進化するネーデルクス:零度対灼熱
ウィリアムは燃える腹に意も介さず、悠然と弓に矢をつがえた。
「お前に、王たる覚悟はあるか? 黒狼ォ!」
ウィリアムは目一杯弦を引き絞る。弓のしなりが限界を超えるほどに、ウィリアムは殺意と覚悟をそれに乗せた。運命を切り開く一撃、運命を決する覚悟の矢。穿つのは黒狼ではない。惑いの中であった己そのもの。
「なくば此処で死ねェ!」
矢が放たれた。限りなく水平に近い放物線。放った弓は限界を迎え砕けた。射線には黒狼。普段の狼ならばかわすのは容易い。ただ一直線に向かってくる矢など、かわすも砕くもお手の物であった。だが――
(なんだ、何なんだよお前は)
ヴォルフは通常の状態ではなかった。勝ったと思った。多少浅い手応えではあったが、それでも戦場における致命傷には変わりない。一筋の勝機をものにした。これで因縁にけりがつくと少し、ほんの少しだけほっとした。
(俺より弱いこいつが、俺より劣るはずのお前が、何で俺を阻む?)
ヴォルフは、凄絶なウィリアムの姿に呑まれていたのだ。ヴォルフは王会議の時、実は焦っていた。自分は英雄王という師を得て、飛躍的に強さを増した。その自分とウィリアムの差に思ったほど開きがなかった。そのことに焦りを覚えていた。
(俺の方が、強いだろ? なのになんで、何でお前は俺を見下す? 何で俺の上にいる?)
ウィリアムにカイルという規格外の師がいることをヴォルフは知らない。知っていたとしても同条件、どちらにしても焦りはある。商の世界、政の世界、自分が一切手をつけていない分野にも手を伸ばしている男。対して戦だけ、闘いだけに生きる男。その差が闘いの中で広がっていない。それは十二分にヴォルフを焦らせる要因となっていた。
(俺は、勝てないのか?)
内心の劣等感、万能の好敵手に対するそれは、今復活した好敵手の姿を見て、その絶対的な存在感を見て崩壊する。呆然と、迫り来る矢を眺めて――
「バカヤロウ! ぼけっとしてんなッ!」
ニーカの叫びがヴォルフの耳朶を打った。鼓膜への衝撃がヴォルフの思考を叩き起こす。もはや矢は眼前、常人には思考する間すらない。
「あ、ほ、かァ!」
ヴォルフ残った方の一振りをガードにまわす。それはガードというよりも打ち落とさんと振りぬく一撃。今持てる全戦力を其処に集中した。それはギリギリで追いついて、矢じりと刃が触れ合う。物理的には刃が優る。それが道理である。刃を打ち込んだ角度、速度、刃の重量、何もかも矢が打ち砕かれる解をはじき出していた。
「……頭がたけえよ」
ヴォルフの頭が吹き飛んだ。矢が左目に突き立つ。ヴォルフの剣は矢の進行をほんの少し歪める程度にしかならなかった。ヴォルフの身体が宙に浮く。
「天を歩む覚悟なく、天を眺めるからこうなる。お前はまだ、歩き出してすらいない」
ウィリアムは矢が当たったと同時にヴォルフから視線を外した。腹の火は止まる気配を見せない。ウィリアムは弓を用いるため乗らず、そばに待機させていた自分の愛馬を見る。そして躊躇いなくその首をはねた。噴出す鮮血、それは腹の紅蓮を塗り潰していく。
誰も口を出すものはいない。血濡れのウィリアムは静かに先ほどまで弓を放っていた岩の上に立つ。そこは世界がよく見えた。足元には自分の血がびっしりとこびりついている。
「まだそいつは生きている。囲んで殺せ」
ウィリアムは軽く手を動かした。その瞬間、止まっていた時が動き出す。茫然自失の兵が思考もなく倒れ付すヴォルフの元に向かう。脅迫にも似た命令、強すぎるモノの言葉は彼らから思考を取り除いてしまう。
「団長!」「ヴォルフ殿!」
ネーデルクス側からの声。それをかき消すようにアルカディア兵数人がヴォルフを囲み、槍を突き立てた。アナトールらが鬼の形相で止めに向かうも間に合わない。
「……るせーよ」
槍が迫る。黒の狼を仕留めんと。
「どいつもこいつも俺様を見下しやがって……あげくこんなカス共が俺を殺す気でいやがる。ふざけやがって……俺は――」
数本の槍がヴォルフの『いた』場所を貫いた。彼らは全員殺したと思っただろう。タイミング的には確実に仕留めていたはず。だから彼らは、自分が死んだことにも気づけなかった。
ヴォルフは一瞬で跳躍し、槍をかわした後、槍の上で踊るように敵兵を切り刻んだ。執拗なまでに切り裂かれた兵士は意識が追いつく前に絶命、それでもなお刻まれる死骸。殺意の暴風が渦巻き肉を絶つ。
「俺はヴォルフ・ガンク・ストライダーだ! 英雄王の名と喰らう者を背負う、最強至高の存在なんだよ! テメエが何を覚悟したか知らねえが、俺をなめるな白騎士ィ!」
ヴォルフは血走った眼でウィリアムを睨んだ。ヴォルフの雰囲気が弾けた。おそらく、この戦場で両名は初めて剥き出しの姿を見せた。相手が強すぎても、相手が弱すぎても見せることのない牙。世界を破壊する衝動が全天を満たす。
「これは、テメエにビビっちまった俺の、弱さに対する授業料だ」
ヴォルフは左目に突き立った無理やり矢を引き抜く。矢じりには刳り貫かれた目玉がついていた。それをヴォルフは――喰らった。場が騒然となる。
「認めるぜ。俺はテメエに対して劣等感を抱いていた。俺より弱いお前が、俺より先へ進んでいる。その徹底された生き方に圧倒された。だから――」
ウィリアムは話を聞く必要もないとヴォルフに向かって矢を放つ。それは一直線にヴォルフへ向かい。それをヴォルフは右腕で掴んだ。そして握力のみで矢をへし折る。
「だから、これは俺の弱さだ。俺の強さを信じられなかった。信じてりゃテメエごときに揺らがされる必要もなかったんだ。俺は強い。天才だ。何を疑うことがある!」
ヴォルフは咆哮した。弱さをかき消すように、強さを奮い立たせるように、ヴォルフの叫び声が戦場に轟く。それは獣の声、戦闘における上位種の叫び。
「俺を殺せるのは俺だけ? 随分な自信だなおい。その腹もう一度食い破ってやる。そしたら嫌でも死ぬだろ。死んでわびろ、僕が間違っていましたごめんなさいってなァ!」
ウィリアムはヴォルフの叫びを聞いて嗤う。まるで本質を射ていない。きっと狼とは生きる世界も目指す高みも違うのだろう。だから言葉は無用。万の言葉を交わしたところで理解には至らないのだから。
「くだらねえケダモノが。馬鹿山の大将にでもなって満足していろ」
ウィリアムは手を上げる。それを契機にヴォルフを囲むように軍勢が動き始める。
「馬鹿山の大将か、いいね。俺たちらしいぜ!」
その軍勢が爆ぜる。両面から騎兵が飛び出してきた。ニーカとガルム、そして続々と集う|黒の傭兵団(ノワール・ガルー)。彼らはヴォルフを中心に集まった。全員の敵意が一斉にウィリアムへ向かう。
「その首、取らせてもらうぞ」
アナトールが槍を向けた。此処から一直線、さほど距離はない。一気に詰めれば――
「……さっきから言ってんだろうが、頭がたけえってよォ!」
ウィリアムが両手を広げる。その背後から現れる無数の弱兵。手にはクロスボウを持ち、眼には絶対の、依存にも似た心酔が浮かんでいた。彼らはウィリアムを囲むようにして陣を形成する。彼我の距離はさほど、されどクロスボウから放たれる無機質な矢は、その間を地獄で埋め尽くすだろう。
「「ぶち殺せ!」」
両軍が再動する。その誇りと意地にかけて、零度の覚悟と灼熱の才能がぶつかった。
この戦の全日程中、この日両軍とも最も多くの死者を出した。まさに死闘であったと戦史には記されている。
○
アルカスの雨はさらに勢いを増していた。カイルとファヴェーラはいつも三人で集まっていたアルカスのデッドスポットを訪れていた。此処で良く盗んだりんごを三人で食べていた記憶が、今も鮮明に思い出せる。アルの髪が白くなった後も、定期的に集まってりんごを食べながら会話していたものである。今となっては遠い日の夢想。
「今思えば、始まりはあの日だった」
カイルは猛烈な勢いで流れる水路をぼうっと眺めていた。
「アルレットさんの?」
カイルの瞳に浮かぶのは煉獄の炎を反射する白の復讐者。あの日は間違いなく契機であっただろう。アルという少年が変わった日である。だが――
「いや、あそこならまだ引き返せた。あいつはそれを否定するだろうが、俺は引き返せたと思う。それだけの材料は揃っていた。そう、揃っていたはずなんだ」
カイルは濡れた髪の毛をわずらわしそうにかき上げた。
「あの日、俺はあいつを半殺しにしてでも止めるべきだった。いや、殺してでも止めるべきだったんだ。本当の、親友であるならば」
ファヴェーラは、カイルの指している『あの日』をようやく理解した。そして同時に納得してしまう。確かに『あの日』が分岐点であった。何故なら、あの日までアルは誰一人殺さず、取り返しのつかない業など何もなかったはずなのだから。
「私のミス。私があれを暗殺ギルドに届けてしまったから」
「……ノルマン夫妻を殺した夜、あの日が本当の始まりだった。そして本物のウィリアム・リウィウスをその手で殺したこと。これが決定打。あいつの人生が決まってしまった」
カイルはファヴェーラの言葉を否定しなかった。あの時代のファヴェーラは今よりもずっと従順だった。今は盗賊団の首領として他のコミュニティーにも属しているが、あの時代はカイルとアルだけが彼女の世界。頼まれたなら疑問すら持たなかった。その結果が今に繋がるのならば、やはりそれはファヴェーラの業なのだ。
「ノルマン夫妻はあいつによくしてくれていた。厳しく、時には優しく、あいつに知識を叩き込んでくれた。恩義があった。それ以上に、息子のいない彼らには愛があった。肉親に向けるような温かな……だからあいつは苦しんでいたのだろう」
姉以外に満たされるという後ろめたさ。彼は満たされることを忌避していた。それはきっと最愛を失った反動、失った時の絶望が深過ぎたがため。愛に対して過剰なまでの拒否反応を示すようになった。
「あいつの根源は、愛を失った時に生まれた絶対零度の虚無だ。何もかもを寄せ付けぬ真なる闇。愛を失う絶望が、愛すらも寄せ付けなくなった。それはある意味で、誰よりも愛に餓えている証拠でもある。全ては愛ゆえに、だ」
カイルは当時浅慮であった己を恨む。歪みを正すべきだったのは始まる前、始まった後では遅過ぎたのだ。アルという少年は優しく、真面目で、まっすぐな瞳を持っていた。それが深淵に至った時、不可逆の反転を見せる。
もし、止める事が出来たとするならば、それは始まりの日、ノルマン夫妻を殺させずノルマン夫妻の愛を受け入れさせる、それしかなかった。ただ一筋の希望を、カイルとファヴェーラは見出すことが出来なかった。知っていたにもかかわらず――
「一度踏み出したなら戻れん。戻れるほどあいつは強かじゃない。今までの罪から眼をそらして幸せに生きられるほど、器用でもない」
ファヴェーラは静かにうつむいた。カイルの言いたいことがわかったのだ。否、とっくの昔に理解していた。自分が好きだった少年は、自分の好きだった少年のまま大人になってしまった。今もなお弱いまま。誰よりも弱くて誰よりも優しい。
ゆえに、アルであったモノにとって罪を犯したその日から、この世界は地獄なのだろう。生きるだけで苦しみ、悩み、もがき、痛む。歩みの数だけ痛みは増す。しかし歩みを止めることはない。歩みを止めるということは痛みの意味が消えるということ。痛みを失うことは罪を失うということ。
「いずれ誰かが止めてやらなきゃいけない。とっくに手遅れだとしても――」
カイルは自分の手を見る。その手は決してまっさらなものではない。カイルもまた剣闘士として多くの命を屠ってきた。業は、重なっている。
「それは俺の役目だ。約束だからな」
あの時放たれた、殺せという心からの懇願。それを汲み取れなかった後悔が、カイルを苛む。せめてあの日、ウィリアムが身分証をむやみやたらに見せびらかし、まるで挑発するかのように陽気さを造っていた、あの時、理解に至っていれば、此処まで苦しませず済んだはず。あの時殺していれば――
「それでも私は……二人に殺し合いをして欲しくない」
ファヴェーラの言葉をカイルは聞き流した。雨がさらに勢いを増す。ファヴェーラは願う、世界に満ちる雨音、この勢いのまま何もかもを洗い流して、元通りになればいいのに、と。そんなこと、不可能だとわかっているのだが――
○
ウィリアムは自室で火傷の事後処理を行っていた。事務作業でもしているのかという光景。特に表情は痛みなど感じさせないものであった。
「……清潔な布と綺麗な水だ。ロルフ殿が気を利かせて上流の方へ部下に汲ませてきたらしい」
シュルヴィアがかめに入った水と布を持ってきた。ウィリアムは「其処においてくれ」と指示をした。シュルヴィアは何も言わずに従う。
「あの女は?」
「リディアーヌのことか? あまり気持ちの良い光景じゃないからな、早々に退出していったよ。シュルヴィアも下がっていいぞ」
火傷の処置、それは見るもおぞましいものであった。火傷自体も目を覆いたくなるものであったが、服や砂を巻き込んで燃えた部分を引っぺがし、溢れる膿のような液体をふき取る作業は言葉にならなかった。
「いや、手伝おう。怪我は見慣れている」
シュルヴィアは腕まくりをした。目の前の相手は仇であるが、その前に戦時下での上官である。戦士なら優先順位は決まっている。そう言い訳をしてシュルヴィアはウィリアムと向かい合った。
「その辺は同じ女でも場数が違うか。献身的な部下のお言葉に甘えるとしよう。俺の手が届かない部分で異物が混入していた場合、思いっきり表皮を引っぺがせ。仇の悶絶するさまが見れるかもしれんぞ」
冗談めかせてウィリアムは言葉を放つ。そんな中でも手を止める事はない。猛烈な痛みとかゆみが彼を襲っている。それでも悠然と戦場に出向き、誰よりも疲弊しながら黒狼を止めているのだから驚きである。
すでにあの死闘から数日が経った。翌日からウィリアムとヴォルフは再度激突、局所的にヴォルフ有利となるも全体ではアルカディアが優勢のまま此処まで来ていた。しっかりとウィリアムが潰れ役となりヴォルフの好きにやらせていない形が続いている。
「……何故お前は此処までやれるのだ?」
シュルヴィアはぽつりとこぼす。復讐を誓ったあの日から広がるばかりの差。自分には此処までの覚悟がない。戦場で己を焼いてでも生き延びる、そんな気概がない。そのような発想が出てこない。
「俺はお前の父を殺している。お前の国を滅ぼしている。隣国も、その隣も……それは理由にならんか? 其処まで簡単に投げ出せるほど、それらは軽いものか?」
シュルヴィアは仇の背中を見る。この火傷ほどではないが、数多の傷が其処に刻まれていた。正面も同様に傷まみれ。この男が口だけでないのはこの傷が物語っている。
シュルヴィアは言葉を発することが出来なかった。肯定も否定も、何も浮かんでこない。ただ、このふとした一言はきっと白騎士が普段見せない、本音のようなもの。鉄壁の内面も火傷の痛みで少し緩んでいるのかもしれない。
「まあ、忘れてくれ。少し饒舌が過ぎた。作業を続けてくれ」
「わかった。大物が隠れていた。少し痛むぞ」
「取ったら見せてくれ。大きかったら記念にしたい」
「……冗談はそこまでだッ!」
「ふっ、痛いな。その調子で頼むぞシュルヴィア」
完治は遠い。だが、怪我を負う前よりも白騎士は強くなっている。それは目を失った後のヴォルフと同じ。喰らい合う怪物は、知らず知らずと己らを高め合っていた。部下であるシュルヴィアはそれを強く感じていたのだ。
○
ヴォルフは眼前に立ち塞がる白騎士を潰し切れないでいた。剣では自分が優っている。弓があるため遠距離戦は分が悪いが、距離を詰めるための呼吸は掴んだ。弓のみに頼っていたならばすでに白騎士は死んでいる。
(……此処までだな)
ヴォルフはじくりと痛みを訴える左目、それがあった場所をさする。布に覆われているそこが光を映すことは永遠にない。ただ、失って冴える感覚がある。片目を失い既存の距離感を失った。だが、視覚以上に他の感覚が総動員して新しい距離感を授けてくれた。この取引は決して損じゃない。
強くなったヴォルフだが、目の前の怪物もまた強くなっている。迷いも雑念もなくただヴォルフを止めることだけ、潰し役となることだけに注力する白騎士は厄介極まるものであった。
遠距離戦での優位はもちろんのこと、接近戦もいとわなくなった。むしろ積極的に攻めてくることで必殺を防いでくる。首は近くなったのに、最後の一線を越えられる気がしない。弓と言う天性に頼り、らしくなかった『あの時』までの隙は見出せなかった。
「ヴォルフ、そろそろやべーぞ。斥候からの情報だと――」
隙のない男が何処へ行くにも付きまとってくる。ヴォルフだけをマークして動いているのだ。ある意味でそれはウィリアムも潰されているということ。
「見えた勝負だが、最後まで足掻いてみるか。そうして見えるものもあんだろ」
アルカディアとネーデルクスの差は、ウィリアムとヴォルフの差ではなかった。ウィリアムとヴォルフを欠いて、どちらが強いかという勝負。アルカディアならギルベルト、ヒルダ、シュルヴィア、ロルフ。ネーデルクスならアナトール、ニーカ、ユリシーズ、マルサス。武人の部分はかなり拮抗している。
なれば異なるのは何か――
もう一人の白騎士、本物を模した贋物、偽の王が君臨する。
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