯一の弱点を自らの懐に隠した。エアハルトとて容易に踏み込めぬ政敵たる自分の懐へ。
(ふ、これで終わったと思うなよ。父上の差配一つで貴様は辺境に逆戻りだ。まだ取り戻せる。父上の扱いは私が一番熟知しているのだから)
とうとう現れた敵を前にエアハルトは執念にも似た炎を燃やしていた。自分のため、王家のため、『国』のため、この政争勝たねばならぬと胸に誓う。
誰がための戦いか――
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