進化するネーデルクス:万事休す

 ヴォルフは幾多の切り傷、刺し傷、剣が突き立ち矢が突き立ち、槍が折れてなお時間を稼いだ男の死に様を見た。明らかに素の実力よりも跳ね上がっていた戦力。アナトールは頬の傷をぬぐう。存外深いこの傷はこの先も残っていくだろう。

「く、そがッ!」

 ヴォルフは木を殴りつけた。この怒りは自分へ向けたもの。彼らの生命力を侮っていた。みすみす死を選ぶわけがない。目先の考えで動くわけがない。わかっていても目先の利に動いてしまった自分の弱さを呪う。

「仕方がなかった。此処は相手が一枚上手だっただけだ」

「それ何度目だろうな。今回の戦で、いったい何度仕方ないと割り切った?」

 よく考えればわかることである。彼らはブラウスタットまで逃げ延びねばならない。それが目的である。その目的が頓挫しかかっている状況で、生易しい手を打ってくるはずがないのだ。今回ならば逸れた道が陽動で、本隊が最短を歩む。それはすごく自然で、きっとすぐさま破綻してしまう。現にヴォルフらはそちらを取った。

 わかりやすい回答。此処までの全てにそんなものはなかった。全身全霊、あるもの全てひねり出してヴォルフたちを惑わせてきた連中が、わかりやすい答えに手を伸ばすとは思えない。思うべきではなかった。

「こいつらは、きっと一度だって割り切っちゃいねえ。仕方ないなんて、一言も言ってねえだろうよ。俺らには余裕があった。常にだ。その俺たちが、余裕にかまけて何度してやられた? 幾度やられりゃ気が済む?」

 ヴォルフの顔から笑みは消えていた。勝利の美酒に、優位の酒に酔っていたのはヴォルフも同じ。いつの間にか余裕の海に溺れていた。慢心していたわけではない。それでも、あの男より下と高をくくっていたのは事実。その目算の誤りがこの場までヴォルフの目を曇らせていた。

「カール・フォン・テイラーは、撤退戦ではアルカディア最高の将だ。策略と人望、下がることのない士気、おそらく俺やあいつでもこうはやれねえ。同じ状況ならあいつも俺もとっくに喰われている。それだけの相手と、認識するのが遅すぎた」

 このシチュエーションであれば世界最高の将かもしれない。この一手の深さで、目の前の死地を生み出した凡人たちの死力で、ようやくヴォルフは正しい目算を手に入れた。

「弓兵は全部怪我人だ。足を痛めている奴が多いぜ。たぶん、切り捨てたんだな」

 捨石にこれほど強靭な意志を宿らせる将がいるか。それが自分に出来るか、少し考えればわかることであった。ニヤニヤと余裕にかまけて笑っている場合ではなかった。後のことを考えて兵に好かれようと、柄にも無く考えたのが愚考であった。

 自分の強みを思い出す。ひとつ、しっかりと深呼吸して――

「後ろが追いつき次第、もいっちょ騎兵で追う。最短ルートはこっちのもんだ。ブラウスタット到達一日前には仕留めるぞ。昼も夜も関係ない。ついてこれる奴だけついてこい」

 ヴォルフは強い。その強さに惹かれて強い者がついてくる。いずれそれでは限界が来るかもしれない。少しずつあり方を変えねばならない。だが、今はそんなことにうつつを抜かしている場合ではないのだ。

「往くぜ、待たせたなカール。こっからが狼の真骨頂だ」

 狼の眼から余裕が消えた。笑みが消えた。それは、敗北して試行錯誤をする中で失いつつあった狼の真性。何が何でも、どんな手段を用いても勝利すること。今、カールたちがやっていて自分たちが行わなかったこと。

 覚醒の黒き狼、その強さに惹かれた強者の群れが牙を剥く。


     ○


 カールたちは夜も通して歩いていた。歩む速度は遅れども進まねば追いつかれる。最短ルートとフランクたちを犠牲にして得た時間。此処で死力を尽くさねば意味がない。距離を稼ぐ、何としてでもブラウスタットへ――

 カールたちは残り少ない馬に交代交代で兵を乗せていた。疲労の色が濃く見えたものは馬に乗せて少しでも回復してもらう。カールやヒルダ、ギルベルトも馬に乗っていない。

「ねえ、カール」

 隣で歩くヒルダがカールに声をかけた。

「どうしたの怖い顔をして?」

 カールは無理をして笑顔を作っていた。バレバレの強がりであったが誰もそこには触れない。精一杯の強がり、将のその姿にいったい誰が文句を言えるだろうか。

「ブラウスタットに戻ったところでこの人数よ。守りきれるの?」

 カールは渇いた笑みを浮かべる。

「無理だよ。そこは端から諦めている。だからヴォルフたちには余裕があるんだ。しっかり人数は削った。ブラウスタットに到達しても援軍なしじゃ守れない。あっちは青貴子が援軍を向かわせているはずだから戦力はむしろ増す。……どうしようもないね」

 ヒルダはあまりのショックにどんな顔をすればいいのかわからなくなった。皆うすうす勘付いてはいた。だが、口に出すのが怖くて、誰もが口を閉じていたのだ。

「じゃあ、戻っても意味がないってこと? ブラウスタットは放棄して山や川を伝って逃げるってこと? それが、今回の犠牲に見合う答えなの?」

 ヒルダの声は小さく抑えられていたが、この沈黙の中である。かなりの人数が聞いていた。なけなしの士気がなえる。もはや立て直せぬほどに――

「それはわからない。もしかしたら、ブラウスタットを失わずに済む可能性もある。でも、それはこっちの状況とは無関係な話だ。もし援軍が無理でも、市民はすでに退避していると思う。『あれ』も仮組み程度は終えているだろうし、ブラウスタットまで逃げ切れれば何とかなるよ。妥協は、必要かもしれないけれど」

 妥協、つまりブラウスタットを放棄するということ。難攻不落であったブラウスタットを手放す、それは対ネーデルクスにおける大きな後退を意味していた。ヴォルフの執拗な追撃は彼らから反撃する牙すら奪ってしまったのだ。

「しゃーないっす。此処は切り替えていきましょう。なに、いつか取り返せばいいだけじゃねーっすか。簡単、簡単」

 親友を失い辛いはずのイグナーツがあっけらかんとしている。その強がりを見て誰も言葉を発せなくなった。とにかく今は全身全霊で逃げ延びることだけを考えればいい。カールたちの頑張りの及ばぬところで運命は決まっているのだから。

「その通りさ。大丈夫、僕はね、運が良い方なんだ。青貴子ほどじゃないけれど。こんな僕が師団長になったんだ。こりゃ奇跡ってもんだよ」

「ちげーねえっす。昔のカール様なんて――」

 必死に場を盛り立てるカールとイグナーツ。それに乗っかりヒルダも笑う。ギルベルトも大笑いして、それがまたわざとらしくて皆が笑った。地獄の中でこそ笑おう。そしていつか戻ってこよう。この地へ――


     ○


 それは悪夢であった。夜通し歩いたのだ。距離はしっかり稼いだはず。最短でなくともこの道とてブラウスタットに続いている。彼らが遅れたということは策が成功したということ。ならば半日以上のアドバンテージが生まれたはずなのだ。

 なのに――

「お逃げくださいカール様! 私たちが最後の捨石となります!」

 なのに何故、馬蹄が響いてくるのだ。何故ぎらついた狼の群れが現れるのだ。

「貴方まで死なれたら、それこそ無駄死にだ。お逃げを、やせっぽっちのカール師団長!」

 唖然とするカールを騎乗したギルベルトが拾った。

「いやー、まさか昨日の今日とはねぇ。どうやらすぐに会えそうっすよ」

 イグナーツが剣を引き抜いた。その眼は親友を殺したであろう敵への復讐に燃えていた。もはや此処までであるならば問題ない。死力を尽くせばいいだけである。

「カールは任せる。私がここを率いる」

 凛と騎乗したヒルダが狼の群れを前に立ちふさがった。その気配は暴風であり、大事なものを守ろうと精一杯強くあろうとしていた。

「駄目だ! 君は、駄目――」

「バカール。今更あんたが私情を交えちゃ駄目でしょ。貴方は私たちの大将なんだから」

 どうしようもなく無力。もはや思考など何の意味も成さない。

「その通りだお嬢ちゃん。だから、絶対逃さねえ!」

 そして、崖のような傾斜である壁側から滑るように降ってくるのは黒き狼、その首領であるヴォルフ・ガンク・ストライダーであった。それはギルベルトの前に降り立った。つまりカールの前でもある。挟撃の形――

「よお、こうして顔を合わせるのは王会議ぶりだな。相変わらずしまりのねえ顔だ。でもよ、もう、見くびらねえから安心しろ。俺は速くて――」

 夜通し追ってきたのはヴォルフも同じ、だが馬の足を差し引いてもこの時間に追いつかれるとは思わなかった。ありえないほどの速度、馬の扱い、最短最速の道を見出しそれを踏破する眼力。馬が走りきれるぎりぎりの速度を維持して此処まで来た。馬の扱いが下手なものは置いてきた。ゆえにここにヴォルフがいる。黒の傭兵団が、強いネーデルクス軍がいる。この状況は、端的に、

「――強いんだァ」

 詰んでいた。ヴォルフの口の端から涎が垂れる。犬歯から欲望が滴る。狼は空腹であった。此処まで楽しませてくれた好敵手、これを喰らってさらに飛翔する。

「安心しろ、俺がいる。この状況、俺に優位だ」

 期せず一騎打ちの形。ギルベルトの呼吸が落ち着きを見せる。入り込む手前――

「ったく、世話の焼ける奴だぜ」

 ギルベルトの頬が裂けた。そのまま通過する銀の閃光、ヴォルフはそれをこともなげにキャッチした。その射線上にはニーカが、ナイフを投げ終わった構え。ヴォルフの手にはナイフが握られている。

「悪いがこっちも余裕がねえのよ。一騎打ちにはさせない。入りかけたら全力で妨害する。弓でも矢でもナイフでも、集中途切らせりゃあお前はそこまでじゃねえからな」

 ギルベルト対策もぬかりは無かった。

「全軍、一切の情けをかけるな。一瞬も油断するな。此処まで俺たちを苦しめた仇敵、敬意を持って全力で当たれ。全軍、攻撃開始!」

 それは完全な殲滅戦であった。昨日の足掻きが彼らに残っていた最後の余裕を取り除いた。それは相手に対する余裕でもある。情けをかけて捕虜にする、そういう発想は浮かんでこない。相手を全て殺しきる。頭は完全にそれ一色であった。

「殺せェ!」

 押し寄せてくる殺意。イグナーツやヒルダは何とか押し留めようと刃を振るうも、勢いに負けて抜かれてしまう。戦意の折れた、希望を失った軍は脆い。昨日まで脅威の粘りを見せていたカールたちはいとも容易く蹂躙されていく。

「音だ! 何でも良い、とにかく音を鳴らすんだ! 最後まで諦めるんじゃない! まだ希望はある! ブラウスタットまで届くような大きな音を! 希望を呼び寄せろ!」

 カールの叫びが空しく響く。それでも部下たちはけなげにそれを信じて死ぬ間際まで盾を打ち鳴らす。大声で叫ぶ。とにかくカールの命に従い大きな音を出した。

「何もねえとは思わねえよ。やらせるからには何かあるんだろ。それが、万に一つであっても。俺は笑わねえ。その希望ごと打ち砕くまでだ」

 ヴォルフの戦意が高揚する。黒の狼が牙を剥いた。ギルベルトはカールを投げ出して剣を構える。何としても道を切り開く。集中は継続できないにしても、状況は一騎打ち寄りである。少しでも自分の力を引き出して戦う。活路を見出してみせる。

「来いよ剣聖の末裔!」

「いざ、参る!」

 ギルベルトの突貫、それに合わせて射られる弓矢。その射線上をさえぎる形でカールが立った。盾を構えて、精一杯の意地を見せる。

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

 カールは思いっきり叫んだ。蒼い声が轟く。

「くそったれェ! 死ぬかよ、死んでたまるか! あいつの分も、俺は生きなきゃいけねえんすよォ!」

 イグナーツもまた獅子奮迅の戦いを見せる。騎馬相手に不利を感じさせない戦いはさすがの経験値。格上の騎馬相手に生き延びてきた生命力は伊達ではない。

「あんた、邪魔よ!」

 ヒルダがニーカの方へ馬を進めた。中近距離を万能にこなすニーカが一番厄介で、此処を押さえればギルベルトが多少なりとも力を発揮できると考えたからである。もちろん、障害はある。ユリシーズとアナトールの二人。

「此処は通せぬであります」

 ユリシーズの言葉と同時に剣と槍の両方がヒルダに殺到する。槍はかわす、剣は避けずに相手を斬る。相打ち覚悟で前に進むヒルダ。

「それは駄目っすよ。カール様が悲しむっす」

 ネーデルクスの馬をかっぱらい、騎乗にてユリシーズの剣を受け止めたのはイグナーツであった。値千金の動きである。本来大きく実力に開きのある両者であったが、この一瞬だけはイグナーツが優った。技術の介在しない力勝負、まさに意地で押し返す。

「死ね隻腕!」

 ヒルダの剣が奔る。アナトールは迂闊な己を恨んだ。勝負どころでの視野の狭さは自分の課題。結局克服できぬまま生涯を終えることに――

「貸しひとつ。御代は高級な剣でいいぜ」

 高速で飛来するのはニーカ愛用の剣。左手の護剣であった。それはヒルダの剣にぶち当たり軌道をそらす。それは空を切った。互いが空ぶった形。

「俺はギルベルト見てるからそんな余裕ねえぞ。しゃんとしろよ。騎乗で剣相手に長物で負けてどうするんだよ? 廃業するか、『哭槍』さんよ」

 ニーカの煽りを受けて燃え上がるアナトール。隻腕ながら巧みに槍を捌き再度ヒルダと向かい合った。実力は伯仲、僅かにアナトールが勝るか。

「ぐぬ、弱いくせに厄介でありますな」

「うるせえチビ! 年上は敬えっす!」

「ちびにちびと言われるいわれはないであります!」

 イグナーツは何とか食い下がる。実力は大きくユリシーズが上。しかし越えてきた修羅場はイグナーツに軍配が上がる。どんな手段を使っても生き延びる。その一念でイグナーツは英傑の卵を一人で止めていた。

「いい感じに仕上がってきたな。これぞ戦場って感じだ」

 ギルベルトを圧倒するヴォルフ。力を出し切れていない事を差し引いても、あまりにヴォルフは強かった。この前の一騎打ちよりも、強さが増しているようにも見える。

「勝ちきるぜ、今日は逃がさねえよ」

 圧倒する狼の群れ。もはやカールたちには抗すべき手段は残っていなかった。何もかも切り捨てて此処まできた。部下も、友も、矜持も、人道も、全て捨て去り残ったのがこの絶望。カールは叫ぶ。この絶望を打ち消そうと――

 万事は尽くした。後は天命を待つばかり。

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