世界・歴史・幻想:血色の炎

「それは本気で言っているのか?」

 トリストラムが自身の主であるアポロニアに剣を向ける。ベイリンがその間に入るも空気は鈍重であった。

 おそらく、弓騎士が取った行動に賛同する者の方が多いから。

「退け。卿らが甘やかすから付け上がるのだ」

「せめて最後まで聞くんだ。でなければ真意もわからぬ」

 一触即発の空気だが、アポロニアの表情は変わらず笑顔で酒をあおる。

「何度でも言う。エール地方は撤退。翌年までは戦をせぬ。そして年明け早々、エスタードの一部を切り取って聖ローレンスに攻め入る。それが全てだ」

 かばうベイリンの背に汗が滴る。アポロニアに向かう空気の冷たさ、鋭さ、すでに主へ向けるものではない。元々は全員が国の長であり、アポロニアに従っていたのは強かった部分も大きいが、向かう先が同じであったから、と言う面もある。

「白騎士に負けて、命欲しさに密約を結んだ。随分かっこ悪いじゃないか、姉さん」

 メドラウトの眼も鋭く細まっていた。

「格好良くは無い。だがこれは決定事項だ」

 アポロニアは譲ることなく、されど言い訳の一つもしない。

「姫様、さすがに皆、この説明では納得出来ぬと思います。何かあるのであれば説明を。何も無いのであればご再考を。どうか」

 ベイリンの言葉を聞き、アポロニアはゆっくりと頷く。

「説明は先ほどので以上だ。再考は無い。なあ、サー、その剣は見せ掛けか?」

 トリストラムは一息つき、そして加速した。ベイリンの制止はユーフェミアの剣に阻まれる。止めようとするものをメドラウトは視線で牽制する。味方は少ない。

「陛下のご息女に弓を引く気はなかったが、侮辱は許さぬ」

「構わん。剣で語れ、サー」

 眼前、トリストラムは一息する間もなく袈裟懸けに剣を振り下ろした。体重の乗った一撃、殺気も乗っている。さすがにやり過ぎ、殺しては意味がない。

 周囲は唖然と――

(何だ? この、血の沸き立つような、焼け付くような感覚は――)

 突如、トリストラムの身に既視感のある感覚が走った。何処で、どのように、なぜ、ただそれは身体が覚えていた。絶対に、手を伸ばしては成らぬ領域。

「あれを受け止めるか!?」

 ヴォーティガンが唸る。

 それほどにトリストラムの剣は見事なものであったのだ。あれを止めたならばアポロニアの剣は錆びていない。むしろ高まってすらいる。

「片手で、な」

 ユーフェミアは乾いた笑みを浮かべていた。ただ受け止めただけではない。片手で、無造作に受け止めて見せたのだ。あの弓騎士の剣を。

「剣は語ったか? サー・トリストラム」

 アポロニアの瞳に宿る大炎。ようやく、アポロニアの笑みの理由を知る。かの女王が敗北したことで、得てしまった感情を知る。それは熱情、悔しさ、怒り、焦り、あらゆる負の感情が燃えていた。その炎は、味方すら焼き尽くすほど燦然と輝いている。

「充分に。ご無礼、お許しを」

「構わん。サーや他の者、かつて我が父とくつわを並べたものならば誰でも思う。かのエル・シドと戦い、これに勝利したい、と。その感情は否定しない。聖ローレンスを奪い、それでもなおかの巨星が生きていたならば我が剣にて彼奴を断とう。だが、優先すべきは聖ローレンス、ウェルキン ゲトリクスであり、あの土地だ」

 土地、そこでようやくメドラウトは聖ローレンス攻めを理解する。それをすることでアークランドが何を得て、今とどう変わるか、どん詰まりであった状況に活路が見えた。ただし、わからぬのはそれを吹き込んだ者の真意。

(親切でアークランドを導いた? ありえない、意味がない。何を、何を考えている、ウィリアム・フォン・リウィウス。貴方の背中が、あまりに遠い)

 その真意を知るのは、この場にて一人だけ。

 彼女は知った。本当の敗北を――


     ○


(寒い、私は嫌いなのだ。寒いのが、昔から――)

 思えばアポロニアの生涯は敗北にまみれていた。剣を握ってすぐ、父に挑戦した。母に挑戦した。毎日が敗北の連続、美しき挑戦の日々。充実していた、毎日が幸せに満ちていた。その敗北の数々がアポロニアを強くし、そして今――

「此処までだ」

 まったく別の敗北を知る。

 アポロニアは利き腕の手首を拘束され、軸足は踏みつけられ、けり足も押さえ込まれている。左腕は敵のひじに阻まれ動かせない。そもそも、首元に剣があてがわれているのだ。動けるはずが無い。

「見事だ、殺せ。楽しかったぞ、白騎士!」

 アポロニアは笑った。内心に渦巻く感情を押さえ込み――

「強がるなよ。テメエは楽しくなんかなかったはずだ。俺は貴様に楽しい敗北なんて優しいもん、くれてやるつもりはねえよ」

 ウィリアムも笑った。それは全てを見透かした上での嘲笑である。

「私は敗北を求めていた。熱く、美しい敗北を、だ! この終わりは、私の」

「くは、意にかなった敗北か? 馬鹿らしい。テメエが求めてるものは敗北の味じゃねえよ。間違っても敗北ってもんは甘くねえ。苦くて、臭くて、くそまじいもんだ」

 ウィリアムはゆっくりと剣を引く。血の筋がアポロニアの首に生まれた。

「挑戦が楽しいってのはわかるぜ。そこに命の危険が無ければ、テメエの道が途上であれば、未完成と納得出来るのであれば、挑戦は楽しいよなァ。わかるわかる」

 その血を、ウィリアムはなめ取った。可愛い、可愛い、格下を見るような目で、アポロニアの瞳を見上げる。弱いな、と目が語りかけてくる。

「だからテメエは俺に勝てない。才能で勝り、経験でも勝り、それでもテメエは俺に勝てないんだ。見ている世界が違う。感じている 全てが違い過ぎる。俺は最善の準備をした。血反吐吐きながら、余分なものを斬り捨てて、此処まで来た。ここが頂点だ。技術的な伸びしろはあれど、肉体にこの先は無い。今出来る全てを終えた」

 ウィリアムは拘束を解いた。なのにアポロニアは動かない。動けない。

「俺は敗北が怖いよ。それは死よりも恐ろしい。俺の道、全ての否定だから、だ」

 アポロニアの笑い顔が歪んだ。わかっていたのだ。先ほどから湧き上がる感情は、あの時の美しいものではなかった。悔しくて、辛くて、吐き出しそうなほどの恐怖が其処にあった。本当の敗北は最善を尽くしたものにしか訪れない。

「幸福な時間は終わりだ。テメエも俺と黒狼と同様に、地に堕ちろ。這いずり回って、泥にまみれて、頂点を目指せ。仮初めの頂点も、くだらない過去も、もう要らねえよな?」

 アポロニアにとって敗北は、知らず知らずのうちに苦いものへと昇華していた。アークがアポロニアの元を去った理由もまた、間違った敗北を与え続けた過去を消すため。彼女の不幸は才能がありすぎたこと。敗北の味を知る前に頂点の近くまで到達してしまった。それは最大の不幸であ る。

「テメエが俺を殺せる準備が出来たら、今度こそ殺してやる。もしくは殺されてやる。俺を殺してみろ、俺を殺してくれ、俺を否定して見せろ!」

 そして最大の幸運は、ここでウィリアムに出会ったこと。殺す気だけはなかった格上が相手であったこと。アポロニアは幸運である。このまま巨星に挑めば、おそらく負けていた。敗北の味と共に、その道は死に絶えていた。

「……次は、次こぞは、必ず殺じてやる! 絶対だ! 私は勝者で、私が王なのだ!」

 アポロニアは母を失ったとき以来、一度として泣いたことは無かった。その涙はあの時のような純粋な気持ちではない。悲しみと、苦しみと、怒りと、憎しみと――

(嗚呼、いい顔だ。天で澄ました顔をしているより、地に堕ちたその顔の方が魅力的じゃないか。美しいぞ、アポロニア。踊れ、俺の掌の上で)

「一つ、敗北感を上塗りさせてやる。貴様らの活路は聖ローレンスを、ウェルキンゲトリクスを討ってあの土地を奪う道しかない。 ウェルキンゲトリクスが、ただ一人であの国を存続させられた理由、最大の要素を奪え。これは助言だ。わかるだろ? 敵に助言される意味を、今の貴様ならばわかるはずだ。エールからは手を引け、ガリアスに手を伸ばす機は今じゃない」

 アポロニアの顔が歪む。

 涙で、鼻水で、ぐしゃぐしゃになった顔がさらに変形する。

「ガリアスはもちろん、エル・シド、というよりもエスタードを攻めればその時点で必死。ガリアスに次ぐ国力を保有するネーデルクスとエスタード、七王国第二位、第三位を同時に相手取り勝てると思うほど愚かではないだろう? エスタードを攻めるとはそういうことだ。エスタードを潰した先に待つのは黒の狼と死神、それを操る神の子。お前がどうこうじゃない、今のアークランドでは勝てないんだ。それこそ、俺が指しても詰んでいる。その道 は」

 アポロニアはウィリアムを睨みつける。

「何故それを私に言う?」

 ウィリアムはその瞳に宿る炎の色を見て微笑み――

「貴様は俺の道を彩る星だ。そしてあの馬鹿と同様、俺を喰らう可能性すら秘めている。俺は止まらない。同時に止まりたいのさ。俺よりも強い者の手で」

 アポロニアの唇にそっと口づけをした。アポロニアは咄嗟のことで驚愕するが、すぐさまウィリアムの唇に噛みつく。小さな裂傷が生まれる。ウィリアムは血がにじむ唇をぬぐい、ゆるりと距離を取った。その顔に張り付いているのは諦観。皮肉げな顔も、余裕のある動きも、全てが――

「憎いだろ? 悔しいだろ? 殺したいだろ? ならば俺を超えてみろ。俺を殺したならば貴様が時代の王となる。これを妄言と思うか? 紅蓮の乙女よ」

 諦め。この男の発する言葉はおそらく本音。しかし、まったく信じていないのだ。自分を殺せる人間がいることなど。最善を歩み続ける限り、誰よりも自分が先んじることを疑っていない。傲慢極まる思考。

「殺す」

「いい顔だ。自分より高みに人がいることを許せない、そんな顔をしているぞ。そうじゃなければ面白くない。どちらが真の王か、勝負と行こう」

「私が、貴様を殺す! 必ずだ!」

 王は、頂点はひとりでいい。ようやくアポロニアは自覚した。自分は自分が思っていたよりも強欲で、貪欲で、業欲なのだと。戦争が好きなのではない。戦争で勝つのが好きなのだと。栄光は、自分の頭上で輝けばいい。

「また会おう――」


     ○


 アポロニアは一人空を眺めていた。あの水平線の輝きはもう見えない。黄金の時は終わりを告げた。父が目指した、母が目指した地平の果て、憧れが胸を焦がしていた乙女の夢想では辿り着けぬ境地。

「父上も母上も、負けるべくして負けたのだな」

 言葉の向け先は下の部屋にいる弟。

「そんなことあるものか。運が悪かっただけだ。たまたまエル・シドがいて――」

「ならば、私も、たまたま白騎士が、黒狼が、そいつらがいたから勝てなかったと言い訳を手にガルニアへ帰るか? 許せ弟よ。私は、そこまで謙虚に出来ていない」

 メドラウトは姉の変化を知る。負の感情を得たガルニアが生んだ至宝。美しい紅蓮の翼は白騎士にもがれた。その代わり彼女は血の翼を手に入れたのだ。醜く、雄雄しく、強大な翼を。炎が舞う、畏怖を与えるほどの雰囲気が全天を支配する。

「私は王になるぞ! 力を貸せ、共に白騎士を殺そう!」

「……イエス、マイロード」

 また一つ、星が膨張する。紅蓮の、血色の星が膨れ上がる。

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