復讐劇『急』:業深き者の末路

 ヴラドは血まみれになりながら笑顔でウィリアムに振り向いた。一度として肉塊と成り下がったヘルガには愛情の欠片すら向けることなく、いつものように虚無を負の感情で満たす作業を終えた。

「ははは、どうかねウィリアム君。見事なものだろう」

 人はいったい何処まで堕ちればこれほど醜悪な獣に成れるのか。ヘルガに関しては自業自得とはいえ、あまりにも醜悪極まる絵面にウィリアムは渇いた笑みしか浮かんでこない。そしてこの光景は、貴族が下位のものに行う場合、合法ではなくとも咎められることはないのだ。笑うしかない話である。

「ええ、とても」

 ウィリアムは笑みを作る。ヴラドはそれを見てほうっと息を吐く。死から免れた安堵感と弱者をいたぶった充足感が身を満たしているのだ。

「さて、これで私の復讐心は満たされました。私の復讐は終わりを告げたのです」

 ヴラドは「うむうむ」と頷く。

「ではこれより仕事といきましょう。とりあえず死んでください」

 ヴラドは「うむう――」と頷きかけたところで止まる。聞き間違えかなと首をひねり、とても間抜けな顔でウィリアムを見た。その顔にはやはり柔和な笑みが浮かんでおり、其処に敵意など微塵も感じられない。

「ぶすり」

 茶目っ気のある台詞から、ウィリアムは自然な動作でヴラドの腿を刺した。ヴラドは何が起きたのか理解できない。

「ぶすりぶすりぶすり」

 脇腹、二の腕、ふくらはぎ――

「あああああああああああああああああああああああッ!?」

 ヴラドは絶叫を放つ。刺された箇所からゆっくりと血がにじんできた。されど、血が爆発的に噴き出ることはなく、致命傷はひとつとしてない。

「いやはや、人というのは存外死なぬものですね。これだけ刺してなお生きている」

 ウィリアムが手を止めたと同時にヴラドは転げ回り距離をとった。ウィリアムを見上げる目は弱者のそれ。命を乞う目である。

「人が機能を停止するには体に流れる血を失うか、器官である臓器に著しい損傷をきたすか、この二点です。臓器と言っても替えの利くもの、利かぬものもありますし、一概に言えるものではありませんが……いや、これは神に説法を説くようなものですね。侯爵は私などよりよほど詳しいでしょう?」

「何故だ!? もう復讐は終わったのではないのか!?」

「終わっていますよ、とっくに。でも仕事は終わっていない。私が暗殺ギルドと懇意なのは見ての通り。わかりますか? 私は貴方を殺す仕事を請けているのです。これはずっと前から請けていた仕事、私が商会を立ち上げるために請けた最初の仕事なのです」

 ヴラドは愕然とした表情でウィリアムを見た。理解が追いつかない。何故ならそれが真実だとすれば、自分たちがまともに出会う前に自分の死が確定していたことになる。自分が今まで行ってきた全てが、この男の手で踊らされていたことになる。

 自分が上がるために手に入れた駒、しかし内実は自分こそが駒であった。

「依頼人は知りません。思い当たる節は多過ぎるくらいでしょう?」

 ウィリアムの笑顔が仮面と知る。自分が見てきた全てが虚構と知る。

「貴方は肥え太った豚だ。丸々と、パンパンに張った身を仕事ついでに私が喰らう。そのための年月、仕事の過程で私が昇るための作業、貴方は良く踊ってくれました」

 ウィリアムは「ありがとう」と頭を下げた。ヴラドが叫ぶ。何を言っているのかわからぬ出鱈目を重ねていく。狂う手前、此処から先はむしろ救いとなってしまう。壊れて、心を失い、肉の人形に落ちる手前で――殺す。

「そこの台座に固定しろ」

 ウィリアムの命で動く暗殺者。暴れ回るヴラドを押さえつけ、多くの血にまみれた台座に固定していく。石造りの台座の上は木の板がしいてある。木にはいくつもの穴が刻まれており、業の痕が見て取れる。

「両手両足に杭を打て。固定はしっかりと行わねばな」

 ヴラドの絶叫がこだまする。それもまたヘルガ、今までの犠牲者同様に外に漏れることはない。此処は地獄、ヘルガが諫言し己が手で生み出した業の館。

「それでは侯爵、私はお暇させていただきます。私も忙しい身でして……嗚呼、しかし残念だ。明日の結婚式は延期しなければならないでしょう。とても残念だ」

 ヴラドは血走った目でウィリアムを睨む。幾多の罵詈雑言を投げかけてくる。その醜さは弱さから生まれるもの。強者とは異なる哀れな姿。どれだけ取り繕おうとも、死を前にすれば人の本性は出てしまう。

 これがヴラド・フォン・ベルンバッハの人生、その縮図。彼は弱かった。愛する人を失う痛みに耐えられなかった。ゆえに悪魔のささやきに呑まれ、獣に堕ちたのだ。醜悪な欲望の獣に。天を目指すのではなく地の底にて弱きを嬲る先のない道を選んだ。

「先ほど大量に刺した傷は、少しずつ血を流し、いずれ貴方を死に至らしめます。今、止血をすれば生きられるでしょうが、私は当然それをしません。ゆるりと死んでください」

 ウィリアムは優雅に一礼をしてヴラドから背を向けた。その瞬間、近くにいた暗殺者がヴラドに目隠しをする。ヴラドは「待て!」「何をする!?」「私を置いていくな!」と叫び狂うが、ウィリアムがいるのかいないのかもわからぬ、それすら見えぬ闇。

「さようなら義父上、明日からは私がベルンバッハを支えます。この私、ウィリアム・フォン・ベルンバッハ侯爵がね」

 ヴラドは吼えた。狂ったように吼えまくった。自分が手に入れた全て、積み上げてきた全てが奪われた。押し寄せてくるのは奪われた怒りよりも、簒奪されたことで露わになった虚無。代替物で目をそらしてきた真の絶望。

「いやだ。わたしは、かえせ、かえしてくれぇ。わたしの、ぜんぶぅぅう」

 わかっていても耐え切れない。彼に最愛を失った絶望と向き合う力は残されていなかった。ただ目をそらし、ウィリアムへの憎しみに縋るしかない。初めから求めるもので満たされることのなかった、哀れな器。からっぽの男。

 静けさが狂うことを許さない。流れ出る血潮、それらが落ちる音だけが響く。最初は誰かいないのかと叫んでいたが、それもまた徒労。音に誰も反応せず、反響した自分の声だけが耳朶を打つ。

 もう、何もない。醜悪に顔を歪ませることすら無為。それを見せる相手がいないのだ。ただ、絶望に身をゆだねるだけでいい。心が凍る、死よりも恐ろしき喪失の痛みが心を苛む。逃げられない。嫌でも向き合わねばならない。

「嗚呼、私は――――に向ける顔を、もう持ち合わせていないのだな」

 その瞬間、ヴラドは死んだ。身体の死よりも先に心が死んだ。死した先で最愛に再会することすら出来ぬと理解した。この血塗れた手で、どうしてあの優しき最愛を抱けると言うのか。今更の後悔、取り返しのつかぬ絶望。

 完全なる死。

 怒りも、憎しみも、何もかもを飲み込む絶望に、命をも飲み込まれた。

 そのヴラドの死を、ウィリアムらは微動だにせず見届けた。欲望の獣が見せた哀れなる最後、それを見て想うは自分たちの末路。ヘルガの凄惨な死に様、この地下室に至るまで積み重なった多くの屍、それらよりもこの死に顔が哀れに見えるのは錯覚であろうか。

「この屋敷にはすでに火を放っている。時間を置いて本邸の方にも火が昇るだろう。いい仕事だった。あの方も満足されることだろう」

 ウィリアムは声をかけた白龍に一瞥することもなく、マントを翻して地下通路の扉から姿を消した。この夜はウィリアムにとって忘れ難き夜。

 最愛を失い、自分が成るかもしれなかった者の末路を見た。始まりを得て、終わりを知った。今日は王が生まれた日、そして――王が終わりを知った日、である。


     ○


 ウィリアムは時間を置いてベルンバッハの屋敷に戻った。角を曲がる前、聞きなれた声の聞きなれぬ声が聞こえた。ざわつく人ごみの中から聞こえてくる声、あたたかな満たされていた象徴とも言える少女の嘆き。

 ウィリアムは一言「退け」と言い放った。血濡れの白騎士、その姿に人ごみは一瞬で割れる。そしてウィリアムの目に映ったのは想像通りの、光景。

「にいぢゃん!」

 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになったマリアンネがウィリアムを見つけて近寄ってきた。マリアンネのいた場所には、能面のような蒼い顔のテレージアと、滂沱の涙を流すヴィルヘルミーナ、エルネスタ、ガブリエーレ、そして――

「ヴィクトーリアをたすけて! マリアンネもてつだうから、なんでもするから、これからずっといいこでいるから、だから!」

 血染めのヴィクトーリア。自分が生んだ光景、わかっているのに、わかっていたはずなのに、何故自分の心は悲鳴を上げているのだろうか。何故目の前の少女の声が心に刺さるのだろうか。わかっていたはずだ。

 此処までは地獄。此処からも、地獄なのだと。


     ○


 その日、アルカディアには滂沱の涙が降り注いでいた。たまに霙が混じり、吹き荒れる風は人が外に出歩くことを良しとしない。誰もが内にこもっていた。この大嵐の日に、わざわざ外出する者など気が狂っているとしか思えなかった。

 そんな中をウィリアムは一人歩く。身を削るほどの寒さ。されどその男はまるで快晴の空を歩むように悠然と歩を進める。肌が感じる寒さなど男にとっては大した意味を持たない。寒いと言う感覚はあれど、それが苦痛には感じないのだ。

 世界を覆う寒さなど、身の内に宿る零度とは比較にもならないのだから――

 ふと、ウィリアムはその零度の中にあって、唯一あたたかさを残す部位に触れた。じわりとにじむ灼熱、これは怒りのあたたかさである。

 ウィリアムは頬を撫で、乾いた笑みを浮かべた。

 嗚呼、己が選択のなんと愚かであったことか、と。


 マリアンネに懇願されてすぐ、一人の女性が立ち上がった。悲しみが心を潰し、その矛先を怒りとして灼熱を帯びた眼で麗人がウィリアムを睨む。

「ウィリアム・リウィウス!」

 悲しみと怒りがない交ぜになった表情の麗人、ヴィルヘルミーナが血走った目と共にウィリアムの方へ歩いてくる。涙をぬぐい、ぬぐい、それでも湧いてくる悲しみと共に、

「何で貴方が、何で、助けられなかったの!?」

 ウィリアムの頬をぶった。灼熱を帯びた破裂音が場に響く。

「この場にいなさいよ。あの男なんか無視してあの子だけを守りなさいよ。あの子は、これから幸せになるはずだったのに、貴方が幸せにしてくれるはずだったのに!」

 ヴィルヘルミーナはウィリアムに縋りつくように胸倉をゆする。ウィリアムは何も言えない。何も、口に出ない。

「どうして!? 貴方は、強いんでしょ。誰にも負けない、英雄の、白騎士が」

 ヴィルヘルミーナは耐え切れず泣いた。憎い相手の胸の中で泣いた。悲しみを、ほんの少しでもこすりつけてやろうと、この男に刻んでやろうと、泣いた。

「女の子一人守れないのよォ!」

 マリアンネも泣いた。ウィリアムの表情を見て、自分を守ってくれた何でも出来るヒーローが、無表情で立ちすくむ様を見て、どうしようもないと悟ったから。

「……お父様は、どうなりましたか?」

 テレージアは乾いた声でウィリアムに問う。

「私が向かった時にはすでに……申し訳ございません」

 テレージアは哂った。あまりにも、どうしようもない結末に。

 ヴィルヘルミーナはすっとウィリアムから離れて一人嗤った。今日、愛する妹が何故死んだのか、その因果の元がわかってしまったから――

「そう、因果応報ね」

 テレージアは知っていた。自分の父がどういう行いを繰り返していたのか、を。自分もまた最初期の被害者であり、本当ならば顔も見たくない相手。されどその血は間違いなく繋がっており、彼個人の許容量を超えた業は血族である己に降りかかってくる。その覚悟はあった。だからこそ、嫁に行ってなお本家に姿を出していたのだ。

 自分がこぼれた業を背負うために。

 しかし背負ったのは自分ではなくヴィクトーリアであった。

「私の部下は?」

 ウィリアムの問い。

「あの中で焼かれていることでしょう。生存者は一人もいなかったそうです」

「そう、ですか」

 燃え盛る炎は着火源を探して舌をのばす。ちろちろ、ちろちろと、なめるように多くを灰へと変えていくのだ。全てを飲み込んで。

「あちらの下手人は?」

 テレージアの問い。

「暗殺者数名と……市民、奴隷の混成部隊。おそらくは、悪癖の犠牲者かと」

 ウィリアムの返り血はそこでついたのだろう。ヴィクトーリアと同じくらい血にまみれている姿は、どれほど多くの人間を斬ったのかわからないほどである。

「こちらは見たところそれほど騒ぎにはなっていない。短時間で私の部下までやられたとなると……素人では無理、暗殺者主体でしょう。それも腕利きの。私もろとも討ち果たすつもりだったように感じます。依頼者は侯爵にかなりの恨みを持つ者、かつ金を持っている者――」

 思考する様子を見せるウィリアムを、ベルンバッハの人間たちは信じられないモノを見る眼で見ていた。いつもくっついてくるマリアンネでさえ距離を取ったほど――

「随分、冷静なんですね。ヴィクトーリア姉さまが、死んだというのに」

「俺がやるべきことは取り乱すことじゃない。真相を究明し、いち早く下手人を捕らえ、そいつはもちろん依頼者も含めて関係者を一掃することだ。悲しむのは後でいい」

 ベルンバッハ邸の異変を察知してウィリアムの部下であるユリアンやシュルヴィアらもこの場に集まっていた。ウィリアムは彼らの方を向く。

「草の根を分けてでも手がかりを探せ。いいな」

 部下たちが散っていく。命じたウィリアムの背をベルンバッハの女たちは冷めた眼で見つめていた。男はいつもこうだといわんばかりの視線。

「にいちゃん、なんで、ヴィクトーリアのほうをみないの?」

 だが、マリアンネだけは、ウィリアムの弱さに気づいていた。

 ウィリアムは、振り向かない。

「おうちにはこんであげて。そとはさむいよ」

 ウィリアムは自分の頬を触れた。じんと痛む、その熱すら惜しいほどに心を苛む零度。背中越しでさえ狂いそうなほど、絶望が心を駆け巡るのだ。残った熱も、周りの熱も、全てを喰らいたくなる衝動に駆られてしまう。背後の小さなマリアンネを殺して、その血を浴びたら少しはあたたかくなるのだろうか、この餓えは収まるのだろうか、この渇きは癒えるのだろうか、ウィリアムは嗤う。此処で堕ちればあの男と同じ。

「少し、待て。十秒、十秒したら俺が運ぶ」

 ウィリアムが心を整えるまで十秒の時を有した。その十秒はウィリアムの弱さで、その十秒はヴィクトーリアの重さ、ウィリアムと言う人間が振り返り現実を直視する、死に慣れ親しんだ男が見るだけで十秒の時を必要とする。それが最愛の重さである。

 ウィリアムは振り返る。じっと、ヴィクトーリアを見つめる。そしてゆっくりと歩き出し、ヴィクトーリアにそっと触れた。それを大事に、宝物でも抱くかのように、持ち上げて抱きしめるウィリアム。

 ベルンバッハの女たちはそこでようやく気づく。目の前の若き英雄が、自分たちの大事な姉妹を――

「何だ、お前、軽くなったじゃないか」

 とても愛していたのだと。自分たちが思っていたよりも遥か深く。

「お前なりに良く頑張った。褒めてやる」

 命のあたたかさは微塵も感じられない。当たり前である。死んでいったいどれくらいの時間が経っているのか。テレージアらの考えている時間よりもかなり前に彼女は死んでいたのだ。とても冷たくなっている。どうしようもないほどに――

「寒いか? 俺のなら、いくらでもくれてやる。俺の、全部を持っていけ」

 ウィリアムは抱きしめる最愛に、自分に残った最後のあたたかさを注ぎ込んだ。もう、何処にもそれは残っていない。きっと彼女の躯を離したが最後、死よりも恐ろしい深淵がウィリアムを凍えさせるだろう。それでもいい。そうでなければいけない。

 この冷たさを得るために、ウィリアムは最愛を断ち切ったのだから。


 ウィリアムは歩む。大嵐の中を迷いなく。明日はきっと晴れる。あの向日葵のような女性の最後に曇天は似合わない。今日は世界が悲しみ、明日はきっと笑顔で送り出す。そんな予感がしていた。だからウィリアムも明日、本当の意味で巣立たねばならない。

 大好きだった君の笑顔を断ち切ってまで得た道、それを完全なものとするために。

 雨が降っていた。此処はアルカスのデッドスポット。

「よおカイル。いい天気だな」

「こんな日は暖かい部屋でゆっくり休むもんだ」

 例外は残さない。

「約束、勝手だが今日を、今この時を刻限として良いか?」

「俺にお前を斬れと?」

 彼らとのつながりを許容することはきっと彼女の愛への裏切りとなるから。

「やる気満々の格好してんじゃねえか」

「予感がした。嫌な予感だ。最悪の……当たったようだな」

 だから斬る。もしくは斬られる。

「今の俺は強いぜ? たぶん、これ以上はねえよ、俺にゃあよォ」

「見ればわかる。そしてお前が、本当にどうしようもなくなった、それもわかる」

 深遠なる零度の王が屍の塔に君臨する。巨大な闘争の王が長大な剣を構える。

「お前を斬るぞ! それしか救いはないのだから」

「それすら跳ね除け俺は昇る。友よ、俺の道の糧となれ!」

 二つの王が嵐の中激突する。

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