復讐劇『急』:華、散る
黒き髪の小さな少年にとってこの世界は、満ち足りた温かなものであった。
白き髪の小さき少年にとってこの世界は、空虚で絶望が支配していた。
二つはどちらも人から与えられ、奪われたものである。
白き髪の青年は選択した。自分に突きつけられた弱さ。自分が踏みしめる簒奪の跡。そして今まさに絶望の螺旋、そこからの解放へと誘う最愛――
全てを秤にかけ、己が全霊と共に選択した。
この夜は選択したものではない。されどこの夜の全ては、やはり男が選択したものなのだ。この夜を『ウィリアム』は忘れない。
「静かだねー」
「良い事だ。読書がはかどる」
ウィリアムとヴィクトーリアは部屋の大きさに対して、寒々しいほど小さなスペースで活動していた。ウィリアムは読書、ヴィクトーリアは笛を吹いたりダンスの練習をしたり明日のスピーチの内容を考えたりと大忙しである。
「今更慌てるくらいなら先にやっとけ。あと笛は何故吹く?」
「先にやれるなら私はヴィクトーリアをやってないよ。笛は耳寂しいかなって」
「俺が? 必要ない。そんなことよりあの服を着てくれ。そっちの方が元気が出るぞ」
「絶対やだもん。それに脱いだら着れなくなりそう」
ヴィクトーリアはドレスを着たままであった。ヴィルヘルミーナが帰りがけに脱がそうとするも拒否し、よほど気に入ったのだろう良く鏡に自分の姿を映して悦に浸っていた。その様子がとても癪に障ったので逐一からかっている。
気に入った面ともうひとつ、ヴィクトーリアがドレスを脱がない理由があった。ヴィクトーリアという飽食の申し子はこの一週間とても頑張った。耐え切れないほどの餓えに苛まれ、今日という日を迎えたのだ。ドレスを無事着用し、安心した瞬間――
気づけば昼夜とかなりの量を食べてしまった。コルセットの締め付けから感じる圧迫感が告げる。一度脱いだが最後、もう二度と着用は叶わぬだろうと。まあ一日でそうなることはないだろうが――
「良く食うと思ったら……破裂するんじゃないか?」
「縁起でもない事言わないでよ。明日が終わるまで何とか逃げ切って私のお腹」
「唯一と言っても良い才能の美しさが損なわれるか……離婚だな」
「離婚は双方の合意が要るんだよ。だから不可能だと思うなあ」
しっかり好きですアピールを欠かさないヴィクトーリア。この期に及んで恐れているなんてことはないだろうが、もはや突っ込むことが癖になっているのだろう。とても恥ずかしい話である。今後は奥ゆかしさが求められる。
「そろそろ良い時間だ。俺は外で剣でも振ってくる。お前は明日に備えて寝てろ」
「私も付き合うよ。だって奥様だからね」
「……コルセットが苦しくて寝られんだけだろうが」
「それもある。えへへ」
ウィリアムはヴィクトーリアを連れ立って部屋から出た。
「寝るときは脱げよ。しわになるぞ」
「だから脱いだら着れなくなるの。切実なんだよ」
「一日くらい我慢しろよ。まったくお前は……本当に馬鹿な奴だ」
「ウィリアムは馬鹿が好きだもんねー」
「言ってろ間抜け」
もはや踏み込むことは怖くない。何度も何度も踏み込まれた。こちらも幾度か踏み込んだ。互いの線引きは理解出来ているし、そこを超えられる関係にもなった。だからこんなつっかかったやり取りも出来るのだ。
相手への無償の信頼、人はそれを愛と呼ぶ。
○
日課の訓練を終え、すっかり雪の消えた庭に腰掛けるウィリアム。先週の豪雪は完全に消え失せた。少し早過ぎたのだろう。継続的に積もるには少し気温が高いのかもしれない。十二分に寒いが――
「……動き辛そうだな」
ウィリアムはヴィクトーリアに声を投げかける。ヴィクトーリアは困った顔をして自分の姿を見た。ふわふわのドレスは確かに動きづらい。
「本番はこれに色々くっつくんだよ。もっと重装備になるんだから」
「そりゃあ大変だな。男の俺にはわからんが」
息は白くふっと宙に消える。ヴィクトーリアは楽しそうに白い息を吐き散らかしていた。子供かというツッコミを今更重ねる気はない。そもそも子供より子供らしいのがヴィクトーリアという存在なのだ。
「ねーねーウィリアム。ちょっとだけ付き合ってよ」
「いやだ。と拒絶するほどの理由はないな。何処へなりともお供しますよお嬢様」
「やけに素直だね」
「暇だからな。それに、いつもこっちに付き合ってくれているだろう」
ウィリアムは鞘に納まった剣の柄をひじでこんと揺らす。普段、頼んでいたわけではないが、ウィリアムの日課を率先して手伝ってくれていた蓄積がある。たまに付き合うくらい暇ならする。その暇な時がウィリアムには少ないのだが――
「ありがと。じゃあこっちだよ」
ヴィクトーリアが手を引っ張る。ウィリアムは満更でもなくその手をふわりと握り返した。
○
其処はベルンバッハ邸を出て最初の曲がり角、ウィリアムが初めてヴィクトーリアを認識し、少しの恐れを抱いた出会いの場。他の者にとってこの場所は何の意味も持たないだろう。しかし二人にとっては、此処が始まりなのだ。
雪が、ちらつき始める。
「丁度こんな天気だったか」
「雪がふわふわ舞っていて、すごく寒くて、ものすごく寒くて」
「震えていたな。あんな薄着でよくこの季節の外に出たものだ。馬鹿なのは昔から変わらんな。と言うほど昔でもないのか」
二人が出会ってから、二人の間だけでなく世界は猛烈な速度と密度を持って時を駆け抜けた。あの時に比べてウィリアムは心身ともに大きくなった。身分も変わった。加速度的に変わった自分と周囲。だが、目の前の女は変わらず思うがままに踏み込んでくる。
「今はどうだ? 寒くないか?」
「今『は』寒くないよ。ほら、あったかい」
ヴィクトーリアはあの時のような我武者羅さとは打って変わり、ゆっくりとぬくもりを確かめるかのように抱きついてきた。其処に貴方はいますか、そう言っている風にも聞こえる。此処にいる。そう返すかのようにウィリアムもまた手を回した。
「明日、結婚だよ」
「ああ、此処での宣言通りだ。お前はいつだって全力だった。俺はお前に負けた」
「うん、私の勝ち。踏み込んで貴方をもっと好きになった。好きになってもらえるまで好きが揺らがなかった。それを貫けた自分も、少し好きになれたんだ」
ヴィクトーリアはきっと自分が嫌いだったのだろう。もっと器用に生きられたら、普通の、皆と同じように生きられたら、そう思い生きていたはずだ。ヴィクトーリアは変わらなかった。変わらずに居続けられた。そんな不器用さに、ウィリアムは惹かれたのかもしれない。自分と同じ、曲げられぬ不器用さを。
「ねえウィリアム。いっこだけ、わがままを言っていい?」
「聞くだけなら聞いてやる」
「ウィリアムの意地悪。いいもん、言うだけはタダだもんね」
ヴィクトーリアは深呼吸をする。ゆっくりと、今から吐く言葉、そこに覚悟を乗せて。
「私は、貴方の何に成れたのかな?」
ウィリアムは乾いた笑みを浮かべる。きっと彼女は察している。ウィリアムの中にぽっかり空いたがらんどう。其処には昔、あたたかなものが入っていたのだと。其処には昔、愛が入っていたのだと。ただ、ひとつ勘違いがあるとすれば――
「俺には昔、最愛の人がいた。優しくて、美しくて、俺の世界はその人だけで完結していた。かけがえのない存在だ」
ヴィクトーリアの手に力が入る。絶対に渡さないと言う意志。
「その人が遠くに行って、なお思いは募った。今だってそれは残っていると思う」
ヴィクトーリアは「嫌だ」と小さくこぼす。その姿があまりにも愛おしくて――
「そんな姉さんよりもお前が好きだ。何に成ったかと聞いたな? 答えてやる。これから先、何があっても、俺の愛は揺らがない。そんな存在、お前が最愛だ。ヴィクトーリア・フォン・リウィウス」
ヴィクトーリアは伏せていた眼をウィリアムに向けた。その眼には涙がたまっている。「うそ、じゃない?」確かめるように、求めるように、ヴィクトーリアは言葉をつむぐ。
「姉さんを引き合いに出した。嘘はない。嘘にしたくない」
ウィリアムは笑った。きっと、その顔は今まで見たどんな顔よりも優しくて、どんな時よりも穏やかな、救われた笑みであった。
「そっか、お姉さんかぁ。えへへ、一番かぁ……うれしいなあ」
これで全部、ウィリアムの全てが曝け出された。強さも、弱さも、その根源すら――
「さあ、そろそろ戻るぞ。明日が本番だ。今日じゃない。明日はきっと、もっと幸せになれる。まだ途上だろ? 今日は、もう――」
ヴィクトーリアは静かに首を振った。とても幸せそうに、充足した、満ち足りた笑顔。あの時見た笑顔よりも、今まで見たどの笑顔よりも美しく、儚い大輪の華。
「……ごめんね」
ウィリアムの頬に、手に、温かなものが流れ落ちる。それはきっとウィリアムとヴィクトーリア、互いの器を満たしていたモノで、人が失ってはいけないモノ。
ヴィクトーリアの口がゆっくりと動く。それはきっと、最後の時まで愛をつむぎ――
真っ白なドレスが深紅に染まる。崩れ落ちるヴィクトーリア。
その背後に立つ者をウィリアムは知っていた。知らずともわかる。ウィリアムが気づかぬほどに気配を消して仕事を完遂できる者など、一人しかいない。
「白ィ龍ッ!」
ウィリアムは即座に剣を抜き放ち、無防備に立つ最強の暗殺者へ剣を向けた。
華、散る。
○
世界が流失していく。満ち足りていた『モノ』が加速度的に失われていく。手を伸ばせば届いていた黄金の時、手に入るはずだった幸せと言う名の果実。その禁断を目の前にして踏み潰された憤怒を向ける先――
「どうした、何故刃を止める。ウィリアム・リウィウス」
ウィリアムの眼は血走っており、その眼窩には紅き涙がこぼれる。全身は怒りに震え、剣を握る手も噛み締める歯茎からも、その憤怒に耐え切れず怒りの赤が決壊する。
憎い、憎い、憎い、頭の中が真っ赤なもので覆われる。狂気、ただそれだけがウィリアムを支配しようと、その刃にて目の前の怨敵を討とうと――
棒立ちの怨敵は首元にて止まる刃に目をやることもなくウィリアムを見ていた。華を散らせた右腕は紅き蜜に覆われ、怒りを増長させる。
「俺の首を断てば容易く仇が取れるぞ。お前は道を失い、その他大勢と同じ狂気に堕ちるがな。この『依頼』を受けた時から覚悟はしている。やるがいい。それが人だ」
白龍は哂った。
「たとえ『自ら』の依頼であっても、その痛みは変わるまい」
ウィリアムの瞳が揺れる。
「別件でひとつ頼みがある」
其処にいる男はすでに満たされつつあった。目の前の亡霊が求める存在とはかけ離れ始めていたのだ。決定的な、何かがあれば亡霊はこの失敗作を切り捨てていただろう。道を失った王など王にあらず。亡霊が求めるのは真の王ただ一人。
「白龍を貸して欲しい。奴に任せたい仕事がある」
その穏やかな眼を見て、その奥に潜む恐怖を亡霊は見抜いた。それは仕方がないことである。自らも死の間際、それがなかったわけではないのだ。否、恐怖なき覚悟に何の意味がある。恐怖を、屈服させてこその覚悟。
『用向きは問わぬ。ぬしの好きにせよ。求むる仕事分は対価を払ってのお』
目の前の王は、それを屈服させていた。覚悟を決めてこの道を歩むのだ。ならば亡霊に言うべき言葉はない。王はすでに喪失の痛みを知っている。その激痛の中今まで歩んできた。もう一度、その痛みを受ける。今度は、自らの選択によって――
暗殺者を使った仕事、それは暗殺以外ない。
ウィリアムはこの時、否、遥か前から選択していたのだ。
道のため、最愛を切り捨てることを――
ニュクスの選んだ王は紛れもなく狂人であった。出会ったその日から感じる甘えの少なさ。あの二人に対しては多少見せていたが、それでも一般的な人間と比較して、それはないに等しいものであった。
自分を律し、自分を縛り、自分の道を邁進する。迷いなく、寄り道なく、進むその背は間違いなく常人のそれではなかった。世の中にはびこる才能と努力の壁、それを破壊し蹂躙し、そして踏みつけ昇る姿はまさに人の王であっただろう。
その王が初めて人に身を預けた。諦めて受け入れた。寄り道することをよしとした。その姿に白龍はほっとしたのだ。やはり人は同じ、そうでなければならない、と。
肉を穿ち、命を摘み、奴隷も貴族も王族すら殺した経験を持つ白龍にとって、人とは平等な存在であった。死に際も同じ、その場で着ているものの差しかない。例外などなかった。例外など――存在してはならない。
「お前が俺に依頼した。自分が、対象が、最も満ち足りた瞬間、殺せ、と。あやふやな依頼だ。こんなもの初めて受けた。それは、俺が見てみたかったからだ」
最愛を失った人間は例外なく狂った。狂わぬ者はそれが最愛でなかっただけ。金に執着する者はそれを失えば狂い、愛人に偏執する者は失えばやはり狂った。
だから白龍には興味があったのだ。一度喪失の痛みを知り、狂う寸前まで至った男が、今度は自らの選択で最愛を失うという。白龍の観察の中で、ヴィクトーリアは間違いなく男の例外になっていた。最愛と呼ぶにふさわしい仕上がり。
それを自らの選択にて奪われると言う絶望。
「俺を殺して堕ちるがいい。さあ、やれ」
飲まれるならば自分の正しさが証明される。元々命に執着はない。そんなもの擦り切れるほど人を殺してきた。ただ、もし飲まれず踏み止まり、絶望すら踏みつけ前に進むなら――それこそ白龍の見たかった、真の『例外』と成る。その可能性があったからこの依頼を受けた。どっちに転んでも、白龍にとってメリットしかないのだから。
しかし願わくば――
ウィリアムは剣を落とした。ひざを落とし見る見ると温かさを失っていくヴィクトーリアだったものを抱きしめた。まだ判断がつかない。呑まれたか、踏みつけたか。
「冷たい。どんどん冷たくなる。もう、何のために生きているのかわからなくなるほどに」
流れ出る血の温かさ、その度に失われていく生きていた証。
何故、今日なのか。何故、明日では駄目だったのか。せめて式までは、せめてせめてせめてせめて――これが弱さだ。流れ出る、温かさと同じもの。
「お前を切り捨ててまで、俺は何がしたいのだろうな」
ウィリアムの前に道はなかった。ただ、我武者羅に天を目指して足掻いた。そこが上なのか下なのか、前なのか後ろなのかわからぬが、それでも妥協なく歩んだ。気づけば後ろに道が出来ていた。前は相変わらず見えない。頂点は見えているが、其処への正解は誰にもわからない。ただ、その道を、過ぎ去った轍を見て男は思う。
もう、後には引き返せないのだと――
「愛しているよヴィクトーリア。今、この瞬間も変わらずに」
最後の言葉。声にならなかったが口の動きで理解できた。それは呪いなのだ。ヴィクトーリアが最後の最後まで刻もうとしたもの。最初から最後まで貫き通したエゴ。
『だーいすき』
ウィリアムは剣を持って立ち上がった。その剣の重さを、世界の冷たさを、今にも泣き出しそうな顔で感じる。そして『弱さ』をぬぐった。
「期待に添えなかったようで悪かったな。いい仕事だ、白龍。これ以上ないタイミングだっただろう。気が狂いそうだよ。今にも、お前を殺しかねないほどに」
つまり、殺さぬと言うこと。飲まれず、踏み越えたと言うこと――
「冷たいな。寒くて凍えそうだ。俺は一人で、俺だけが世界に君臨している。嗚呼、ようやく掴んだぞ。俺は俺の絶対を掴んだ。もう迷いはない。もう、雑念は消えた」
白龍は無言で膝を折った。頭を下げ、目の前の『|王(れいがい)』に全てを捧げんと忠誠を誓う。もはや疑問の余地はない。王に愚かで矮小な己の考えは当てはまらなかった。求めていた者がとうとう舞い降りたのだ。
「俺の誕生を祝おうか。盛大に、粛々と、血塗られたパーティの時間だ」
ウィリアムは哂う。自分の選択を哂う。これ以上ないであろう愚かな選択。ようやく失ったものを掴み取り、これから取り戻すはずだった本来の己。それを自らの選択にて破壊し、残ったのは孤独な玉座のみ。
「準備は出来ているか?」
「全て滞りなく。我が主」
ウィリアムは最愛の血にまみれたマントをはためかせる。
「ただの雑事、仕事でしかないが……やるなら楽しまねばな」
王が完成する。そしてその王がもたらす最初の享楽。生贄となるは同じく血塗れた、王になれず狂い呑まれた狂人――
「さあ、我が義父を殺しに行くとしよう」
ヴラド・フォン・ベルンバッハ。最初に王から奪った大罪人である。
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