王会議:革新王

 これは既知の外側であった。知っている事柄が断片的であり、それを繋げて這い上がろうと必死に知識を手繰り寄せる。それは今まで の思索とはあまりにも異なる頭の使い方であったのだ。知っていることばかりの世界。少し頭を動かせばすぐに答えがはじき出せた。だが、この深淵にそのような安易な解はない。

「ぐ、ぬぅ!」

 酸欠になりそうな思考の連続。途切れたならばその場で思考が飛ぶ。

 リディアーヌが思考の果てに何とか駒を進めても、ウィリアムが間髪入れず駒を進める為、頭を休める暇がない。休ませる気もないのだろう。どんどん深みへ進んでいく。ウィリアムとてきついはず、頭を休ませる暇がないのは同じはずなのに、まるで堪えていないどころかこの状態を楽しんでいる様子すらある。

 思考の息継ぎが出来ない。むしろ場を乱してさらに混沌を加速させていく。より深く、より深淵に、この場に既知はない。既知を見出して何とか凌ごうとするも、その返しの一手で既知からさらに離れ、深みにどんどんとはまっていく。

(なんで、なんで、こんなにぐちゃぐちゃにするんだ!?)

 せっかく綺麗な盤面が作れていたのに、美しく最善手で構成された盤面の何と美しいことか。それが今となっては混沌とした、汚らしい盤面と化している。明らかに悪いのはウィリアムの方、むしろ戦況を悪化させている節すらある。

「つまらないやり口だね。こんなことで、この私が揺らぐと思っているのか!?」

 リディアーヌの言葉にウィリアムは無反応。浮かべるは余裕の笑み。かき乱すだけかき乱して、結局は敗勢ならばあまりにも愚。強がりの笑みだとリディアーヌは断じる。

 リディアーヌは勢いよく手を進めた。その一手に、初めてウィリアムが反応を見せる。

「声を荒げて……それほどに怖いか? この先が」

 リディアーヌが軽々に指した一手。簡単に、ウィリアムが差し出した駒を取った。幾度か繰り返したやり取り。だが、一度とて同じ手ではない。取って取られて、駒の位置は流動しているのだ。特に――

「まだ浅瀬、深みに入るのは此処からだ」

 この混沌とした盤面では。

 ウィリアムが応じた手。その一撃はするりと、まるで息をするかのように自然な形で、リディアーヌの王、その喉元に刃を突き立てていた。剣先は二つ。王と、その国の主力である戦車。王は守らねばならない。しかして戦車もまた攻めの要であり、前線を後衛から支える守備の要でもあっ た。

「駒の価値は等価ではない。小駒をいくら切り捨てようとも……大駒を殺したならばそれは得、だ。相手の要を討ち取り、自分の戦力とする。そして何よりも、今まで戦車の利きで守られていた駒が浮いた。浮かされた」

 ダルタニアンは盤面の深さを、そしてそれを生み出した男の深度を測る。小駒を差し出して攻め急がせた結果がこの盤面。ごちゃご ちゃと敵味方入り乱れている。が、よく見るとウィリアムは各駒紐がついておりほとんど浮いていないのに対して、リディアーヌの方は要を潰されてかなりの駒 が浮いた。

「連動していない。ゆえに攻めは単調、守りは脆弱」

 駒を多く持っているのはリディアーヌ。未だ有利なのはリディアーヌかもしれない。それでも、先ほどまでの劇的な差ではなくなった。もはや初期陣形で得た優位は限りなく薄まったと考えていい。

「此処からが長いな」

 リディアーヌは一度体勢を立て直すため駒を守りに回していく。ウィリアムは丁寧に浮いた駒を回収していった。これで形成は五分に近くなる。

 軍将棋での中盤戦は昨今相当早くけりがつく。攻撃型の陣形が多く、中盤戦を飛ばして終盤戦になることも少なくない。そんな環境の中、これほど濃密で手数をかけた中盤戦があっただろうか。一進一退の攻防。相手を削り、自らを削り、解無き海にたゆたう二人。

 より深く、遥か深淵へ。


     ○


 その盤面を誰よりも凝視するのは途中から現れた『革新王』ガイウスであった。誰よりも最前に立ち、目を大きく広げ、戦場の匂いを逃さぬように鼻腔を広げる。鼻の中で薫りを転がし、ゆるりと味わうのだ。この『戦』の機微を。男が最も注目していた人物の大きさを。

「まだ潜る。どこまでも深い懐、騎士、という柄ではあるまい」

 ガイウスが現れたことに気づかぬものもいる。それほどにこの戦いは皆の視線を釘付けにしていた。ガイウスの対面にはウェルキンゲトリクスが、アポロニアは離れたところで盤面ではなく雰囲気を楽しむ。

「……ふぅ、ふぅう」

 リディアーヌは白を通り越して青い顔になっていた。目の下にはくまのようなものがうっすらと浮かぶ。ただの一局、時間にしてそれほどの時は経っていない。それでも此処まで消耗してしまうほど、対する相手は深く強く、そして遠い。

「すでに力以外は……到達している、か」

 ウェルキンゲトリクスも唸る。この遊戯に詳しくないものでも、リディアーヌがじっくり考えて放った手を、刹那の暇もなく切り返す姿を見ればわかる。強さが違うのだ。知識の先にある、本当の地力が違う。

 中盤戦を終えたところで盤面は完全に傾いていた。初期陣形の不利を跳ね返し、相手の策を全てひねり潰し、『白騎士』ウィリアム の陣営は相手に食い込んでいる。対するリディアーヌも決して悪い態勢ではないが、攻撃が連なっていく連動の姿勢ではなかった。ゆえに怖くない。駒数が上であっても、怖い攻撃は無い。

「貴女の雰囲気は嫌いではない。本の杜、知識の宮、壮大だ。良くぞ若くしてこれほどを収集した。その一点のみで貴女は他の凡百とは異なる」

 リディアーヌの指した手を見てウィリアムは口を開いた。それを聞いて顔を歪めるリディアーヌ。先ほどからかたくなに口を開かなかった男が、とうとう口を開いた。

「戦を重ね、人生を重ね、その知識をつなげて発展させていただきたい。今の貴女は図書館と同じ、ただ知識を内包するだけの器にしか過ぎない」

 ウィリアムが盤上の駒を手に取る。それは騎士の駒、変則的かつ守備にも攻撃にも有用な主力である。それを、相手の陣内に放り込む。その一手は中盤戦の終わりを告げた。一気に終盤戦へ、そして終局へといざなう一手。

 その一手が持つ殺意の切れ味に、ヴォルフらは身震いを覚えた。

「貴女に期待するからこそ、貴女を面白い原石だと感じるからこそ、今の貴女を完膚なきまでに叩き潰しましょう。文句の出ないほどに……それゆえのダルタニアン・ストラディオットなのですから」

 ウィリアムがかの戦法を選択した理由が浮き彫りになる。そして改めて浮き出る力の差。もはや疑う余地も無い。ただの遊戯であるが、この戦は遊戯ではなかった。賭けているものの大きさもさることながら、互いに国の要職に就く身であり、簡単に負けていい立場ではない。その中でこの差は ――

「何を、勝った気でいる!?」

 リディアーヌは叩きつけるように駒を打ち込んだ。リディアーヌの陣形を大きく補強する一手。此処で攻め込まず、返しの一手で勝つつもりなのだ。周囲のものは感嘆の声を上げる。一手で印象が変化したリディアーヌ本陣は頑強とまでは言えないが、今の手持ちで潰し切れるほど柔には見え なかった。

「まだ、まだ、だ。もっと深くに往くぞ。今度は貴様が沈む番だ」

 リディアーヌの顔に張り付いているのは挑戦的な笑み。これほど深くに潜り、人生で初めての経験を果たした。それでもなおこの表情が出来るのはひとかどの人物であると言うこと。

「なるほど、見えている。されど未だ浅瀬。もう少し深淵に至れば気づくはず」

 ウィリアムは駒を進める。此処からは乱戦、切った張ったの攻防である。ウィリアムが攻め潰すか、リディアーヌが凌ぎ切って切り返しの反撃に出るか、二つに一つ。

「あれ、ヴォルフっちどこ行くの? まだ勝負はついてないよ?」

「そう思うなら見てりゃいいだろ。俺には死体が足掻いているようにしか見えねえよ」

 ヴォルフは自分の席に戻り酒をあおる。力の差は変わっていない。しかし見えている範囲や深さに大きな開きが生まれていた。これで己が上だと胸を張って言えるか、ヴォルフは苦虫を噛み潰したような表情になった。

「ベイリン、食事を持て。私は、この空腹を押さえ切れそうに無い」

「はっ、ただいまお持ち致します」

 アポロニアは無意識にこぼれたよだれを拭う。恐ろしいほどの切れ味、あの一瞬の殺意に気づけたものがいったいこの場に何人いるのか。ただの一手ではない。綿密に、相手に気取られぬよう殺意を隠して積み上げた布陣。そこから一手で首を掻き切ったように見えただけ。殺意を見せた時点で勝敗は決していた。

「これが、白騎士の戦か。此処で見れたのは僥倖。初見ならどうしようもない」

 アクィタニアのガレリウスは「ふう」と息を吐いた。所詮遊戯の盤上で戦場の匂いを纏わせるだけで並みの勝負師ではない。そしてあの一手が決定打。この男、未だ底知れぬ。

「リディ、よく頑張った。だが、相手が悪過ぎたのだ」

 ダルタニアンは天を仰ぐ。盤上を見て読みきれたものはおそらくダルタニアンのみ。エルビラで微妙なところであろう。だが、雰囲気で戦を感じる者たちにとっては答えなど見え透いている。もう、死んでいるのだ。一方の軍勢は。

 ガイウスはその身の震えを留めることができなかった。


     ○


 リディアーヌの顔に浮かぶのは乾いた笑み。深く潜ったと思っていた。ウィリアムに近づいた、追い越したと思っていた。その感覚が幻想だと知る。あまりにも遠いその背中、あまりにも深いその居場所。深淵の底どころか、ウィリアムの居場所にすら到達できなかった。

 此処から最善手を重ねても十手で詰み。守りきれなかった。捌ききれなかった。

 見た目はやはりウィリアムが不利に見える。持ち駒をほとんど使い切り、駒損を重ね、最後の攻めに全てを吐き出した。これが途切れたなら吹けば飛ぶほどの戦力差。リディアーヌの手元には潤沢な戦力が並ぶ。されど――

「負け、ました」

 リディアーヌが搾り出した言葉。それを聞いて人垣は驚きの声を上げる。十手を見通せぬ者も多いのだ。そして見通せる者でも、ガリアスの姫君が負けたとあれば唸っても仕方がない。しかも、王の見る前でともなれば――

「いつ死んでいた?」

「騎士を飛び込ませた一手です。あそこで首を断った感触がありました」

「はは、私は弱いなあ。全然、見えていなかった」

 リディアーヌは天を仰ぎ髪をかきむしった。悔しさが爆発しているのだろう。此処で負けましたと素直に納得できるようでは成長は無い。この悔しさは次に繋がるものである。戦場ならば、その次は無いのだが――

「知識は十二分、私ですら及びませんでした。序盤戦に付け入る隙は無く、中盤戦とて掻き乱さねばやはり隙は生まれなかった」

「無理筋を押して掻き乱せば勝てると踏まれたわけだ。その通りゆえ何も言えぬ。強さが違った。何よりも私は弱かった。大きな収穫だ」

 リディアーヌは必死に平静を保つ。これ以上の醜態はさらせない。此処には大勢の客人がいるのだ。自分がこれ以上弱みをさらせばガリアスの沽券に傷がつく。

「本や机上で学ばれることも重要ですが、実地で学ぶことも多い。いわんや戦場には貴女の知らぬ未知が溢れている。経験してください。この世界に回り道はございません」

 相手に塩を送ることすら出来る。つまりはウィリアムにとってリディアーヌは敵と認識するに値しなかったということ。そこも悔しさを倍増する要因であったが、愚痴を言っても仕方がない。それだけの差があったのだ。

 隠していた力の差に、リディアーヌは笑うしかなかった。そして震える己が手を見る。平然と微笑む仮面の男を見る。思考の体力、あの深淵にいてあそこまで余裕があるのは普段から深みに居る証拠。本当の意味で考えるということに慣れている。

「すぐに追いついてみせるよ。アルカディアの騎士」

「貴女の騎士になれず残念です。いずれ戦場でまみえましょう、ガリアスの姫君」

 握手する二人に万雷の拍手が注がれる。いい勝負だったと、褒め称える声が多数を占めた。しかしこの中には内心、大口叩きの姫君をあざ笑っているものも少なくないはず。弱い己が悪いのだと言い聞かせるリディアーヌ。

「よき勝負であった! 双方とも見事な戦いっぷり。ダルタニアン、リディを休ませてやれい。相当の消耗をしておる。しかして白騎士には余裕が見受けられる。しばし余と話す時間を割いていただこう」

 ダルタニアンがリディアーヌをどけた席にどさりと男が座る。顔に刻まれたしわが男の年齢を語るが、その目は幼子のそれ。きらきらと若々しく輝いていた。一目でわかってしまう。この男が――

「お目にかかれて光栄です。ガイウス・ド・ガリアス陛下」

「うむ、余も一度見てみたかった。ウィリアム・フォン・リウィウス」

 ガリアスの王、ガイウス・ド・ガリアスである。世界最大の国家の王にして、世界で唯一大王と呼ばれる存在。『革新王』と呼ばれる男は、その名の通り時代を感じさせない雰囲気を纏っていた。年老いてなお新しい。そんな男である。

「まさか私ごときを存じておられるとは」

「ふはは、知らぬ方がおかしかろう。今の卿を知らぬは無知。それだけの実績を挙げておる。されど余は随分前から卿に目をつけておったのだぞ。かの『白熊』シュルベステルを討ち果たしたときからのお」

 まだウィリアムが百人隊長でもなかった時代、北方の雄である『白熊』と戦ったことがあった。その時に『あらゆる』手を使い勝利を上げ、ウィリアムは国内で多少名が知れる存在になったのだ。しかしそれはあくまでも国内での話、他国に名が轟くほどのことではない。

「随分と前の話ですね。驚きました」

 ガイウスは一挙手一投足を逃すまいとウィリアムをじっと眺めていた。ウィリアムを、仮面の下から覗く目を凝視する。

「うむ、その後の戦も知っておるぞ。フランデレン地方での黒狼との攻防」

 ガイウスの目がヴォルフに移る。ヴォルフは自分をかの革新王が認識していた事実に驚いた。ヴォルフは王や貴族たちが一番嫌う立場の人間であるというのに。

「あれは実に面白い戦であったな。敵の隙間をつくやり方は新時代を予感させた。そこまで白騎士を追い詰めた黒狼もまた見事。余はあの戦こそ互いの持ち味が最大限出た戦だと思うておる。おそらくは、互いがそう思っておると思うがの」

 ウィリアムとヴォルフの視線が一瞬からまり、即座に目をそらした。

「他にも出来る限り情報を集めさせた。こちらの国でも名高い宝石王テイラーの傘下で商売を始め、形にしてみせた手並みは見事の一言。色々と先への種もまいておる。加えて此度の鉱山取得に際しては商の覇権を握ったと言っても過言ではあるまい」

 ここまで調べられている。そのことにウィリアムは戦慄を覚えた。此処はアルカディアから国一つ隔てた異国である。情報のタイムラグは大きいはずなのだ。

「テイラーを手に入れたならば、もはや揺らぐこともあるまい」

 そして、ウィリアムはガイウスと言う男を、この男の深さと広さを知った。ガイウスがお茶目に言い放った一言には、多くの情報が 詰まっていたのだ。国内に戻ればわかることであるが、おそらくはローランが死去したことを述べているのだろう。それを当の本人であるウィリアムが知る前に掴ん でいる。しかもその意味を理解している。

「この席に座った理由を語っていなかったな。卿に頼みがある」

 ある意味で、三大巨星など比較にならぬ怪物が目の前に居た。情報を得る速度、その意味を正確に掴み取り、とてつもない精度で答えを弾き出す才覚。人物の桁が違う。なるほど、まさに頂点がそこにいた。

「余は卿が欲しいのだ。ガリアスに来い、ウィリアム・リウィウス」

 その発言に『ガロ・ロマネス』が揺れた。アルカディアの王族は口をあんぐりと、ヴォルフやアポロニアでさえ椅子を跳ね飛ばして立ち上がり、ルドルフは顔を歪めた。リディアーヌも驚いて祖父の背中を見る。リディアーヌとガイウスでは同じ言葉でも重みが異なるのだ。

 世界の頂点が放つ言葉に皆が驚愕した。

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