幕間:絡み愛し関係

「そういや白騎士から伝言だ」

 全員の顔合わせを終え、各自散開した中、ヴォルフとルドルフだけがこの場に残っていた。ヴォルフは思い出したかのように手を打つ。そのわざとらしさにげんなりするルドルフ。ヴォルフの目は明らかに笑っていたのだから。

「自分は軍団長になった。ブラウスタットを今後守護するのは新大将ヘルベルトだとよ」

 一瞬、ルドルフの頭の中で勝利への算段が組み上がった。ヘルベルトは悪い将ではない。しかし勝てない相手でもない。ある程度勝たせてやって、頭を出したところを潰せばそれで終えられるような気もする。

 だが――

「……あっ」

 その思考は露と消える。ヴォルフは笑った。察しなければ得られたかもしれない要衝。察してしまったがゆえに、自らを縛る鎖と成る。

「あ、んにゃろう! どんだけ自己評価が高いんだよ!?」

 ルドルフもまた笑ってしまった。これはあまりにも酷い策である。相手の裏に白騎士がいなければ発動すらしなかった策。これを策と呼んで良いのかもわからない。ルドルフの考え次第でいくらでも変化するのだ。

「んで、青貴子様はどうなさるおつもりで?」

「……少し考えるよ。でも、たぶん決まっているんだろうね。僕は、彼が怖いから」

「そっか。いいと思うぜ、それでよ」

 ヴォルフが、ルドルフが察した白騎士の狙い。それは――


     ○


「ガイウス王がリウィウスを自国に誘った、だと?」

「それで王位まであーげるって……冗談よね?」

 こちら側の戦線に戻って即日、カールは死戦の中に身を投じた。「何故そんな大事黙っていたんだ?」と言われても、言う暇はなかったし、言う余裕もなかった。

「なるほど……そんなことがあったのならば殿下の動きも頷ける。白騎士にとっては難儀な状況だ。今、軽挙に自薦でもしたが最後、野心を咎められてしまうわけか」

「だからカールを立ててお茶を濁し、自分はほとぼりが冷めるまでって腹積もり?」

「大将の席はいつでも奪える。今急ぐ必要はない、か。傲慢だがそれしかないだろう」

 ギルベルトやヒルダは状況を理解した。カールに降りかかった謎の昇進は、まさに大勢の思惑が合致した形なのだろう。エアハルトら支配層からすると、白騎士の値札はアルカディアにとって役不足に他ならない。かの革新王がつけた値札、アルカディアがそれ以上を出すことは不可能なのだ。

「僕は、ウィリアムの――」

「カウンターなのだろうね。君は元々彼の上官だし、表向き白騎士はカール・フォン・テイラーに頭が上がらない。世間の目ってのがあるからさ」

 リディアーヌがばっさりと言い辛いことを言い切った。

 裏でどんな関係であろうと、カールとウィリアムは上官と部下であり、貴族と異人、主従関係と見るものがほとんどである。仮に今二人が敵対した場合、大義の行方はカールに挙がるだろう。貴族はカールにつくだろうし、世間もカールを推すはず。

 力はあれど、その足を引っ張って余りあるハンデをウィリアムは負っていた。テイラーを利用したことで生まれたテイラーと言う枷。天上の連中はこれを利用してウィリアムを抑制しようと言うのだ。

「カールが推された理由はわかったわ。でも、カールからブラウスタットが奪われる理由はわからない。テイラーがこの都市にどれだけお金を注ぎ込んだと思ってんの? カールがどれだけ此処に尽くしたと思ってんの?」

 ヒルダはずっと不機嫌であった。カールのいないところで、カール自身には関係のない部分が評価されて昇進した。誰もカールを見ていないだろう。幾人かは見ていたとしても、大勢はウィリアムに対するカウンターという評価。

 この戦場で見せた輝きも、撤退戦で披露した底力も、今回の人事に反映されたわけではない。ただただ、白騎士への抑えとして、その役目しか望まれていない張りぼての大将。

「金のことは置いておいたとしても、兄上と言う選択肢には疑問が残る。兄上の強みは父上と同じ野戦でのぶつかりあいだ。実力は父上譲りで優秀だが、防衛戦は勝手が違う」

 ギルベルト自身苦い敗戦を経験した。そしてヘルベルトと自分の比較では、おそらく総合力でほんの少しヘルベルトが優る程度。黒狼などに攻め立てられたら、外堀を埋める前に片がついてしまうかもしれない。

「ヘルベルトを討たせる為、だったらどうかな? 筋は通っていると思うけど」

 リディアーヌの発言にギルベルトとヒルダははっとする。ロルフは顔をしかめ、カールもまた一定の理解を示した。これは、白騎士であればありえる話である。

「現在、ちゃっかり軍団長になったウィリアム君は、順調にいけば次の大将は彼の番だろう。苦肉の策でカールやヘルベルトを前面に押し出したが、次に選択肢があるとは思えないのだ。ゆえ、一角が落ちれば自動的にウィリアム君が上がるってことさ」

 次の大将を目指した上で、ヘルベルトをネーデルクスに討たせる作戦。これはとても白騎士らしかった。カールも頷くしかない。カールの知るウィリアムもまた、ヘルベルトという駒を切り捨てるのに躊躇はしないだろう。

「でも、それはせっかく皆で守ったブラウスタットを捨てることになる。この地を任されている人を切るってことはそういうことだよね」

「そうなるね。それを白騎士が許容するかってことか……微妙だな」

 そう、ヘルベルトを切る、切り捨ててその座に成り代わる。とても白騎士らしい。だが、その過程でブラウスタットが奪われることを、果たしてあの怪物は許容するだろうか。此処で皆の思考は詰まった。ヘルベルトを切ってブラウスタットを差し出す。とても白騎士らしいようで、白騎士らしさの欠片もない妥協案。彼らの思考は此処どまり。

 彼らは答えに辿り着いていた。ただし、見方が違う。自らは大将に食い込まず、次の機会を待ったこと。あえてカールではなくヘルベルトをブラウスタットに据えたこと。全てに意味がある。全ての狙いはただ一点に収束しているのだ。

 この策はネーデルクスを封じる策。封じ、邪魔をさせないための策。


 ウィリアムは蝋燭の灯りが揺らめく机に上に、一枚の大きな地図を広げていた。今回の策に絶対の自信はない。そもそも策とは相手がいる以上、絶対などと言うことはありえないのだ。全ては青貴子次第。だが、青貴子を知るウィリアムの中で、この策はほぼ確定したものであったこともまた事実。

 地図上ではルーリャ川を挟んで対岸に大きなバツ印が。

「もう少し、もう少しだ」

 ウィリアムは地図上のある一点を凝視する。ネーデルクスは封じた。ならば狙いは一つしかない。青貴子が己にひるみ、ヘルベルトを殺して白騎士の昇進に一役買うことを嫌えばこれで狙いは絞れる。

「まだ、足りねえよ」

 白騎士の狙いは――天瞬く巨大な星。

 黒き鋼の星を、潰すことである。


     ○


 傷の療養のため、先んじてウィリアムはアルカスへ戻った。すでにネーデルクスは戦意が見えず、戦争行為の続行はないと踏んだためである。同時にシュルヴィア、リディアーヌも帰還。大橋周りの防備はリディアーヌの差配で進捗を大きく早めており、結果この後の作業を格段に短縮することになった。

 残されたカールたちも、入れ替わりとしてやってくるヘルベルトに引継ぎをした後、ブラウスタットを去ることに決まった。あれほど尽くした都市であったが、去ると決まればあっさりとしたものである。

「あれが、第一軍新大将のヘルベルトお兄様って奴? 昔のあんたみたいでいけ好かない面構えね」

 ブラウスタットにヘルベルト率いる部隊を迎え入れるために、カールたちは大橋の前まで来ていた。重厚感のある行進の先頭、ベルンハルトとよく似ている短く刈り込んだ金髪、精悍な顔つき、そして他者を圧倒する威圧感。

 まさにあの親にしてこの子あり、オスヴァルトの長兄である。

「……茶化すな。…………いけ好かない、か」

 ヒルダの発言に、ほんのりショックを受けるギルベルト。

 ベルンハルト率いる一団が接近する。

「出迎えご苦労。久方ぶりの大戦、老体には応えたのではないか、ロルフ殿」

「何のこれしき、カスパル様、バルディアス殿、ベルンハルト殿と駆け抜けた戦場に比ぶれば、たいしたことはございません」

「その時代も終わった。もう少しその背に学びたかったがな」

「すでにヘルベルト殿は彼らと並ばれておるでしょう」

 ヘルベルトはこの場でロルフのみと言葉を、視線を交わしていた。その他はとるに足らぬと視線を向けることすらない。同じ新大将であるカールにも、実の兄弟であるギルベルトにも、一瞬の視線の交わりすらないのだ。

「ご無沙汰しております、兄上」

 そこをあえて踏み込むギルベルト。談笑しているヘルベルトの表情が固まった。会話の相手であったロルフが驚くほど、その表情は無機質に変化する。ぐるりと首を回し、この場で初めてヘルベルトは実の弟であるギルベルトを見た。

「驚いたな。よく俺に声をかけられたものだ。いや、よく平然とこの場に立っていられるな。誰のせいでオスヴァルトの当主が死んだと思っている? 誰の弱さがこの事態を招いた? 何故貴様は恥ずかしげもなく生きてこの場に立っている?」

 あまりにも冷たい言葉の応酬。ギルベルトは拳を握り締めその言葉に耐えていた。

 耐え切れなかったのは――

「ギルベルトはよくやっていました。全員が最善を尽くした結果、及ばなかっただけのこと。誰が悪いと言う話ではありません」

 隣にいたカールであった。まあ別の意味で耐え切れそうにないヒルダは、ロルフがしっかりと見えないように押さえている。さすが重臣、『暴風』の扱いを心得ていた。

「……不快だな、お飾りの大将よ。あの小賢しい異人を抑えるためだけの役割しか持たぬ者が、よくも対等然としていられるものだ。勘違いが過ぎるぞ」

 ギルベルトに対しても、カールに対しても、ヘルベルトはただのひとつの情を持たなかった。信頼がマイナスに振り切れている。これでは何を言っても意味がない。

「それでも、僕は第三軍大将です。お飾りでも同格、そこを勘違いしないでいただきたい」

 カールの返しにギルベルトは目を丸くする。ヒルダは怒りが吹き飛び、改めて惚れ直していた。ヘルベルトは――

「ほう、口は達者だな。ならばその口に見合うだけの力をつけてみろ。そうしたら対等と認めてやる。お飾りの、カール・フォン・テイラー大将よ」

 面白そうに笑っていた。その返しを存外気に入ったようである。どうやらギルベルト以外にはそれほど理不尽ではないらしい。良くも悪くもオスヴァルトなのだろう。

「精進致します。ブラウスタットの案内は?」

「引き継ぎ含め貴様に任せる。そこの愚弟は要らん。俺の視界に入るな」

「わかりました。後は僕とロルフさんに任せて。二人は部隊の帰り支度を進めておいて」

 ギルベルトはおとなしく首肯し、ヒルダは不承不承に頷いた。

 カールとロルフが先導し、大橋の砦の先、ブラウスタットに案内していく。それを見送るギルベルトの目は、あまりにも弱弱しかった。

「何であんなにひねくれてんの?」

「俺以外には正しいオスヴァルトとしての接し方をしている。傲慢だが、それに見合う力は備えているし、それに見合う研鑽も積んでいる。強く、将として完成されている。自慢の、憧れの兄だ。父上と同様、俺の目指すべき背中だった」

 ギルベルトは薄れ行く兄の背を眺めていた。幼き頃から見つめ続けていた背中、ある頃を境に一変した兄との関係。それでもなお尊敬しているとギルベルトは言う。

 その顔がヒルダの癪に障った。

「じゃあ、何であんただけ正しくない接し方をされてんの?」

 ヒルダの言葉に視線を落とすギルベルト。その顔は苦しそうな表情を浮かべていた。

「……俺が知りたいよ。ずっと、ずっと前から」

 これ以上、ヒルダは踏み込めない。おそらくこの先はオスヴァルトの歪み、かの名家が抱える問題なのだろう。踏み込むならば相応の覚悟が必要、ヒルダにとってギルベルトは大事な友達だが、其処に踏み込むような関係ではなかった。カール相手なら踏み込んで欲しいし、踏み込む問題。家の問題とはそういうものである。

「気にするな。今更たいした問題じゃないさ」

「そう、ならいいけど。まあきつかったら言いなさい。相談くらいは乗ってあげる」

「すまんな。さて、テイラーが戻ってくる前に準備を終わらせておこうか」

「そうね。さっさと戻りましょ。久しぶりの王都、羽根を伸ばすわよォ!」

 切り替える二人。踏み込みあう間柄ではない。想い人のいるヒルダは踏み込めないし、それを知っているギルベルトもまた踏み込ませる気はない。だが、同時に弱い自分がささやくのだ。踏み込ませてしまえ、と。

 そうすれば、幼き日から続く想いが――

(愚。何もかもを壊す気か? お前は欲を出すな。ただ、物言わぬ剣であれ)

 ギルベルトは内心で己をいさめた。思うことすらあってはならない。それは雑念でしかなく、己が剣にとって不純物でしかない。切り捨てるべき感情で、唾棄すべき欲望。

 それを認識し、冷静に抑えることが出来た。

(それでいい。大丈夫だ。俺は、剣なのだから)

 研ぎ澄まされる感性。未だ途上である完全な制御。今回は条件付での強さであった。結局後半戦は対策され、常時特別な駒二人、三人がかりで対処された。逆に言えば二人ないし三人を抑えていたことになるのだが、そこで満足してはいけない。

 多対一でもある程度力を引き出せなければ、これから先の戦で通用しない。それぐらいの心持が大事なのだ。雑念に惑わされるべき時ではない。家の問題に頭を割くべき時でもない。自己の研鑽、それのみに注力する。

 今必要なことはそれなのだから――


     ○


 ウィリアムは王宮へ顔見せした後、シュルヴィアらと別れて家路についた。道中、奇異に似た視線を感じたが、其処に思考を割く余裕はない。腹部の傷は完治する兆しすら見せず、未だにウィリアムを苛み続けている。致死を避けた代償は存外大きかったのだ。

 それでもウィリアムは顔色ひとつ変えずに街中を闊歩する。痛みも弱みも見せない。傷跡を知っているシュルヴィアでさえ、ウィリアムが未だ途方もない激痛と筆舌し難いかゆみ、不快感から来る疲労に襲われているとは思っていないだろう。

 ウィリアムは家の前に立った。まだ夕暮れにもなっていない。このまま倒れ込みそうな精神を一喝し、自身の屋敷の門をくぐった。あと少しで休むことが出来る。この屋敷に潜む別の人間のことを考えれば憂鬱になるが、扉をしっかりと閉めて部屋を隔絶する。

 安息は近い。疲労の極致。消えぬ痛みを頭から消す方法は寝るくらいのもの。

「ただいま帰ったぞ」

 扉をノックし、無造作に屋敷に入る。要注意なのはヴィクトーリアだけではなく、マリアンネやヴィルヘルミーナの二人もである。彼女たちはどちらも別方向だが同じように空気を読まない。限界に近いウィリアムにとっては一番会いたくない組み合わせ。

(こういう時にいるから――)

 すでにウィリアムは諦め状態。どうでも良い時の運の悪さには自信があるのだ。

「お帰りなさい。お疲れさま、ウィリアム」

 それはある意味で予想通りで、ある意味で予想外の光景だった。

 扉を開けた先には、いつもと変わらずヴィクトーリアがいた。ただ一人で、ウィリアムを待っていた。その代わり映えのしない光景、ヴィクトーリアがにこにこと微笑み「お帰りなさい」と言ってくれる当たり前に――

「ああ、ただいま」

 ウィリアムはほんの少しだけほっとしてしまった。いつの間にか自分の中で当たり前に成っていた今の状況。屋敷に踏み入って、ヴィクトーリアを見た瞬間、張り詰めていた糸が少しだけ緩む。

 一歩、近づく。意識が混濁し始める。

 あのウィリアム・リウィウスが、

「少し、今回は、つか、れ――」

 誰かに寄りかかる。そのありえない光景を他の者が見ると驚愕するだろう。孤独の王、誰も寄せ付けぬ冷たい生き方をしているはずの男が、誰かに身体を預けている。

「…………」

 ヴィクトーリアは顔を真っ赤にしていた。いきなり倒れ掛かるように身体を預けてきた愛する人、その行動の意味を理解しようとすればするほどに混迷は深まっていく。ちなみにヴィクトーリア、けっこう力いっぱい踏ん張っている。

「ね、ねえウィリアム、私、今――」

 すごくあったかい。ヴィクトーリアはそう言いたかった。言おうとした口を閉ざした。言葉をつむがずともわかることはある。

 ヴィクトーリアはゆっくりと、優しくウィリアムを抱きしめた。ウィリアムは身動きひとつ取らない。ヴィクトーリアに身体を預けたまま、動く気配すらみせていないのだ。

 それもそのはず、ウィリアムは寝ていた。完全無欠に意識を落としていた。そんな姿をヴィクトーリアは見たことがなかった。寝るときはいつも別室で、寝顔を見たこともない。意図的に見せないようにしていたのだろう。その意図はヴィクトーリアも感じていた。だから、この状況はヴィクトーリアにとっての前進である。

 ウィリアムの重さが、ヴィクトーリアには嬉しかった。ほんの少しだけウィリアムの背負う重さを共有できた気がしたから。きつい体勢だけど、辛い姿勢だけど、その分ウィリアムはきっと楽が出来ている。そこに幸せを感じてしまう。

 ウィリアムの顔に浮かぶ、あまりにも安らかな表情。ウィリアム・リウィウスの人生で、このような安堵の中での睡眠はなかった。ウィリアムの名を喰らう前、アルレットを失う前、アルレットと共に寝ていたときの表情に近い。

 安心と幸福、あたたかいものが『二人』を満たす。

「おやすみなさい、ウィリアム」

 其処には間違いなくあった。失ったはずの、この世で最も尊きものが。

 それを人は何と呼ぶのだろうか――


     ○


 ウィリアムが目を開けると、そこにはとても幸せそうに、ささやくように歌うヴィクトーリアの姿があった。どこかで聴いたことのある歌、今となっては欺瞞にしか聞こえない歌詞。それでも、彼女が歌うとそれは『ある』のではないかと思ってしまう。

 美しいとウィリアムは思った。外見が整っているのは知っている。そんなことはウィリアムにとって瑣末なこと。ウィリアムにとっての人とは中身であるのだから。

「綺麗だな。お前は」

 驚いた表情になるヴィクトーリア。当たり前だが、歌が止まってしまう。

「もう少しだけ聞かせてくれ。ほんの少しだけでいい」

 ひざまくらの温かさ、素肌の温度が冷たい心を満たしていく。ヴィクトーリアの温かな声が再び響き、その柔らかな波が優しく耳朶をくすぐる。

 ヴィクトーリアはウィリアムと似ている。真っ直ぐに、どんな障害があっても愚直に突き進む。愚かなのだ。もっと賢く生きる道はいくらでもある。妥協したほうが楽で、世間一般での幸せも容易につかめたはず。それが出来ない。それをしない。

 愚かだとウィリアムは思う。似たもの同士、愚か者同士、似合いだなとウィリアムは嗤う。あの日から、結局この戦で勝ち目は見出せなかった。彼女を下す道を、どうにかして見つけたかった。そう思う時点で、負けている。

「なあヴィクトーリア」

 歌の終点でウィリアムは声をかけた。「ん」と反応するヴィクトーリア。

「お前の選択に迷いはないか?」

「ないよ。私は揺らがない。貴方が好き。ずっと好き」

 即答。迷いなし、揺らぎのひとつすら見出せぬ。

「馬鹿だなあ」

 ウィリアムは笑った。邪気のない、子供のような笑み。やはり勝てない。ヴォルフや巨星以上に勝ち目の見出せない戦いが此処にあった。どう転んでも負け。笑うしかない。認めるしかない。

 自分はこの愚か者のことが、きっと愚か者が抱く想いと同じくらい、


 ヴィクトーリア・フォン・ベルンバッハが好きなのだ、と。


 ウィリアムは笑顔と共に納得した。そして答えを得た。

「俺と結婚してくれ、ヴィクトーリア・フォン・ベルンバッハ」

 ウィリアムは端的に想いを伝える。

 ヴィクトーリアはほんの少しだけ驚いて、

「よろこんで、ウィリアム・フォン・リウィウス」

 そして満面の、大輪の華を咲かせた。この世の何物よりも美しい笑顔と言う名の花を。

 それを見てウィリアムは胸に満ちる幸福を噛み締めた。愛がとめどなく溢れてくる。愛がとめどなく注がれている。こんな幸せがこの世にあるだろうか。姉の最愛と比しても遜色のない、否、それ以上の愛。

 これが最愛なれば、今この時こそ至福。

 時よとまれ、そなたは美しい。

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