真・巨星対新星:決戦前夜

 ウィリアムはその日もひとつの街を占領した。ストラクレスとは示し合わしたかのように出会わず、ウィリアムもまた無理をすることなく着実に歩を進めた。アンゼルムに言わせれば緩手なのだろうが、ウィリアムはあえて占領した街の者たちを厚遇する。あの北方にて猛威を振るった残虐非道の将は何処にもいなかった。

(充分身体は温まった。気力も充実している。そして、決戦の地も近い)

 ウィリアムの眼前の広がる地図、そこには多数の駒が睨みあっていた。今、この盤面で面白いのは、此処より北西の森林地帯。相討つはシュルヴィアとレスター。勝算は精々二割程度だろう。それでも、ウィリアムは確率を、現段階での力の差を度外視してその駒を打ち込んだ。もはや其処は感性の世界。理屈ではない。

(……足音。大股で勢いがある。嗚呼、やはり『一人』か)

 ウィリアムは向かい合う黒の駒を弾き、白の駒を前へと進めた。南東へ、ウィリアムによって突出した本陣と合流させる。

 扉の前に立つ。そしてノックのひとつもせず、

「入るぞ」

 入った後に彼女は言うのだ。シュルヴィア・ニクライネンという女は。

「許可した覚えはないが……まあいい」

 仁王立つシュルヴィア。その顔つきを見てウィリアムは賭けに勝ったことを確信した。

「いい顔つきになったじゃないか。いい経験を積んだと見える」

 シュルヴィアの表情は読み取れない。目と目が合っているのに、あまりによどみなく、ぶれることなく、浮かぶ光は不思議な色を湛えている。動かないものを読み解くのはウィリアムをして至難であった。

「ユリアンが死んだぞ」

「それは残念だ。それなりに使えるところまで成長したのだが」

 ウィリアムは特に驚いた様子もなく残念がる。その所作があまりにも軽薄で、あまりにも薄っぺらいから、シュルヴィアはわかってしまった。ユリアンの見立ては――正しかったのだと。ようやく、深淵の先が垣間見えた。

「それで、ユリアンは貴様に何を伝えた? ちゃんと想いは伝わったか?」

 ウィリアムとて気づいている。ユリアンがシュルヴィアをどう想っているのかを。昔は察しの良い方ではなかったが、一度最愛を知りそういうものを理解した。ゆえにわかり過ぎるほどわかってしまうのだ。自分に対する想い、人に対する想い、人同士の想い、を。

「……それは今日気づいた。素直に嬉しく、誇りに想う」

 ウィリアムは眉をひそめた。気づいた、ということは言わなかったということ。ならば何を言ったのか。いったいどんなことを彼は語ったのか。

「ユリアンが最後に語った言葉は――」

 ウィリアムは柔らかな表情を崩さない。

「貴様への恩義、忠誠、憧れに彩られていた。此処まで連れてきてもらえて感謝している、と。そう言っていた」

 ほんの少しすら動かない、柔らかな笑みを浮かべる貌。それはまるで仮面のようであった。人のぬくもりを拒絶する鉄のペルソナ。

「死地に追いやったのにか?」

「ああ、死地に追いやったのに、だ」

 ユリアンの言ったとおり表情一つ変えない。それが全てであった。

「馬鹿な男だ。死んでまでごまをするのか」

「死の間際でごまをする者などいないだろう。わかっているはずだ」

 シュルヴィアはくるりと背を向けた。

「貴様は優しいな。そして残酷だ。今回の一件で私は貴様を少し好きになった。少し、嫌いにもなった。私はお前が好きだぞ。同時に死ぬほど憎い。仇が想い人、矛盾はすまい」

 表情は見えないが背中は雄弁に語る。相反する想いを、受け入れることの出来る度量を備えたことを。優遇に足る人材に成長したことを。その背は語る。

「俺から言えることは一つだ。俺たちが前に進み続ける限り人は死ぬ。敵も味方も、喰らって俺たちは明日を掴む。忘れるな、死を。全てを踏み越え、背負い、立って歩け。貴様の命は無駄ではなかったと、全身全霊で示して見せろ」

 ウィリアムはその背に免じて、少しだけ踏み込んだことを語る。

「無論、そのつもりだ」

 膨大な殺気がウィリアムを襲う。今のウィリアムでさえも笑っていなせないほど、それは鋭く何よりも力強かった。零度が少し和らぐ。

「期待しているぞ、それなりにな」

 シュルヴィアは返事をすることもなく立ち去っていった。おそらく此処から自身の布陣までとんぼ返りをするのだろう。本陣と近づいたとはいえ距離はある。戻って為すべきことを為す。勝てるかどうか、戦場は終局に近づいているのだから。

「……感謝している、か」

 ウィリアムは感傷に浸ることなく作業に取り掛かった。すでに終局までの絵図は見えている。ならばやるべきはその先のこと。戦争が勝利にて終わり、その先に必要なものを用意する。これもその一環。

「馬鹿が」

 紙の上にペン先を置く。最初の一画目、ほんの少しだが線に力が入っていた。


     ○


 アンゼルムはグレゴールの静止も聞かずに前進した。部下たちも含めて手には弓を携えている。狙いはストラクレスの首。討ち果たすための秘密兵器はこの弓、毒矢であった。どの部位でもいい。当てるだけで勝てる。

(勝てばいいんです。勝った者が正義だ。それが戦場の流儀でしょう)

 アンゼルムたちはストラクレスを目視する。布陣は隙だらけ。懐に潜り込むのは造作もないだろう。弓の射程でけりをつければ全て片がつく。

(私が……思い出させてみせる。勝つためならば何でもした、あの頃を)

 近づく。まだ弓の射程には遠い。

「私が巨星を」

 まだ遠い。むしろ近づけば近づくほどに遠くなっていく。そんなはずはないのに、物理的距離はぐんぐん縮まっているはずなのに、気づけば遥か彼方。

「わ、私がストラクレスを」

 遠過ぎる。

 アンゼルムは目標、頂点に君臨する怪物と視線が交錯する。そして湧き出す汗、震える手足、悪寒が身体を駆け巡る。この一歩、踏み込めば弓の射程。だが、その一歩を踏み込んだ瞬間、怪物の領域にも足を踏み込むことになる。

(動け、何故動かん。何を恐れている!? 私たちは毒矢を打ち込むだけでいい。欲をかかず、距離さえ取っていれば必ず勝てる、はずなのだ)

 馬の足すら止めてしまう視線。その圧にアンゼルムは押し潰されかけていた。

 それでも、狂気に身を任せれば――

「はい、そこまでだよっと」

 狂気のみで前に出ようとしたアンゼルムを止めたのは、第二軍の先輩に当たるグスタフであった。その後ろにはグレゴールもいる。

「その一歩、踏み出せばストラクレスは見逃さない。一撃で射殺す自信があるならやってもいいけどな、自信ねえなら無駄死だぁよっと」

 そう言いながらグスタフにアンゼルムを前へ往かせる気はなかった。貌を見ればわかる。彼我の戦力差、アンゼルムがどう判断したのかも、わかってしまうのだ。この様子を、この姿をグスタフは痛いほど知っている。それがもたらす結末も。

「仕上がった巨星にゃあ小細工なんか効かねえのさ」

 加えてグスタフは不気味なほど静かなストラクレスを見て思う。

(おいおい、こりゃああの頃よりも強いんじゃねえの。このじいさんはよっと)

 充実が極まった状態。おそらく、この先老齢な彼らがピークを保てるのは此処までが限界。ゆえにここで全てを決めるつもりなのだ。未来の全てを。

「退こうアンゼルム。お前の弓の腕前は知っている。俺たち同期の中ではぴか一だ。でも、あれは無理だ。勝てる気がしない。矢が届くビジョンが浮かばない」

 グレゴールは濃厚かつ先鋭された気配を感じ、アンゼルムと同じように震えていた。君臨する巨大な星の大きさをようやく知ったかのように。

「私は恐れを為したわけではない。戦術的に必要を感じたから退くのだ」

 一時退く決断を下したアンゼルム。その背にはしみになるほどの汗が付着していた。ほんの少し向かい合っただけで、此処まで緊張して身体が硬直してしまう。そんな自分にアンゼルムは腹が立っていた。

「ヤンが呼んでる。ウィリアムもだ。終局までの指示を出すとよ」

 終局、アンゼルムの貌には複雑なものが浮かんでいた。


 此処より至るは終局。対峙するは黒の巨星と白の新星。場は刻一刻と二つの星が衝突する準備を整えていた。


     ○


 ウィリアムは一人であった。天を見上げればそこにはいつも煌く星々の海がある。手を伸ばせどもそのきらめきには届かない。必死になって手を伸ばしても、いつだって自分は闇の中、星には成れなかった。

 獣すら寝静まる夜。一人で男は歩んだ。自分はあの頃よりも強くなった。しかし、どれだけ強くなろうともただの人間でしかない。神話の世界、魔術の時代、その頃にはあったのかもしれない絶対、今の自分が立つ場所はあまりにも遠い。

「俺は何処にいる」

 いつもは騒がしい狂気も寝ているのだろうか、とても頭が静かである。きっといい気持ちで眠れるだろう。だから起きて歩む。救済の静寂、身を埋めたならば明日、死ぬ。

「俺は何処へ行く」

 思えば自分はいつだって欲してきた。輝けるもの、あたたかなもの、失って、手に入れて、捨てて、喰らって、ふと気づけば自分には何も残っていない。虚だけが其処にある。本当に欲しいものは何か、そんなことわかりきっているのだ。

「俺は何を為す」

 自分は狂っている。客観的に自分を見つめる眼が断言する。自分は愚かである。痛いほど理解している。いつだって手に入れることが出来た。どんな時でも、手を伸ばすのをやめたなら、簡単に掴めた筈なのだ。分相応に、身の丈にあった幸せを。

「俺は誰だ」

 掴めた筈の手。本の感触、自分を可愛がってくれた二人の夫婦を思い出す。早朝のさわやかな息吹、優しく存外計算高い少女を想う。繋いだ手のぬくもり、これ以上はない本当の愛情、幸せが、其処にあった。

「決まっている」

 それを握り潰す。あったかもしれない幻想ごと、弱い己を圧倒する。

「俺はウィリアム・リウィウスだ」

 喰らった名。忘れてはならない。自分という存在は最初の一歩から虚構なのだ。自分を殺し、別の何かに成り代わった。名も無き獣こそ本当の己。忘れてはならない。本当の自分など何処にもいないのだ。ありもしない幻想に惑わされてはならない。

 この道を選んだ瞬間から、自分にあったのは絶望だけなのだ。最初の手を拒み、殺し、修羅の道を歩むと決めた。覚悟もなく意味もわからず、暗い欲望の赴くままに罪を重ねた。自分を理解していなかったのだ。弱く、矮小で、繊細で、そのくせ欲深い。奪われたものと同等の対価を求めた。そんなもの、この世に存在しないのに。わかっていて罪に手を染めた。

 その業欲こそ――

「所詮、明日は通過点に過ぎない」

 男の原点である。男とヴラドの違いなど些細なものだった。ヴラドには逃げる胆力があった。代替品で妥協することを良しとした。そもそも狂ってしまえば思い悩むことなどない。ヴラドは少し自分に甘かった。だからあの悪魔に唆されてしまったのだ。

「俺は勝つさ。勝たなきゃ駄目なんだ」

 男は弱さと同時に潔癖さを兼ね備えていた。どうしようもなく、ほんの一欠片すら妥協できない。代替品では許せない。犯した罪はどんどん降り積もっていく。目をそらせば、耳をそむければいい。なのにそれが出来ない。それが出来ないから、男は狂気に飲まれず、その重さと共に強さを得た。それは仮初めなれど、力には変わりない。

「今までの罪とこれからの罪、それに見合う何かを……成すまでは」

 道は続く。これから先も。むしろ此処からが本当の戦いなのだ。

 ウィリアムは自分の天幕に戻った。

「ああ、そういえば忘れていた」

 ウィリアムは机の上に無造作に置かれている封書を見る。今日届いたそれは王印が押されており、その中身が王命であることを示していた。ぞんざいに扱ってはならない。アルカディアの国民であるならば。

「くだらん」

 ウィリアムはそれを蝋燭の火に近づけた。火が絡みつき封書がちりちりと燃え始める。深淵に浮かぶ唯一つの火、小さな火がアルカディアの王命を焼いていた。

「もう止まらねえよ」

 火に照らされた男の貌は――


     ○


 エルンストは震えるエィヴィングを優しく抱きしめる。王都へ戻ってきてから弟の様子はおかしかった。次いで戻ってきたレスターの惨状を見て、ついにベッドから出てこなくなってしまったのだ。近づけるのは兄であるエルンスト王ただ一人である。

「レスターは山を越えたよ。キモンのことは残念だったけど、大丈夫、まだ終わりじゃない。僕たちにはストラクレスがいるんだもん。じーじは最強なんだよ」

 エルンストは欠片も疑っていなかった。これから先、また元通りの優しい世界が戻ってくる。ストラクレスが自分たちを守ってくれる。いつだってそうだった。なれば今回も同じように平和がやってくる。ストラクレスの手によって。

「エルンストは怖くないのか?」

 エルンストは優しく微笑む。

「もちろんさ。大将軍ストラクレスは誰にも負けないんだ」

 守られることを露とも疑っていない。エィヴィングは初めて理解した。己が兄の無限の信頼は『依存』であることを。この王は最初から歪んでいたのだ。否、この国が歪んでいる。たった一人の存在に支えられている。

「負けたら?」

「ありえないよ」

 懸念は一蹴された。戦場を知らぬ王は無知ゆえの言葉をかける。戦場を知る王弟にとってそれは不安を掻き立てることにしかならなかった。

「陛下! ご報告が!」

 不穏な空気が押し寄せてくる。

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