世界・歴史・幻想:二つの日

 ウィリアムは帰り支度を整え終え、一人夜の森を散策していた。リュテスに習い始めた槍はあの日から毎夜罵倒される毎日である。基本的に覚えが悪いのだ。隠れて努力するから飛躍しているように見えるが、人よりも覚えが良かったことは記憶にない。

「……一人になってやったぞ、エウリュディケ」

 深淵に包まれた夜の森。月明かりが木の上に立つ美女を浮き彫りにした。

「あの子に、他の者たちに余計なことを吹き込んだわね」

「ガリアスの流儀に反するか?」

「手足は考えないわ。頭脳の用意した教本に従うだけでいいのよ」

 エウリュディケは有能な武人である。弓はトリストラムと並び大陸でも一、二を争う使い手。馬上での弓に限ればトリストラムを優るやもしれぬ。

「それで、目を覚まさせてやろうと言うのか? 俺をその弓で殺して」

 ただし彼女は武人の枠を越えない、越えようとしない。ガリアスが、王の頭脳が定義づけた役割を果たすだけで充分。それを相方にも求めているのだ。今度の戦でその思いはさらに強まっただろう。だから取り戻そうというのだ。その弓で。

「あらあら、これはただの挨拶よぉ」

 月下、猛禽の目はウィリアムの頭蓋を捉えて放さない。鋭い殺気はそのまま飛矢として炸裂しそうな雰囲気を持っていた。

「挨拶、ね。なるほど、君が病理だ。この国に巣食う、病巣だよ」

 ウィリアムの頬肉が薄く削れ飛んだ。血が流れる。

「あらー、言葉には気をつけた方がいいわよ。夜の森は物騒だからァ」

「かつてネーデルクスが辿った道と同じ道を君たちは歩いている。ガイウス王の、サロモン殿の、彼らが打ち立てた勝利の歴史を模倣しようと、彼らが苦心して作ったそのままを猿真似しようと、同じ時代ではないのに君たちはなぞろうとしているのだ。これが病と言わずして何という? 世界は流動的だ。時代は繰り返すが同じ時代など存在しない」

「それが遺言でいいのかしら?」

「革新王は哀れだな。継ぐ者が現れなかった。集まったのは模倣者だけ……贋物だ」

「死になさい」

 その言葉と共にエウリュディケは弓を――

「その引き絞った弦、放さぬ方がいい。俺は優しいが、そいつは血も涙もないぞ」

 エウリュディケの全身が総毛だった。背後に浮かぶ影、いつの間にか首筋に突きつけられた手刀。明らかに表の使い手ではない。

「あらあら、これで情報をせき止めていたのねえ。随分と面白いおもちゃを持っているじゃない? わたくしにも頂きたいものですわね」

 この男の名は白龍。アルカスの闇を統べる王、ニュクスの僕であり、今はもう一人の王に仕える暗殺者である。その手刀は本物の剣にすら優る一級品。

「この女ともう一人はアルカディアにとって危険だ。こいつはともかく、あっちは伸びしろがある。双方とも殺すべきと考えるが?」

 あっちが何を指すのか理解したエウリュディケは笑顔を消す。相討ちでも敵を殺す、そういう覚悟を決めたようにも見えた。自分の妹のように可愛がってきた相方を殺させはしないと力をこめる。

「馬鹿を言うな。折角育てたんだ。このまますくすくと成長してもらわなければ困る。俺の計画には敵の成長が不可欠なんだよ。俺のいないアルカディアを滅ぼせるぐらいには」

 エウリュディケは理解が追いつかない。敵と理解してなお成長させる必要がある。その思考がトレースできない。敵に塩を送るメリットがわからない。ただ、目の前の男が想像以上にイカれていることは理解できた。

「ただ戦功を重ねても俺の目指す場所には辿りつけない。それなりに時間と労力が要るのさ。だから安心していい。君の流儀は横に置いて、俺はリュテスや他の者に成長の種を渡した。これは決してペテンじゃない。善意でもない。俺の目的に沿って、彼女たちに強くなる切っ掛けを与えたのさ。アポロニアにも、な」

 ガリアスの真の敵、頂点を脅かす怪物、エウリュディケはようやく目の前の怪物が自分の想像よりも遥かに恐ろしい存在だと理解する。

「何、俺の想定よりも強くなれば良いだけだ。簡単な話、強くなる以外道はないのさ。これからの時代、俺たちが作り上げていく時代に虎の威を借りた狐は君臨できない。虎が、獅子が、狼が跳梁跋扈する世界だ。強くなれよ、疾風迅雷。じゃないと、滅ぶぞ」

 それは決して脅しではない。超大国でも油断ひとつで滅ぶ。そういう時代が来ると目の前の男は言っているのだ。

「あと、俺を殺すなら表舞台で来い。裏では勝負にもならん」

 木々がざわめく。途端、かすかに香る気配。エウリュディケの周りを影が囲んでいた。白龍だけではない。気を張っていても気づけなかった。周囲には大勢の暗殺者が控えていたのだ。エウリュディケの殺し間が、気づかぬうちに暗殺者たちのテリトリーにされていた。

「戦場での俺が一番殺しやすい。覚えておくといい」

 ウィリアムは嗤う。その笑みは貴様では無理だと言っている風にも見えた。事実、ウィリアムは期待しながらも負ける要素を見出せないのだろう。表でも、裏でも、自分は一枚も二枚も上手にある。その確信があった。

 歩き去っていくウィリアム。その背に追従する影を見てエウリュディケはおぞましく思う。その男の背はあまりにも闇に染まりすぎていた。だというのに日の中では輝いて見えるのだ。これほど恐ろしい存在はいない。

 結局、エウリュディケはその矢を放つことが出来なかった。


     ○


 ウルテリオル全体から明かりが消えた頃――

「――ゴーヴァンが逝きおった」

「……そうですか」

 ランスロとアークが人気のない桟橋から水路を覗いていた。水面に映るのは満天の星空、色取り取りの星と妖しく輝く月光のみ。世界はとても穏やかで、美しかった。

「驚きはないのだな」

「いずれはそうなると思っておりました。あいつは不器用な男です。あの御方への想いを捨てるくらいならば、その想いと共に心中する、それがゴーヴァンでしょう」

「烈日相手にそれでは勝てぬ。勝てぬでも往く、か」

 アークは寂しそうに天を仰ぐ。祝福するかのようなカラフルな夜空。さまざまな色の天体が夜色の世界に浮かぶ。そのどれかひとつがゴーヴァンなのかもしれない。

「我はこの翌年の一年を見て一度ガルニアに戻ろうと思う」

「っ!? もう天命が近いのですか?」

「そうではない。天命はまだまだ先のこと。帰還するのはこの目でもう一度ガルニアを見ておきたいと思ったからだ。ゴーヴァンの忘れ形見に会わねばな」

 アークは心配性な元己が騎士を見る。ガルニアでも最高の騎士であり、自身も信頼していた男、ランスロの顔には未だ迷いが消えていない。ゴーヴァンは道に殉じた。アークもまた自らの役割に殉ずる覚悟があった。

「我のことなどどうでも良い。問題は卿の生き様よ。未だ迷いがある。立ち位置も定まっておらん。それでは力など出しようもないであろうが」

 ランスロだけ道を探している最中。焦りはある。親友が死んだと聞いて、まず最初にランスロが思ったのは羨ましいという感情であった。愛する者に対する執着と一途さ。ランスロにとってもあの御方は未だ愛する存在である。だが、戦乙女の隣には騎士王が、付け入る隙などあろうはずもない。付け入る気もない。

 自分は騎士である。ガルニアの、アークの騎士である。

「……まあよかろう。いずれ出会う。世界はランスロという傑物を放ってはおかぬ。とりあえず一度あの男と話してみるが良い。刺激にはなろう」

 その前提が彼から生きる目的を失わせていた。もし、その前提が崩れたならば。もう一度騎士は立ち上がれるかもしれない。その契機が、少しずつ、近づいていた。

「ではな、ランスロ。死ぬでないぞ」

「イエスマイロード」

 騎士王はぶらりと立ち寄ったウルテリオルを後にする。おそらくガイウス辺りと会話をしたのだろうが、主な目的はランスロの様子を見ること。もしくは――

「お会いされる気か……白の男に」

 時代を測らんとする騎士王。その背はやはり大きく見えた。


     ○


 ゴーヴァンを欠いたネーデルクスはエルマス・デ・グランという最強の砦をして食い下がるので精一杯であった。ゴーヴァンを欠き、ラインベルカが不在である『黒』は機能不全。『白』もジャクリーヌらは奮戦するもブレーンであるディエースがうまくない。結果として食い下がっている状態が不思議なほどに。

 理由は――

「ああああああああああああああああああああああああああああァァアッ!」

 血濡れのヴォルフ、ジェドを抜き去り、エル・シドに挑戦する身の程知らず。その身はすでに限界を幾度も超えている。傷も深いが、中身はもっとえげつない状態。何度も限界を超えた。何度も死線を潜った。

「まだだッ! まだ俺は、生きているぞォ!」

 毎日が死闘。半死半生で戦場に出て、さらに傷を深めて帰ってくる。その尋常ならざる繰り返しの中で、狂った実戦経験がヴォルフをさらに研ぎ澄ましていく。

「……ぐはァ」

 エル・シドは笑った。何度叩いても、何度砕いても、決して折れぬ生命力。それは部下にまで伝染し、何度でも彼らは自分の大将を烈日の元に送り込んでくるのだ。ジェドを押さえ、エルビラの策を突破し、何度でも狼は日を喰らいに来る。

 長らくいなかった。自分に挑戦してくる愚か者は。愚者が極まり自分の近くまで到達しつつある。この状況で歓喜せず何が頂点か。寂しかったのだ、武の頂点に君臨する男は。並び立つ者たちは、一人は能動的に動かず、一人は遠過ぎる。競える環境がなかった。面白い状況がなかった。

「何度でも喰らいつけ! その他大勢は俺たちが抑える!」

「自分もいるであります!」

「俺もいるぞドアホ!」

 ジェドたちを抑えるアナトールたちもまた幾度も死線を越えた。そもそもジェド自体が巨星に近い実力を持っている。その部下たちも一級品。エルビラが持つ『烈』も将軍級では秀でている中、それを切り抜けて、押さえ込み、自分たちのボスが存分に闘える状況を生み出す。何度でも、ヴォルフの牙が折れる時まで。

「黒の傭兵団、それにテメエもいい動きをする。強いじゃねーかおい」

 ディノは目の前で血反吐吐きながら自分に挑戦するマルサスを、それを見て士気の上がる軍勢を、それら全ての流れを生み出す存在を感じて笑う。間違いなく、その中心人物は化け始めている。元々図抜けていたが、この長い長い戦場にてさらなる飛躍を見せていた。可能性の獣、新たなる巨星へと――

「…………」

 その姿を遠目からじっと眺めている影。童顔であるが、その眼に宿る色は鋭い。

「あら、わたくしを忘れているんじゃなくて!?」

「邪魔すんな筋肉オカマァ!」

 ジャクリーヌ、副将、白もまだ死んではいない。

「私がいるのも忘れては困るな、ジャン」

「男の名でわたくしを呼ぶんじゃねぇぞテオォ!」

 もちろんカンペアドールも層が厚い。槍の名手ローエングリンと渡り合い、ジャクリーヌとも旧知であるテオ・シド・カンペアドールもまた槍の達人。

 この戦場には華があった。豪華絢爛、七王国上位の英傑が集う戦場。今まさに伸び行く者、それを阻む者、さまざまな才覚が入り乱れる。

「雨、か。いつの間にこんな雲が」

 エルビラは戦場を俯瞰していた。指示は逐一出すも、そもそも状況は策がどうこうという感じでもない。中心同士が衝突しているのだ。それ以外は些事である。大局的に見ればあの二人の闘争、その勝者が属する陣営が勝つ。先ほどまでは、そういう戦であった。

「嫌な天気ですね。いきなりの曇天、随分足の速い雲だ。それに、エルマス・デ・グランにだけは雲が避けているのか、光がさしている。神話の光景を刳り貫いたみたいに」

 降り始めた雨、吹き始めた風、そして輝くはエルマス・デ・グラン、その直上。

「あまり非合理的な判断は下したくないが……仕方ない。全軍を一時撤退させよ。奴が来た。非合理の、不条理の極み。青貴子が、来た」

 雷鳴が轟く。風が強くなる。

「人をなめるなよ。神の子」

 エスタードは知っている。かの者が如何に天に愛されているかを。神の寵愛を一身に受け、今世に現れた現人神。天運の申し子――

「やあやあ、いい天気だね。僕だけが晴れ間にいて、有象無象が嵐に苦しんでる。僕はそういう風景に幸せを感じるんだ。何ていうか、良いよね」

 ルドルフ・レ・ハースブルク。もう一人の、まったく別方向の選ばれし者がまた一人。

「人の不幸は蜜の味ってね」

 天が祝福し、天が味方をする。露骨なほどに――

 戦場の潮目が変化した。


     ○


「あれが神降ろしの結果か、シド」

「そのようだ。神話狩りをしていたネーデルクスがあれをやるのだ。愚か極まる」

 竜巻がエスタード陣営に向けてやってくる。ネーデルクスを避けて。

「最先端を誇っていたネーデルクスも遠い昔よな。まあ、この戦場にはエルがいて、ストライダーもおる。シャウハウゼンのじじいがおったら憤死する景色よ」

「もう死んでいる。ストライダーを殺した男がストライダーに殺された、それだけのこと。前を向けジェド、すでに時代は一巡している」

 ジェドは微笑む。エル・シドと名乗った弟は大きな役割を果たした。時代を背負い、時代の象徴と成り、時代そのものと化した。

「サンスは預ける。上手く使え。わかっておろうが、とうに蛇の小僧は調子を取り戻しておる。それでも揺り返しがこんのは、影がその兆しを断っておるからよ」

「俺様に言うな。エルビラに言え」

「ではそうしよう。なあシド、わしらはもう何度、こうして語り合えるかのぉ」

「幼き日に充分語り明かした。兄上、最後の競争と行こうか」

「……くく、年長者を虐めるな阿呆が」

 竜巻にまかれるエスタード軍。されどそれがこの二人に届くことは無い。自然現象が意志を持つことは無いが、それでも現に、それは避けたのだ。

 お前ではない。二つの日が放つ眼光を見て、神の子は静かに汗を流した。

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