進化するネーデルクス:崩壊と再生

 その日も、特別な動きはなかった。ただいつものように北方の兵をけしかけ、その間隙を矢で補う。幾人かは殺されるも、ただの強兵ならば補充が利く。前日までと変わらない万全の構え。ウィリアムが下手を打たねば崩れぬ状況。

(このままいけるか。ロルフも上がらせて一気に押し込む。これで決まる)

 山岳の守りは必要なくなった。ヴォルフがこの調子では相手の攻めは機能しないだろう。勝てると、油断も慢心もなくウィリアムは思った。

(俺がヴォルフを完全に封殺するだけだ)

 ウィリアムは矢を放つ。それは弧を描いてヴォルフに向かう。うっとおしそうにヴォルフはそれを薙ぎ払った。これでいいのだ。相手を好きにやらせない。それで勝てる。

 ウィリアムは勝利に向けて矢を放った。


 ヴォルフを矢を払いウィリアムの様子を伺っていた。相変わらず隙はない。そもそも実戦の中で僅かでも隙を見せる相手ではないのは重々承知している。それでも、ヴォルフは機会が来ることを疑っていなかった。

(やっぱテメエはすげーよ。俺を完全に封じてる。でもな、わかっちまうんだ。その弓、使いたくねえんだろ? それでも使っちまうのは俺が怖いからだ。俺を遠ざけようと、自分を曲げた。テメエが、曲げてんだ。だから――)

 ヴォルフはウィリアムの恐れを感じ取っていた。あのウルテリオル郊外での一騎打ちが、刻み込んでしまった。勝てないという事実。才能の差を。

(俺の感性が、勝てると叫んでいる!)

 その恐怖は決して表に出てくるものではない。特にウィリアムはそれを出したりはしないだろう。否、出そうにもウィリアムの矜持が、心が拒絶するのだ。その弱さを認められない。だから、ウィリアムは表面上平静であるが、普通の状態ではないのだとヴォルフは判断する。

(人はでかいもんとぶつかると普段見えるもんでも見えなくなる。あの怪物と対峙した時、俺は正常じゃなかった。テメエはどうだ? 正常か? ちゃんと見えてるか?)

 ヴォルフの目には二つの炎が干渉し合い、一つの道が生まれる筋が見えた。ちらりとウィリアムを見る。彼の眼はヴォルフただ一点に注がれていた。隙はない。しかしそれはヴォルフという一点に限ってのこと。

(筋は見えた! テメエは、見えてねえな)

 ヴォルフはウィリアムが正常でないと確信を抱いた。あれほど視野の広い遠距離型の男が、ヴォルフのみしか見えていない。それでいいと思っている。頭を任せている男への信頼もあるだろう。そこがらしくない。今のウィリアムは頼りすぎている。

「最初で最後の好機、喰らってみせるぜ!」

 だから、この状況が生まれてしまった。


 ウィリアムは弓に矢をつがえる。ヴォルフの動きが少し早くなった。だからといって外したりはしない。弦を引き絞り、矢を放――

「あいつ、何故笑って――」

 ウィリアムは、魔法が解けたかのように周囲を見渡した。自分の眼前、自分の軍は統御できている。それは対ヴォルフへの軍勢ゆえ、完璧に制御していた。完璧すぎるほどに、完璧を越えるほどに、ヴォルフに合わせて速度を引き上げられてしまったのだ。

「……俺は、馬鹿か」

 呆然と、ウィリアムは『全体』が綻ぶさまを見た。カールの統御する軍とウィリアムの統御する軍、二つの速さの違いが引き起こした歪み。ヴォルフを追うウィリアムの軍、そしてまったく関係なくそこにいた――交戦途中のヒルダとニーカの軍勢。二つがぶつかりかける。その際を駆け抜けるヴォルフ。

「この、俺が、この程度を見逃していただと?」

 二つの軍勢は衝突をためらい、ほんの少し隙間が生まれる。それは一筋の道となり、この長き戦場で初めての急所と化した。

 ウィリアムは一瞬、弓を持つ自分の手を見る。

(これは最善手だ。俺は何も間違っていない。あの男相手に接近戦で勝てると思うほど俺は間抜けじゃない。何も間違っちゃいないんだ。なのに何故、何故こうなった?)

 思考を振り払いウィリアムは矢を放つ。絶対に近づけまいと、単騎で攻め込んでくるヴォルフに矢を浴びせかける。だが、それらは空しくヴォルフの双剣に打ち砕かれてしまう。

(弓を使うことは間違っていない。視野が狭くなっていたのが、其処が敗因だ)

 ウィリアムはヴォルフを矢で潰すことを諦める。替わりに狙うはヴォルフが操る馬、それを狙ってウィリアムは矢を放った。

(ならば何故、俺の視野は狭まっていた? 奴への恐怖、それはわかる。俺はあいつへ、そういう思いを抱いている。認めよう、俺は畏れている。だが、それはストラクレスの時も同じ、同じはずだ。何故俺は、あの時と今でこうも違う? 何故見えなかった?)

 ヴォルフは巧みな手綱捌きで一撃を回避、そのまま自らは馬を下りて駆け始める。愚挙だと皆が思った。しかし、重厚な鎧を纏った男の加速を見て、誰もが絶句する。「あれは人間なのか!?」そういう声が聞こえてくるほど、常軌を逸していた。

(いつもと違うところ……弓、ああ、そうだ弓だ。やはりこいつ、こいつが元凶だ)

 ヴォルフに対して、茫然自失ですら正確に、とてつもない速度で矢を射掛けられるセンス。これがウィリアムの目を曇らせた最大の元凶であった。今までウィリアムはとてつもない修練の果て、一流の技術を手に入れてきた。それは長い時をかけて手に入れたもの、長き時をかけてなお何処かしっくりこない、一流止まりの技術たち。

 しかし弓は違った。これは人並みの努力で一流を上回る技術をウィリアムに与えた。その快感は、才能なき努力の男にとってあまりにも甘美なものであった。この戦場の中でも飛躍的に進歩する技術。どんどん馴染んでいく弓という適正。

(俺は、浮かれていたのか。俺にも才能があったと、お前たちに負けない才能があったと、たいした努力もせず、天才のお前を止める力が俺にもあったのだと。馬鹿め。奴の才能に当てられた弱者が。そして自分の才能に溺れていた愚者よ。この状況は、必定だ)

 矢では足止めにもならなかった。地平を迷いなく駆けるヴォルフは双剣を巧みに操り矢を打ち砕き進む。ウィリアムの部下たちが数名割って入るも、刹那の時も稼ぐことなくヴォルフの餌食となってしまう。ここぞという時の馬力が違い過ぎる。

『僕を受け入れるとのたまいながら、お前は僕を恐れていた。アルを遠ざけていた』

 ウィリアムの頭蓋に響く声。それ見たことかと小さな少年の声がささやく。

『お前はまだ惑いの中だ。半端なお前は此処で死ぬ』

 声は喜色を含んでいた。自分が滅びることへの暗い愉悦が忍び寄る。

『よかったね。これでお前はあの子を殺さなくて済む。愛しい愛しい――』

「黙れよ。俺の、邪魔をするな!」

 ウィリアムは叫びで声を消し飛ばした。死への渇望を振り払い、今という時を凝視する。ヴォルフが向かってきた。何人かの妨害は何の意味もないだろう。

 ウィリアムは弓を捨て去った。この場にて頼るのは、長き修練の果てに一流にまで昇華した剣技。しかして相手は超一流、天才であり剣に多くを費やした黒の狼である。

『怖い狼が来るよ。鋭い二つの牙は、柔らかな肉を引き千切り、絶大な苦痛とともにお前は殺される。嗚呼、ようやく終われるんだ。もう、何も背負う必要はない。躯の群れも、業の塔も、全ては幻と消える』

 全身が悲鳴を上げている。勝てるわけがない。逃げろと――

「それを俺は許せない。だから退け、今は貴様が邪魔だ」

 ウィリアムは居合術の構えに入った。これはまだヴォルフに見せていない隠し玉である。未だブリジットの高みにすら遥か遠きウィリアムの居合い。それでも、狼を殺せる可能性はこれしかなかった。自分が生き延びることの出来る唯一の手札。

「白騎士ィィィィィイイイッ! 会いたかったぜェェェエ!」

 猛進してくるヴォルフ。その両目に宿る確固たる力。迷いなきそれを見てウィリアムの中、小さな少年は微笑んだ。


     ○


 ウィリアムとヴォルフの間、遮るものは何もなかった。厳密には幾人かの部下が割って入るも、ウィリアムとヴォルフ双方ともそれが障害になるとは思っていなかったのだ。

 ウィリアムの集中が極限を越える。おそらくは一合、二合の勝負。あくまで此処は戦場でヴォルフにとっては敵の本陣である。それ以上の時間はかけられないだろう。二合しのげばおそらくは生き残れる。そしてその二合が――

(あいも変わらず化け物か)

 あまりにも遠い。黒の狼の威圧感が押し寄せてくる。

 ヴォルフがウィリアムの部下を瞬く間に薙ぎ払い、残り十歩にも満たない距離まで到達した。勢いはまったく衰える気配がない。むしろ増すばかり。この戦、ウィリアムが前線に出張ってから今日まで耐え凌いで来た鬱憤を全て晴らすかのごとく駆け抜ける。

 ヴォルフならば十歩を五歩に縮めてくる。もはや数秒の猶予もない。

 頭の中で嗤う喧騒。死へ誘う魍魎たち。躯の群れが手招く。こっちへおいで、と。

(あわてるなよ。死んだらいくらでも聞いてやる。だから、今は消えろッ!)

 ウィリアムの頭の中から喧騒が消えた。圧倒的静寂が頭の中を包む。死を目前としてようやく消え去った『声』。嗚呼、やはり死は救済なのだ。ある者にとっては。

(ならばなおさら……死ねんな)

 静寂の世界、ウィリアムは全てを押し留め、ただ一点に開放する準備を整えた。対するヴォルフもウィリアムと同様、激烈な殺気は鳴りを潜め、換わりに静寂の中、ただ一点を穿つ最強の矛となる。鋭き殺意が火花を散らす。

 両者の間にあるのは外界から隔離されたような圧倒的静寂、そして極限にまで引き伸ばされた二人の間に流れる体感時間。

 先んじたのはヴォルフであった。十歩を五歩に、四歩に縮めて接近。ウィリアムの眼前に到達する。息は切れていない。瞬きもしない。そんな余裕はヴォルフにもなかった。此処は死地、選択肢を誤ったほうが死ぬ。その程度の実力差なのだ。少なくとも、死を前にした極限の状態では――

 言葉は発せない。発しても相手に通じる頃には全てが片付いている。ゆえに意味がない。言葉は要らないのだ。必要なのは正しい選択。生きるか、死ぬか。

「ッァ!」

 ヴォルフは右の剣を袈裟懸けに振り下ろした。その破壊力はあらゆる受けを破壊してしまうだろう。静寂を切り裂く轟音が迫る。それをウィリアムは半身に成って回避した。ヴォルフも当然そう来ることは読み通り、あくまで牽制の一撃。

 本命は左手の下段。直下から天にめがけて奔る斬撃。半身でかわして狼を懐に入れた騎士、その選択は誤りであったと言わんばかりの一撃は、受けも回避も不可能な必殺であった。

(これを、殺す!)

 ウィリアムは此処で押し留めていた殺気を開放した。鋭く、堅く、強きモノ。ウィリアムもまた死を前にして一歩踏み込んだ。大きく右足を踏み込み、大地を抉るぐらいの軸を形成する。これが足場、必殺を放つための前準備。

 すでに放たれた必殺に、それを超える必殺を重ねる。

 最速を超えた先、ウィリアムは死地にてようやく『それ』を掴んだのだ。『彼女』を殺した夜からずっと夢見た、修練を重ね目指したひとつの到達点。ウィリアムの知る中で最も美しく最も条理を逸脱した|業(ワザ)。

 ルシタニア剣術、レイの、フィーリィンの剣技。最速最強の抜剣術。

 ヴォルフは眼を見開いた。自分の必殺が、上書きされる瞬間を。先出ししたはずの技が追いつかれ、追い越されていく瞬間を、ヴォルフは見た。

(ありかよ、こんな、馬鹿げた技が!?)

 ヴォルフの必殺が打ち砕かれた。一冬を越えて磨きをかけた己が力、その象徴である新たな剣がまたしても砕かれたのだ。黒の狼の矜持ごと牙を打ち砕いた白の騎士。牙を砕いた剣がそのままヴォルフに殺到する。牙を砕いた反動で減速を余儀なくされた刃を、ヴォルフは超人的な体捌きで対処する。ギリギリの攻防。刹那の中、二人はまだ生きている。

(ほんと、つくづく想像を超えてくる男だよテメエは)

 静寂の中、ウィリアムとヴォルフの視線が絡まり合う。お互い必殺を放ち合い体は崩れている。先に立て直した方が、この瞬間の勝者と成る。

 ウィリアムは抜剣術の勢いそのままに回転切りを敢行する。この状況での最速最短はそれしかない。狼の牙は砕いた。十二分に勝算はある。

 対するヴォルフもまた身体を入れ替える。ぐるりと回り、相手の二の矢を観察する。ちらりと視界の端に映ったのは身体を回転させている騎士の姿。回転切りが来るとヴォルフは直感した。そして一瞬、哀しい目をする。背中合わせ、この表情が騎士に知られることはない。刹那の中、ヴォルフは――

 騎士は狼の牙を砕いた。されどそれはまだ、二つの内の一つでしかない。

((死ね!))

 二つ目の牙か、騎士の剣か、双方の意地が迸る。

 おそらく二人の差は紙一重。しかしその一枚の厚さが勝敗を決する。

 ウィリアムの回転切りをヴォルフがどう対処したのか。すれ違う一瞬での攻防は、多くの理解を超えているものであっただろう。正しく攻防を理解できているものなど極少数の猛者しかいない。

 ヴォルフとウィリアムはすれ違った。駆け抜けるヴォルフ。ウィリアムはその場で立ち尽くす。ヴォルフは血をぬぐう。そしてヴォルフは振り返ることなく――

「……俺の、勝ちだッ!」

 そう宣言した。

 ウィリアムは、白の騎士は、その場で膝を折った。噴出す鮮血と共に、ウィリアムは崩れ落ちたのだった。

 アルカディア軍は一瞬にして絶望に叩き落されたのだ。


     ○


 崩壊した塔、その屍が折り重なる瓦礫の山に二人が立っていた。一人は黒き髪の青年、強さに満ち満ちている。一人は白髪の少年、弱さの塊であった。まるで対照的な二人、交じり合うことなどありえないように見える。これが同じものだとはいったい誰が理解出来ようか。

 白髪の少年が口を開いた。

『これで終わりだ。もう、此処に新たな業が積まれることはない。誰も傷つかなくて良い、誰も傷つけなくて良い。これで良かったんだよ』

 業が消える。罪が消える。生きるという罰が消えていく。世界の終焉を前にして白髪の少年は救われたような顔をしていた。

「本当にそう思うか?」

 びくりと顔を硬直させる少年。

『もちろんさ。一生懸命生きた。足掻きに足掻いた。でも届かなかった。器じゃなかったんだ。『俺』は頂点に至れる存在じゃなかった。でも、その割には頑張ったほうさ。奴隷の子が軍の師団長で男爵だよ? 貴族に成れたんだ!』

 怨嗟の声が薄れていく。あの頭蓋を割るような声はもう聞こえてこない。この場にあるのは静けさだけ。とても心地よい終わりである。

「ああ、ノルマンから知恵を奪い、ウィリアムから名を奪い、多くの敵から命を奪った。数多を喰らい、我が物としたからこそ、今の『僕』がある」

 黒の青年の背後には未だ地獄がくすぶっていた。風前の灯、されどそれは間違いなく其処にある。眼を背けようにも、自分はそれをさせてくれない。

「貴族に成った? 男爵? 師団長? なあ、本気で釣り合いが取れたと思うのか? 此処どまりで、本当に『僕』は納得できるのか? していいのか?」

 初めての罪、それが頭を駆け巡る。吐き出しそうになるほどの死山血河、その果てで嗤う己は神か悪魔か、少なくとも人間ではない。こんな非道な人間がいていいはずがない。

『納得なんてどうでも良いだろッ! 死ねば全てが終わりなんだ。どう足掻いたって、これで終わるんだ。だからッ!』

「あると言ったら、どうする?」

 白髪の少年は絶望の色を浮かべた。目の前の、黒の怪物、王会議を経て『自分』は変わった。『光』を目指すための道を歩むと決めた。それと同時に生まれた決別の痛み。それによって生まれた弱さこそ――

「多少の苦痛を伴うが、生きる道はある。そう言ったら、『僕』はどうする?」

 少年は頭を掻き毟った。白い髪はぼろぼろになっていく。白黒のまだらな髪に変じる。弱さが、『ウィリアム』が無意識に生んだ孤独への恐怖、もう一度その手に掴みかけている愛を断ち切ることへの拒絶が、この小さき『ウィリアム』であった。

『何でいつも『俺』は、どうして、何でッ!? わかるだろ? 此処で死ねばもう奪わなくていいんだ。大事なものが、知らないうちにいっぱい出来ただろ? わかってて、どうしようもなく欲してしまう、そんな相手だっているのに!』

 少年は、およそ少年が作っていい限度を超えた表情になっていた。どれほどの苦痛とどれほどの苦渋、絶望を塗り合わせればこのような貌になるのだろうか。

「今死ねば、称えられるべき罪だけが残り、歴史書の片隅に残る。残りの半分、許されざる罪は消え、世界にそれを知る者はいなくなる。残るのは道半ばで果てた英雄、白騎士のみ。許せるかい、その欺瞞を」

 少年は身体を掻き毟る。爪の間に肉が、ぶちぶちと音を立てて千切れていく。血がにじむ。身体中から血が溢れてくる。絶望を痛みで紛らわせているのだ。いつも、そうしてきた。そうしないと心が耐え切れなかった。

『許せるわけ、ないじゃないか。『俺』は罪人だ。もっと、もっと罰せられなければならない。足りない、足りないんだよ。罰が、足りないんだよぉ!』

 少年の咆哮。それを聞いて青年は嗤った。最初からそうであったのだ。

 初めは、ノルマン夫妻が与えてくれる愛に、満たされようとする己が許せなかった。姉を忘れそうになる日々。充足する日常。日々増える知識が、それを披露する場が、楽しくなってきたことが、許せなかった。姉は非業の最期を遂げた。なのに自分が幸せになろうとしている。姉の死で得た地位を利用して、漫然と生きながらえようとしている。

 だから殺したのだ。それらしい理由をつけて。もう、彼らの愛に耐えられなかったから。自分はそれを受ける立場にいない。それに甘んじて良い存在じゃない。復讐すると誓ったのだ。ならば本屋の息子で良い筈がない。

 だから殺した。それが最初の罪である。その最初の一回が全てであった。

「俺はいつも『僕』に選択肢を提示してきた。生きる方、より効率的な方、人を喰らい、成り上がるための選択肢を。だが、それを選び取ったのは……『僕』だろう? いつも苦しみながら、傷つきながら、それでもなお、『俺』は選んだ。この道を」

 地獄が広がる。地下に伸びる塔、反転する世界。

「今此処に、二つの選択肢がある。ひとつはこのまま死に絶え、罪もろとも消え失せる道だ。これを選べば少なくとも、『俺』がこの先喰らうであろう人々を救うことが出来る。最愛も、守ることが出来る。これは安寧の道だ。『僕』にとって死は救いでしかない」

 罪が、業が押し寄せてくる。怨嗟と共に、白黒の少年を飲み込んだ。

「もうひとつは――」

 その業を掻き分けて、一本の手が伸びてきた。それは黒の青年の、手を掴んでいた。二つの選択肢の内、より凄惨な方を、より苦しむ道を、幸せのない世界を。

「……愚問だったな。もはや取り繕う必要もない。『俺』はお前だ。お前は『僕』だ。この世界は全て『俺』の世界。この罪も、罰も『俺』だけのものだ。ならば誰が罰する? この屍どもの価値に見合う、賞賛されるべき罪を重ねるのは誰だ?」

 業の、屍の中から血濡れの男が現れた。滴る液体と同じ充血した眼で天を睨む。

『僕だ。俺が僕を罰する。今まで通り、苦しみ、のたうち、それでもなお進んでやる。今更満たされるなどありえない。僕が俺を許すなど断じて……そうさ、だから捨ててやる。余計なものは何も要らない。真の虚無こそ究極の罰、孤独の零度こそ俺の住処。ゆえに重ねる。全てを捨て去った僕にしか出来ないことがあるから』

 王が、再誕する。絶対者が、またしても茨の道を選び取る。

「そうだ。重ねた業に、数多の死に、それに釣り合う、それを超える何かを与えよ。世界を滅ぼし、世界を創れ。俺は一人だ。だからこそ揺らがず最良を選び取れる。俺は今後も最高の選択肢を用意しよう。僕の罰、埒外の勤勉が生み出した至高の選択肢を」

 王が立った。塔の上に君臨する。世界が流転する。天地が交わり――

『だから、僕が王だ』

 王は静かに眼を見開く。その眼は真っ直ぐに『光』を見据える。

 己が産んだ小さな『弱さ』を打ち砕きて――


     ○


 噴き出る鮮血の中、ウィリアムは目覚める。ひざは崩れ落ちたまま。すでに身体は傾き、誰もが倒れ付すと思っていた。頭部が地面へ――

「おれ、は――」

 ウィリアムは片手で思いっきり剣を地面につきたてた。それを支えに倒れることを拒む。もはや気力の世界。それでも、このまま放っておけば出血多量ですぐにでも死んでしまうだろう。死は目前、それを拒否するためには、

「――ウィリアム・リウィウスだ!」

 埒外の手順が必要である。喰らった名を叫んだ男は、余った方の手で思いっきり患部を押さえつけた。激痛が走る。それでもなお、痛みを倍増させる勢いで圧迫していく。血の噴出が弱まった。その代償が激痛ならば安いもの。

「シュルヴィアァァァアアア! 火をよこせェ!」

 明らかに致死であった男が立ち上がった。その奇跡に、その異様な光景に、敵味方問わず立ちすくむ。命令されたシュルヴィアだけが、ヴォルフの奇襲に対応して近づいていたシュルヴィアだけが、動いていた。狼煙の種火がついている松明をウィリアムの方へ投げ込む。ウィリアムはそれを見もせずにキャッチした。

「痛くも痒くもねえ。こんなもんじゃ俺の痛みを紛らわすことも出来ねえよォ!」

 誰も、ウィリアムが何をしようとしているのか、意図すらつかめなかった。火を得てなお、白騎士がそれを何に使うのかがわからなかったのだ。わかるはずがない。理解できるはずがない。それはきっと、埒外の思考であるから。


 ウィリアムは火を患部に押し付けた。燃える布、燃える肌、燃える肉――


 誰も、声すら発せない。あまりにも凄絶な光景に、火を投げ入れたシュルヴィアですら言葉を失っていた。人が燃える光景、しかも自らの手で、焼いているのだ。嗤いながら、たいしたことではないような顔をして、燃やしているのだ、己を。

「どうしたァ、ヴォォォルフゥゥ? 貴様の勝ちじゃなかったのかァ? 俺は生きているぞ! 俺の首は繋がっている。腹の傷も今、ふさがり始めている。何を持って勝ちとする? 答えろ地を這う狼よ」

 ウィリアムは凄絶な笑みを浮かべて、邪魔なものを剥がすように仮面を脱ぎ捨てた。その表情はあまりにも人間離れしていた。こんな貌を、人がしていいわけがない。

「俺が王だ! 俺を殺せるのは、俺だけなんだよォ!」

 絶対が戦場に現れた。誰もが畏怖する絶対者が――

 ヴォルフでさえ、身動きが取れぬほど、今のウィリアムが纏い持つ雰囲気は絶大で、人の持ちうる冷たさの限度を超えていた。

 ヴォルフは呆然と立ちすくむ。殺したはずの怪物の復活を眺めながら。

 白騎士、再臨。

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