復讐劇『破』:握魔粉砕
月下にて舞うは褐色の猫。踊るように天地を駆けるその姿は、月並みながら美しいとしか表現出来なかった。それを追うモノの姿は醜い。醜悪に歪んだ表情は見るものを不快にさせる。悪魔のような貌、しかし疾さは猫に軍配が上がっていた。
「裏道小道、アルカスの地図は全て頭に入っている。速度で劣る貴女が私に追いつくのは無理。そろそろ一件落着……撒くね」
ファヴェーラの速度が増した。追い縋るヘルガの表情がさらに歪む。見る見るうちに、角を曲がるたびに、遠ざかるファヴェーラの気配。ヘルガの貌が憎憎しげに歪む。しかし絶対の速度差は覆せない。
ファヴェーラの気配が消え、ヘルガは頭を垂れる。
ヘルガは咆哮した。
それを遠くで聞いてファヴェーラは撒いたと確信する。「あとでアルに話してあげないと。喜ぶかもしれない」と、少しうきうきしながら帰路につく。
もちろん表情には――
「裏道小道、蛇の道ィ!」
地面からいきなり生えてきた腕。それはファヴェーラの足首を掴んだ。とっさにファヴェーラは身体を回転させて拘束を解こうとする。その判断は間違っていない。『握魔』の手とはそういうものである。判断の迅速さが最悪の事態を免れた。
「あら、逃がしちゃった」
崩れる足場から現れたのは撒いたはずのヘルガであった。手を開いたり閉じたり、まるで誇示するかのような行動。その手に滴る血を舌でゆっくりとなめ取った。
「そう、闇の王国を通って……迂闊だった」
「ほんの表層、でも貴女たち表側のものは知らない道ィ」
ファヴェーラの足首は皮膚がぐちゅぐちゅに爛れ、血がじわじわと地面に流れ出ていた。
「これで速度差は埋まった。あとは伯爵にお出しできるよう少し弱らせて……」
ファヴェーラは問答せず脱兎のごとく駆け出した。傷などないかのような動き。
「無ゥ駄ァ! 素材がどんな傷でどれだけ動けなくなるのか、それを見切れない私じゃないのよ。華麗な動きってのはね――」
ヘルガはそれに容易く追いついてきた。舌なめずりする姿は獲物を追う捕食者そのもの。
「ちょっとしたことで簡単に崩れちゃうの!」
ヘルガの指がファヴェーラをかすめる。ちょっと触れた程度、それでもヘルガの握力はそれだけで肉を削ぐ力があった。
「くっ!?」
ファヴェーラの顔が歪んだ。それを見てヘルガは恍惚の表情を浮かべる。
「イイ! その貌イイ! もう良いわよ、あとは伯爵と一緒に貴女で遊ぶときに見せてくれたら良いから。ぜーんぶ吐いてもらうわ。ウィリアム・リウィウスと貴女の関係、貴女とアルレットの、アルレットとウィリアムの、知ってることぜーんぶはいてもらうから……大丈夫、慣れてるから……うーんと痛くしてあげるから」
ファヴェーラの頭によぎった第一候補は自殺。これが一番手っ取り早くファヴェーラの持つ情報を消去できる方法であった。しかしこれには大きな問題がある。ファヴェーラが自殺してまで隠蔽したいものがある、ということをヘルガおよびヴラドに伝えることになるのだ。第一候補ながら最終手段、ファヴェーラは自殺をそう位置づける。
ならば次点は――
「わかった。吐くから許して」
ヘルガはがっかりとした様子。それでもその先に待つ情報に期待してファヴェーラに近づいた。ようやく長年のしこりが消える。あの、末期の『笑顔』を消すことが――
「ぺっ! ほら吐いた」
ファヴェーラの放った唾は見事ヘルガの顔面に着弾した。あまりにも幼稚な振る舞いにヘルガは一瞬硬直してしまう。
そしてファヴェーラはその隙に距離をとった。
「鬼さんこちら、手の鳴るほうへ」
俊敏な動きで逃げ出すファヴェーラ。ふつふつと湧き出してきた怒りにヘルガの頭は沸騰しそうになる。誤って殺してしまうことのないよう、自分に幾度も言い聞かす。殺せばすべて水泡と化す。落ち着いて、落ち着いて、
「下等なごみクズのすること。ムキになっちゃ駄目よヘルガ。貴女は高貴なるヴラド伯の横に立つ女。私は光、あの方と同じく光の中で生きるもの」
ヘルガはゆっくりとファヴェーラの逃げた方向を見る。
「教えてあげるわムシケラ。上等な人間と下等な人間の、差をね」
落ち着きを取り戻したヘルガの顔が歪んだ。それは言葉とは裏腹に、下卑た貌であった。
○
ファヴェーラは幾度も掴まりかける。その度にぎりぎりで回避し、少しの肉を削られていく。それの繰り返し、徐々に深まる傷と速度差。もはやヘルガのほうが早く、身のこなしだけでかわしているのが現状である。
「よく逃げるムシだこと。さっさと捕まってしまえば楽になるというのに」
ヘルガは焦っていなかった。じわじわと獲物が弱っていくさまを楽しんでいる節すらあった。暗殺者であった頃にはありえなかった余裕、そして慢心。ファヴェーラはそこをついて何とか逃げ遂せるよう動き回っていた。
「そろそろ飽きてきたわね」
だが、それも終わり。ヘルガの雰囲気が変わった。それを察してファヴェーラもまた雰囲気を変じる。ヘルガが放つ次の一手をかわし、そしてファヴェーラも秘策を放つ。あまり使いたくなかった手だが、この際仕方がない。
「鬼ごっこは終わりよ」
迫る握魔の手。捕まれば一瞬で肉を圧し潰すだろう。この動きに遊びはない。だからこそ、これを掻い潜れば隙が生まれる。この地点まで逃げられた。あとは突っ込むだけ。
「もうちょっと、遊びましょ」
ファヴェーラは『全力』でかわす。一番大きな怪我である足首を完全度外視した動き。ヘルガはその動きに驚きと苛立ちを覚えた。明らかに無理をした動きである。本気のヘルガをかわすならそうせねばならないが、そうしたところでファヴェーラには次の一手がないはずである。続かない足掻き、それこそ今のでさらに速度は落ちるはず。
「次は、かくれんぼ」
ファヴェーラはかわした勢いのまま民家に突っ込んでいく。木製の扉を破壊して民家の中に突っ込んだファヴェーラ。
それを見てヘルガは失笑しか浮かばなかった。まさかこんな愚策をファヴェーラが打ってくるとは思っていなかったのだ。
「確かに暗殺者は人目を気にするわ」
ヘルガは首をこきこきと鳴らす。
「でもね、大事な獲物を前にして……諦めると思う? たかが民家一軒、せいぜい四人か五人程度、全部殺せば人目はなくなる。隠滅は容易。貴女は哀れで残酷ね。ここの住人を巻き込んだのだから」
ヘルガは指の調子を確かめるように力をこめて動かした。骨の鳴る音が響く。調子は万全。今の物音で時間的余裕はなくなった。周辺の住人が物音に気づいて寄ってきたら厄介である。余裕はなくなった。だから、遊びはない。
「…………」
民家の中からは物音ひとつしない。ファヴェーラが声を何らかの方法で封じているのか、それともそもそも無人であったか、まあそんなことはどうでもいい。
「あらあら、だんまりなんて……つれないわァ」
ヘルガは戸口の前に立つ。粉塵にまみれている戸口は先を見通せない。壊れた扉の先へ行こうとヘルガは足を動かした。その瞬間、ヘルガの身体がほんの少しだけ、本人にしかわからない程度に動きを止めた。
「……ちっ、相変わらずむかつく癖ね」
ヘルガは暗殺者の性質か、正門から出入りするときに少しばかり躊躇する癖があった。暗殺者時代、正門から出入りしたことなどほとんどない。数少ないケースはどれも暗殺がうまくいかなかったとき、目立っても正門から逃げるしかなかった場合のみである。
その躊躇が――
「噴ッ!」
粉塵の先から現れた悪鬼羅刹の怪腕に誤差を与えた。しかし――
「なっ、にィ!?」
防御に出した左手は手のひらで威力を吸収することなく粉砕。衝撃を吸収するはずの手首とひじが砕けて、そのまま怪腕はヘルガの頭部へ直撃。一瞬の躊躇のおかげで致死には至らなかったが、頭部左側が爆発したような音を立てて、空中で何回転も回りながらおよそ現実ではありえない軌道を描いて吹き飛んでいく。
「へたくそ。殺してって言った」
「言ってないぞ」
「目で合図した。そっちもわかったって合図したはず」
「……相手が達者だったんだよ、うん」
粉塵の中から現れた巨漢は、自分の一撃で完全粉砕した戸をのっそりとくぐる。暗殺者時代に築き上げてきた誇りと矜持、至高の腕を砕かれてのた打ち回るヘルガを睥睨する男。『剣闘王』カイルがこの場に君臨する。
「理由はわからん。しかし友人の頼みは断れん。死んでもらうぞ」
爆発する殺気。痛みすら掻き消えるほどの恐怖。ヘルガは震えた。こんな化け物の存在をヘルガは知らなかったのだ。自分より上だと認識していた『殺鬼』白龍でさえやり方しだいで勝てない相手ではなかった。だが目の前の怪物には何をしても勝てる気がしない。
「あ、ぎぃ……ぢ、ぢぐしょう」
せっかく手に入れかけた自分があの方の一番になるための架け橋。そこが完全に崩落して迫ってくるのは何もかもを破壊し尽くす本物の怪物。
「落ち着け。次は外さん。痛みを感じることもなく一瞬で――」
カイルが迫ってくる。絶対の死がゆっくりと、確実に、ヘルガの前にやってきたのだ。ヘルガは何も考えられなくなった。恐怖で思考が完全に立ち消えた。
だからこそ、逃げるという選択肢が取れたのだ。
「あ、逃げられた」
伏していた状態からいきなり跳ね起きて、距離を取るように跳躍。そのまま一切の躊躇なく曲がり角に消えていった。ぽかんとするカイル。その頭をファヴェーラが叩いた。
「馬鹿。逃がしてどうするの?」
「って言っても俺じゃ追いつけないからなあ。ほら、俺小回り利かないし、平野ならともかく街中であの手合いに逃げられたらお手上げさ」
「まったくもう。私は呆れている」
「そりゃ申し訳ないね。しっかしまた厄介なやつに追われたもんだなぁ。一応殺す気で、ってか殺した気で撃った拳だったんだが……腕落ちたか?」
カイルがちょっぴり考え込む。その横で足を引きずりながらファヴェーラが、
「アルの敵。ヴラドの使いでアルレットさんに執着してる」
カイルにだけ聞こえる音量でつぶやいた。それを聞いてカイルは難しい顔をする。
「なるほどな。そりゃ難儀だ。ってことは俺がするべきことも決まっているな」
カイルはぽんと手を打った。そして――
「聞こえるか暗殺者ァ! 俺の名はカイル、剣闘士のカイルだ! 別にお前が何をしようが何者であろうが俺にはどうでもいい! ただひとつ、二度とこいつに手を出すな! 出したならお前の主ごと全てを俺がぶち殺す! これは警告だ! 二度は言わんぞ!」
この区画一帯に聞こえるほど大声で叫んだ。がやがやと民家から湧き出てくる野次馬たち。ファヴェーラは「大馬鹿」とののしりすぐさまカイルの家に転がり込んだ。生業上、あまり目立ちたくはないのだ。
「たはは、すいません。ちょっと酔ってるみたいで。あー気持ち悪い」
カイルは周りをごまかしてゆらゆらとわざとらしく酔っ払いの真似をして家に戻った。中ではぶすっとしたファヴェーラが無表情で待っていた。なんとなく家でファヴェーラが待ってくれている状況にうきうきするカイル。
「何であんなこと言ったの?」
ファヴェーラの問い。カイルは自分用の治療箱を物色する。
「あの女がアルレットさんの殺しに深くかかわっているなら、俺じゃなくてアルが処断するべき案件だろう。俺たちがやるべきことは自分の身を守ってあいつの邪魔をしないこと。それだけでいい。下手に動く必要はない」
だからこそ脅しをかけたのだ。あくまでファヴェーラだけを守る警告。これでやつはファヴェーラを諦めざるを得ない。隠れてファヴェーラを殺したとしても、ファヴェーラからアルの情報を聞き出したとしても、その代価が己と主の命ならば本末転倒。カイルにはそれが易々と出来るし、そういう風な印象を持ってもらったはずである。
「前に釘を刺されただろう? 今のあいつならあの程度の相手に後れを取ることはないさ」
「……私だけが弱いってこと?」
「……ノーコメントだ」
カイルはファヴェーラを治療してやる。「しみるぞ」と言って度数の高い酒をファヴェーラの足首にかけた。相当痛いはずだがファヴェーラは泣き言どころか表情ひとつ動かさない。その代わりある程度治療が終わった後、こっそりとカイルのふくらはぎに蹴りを入れた。
「ははは。それぐらい元気なら大丈夫だ。で、仲間外れの俺に経緯を話してくれるのか?」
カイルは壊れた戸口のほうを見る。
其処に立っていたのは、こちらもかなりボロボロになっていたウィリアムであった。
「すまんなファヴェーラ、思っていたより迷惑をかけた」
開口一番頭を下げるウィリアム。「別に構わない」とファヴェーラは言った。
「それよりもここは危険。まだあの女がうろついているかもしれない」
そう、この場は決して安全ではないのだ。特にウィリアムにとってはカイルやファヴェーラとの関係が明るみに出る可能性もあり、その先の正体にまで手が伸びる可能性すら秘めている。この場に現れること自体あまりほめられた行動ではないだろう。
「構わんさ。ここまでやった以上あの女の中ではすでに確信。俺とお前たちの関係には気づいているし、俺の正体だってバレている。あの女に限ってはむしろ警戒する必要がなくなったんだ。バレちまったからな。隠しても仕方がない」
ファヴェーラには理解できない。バレたら即座にまずい状況に転ぶ。彼女の認識はそう固まっていた。そしてそれは間違いではない。正解でもないが。
「今日で俺の方針は固まった。猫被りは終わり、へこへこするだけの忠犬ウィリアムはやめだ。押さえるべきは実利、圧倒的なまでの実利であの男を拘束する。俺なしでは抱けない大望を突きつけてやればあの男は俺を手放さん。暗殺者上がりの溝鼠の言葉など、届かぬほど溺れさせてやる」
バレたのがヘルガにだけというのが重要なのだ。そしてそのヘルガも物的証拠を持たない。ヴラドに報告するには決定打に欠ける状況だろう。今すぐに報告されてもウィリアムが抱えるカード群であれば容易く上書きできる。
今宵せっかく、ヴィクトーリアに利用されたのだ。こちらも利用せねば割に合わない。正常なウィリアムならばそう考える。
「で、経緯は? 結構傷ついているんだぞ俺は。まさか仲間外れにされるとはな」
「……テメエは隠密には不向きだろーが。さっきもでかい声で叫びやがって。こっちに向かってる途中だったとはいえ結構離れていたぞ。そのおかげで多少状況は掴めたが」
「脅しは聞こえなきゃ意味がないだろ。それよりも経緯だ経緯。話を聞かせろ」
「いやだ」
「殺すぞやせっぽっち」
「どんだけ聞きたいんだよテメエは。……聞きたきゃファヴェーラに聞け。大体察しはついているだろうし、正直今日のは俺の口から話したくない。汚点中の汚点だからな」
「全部理解している。べらべら話せる。あることないこと」
「よしきた! 楽しみだなあ」
「じゃあ俺は帰るぞ。今からヴラドを現地で捕まえなきゃならないんでね」
「おお行ってこい。俺は話を聞く」
「私は話す。あることないこと」
「へいへい。どうぞ酒の肴にでもしてくれ。金は後日カイルとの訓練のときにでも渡す。それでいいな?」
ウィリアムの発言にファヴェーラは頷いた。友人とはいえ仕事は仕事、金はきっちり払わねばならないのだ。そうでなくとも想定外の相手をさせてしまった。そこは大きな反省点である。遊び相手にしては少々難儀な相手であっただろう。
「捕まえた男が色々知っていた。お金と引き換えに引き渡す」
「ほお、了解した。今回早とちりした愚か者も抑える必要があるからな。助かる」
そのまま戸口を出ようとするウィリアムにカイルは無言で酒ビンを投げつけた。背後であったがそれを難なくキャッチするウィリアム。しかし意図がわからない。
「他の傷はともかく腹は深い。それで消毒をしておけ」
その発言を聞いて友人の洞察力にウィリアムは感服する。余裕を持って対処できていたように思えたが、実際はぎりぎり。相手はかなりの使い手であった。本人は自分を百人隊長クラスだと思っているようであったが、ウィリアムの実感としては師団長レベルにはあっただろう。それもコネクションではなく腕で上がってきた歴戦の猛者。部下にほしかったのは内緒である。
「ありがとさん。ありがたく使わせてもらう」
戸口から出て行くウィリアムの姿を見送った後、カイルは目を輝かせて――
「それで、話を聞かせてくれ!」
「合点承知」
ファヴェーラの話を聞き入ったのであった。
後日このネタで幾度もからかったのは言うまでもない。
○
ヴラドの隠し屋敷、そこでヘルガは治療していた。この傷を自身の主に見せるわけにはいかない。出来る限り治療して、少しでも言い訳の利くようにせねばならないのだ。自分がしくじったと、自分が弱く利用価値の薄いことを悟られるわけには――
左腕は暗殺者時代に培った治療技術で、どうにか日常生活をこなせる程度には回復できるだろう。しかし左目は難しい。完全に潰れてしまっていたのだ。まあ死ななかっただけだけでももうけものだが、顔が崩れるような怪我は今のヘルガにはかなりの痛手である。
その鈍痛の中、暗殺者の耳が物音を拾った。
「侵入者か?」
ヘルガは顔を上げる。この場を知るのはヴラドと自分、そしてテレージアと年長の姉たちのみ。近づくとすればテレージアくらいだが、今日に限ってはそれもありえない。昂ぶっているヴラドを無意味に刺激することになりかねないのだ。彼女はそうしないだろう。
「まさか、あの男か」
震えるヘルガ。震えを止めることができない。それほどの恐怖を刻み込まれていた。自慢の腕でさえ羊皮紙一枚の壁にもならなかった。どうあがいても勝てない化け物。勝つ気すら起こらない。もう二度と、ファヴェーラに手を出すことはないだろう。手を出してあの男の逆鱗に触れれば、全てが破壊し尽くされる。
「あ、あのお方には手を、触れさせてたまるか」
震える足を押さえつけ、片手でも抗ずるために動き出す。
ヘルガは部屋を出る。侵入者を迎え撃つために、柱の陰に隠れて敵を待つ。
少しずつ近づく足音。ヘルガは一切の躊躇なく残った右腕で粉砕するつもりであった。相手がどれほど強くとも肉であることは変わらない。掴んで潰せばいい。それで勝てる。自分の握力ならば可能だと、言い聞かせて――
「別に向かってくるのは構わんが、右手も失うことになるぞ、溝鼠」
柱の陰に隠れるヘルガに向かって侵入者、ウィリアムが声をかけた。その声に反応して柱から飛び出すヘルガ。そこにいたのはヘルガの想像よりも、遥かに大きくなっていた仇敵の弟。仇敵の残した可能性。
「のこのこと、姉の敵討ちにでもきたか奴隷身分風情が!」
ウィリアムはわざとらしく首をかしげる。
「何のことやら。それに俺を奴隷身分とののしる貴様は何様だ? 口を慎めよ使用人風情が。俺の名はウィリアム・フォン・リウィウス、男爵であるぞ」
揺るがない。揺るぎようがない。今のウィリアムは貴族なのだ。彼らが何を言ってもそれは事実としてそうある。彼の血は高貴なものとして扱われる。もう、昔とは違う。
「退け、俺は伯爵と貴族の話をしにきた。使用人の貴様には分不相応な世界だ」
「私には伯爵を守護する使命がある!」
「それは今後俺が引き受けよう。俺のいないところは任せてもいいがな。俺が不在のときは頑張ってくれ、二番手くん」
「私は長年あの御方に仕えてきたのだ! 私とあの御方には鉄の信頼がある! 私こそあの御方が一番に信頼するもの、自惚れるな!」
「自惚れは貴様だ溝鼠。俺と貴様、客観的に見てどちらが有益だ? ヴラド伯爵に利を与えられる? 社会的に何も持たぬ貴様が、どうして俺と並び立つことになる? 貴様は召使、俺は伯爵に利益を与えその代わりに娘を貰い受ける、言うなれば家族でありパートナーだ。格が違うんだよムシケラ」
ヘルガの怒りは限界を超えていた。なりふり構わず攻撃しようとしてしまうほどに。ウィリアムはそれに悠然と反応し柄に手を添える。
それだけで噴き出す鋭い殺気。
「ここで死んどくか、溝鼠」
そして知る。目の前の男もまた自分より強者であることを。対峙して、殺気を向けられて初めて理解できた。この男の深さ、高さ、それはあまりにも遠く、彼我の実力差は途方もなく大きい。カイルと対峙したときとは別種の絶望感がヘルガの胸に満ちる。
「召使らしく分を弁えろ。貴様はそれ以上でもそれ以下でもない。まあ、公的な身分を持たぬ貴様より下の人間がいるとは思えんがな」
そう言ってヘルガの横を通り過ぎるウィリアム。悠然と抜き去っていく横顔は、ヘルガの記憶の底にあったものを呼び覚ました。女として格上だと豪語したあの女に。伯爵に取り入って、自らの居場所を奪おうとしたあの女、アルレットに似ていた。敵であった自分にしか見せなかった顔。確信はより強固に固まる。
「いつか足元をすくってやる。あの女のようになァ」
ヘルガの捨て台詞を聞き流してウィリアムは無言にて過ぎ去った。その胸中、溢れ出そうな怒りを押し留めて――
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