進化するネーデルクス:餓狼の牙

 報告を聞いた青貴子、ルドルフ・レ・ハースブルクは震えていた。自分が軽々に動かした駒が、特別優秀な駒が討ち取られた。ただのちょっかい、それだけのつもりだった。跳ね返されるのは想定の内、申し訳なさそうにマルスランが謝罪に来て、それを受け入れてまた無理難題を押し付けてやろう、そう思っていた。

「坊ちゃま、お気を確かに」

 そう言っているラインベルカでさえ、内心の動揺が透けて見えていた。

 周囲も、特に赤い鎧を纏っている者たちは動揺の範疇を超えていた。赤い顔で逆襲に燃えるものもいれば、青い顔で絶望に打ちひしがれるものもいる。滂沱の涙を流すもの、烈火の如く吼えるもの、皆一様に信じ難い事実に押し潰されていた。

「確かさ、嫌ってほど、頭は冴えてるよ」

 誰もが口を出さない。しかし、誰もが理解している。今回の件は、討たれたマルスランも悪いが、相手に利用された手を放ったルドルフが最も悪い。軽挙妄動が過ぎた。

「マルスランは、あれで意外と頭が柔らかいんだ。本人は昔かたぎの戦で通していたけど、新しいものを否定したりはしなかった。その点ジャクリーヌはちょっと固いよね」

 ルドルフはがしがしと頭を掻き毟る。

「これから一番必要な人材だった。それを討たれたって? それを命じたのが僕だって? はは、最高に笑える話だよね。これで神の子って言われてんだぜ?」

 ルドルフはぼさぼさになった頭から手を離した。

 その眼に宿るのは――

「上等だよ、アルカディア。教えてやる、この僕がいったい何者で、これからのネーデルクスがどう進化していくのかを。狙いはシュピルチェかい? やらねえよ、テメエらには一掴みの土だってくれてやらねえ。まだ、風は僕に吹いている!」

 純粋な怒り。自分の駒を奪った相手への、自分の駒を失った自分への、そしてこの期に及んでも、やはりツイている自分の天運に、そこにマルスランという男が入っていなかったという事実に、彼は憤っていたのだ。

「ジャクリーヌを呼び戻しましょうか? 総戦力で当たれば」

「この馬鹿ちん。反対側のジャクリーヌを動かして間に合うと思う? そもそも何でエルマス・デ・グランを放棄しなきゃいけないんだい? あれは手放さない。もちろんシュピルチェもあげない。つーかそろそろフランデレンも返してもらおう」

 めちゃくちゃなことを言い放つルドルフ。しかしその眼に嘘はない。フランデレンはさておいて、どちらも手放す気は毛頭ないようだ。戦力はある。戦力はあれど、それを操る駒が不足していた。ネーデルクスには人材がいない。アルカディア大将率いる才能あふれる軍勢を止めるに足る将が。

「僕から奪ったんだ。なら、倍は覚悟しとけよ、凡人ども」

 たまたまであった。たまたま機会があったから、機会に恵まれていたから、ゆえに神の子はツイていた。マルスランを失った分を、取り返すための要素が期せずして揃っていたのだ。まさに天運、それを読めるものはいないだろう。本人すらわからないのだから。

 誰もあずかり知らぬところで、両国の命運は大きく傾く。


     ○


 ベルンハルトの軍勢は破竹の勢いで勝利を重ねていた。とてつもない速度と勢いで時には味方すら置き去りにするほどの進軍。彼らは理解していた。この戦が時との勝負であることを。マルスランを抜いた以上、強い敵は存在しない。本国からの援軍が来るまでにシュピルチェに到達すれば勝ちなのだ。

「いけるぞ! シュピルチェは目の前だ!」

 ギルベルトの檄が飛ぶ。士気はうなぎ上りである。

 中央のベルンハルト、左方のギルベルト、右方のヒルダ、この三隊が連動しての進軍。中央突破に特化したカタチ。このカタチでブラウスタットからシュピルチェまでの直線距離を一気に走破した。その道中にある砦のみを攻略。最低限の戦いだけ、まさに疾風迅雷の行軍。

「これで九合目、登りきるわよ!」

 一月にも満たない間にこの地点まで攻め込んだ。一日とて休みはなく、兵の疲労もとっくに限界を超えている。それでも彼らの士気が高いのは大将ベルンハルト、そして英雄の卵である二人の新鋭のカリスマ性があってこそ。

「いける!」

 ベルンハルトはあえて報告をせずに敢行したこの奇襲が成功することを確信した。正直ベルンハルトとしてもこの戦がここまで上手くハマるとは思っていなかった。マルスランを討ち取れたことでさえ出来過ぎな部類。元々の目的はギルベルトたちに良い経験をつませようと、それだけの考えしかなかった。

 この冬、自身の息子にすべてを注ぎ込んだ。そして完成した剣聖の血統を見て、その血統が到達した高みを感じ、ベルンハルトは欲を出してしまった。条件が揃えばマルスランすら『圧倒』出来る才覚。血筋、才能、努力、そして環境、すべてのピースが当て嵌まり、ベルンハルトの想像を超えてしまった。

(父を超え、三貴士を超え、そして今、アルカディアの歴史をも変える)

 マルスランにあの手を打たせた時点でギルベルトの勝ち。ギルベルトの条件が揺らいだため、ベルンハルトが討ち取ったが、それでも条件が揃いさえすれば三貴士すら圧倒出来る。その強さに眼がくらんだ。

(これで、ギルベルトに家を継がせる口実が出来る。我が副将としてシュピルチェまで取ったのだ。誰に文句が言えようか。これでオスヴァルトは安泰、俺もゆっくりと隠居が出来るというもの)

 兄も才がないわけではない。才能だけならばベルンハルト程度にはあるだろう。だからこそギルベルトが際立ってしまうのだ。明らかに、凡人ではないはずの兄が霞んでしまうのだから。その差ゆえ兄であるヘルベルトは多少の歪みを残してしまった。

(俺が矢面に立って話し合おう。考えてみれば家族で話し合うことなど、今まで一度としてしていなかった。武家の家長として家人におもねるというのも違うと思っていたが、隠居してしまえば自由だ。ゆっくりと話し合えばいい。分かり合えるまで――)

 ようやく肩の荷が下りた。バルディアスもいずれは白騎士に席を譲るだろう。自分たちの時代は終わりを告げたのだ。自分はギルベルトに、ギルベルトという剣を振るうカールに一切を任せる。その準備は整った。

(あとは目の前のちっぽけな都市ひとつ。特筆して何かを感じることもない。至って平穏、王都からの援軍どころかまともな守備隊すらいないのではないか?)

 一気呵成に攻め立てる。進撃の情報が届ききる前に到達できた。それゆえの静けさ。

 そう、此処で違和感を感じなかった。ゆえにこれより始まる。

(急ぐのはこれが最後だ。あとはゆるりと生きようか)

 夢想の破壊者が来る。


     ○


 三隊の側面にいきなり紅い一団が現れた。アルカディア軍から見て右方は地形の凹凸を利用しての伏兵、左方は小さな林に隠れていた伏兵、どちらも勢いに乗ったベルンハルトたちを止めるには数が足りない。


「弔い合戦? ハッ、死にたがりってやつはこれだから!」

 右方のヒルダは側面に視線をくれながらも前進の勢いを維持する。紅い鎧はマルスランの部下である『赤』の軍勢の証。仇討ちの熱量は厄介であるが、今のヒルダたちを止めるには指揮官不在が痛過ぎる。

 併走する騎馬軍団。紅い鎧を纏った華奢な兵が一馬身突出する。仮面に隠れて顔は見えないが舌を出し、中指をヒルダに向かって立てる行動に、

「随分と行儀が悪いわね。でも――」

 ヒルダの機嫌を乱す。しかし――

「今は馬鹿にかまっている暇はないのよ」

 それで隊列を乱すほどヒルダは愚かではなかった。それを見て華奢な兵は鼻を鳴らす。

「んだよ、ノリわりいな。どうせ詰んでるんだから……派手に死ねよ」

 ぎゅるん、一瞬で馬の向きを変えてくる。同時に沸き立つ獰猛な気配。ヒルダの感覚が危険を告げる。華奢な兵とヒルダの軍勢、その側面が接触する。そして噴き散る血風。その紅い鎧の兵は長物と剣を器用に持ち替えながら側面を食い散らかす。

「なっ!? 私の兵がそんな簡単にやられるはずが――」

 無双する赤の兵は哂いながら返り血でどす黒く染まっていく。


 左方もまたギルベルトの精鋭が赤い軍勢に蹂躙されていた。もちろん側面から入られた以上、絶対的に不利である。正面突破にだけ突出した陣形なのだ。そのリスクは理解していた。しかし、それでもこの惨状はありえない。

「どうなっている!? 何故、援軍もなく『赤』にこれだけの人材がいる!?」

 マルスランの側近はこの一月でだいぶ数を減らした。幾度も仕掛けられる熱情を持った弔い合戦、その度にそれをはじき返して前に進んだ。もはや人材は尽きているはず。少なくとも、ギルベルトの隊、その側面の弱い部分を嗅ぎ取り、そこに強襲できる腕と指揮力のある男などいるはずがない。

「気を悪くするな。貴殿らも優秀だ。だが、俺たちの方が少し、貴殿らよりも優秀だっただけのこと」

 紅い鎧が縦横無尽に槍を振るう。その響きは――

「冥土への土産だ」


 ベルンハルトは側面の危機を感知しながら、それでも進路を変えなかった。勝機は前である。今更手強い雰囲気を持つとはいえ少勢に構っている暇はない。前を落とせば自分たちの勝ちなのだ。もう見えている、あの都市を落とせば。

「強い将の気配はない。この勢いさえあれば多少態勢が崩れたところで」

 シュピルチェさえ、あの山間の都市さえ落とせば――

「あの都市に兵はいねえよ? テメエの見立て通りだ」

 進行方向に突如、黒い鎧の男が現れた。よく見ると土が盛られている。ちょっとした壁のように伝う盛り土、その背後より現れた男。

 その男を見てベルンハルトは目を剥いた。

「気がそっちにいき過ぎだ。だからこんな阿呆な手も見抜けねえ。ちょっとした軍勢が隠れていることにも気づけねえ」

 盛られた土の上に黒と赤、そして青の軍勢が立ちふさがった。数自体はそれほどでもない。しかし、その中心に立つ黒は、黒の中心に立つ狼の王は――

「ま、勝ち過ぎだ。あのとっちゃん坊や相手に、此処まで勝っちまった意味を知ったほうが良いぜ。運の揺り返し、今までが天国なら……こっからが地獄さ」

 別格。アルカディア大将である自分でさえ霞むほどの雰囲気。その牙を秘しながらひっそりと伏せていた。そのことにベルンハルトは絶望する。マックスからゼロまで完全にコントロール出来ているのだ。少なくともベルンハルトはそう感じてしまった。

「黒狼の、ヴォルフ!」

 ベルンハルトとて名前は知っている。フランデレンでの攻防で白騎士と共に一躍名を上げた傑物。サンバルトで食客として力を振るい、多くの戦果をあげたことは記憶にも新しい。そしてエル・シドに破れ、その先をベルンハルトは知らなかった。

「最近はヴォルフ・ガンク・ストライダーって名乗ってるのさ。よーく覚えとけ、テメエらを殺す者の名と、未来の覇王の名だ。歴史書にも当然載る予定。予習しとけよォ!」

 桁外れの雰囲気。それに飲まれるベルンハルトの軍勢。無意識に進む馬の足。

「上(シュピルチェ)ばっかり見てるから、やっぱり足元が見えてねえよ」

 それを掬い上げるように、土の下から木で出来た柵のようなものが現れる。先端が尖っており、それはアルカディアの軍勢の方を向いていた。

「しま、……とまれぇ!」

「さあ、始めようぜ。俺様の復帰戦、生贄は、テメエらだ!」

 雰囲気に呑まれたアルカディア軍を待っていたのは大口を開けた狼の牙であった。


     ○


 速度を緩める暇もなく、木製の牙が前線に喰らいついた。馬ごと串刺しになるもの、馬から弾き飛ばされて地面に叩きつけられるもの、停止させられた前の騎馬に衝突して姿勢を崩すもの、そこにはいくらでも悲劇があった。

「よう、地面は久しぶりかい、大将さんよ」

 先陣を切って駆けていたベルンハルトは、串刺しにこそなりはしなかったが、馬を失い狼の目の前に放り出された形となっていた。

「なんの、まだやれる」

 勢いよく剣を引き抜き、地面に立つベルンハルト。それに応じてヴォルフも二振りの剣を引き抜いた。ベルンハルトは軽く眼を細めて、狼の纏い持つ雰囲気を見つめ、ベルンハルトは静かに息を吐く。

(これは、勝てんな)

 夢想が崩れ去った。家のこと、余生、何もかもが吹き飛んでいく。

 残ったのは――

「全軍撤退ィ!」

 アルカディア王国第一軍大将としての責務であった。

 目の前のヴォルフを気圧すほどの声量。ただの一声が全戦域に拡がっていく。

「脇目も振らず退け! 我らが牙城、ブラウスタットまで!」

 ヴォルフは無言にてベルンハルトに剣を振るった。ベルンハルトは――

「殿は俺が務める。各自己が役目を忘れるな!」

 全戦力をヴォルフに向けて刃を受けとめる。剣将軍と呼ばれた己が剣、半世紀を過ぎ磨き上げた剣は才無き身としては十二分に完熟を迎えた。

「つえーな。やっぱ戦場はいいぜ。こーゆう出会いがある」

 オスヴァルトの剣と大将の重みが加味された雰囲気。そしてもうひとつ、決死という名の最後の輝きが備わった。おそらくベルンハルトの人生で最もその剣は強く、執念に満ちている。

「テメエらァ! 敬意を表して全力を尽くせ! 蟻一匹逃がすんじゃねえぞ!」

「あいよボス!」

 ヴォルフの横に控える黒の数人が吼える。そしてヒルダやギルベルトの隊列に喰らいついていた紅い鎧を纏った数人も吼えた。ヒルダと交戦する華奢な兵は仮面を脱ぎ捨てる。その顔を見てヒルダは驚いた。かなり男によっているが――

「あんた、女だったの」

 その言葉は男女、ニーカの逆鱗に触れた。

「良い度胸してんな。どっからどう見ても乙女だろうがゴラァ!」

 ニーカは予備動作なしに長物を投擲した。まさか主武装を放ってくるとは思わなかったので対処が遅れるヒルダ。その隙に巧みな手綱さばきで接敵。剣を打ち込んだ。間に合わないタイミング。ヒルダの頭に走馬灯が走る。

「ヒルダ様!」

 ガードナーに長年仕える忠臣が身を差し出した。男の持つ力強い切れ筋とは大きく異なり、鋭い切れ筋が男の上半身を袈裟懸けに走った。

「お、逃げください。大将、命令でございま……す」

 男の体が崩れ落ち傾いた時に出来た空間、そこをニーカの手投げナイフが走る。変幻自在の戦闘行為。ひとつひとつのクオリティも達人の域。器用などと容易く言い切って良い筈もない。血のにじむ修練の果てに得た万能である。

「くっ!?」

 ぎりぎりでナイフを剣の腹で受ける。女がノーモーションで投げた割りに重い手応え。

「退くわよ!」

 ヒルダの判断は早かった。ラコニアでの苦い経験が彼女に判断の迅速さを与えたのだ。ニーカが必要に攻め立てるも上手くかわして撤退の態勢を作っていく。その巧みさは強くなったニーカの付け入る隙がなかったほどである。

「ほう、あちらは上手く退くようだな。貴殿はどう捌く?」

「くそ、黒の傭兵団ということは貴様がアナトールか!?」

 紅い鎧を纏った槍使いはギルベルトに肉薄していた。あまりにもあっさりとギルベルトが鍛えた兵が蹂躙されていく。それほどに強い、以前とは比較にならぬ強さであった。

「さすがに強い。俺一人では勝てんか」

 ギルベルトの剣技が冴える。アナトールの槍を巧みに捌いて滑り込ませるように喉元の空間、紙一枚分を切り裂いた。

「で、あれば自分も参戦するであります!」

 追撃しようとするギルベルトの背後を、黒の傭兵団新参のユリシーズが捉えた。ギルベルトは咄嗟に剣を振るうもそれ自体がユリシーズの罠である。獅子の牙が喰らいつく。

「喰った!」

 ユリシーズのブレイカーがギルベルトの剣を絡めとる。剣の出来が良過ぎたため、瞬間的に折ることは断念し、手からもぎ取る方向にしたのだ。

「く、そっ!?」

 体験したことのない剣術に成すすべなく剣を奪われるギルベルト。そこを狙いすましたかのようにアナトールの槍が射抜いた。ギルベルトの腹を削ぐ一撃。

「これでマルスランを追い詰めたとは信じがたいな。それとも、隠しているモノがあるのか? あるならば早く出したほうが良いぞ」

 マルスランを良く知るアナトールは首をひねる。今のギルベルトは確かに強い。しかし三貴士に比するほどではなかった。少なくともアナトールの知る時点での三貴士、彼らの誰にも勝てるとは思えない。

「そのまま死にたくなければな」

 死を纏う槍が迫る。抗うには剣がない。背後にはユリシーズも首を狙った一撃。腹と首、どちらをかわしても致命傷。

「師団長、落としものっすよ!」

 それを受け止めたのはカールの部下であり、ベルンハルトがブラウスタットに来て以来、側近として様々なことを叩き込まれてきた二人であった。

「や、やばい死ぬ。僕じゃ一撃凌ぐので精一杯だよ」

 フランクと、

「俺だってこのちびちゃんに勝てる気がしねえよ。つーか死ぬ」

 イグナーツであった。

 ギルベルトを除けば側近として、最も厳しくベルンハルトに鍛えられた彼らは、名実共にブラウスタットの中で優秀な二人組みとして認識されていた。

「つーわけでよろしくお願いしますっすよ、師団長」

 イグナーツが拾った剣がギルベルトに渡される。それを見た二人が、

「周りはある程度味方で固めました。このおちびちゃんは――」

 フランクが上手く馬を操りユリシーズの方へ寄せた。

「俺らが止めるっす! これで――」

 フランクとイグナーツが同時に攻撃した。背の高いフランクが振るう長槍と背の低めなイグナーツが振るう長剣が交錯し、ユリシーズをほんの少し外側に押し出した。

「「一騎打ちです(っス)!」」

 その瞬間、爆発的な殺気が満ちる。ただ一筋にアナトールへ向かう殺意の波動。それは鋭く美しき至高の剣。剣として生き、剣として死ぬる男の、

「なるほど、これがそうか!?」

 真の姿。アナトールは咄嗟に馬を盾に後ろに飛びのいた。一瞬の判断、その妙がアナトールの命を救う。その刹那に断ち切られる馬の首。その断面は鋭利が過ぎた。馬は斬られたことにすら気づいていない。

「…………」

 無言にて追撃しようとするギルベルトを止めたのは、フランクとイグナーツの凸凹コンビであった。

「そこまでです。深追いしても意味がない。此処は退き時です」

「ふざけるな。シュピルチェはすぐそこ、それに父上も」

「ふざけてんのは師団長っすよ。大将が退けって言ってんのに無視して攻める師団長がどこにいるんすか。頭冷やしてくださいって」

 この場において彼らは冷静であった。ウィリアムと共に幾度となく戦場を駆け回り、幾度となく戦い、逃げて、そこで培った生き延びる感覚が此処で生きた。それを発揮する実力をベルンハルトが叩き込んだのだ。

 彼らの根っこはウィリアムが、彼らを兵士として仕上げたのはベルンハルトが、それぞれ注ぎ込んだがゆえに生まれた優秀な兵士。

「もう、大将は無理っす。んじゃ何をすべきか、師団長ならわかってるっすよね」

 その大恩あるベルンハルトを見捨てること、そこに苦渋がないわけがない。それでも彼らはベルンハルトの意を汲んで撤退を進言する。ユリシーズの剣を今度はギルベルトが華麗に捌く。顔を歪め、歯を食いしばりながら、ギルベルトは決断した。

「ギルベルト隊撤退するぞ! 道は俺が切り開く!」

 馬を反転させる。それは父との別れを意味していた。フランクとイグナーツもそれに続いて隊の形を整えていく。ユリシーズの追撃、そして馬を何処からか調達してきたアナトールも追撃に加わる。それを上手くかわしながら、ギルベルト隊はヒルダに遅れること数分、撤退を開始したのだ。

 残ったのは、すでに足のないベルンハルト本隊の中央軍、その前線。

「悔いはない。俺はすべてを注ぎ込んだ。もはや抜け殻となった俺の首でよければくれてやろう。無論、タダとは言わんがな」

 噴き上がる情念はヴォルフに笑みを作らせた。ネーデルクスに雇われてすぐにこういう出会いが出来た。やはり自分は恵まれているのだ。昨年までの己ではこの覚悟を破ることは出来なかっただろう。成長した己を試す絶好の相手が目の前にいる。

「往くぜ、『剣将軍』ベルンハルト・フォン・オスヴァルト大将!」

「来るがいい若造! ヴォルフ・ガンク・ストライダー!」

「覚えてくれてありがとよ。その名を恩人にもらってから、あんたが初めての相手だ。名に恥じぬ戦いにしてやるぜ」

 裂ぱくの気合が交錯した。

 この日、アルカディアは空前の大敗を喫したのだった。

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