復讐劇『破』:復讐は血の味※改稿済
「ヘルガか、入れ」
ヴラドは椅子にもたれ掛かり寛いでいた。今宵巻き起こった惨劇など知る由もない、知ったとしても何とも思わぬだろう。有象無象が自分に届かぬところで蠢いただけ、自分は依然として絶対安全圏にいるのだから。
「ヘルガではありませんよ、伯爵」
その声を聞いてヴラドは椅子から跳ね起きた。悠然と扉の前に立つウィリアムを見て、そしてこの部屋に飾られている悪趣味な肉の飾りを、自らが立たされている状況を鑑みて震えながら下手くそな笑みを浮かべることしかできなかった。
「な、なぜ君がここにいるのかな? 君をこの屋敷に招いた覚えはないぞ」
ここは自らの領域。優位は自分と言い聞かせるヴラド。
「伯爵とお話したいことがございまして、無作法ながらお尋ねした次第です」
「すぐに帰りたまえ。私は、私と君の関係は今日までだ。二度と私に近寄るな」
それを聞いてウィリアムは残念そうな顔を作る。
「今日私はマリアンネを救出しました」
ヴラドは失笑する。
「それで、褒めて欲しいのか? 随分頭のめぐりが悪くなったみたいだな。私は君に失望した。私が命じたことはヴィクトーリアを屋敷に閉じ込めておくこと、だったはず。それを放棄し、私が望みもしなかったことをして、それで私の私的な屋敷に踏み込んだわけか。君は馬鹿かね?」
「馬鹿かもしれません。この場にはせ参じたのはヴィクトーリア欲しさのため、マリアンネを救ったのもヴィクトーリアからの失望が怖かったから、愚行です。どうしようもなく愚かだ」
ヴラドは眉をひそめる。ウィリアムがヴィクトーリアを好いていることなどポーズでしかないことはヴラドとて理解している。その上で押し付けてやろうと画策していたのだ。レオデガーの出現によって優先順位は大きく変動したが――
「レオデガーの出現によってヴィクトーリアは私の手から離れることになる。それくらい察しはついております。覚悟もありました。しかし――」
ヴラドはこの会話に何かを嗅ぎつけた。文官特有の鼻の利き、自身にとって何か有益なことが今、零れ落ちようとしている。
「ことここに至ってやはり惜しくなった。だから今日、私は一歩歩み寄ろうと思ったのです。今まであえて近づかなかった伯爵の闇、そして伯爵も知らない私の闇、剥き出しのウィリアムを知っていただきたく思います。そしてご判断ください。私にヴィクトーリアを与え今まで以上に重用するか、それとも切り捨てるか、を」
ウィリアムの目に揺らぎはない。自信があるのだろう。ヴラドはごくりとつばを飲んだ。今のウィリアム・リウィウスが切ってくるカード、多大なる興味がある。それだけ以前に増して力を得たのだ、この男は。
自らの器すら超えるほどに。
「続けたまえ」
「ありがたく。まず一点、これは私とレオデガーの比較についてのお話です。今、伯爵は間違いなくこう思っておられる。ウィリアムよりもレオデガーのほうが勝る、と。もちろん普通に考えたならその通りです。しかしてそれは事実でしょうか?」
ヴラドは怪訝な顔をする。大公家の跡継ぎと一介の男爵、しかも成り上がりの異人である。これから先のことを考えたとしてもレオデガーに軍配が上がるだろう。誰もがそう思う。それこそ比べるのも無意味な話。
「左大臣家、それがレオデガーの価値です。まこと大きい、まさに文官の極みでしょう。だが、今の彼はそれではない。いずれそうなるだろうが、今の彼はそうではない。対してこの私、ウィリアム・リウィウスの価値は武官の極み、『大将』に現大将およびヤン・フォン・ゼークトを除けば一番近くにいるということです」
ヤンの名が出た瞬間、ヴラドの顔が曇ったが、続く言葉でそれが掻き消えた。
「馬鹿なことを。君はまだ師団長だろう。上に軍団長がいる時点で君は――」
「彼らは敵ではございません。敵にはなりえない、と言った方が正しいのです。そもそもとして私がアルカディアを選んだ理由にも起因するのですが……この国は他国に比べて人材の層が薄い。一番上に長年居座っているのがバルディアス、ベルンハルト、カスパルの三名。彼らを脅かす人材はついぞ現れなかった。彼らは巨星でもなく、絶対者には程遠いと言うのに……それがアルカディアの武力です。その程度でしかないのです」
そういう意味ではオストベルグもまた層は薄い。だがあの国には絶対者がいる。三大巨星という怪物が。エスタードにはエル・シドとその子供たち。聖ローレンスにはウェルキンゲトリクス。ネーデルクスは巨星こそいないが先代、先々代の三貴士は巨星たちと渡り合った実力者揃いであった。今は谷間であるが、すでに芽は育ちつつある。ガリアスは革新王を筆頭にそれこそ人材の質と量を併せ持つ超大国である。
「三名の下で育っていた大物はヤンくらい。その下の世代は剣騎、剣鬼を中心にオスヴァルトの系譜が連なっていた。しかし今、将来を嘱望されたオスヴァルトの系譜は崩れ去った。剣騎、剣鬼は新たな三貴士に飲まれ、残った金剣や一軍のエース格も巨星に潰されたのです。今、アルカディアでは将の空洞化が起きています。中堅世代の目ぼしい者たちが気づけば全て潰されてしまっていた。ならば……その下の世代はどうでしょうか?」
「自分こそ次代を担うものであると言いたいのか?」
「いいえ、それは当たり前、前提条件としての話です」
ヴラドは呆れたような顔になる。ここまで自信過剰なものは見たことがない。もう少し慎ましやかな青年だと思っていたが、これほど尊大な人物だとは露とも考えていなかった。
「ギルベルト、アンゼルム、ヒルダ、グレゴール、カール、この辺りが目ぼしい人物でしょう。その内カールは身内のような間柄、アンゼルムは私に忠誠を誓う部下です。グレゴールは将として語るに値せず、ヒルダも私の敵ではない」
「ギルベルトはオスヴァルトの中でも秀でた才覚を持っていると聞く。家柄もあいまっていずれは大将へ、まあ先の話だろうが……そういう噂も聞くが?」
「ギルベルトは先の戦での昇進を断っています」
ヴラドのまなじりが動く。
「ギルベルトの、まあこれは剣聖の血なのでしょうが、彼はとてつもない才覚を秘めています。それこそ剣に関しては私など及びもつかない高みへ上るかもしれません。ですが、軍の扱いは私に軍配が上がります。これから先、その差は開く一方でしょう」
ヴラドは怪訝な顔をする。剣の腕と戦の腕、ヴラドら文官はそれを等しいと思いがちである。しかし忘れてはならない。今よりも戦が幼稚であった剣聖の時代でさえ、軍対軍の戦いにおいて剣聖は幾度も負け戦を経験していた。戦場における絶対者ではなかったのだ。
「彼の強さは剣闘士の強さに似ている。ただ一点の敵を倒すための強さ、それでは将は勤まらない。彼は自分を理解しています。だからこそ自分を一己の剣として扱える将を見出し、その男の下で剣を振るおうと考えたのです。それがカール・フォン・テイラー。そしてそのカールに軍略を授けたのは他ならぬ私です。ここまで言えばお分かりでしょう?」
ヴラドはごくりと喉を鳴らした。
「バルディアスがなぜ私を側近に選んだか。それは私がこのアルカディアで最も優れているからです。少なくとも若手、中堅に私より優れたるものはおりません」
「だ、だが君は異人だ。いずれ必ず昇進に差が生まれるだろう。文句をつけるものなどいくらでも出てくる。すでに愚痴をこぼす者だって多いのだぞ」
ヴラドは文官として宮中での世間話はできる限り拾うようにしていた。その中では今の時点でさえウィリアムを妬むものは少なくない。これから先、目立てば目立つほどその声は大きくなるだろう。そして声の大きさと言うのは馬鹿にならない影響力を持つ。過去幾度もそれによって人材が潰されてきたのだ。
「もちろん私も理解しています。表ではニコニコと私に接し、裏ではせっせと悪評を広めている存在がいる。その声の強さも理解しているつもりです。ですが、それを理解した上で私はまったく問題ではないと断じます」
ヴラドはウィリアムに先回りされている感覚に陥る。まるで初めからこういう質問をして、こう答えるということが決まっていて、ヴラドもまたそれに一喜一憂するが最終的にはウィリアムの思惑通りに――
「理由は世情です。これから先の世界、戦の時代がやってきます。これを疑うものはいないでしょう。我らが認識している世界は全て戦場と化します。エスタードとアークランドが戦をする横でネーデルクスはアルカディアに攻めてきます。そうなればオストベルグも先の敗戦をそそぐために動き出すでしょう。これから先幾度も起きる光景です。七王国も安泰ではなくなる。すでにサンバルトは滅びました。次がアルカディアでない保証はどこにもないのです」
ウィリアムの目には戦の炎が映っていた。その炎の色を見てヴラドは視線をそらしてしまう。この男、戦を楽しみにしているのだ。戦の時代を心より歓迎しているのだ。自らの所属する国がどうなろうと知ったことではない。自分さえ上に立てるならば――
「その中でものを言うのは文官の言葉でなく武官の力です。文官であるヴラド伯爵を前にして言い切るのも申し訳なく思いますが、これから先のアルカディアを動かしていくのもやはり武官でしょう。戦の時代とはそういうものです」
ウィリアムは大手を広げた。
「では、その世界で最も輝き、栄光を掴むのは誰だと思われますか? このアルカディアにおいて、旧き時代の遺物たるバルディアスを押し退けて大将の椅子に座るのは誰と思いますか?」
「英雄『不動』のバルディアスを指して旧き時代の遺物か」
「事実です。もしこの戦の時代、いつまでも彼らが頂点にしがみつけばこの国は滅びます。それがわかっているからバルディアスは私を側近とし学ばせている。ベルンハルトは謗りを受けることを承知で国の中枢から離れ、ギルベルトや他の者たちを鍛えに行った。カスパルは自らの命を差し出して未来に希望をつなげた。私たちが彼らを押し退けて頂点に立つのは我らに課せられた責務です。それこそが先達の願いなのですから」
ヴラドはぐうの音も出ないでいた。事実としてバルディアスはウィリアムに多くを任せている。その中でウィリアムが一介の師団長の権限を著しく上回るようなことを行っていることも、ヴラドの耳に入っていた。確かに扱いが違う。もちろん打ち立てた実績から見ると自然なことであるが。今までのアルカディアの常識からするとやはり異常である。
「なるほど、確かに君は武官の頂点に近いのかもしれん。しかし確実ではない。対してレオデガー殿は確実に左大臣の席に座る。やはり差があるように思うがね」
「アルカディアが今まで通りの体制ならばそうかもしれません。しかしそうでないかもしれない。確実なことなど何もありませんよ、特にこのような時代には」
ウィリアムはそれでも自信を覗かせたままであった。まだ切るカードが残っているのだろう。ヴラドとしては逸る気持ちもある。このまま流されるだけでは、ウィリアムの思惑に踊らされるだけでは、何とかして自分の流れに戻したい。
「今までは立場の話。ここからは実利の話、つまりお金の話をしましょう」
お金と聞いてヴラドの胸にゆらりと何かがもたげた。特別お金に困っているわけではないが、特別金持ちではないベルンバッハ家。上位の貴族はやはり土地などの資産も含めて多額の金を持っている。そうなりたいと思わないほど、ヴラドは慎ましやかではなかった。
「私が商会を運営していることは周知のことかと思います。今までは薬品中心で運営してきましたが、今年から武器防具も扱い始めました」
「そんなことは知っている。それが上手くいっていないこともね」
ウィリアムはわざとらしく困った顔をする。要するに想定の範囲内ということなのだろう。ヴラドは自分が泥沼にはまっていく感覚を覚えていた。
「ええ、その通りです。上手くいっておりません。武器防具の数を揃えられていないのです。まあ戦場で拾わせたものを安値で買い取ったり、色々と伝手をあたっているのですが難しい状況です。これでは早晩限界が来るでしょう。如何に私が第二軍、ひいては第二王子エアハルト殿下を押さえているとはいえ、この状況では勝てません」
しれっと語った第二王子を押さえているという言葉。それはヴラドの耳に大きく反響した。第二王子とウィリアムが懇意であることは最近宮中でも広がり始めている。まだ表立って互いに関係を仄めかしてはいないが、それでも火のないところに煙は出ない。
「ゆえに私は、私が平定した北方の鉱山を押さえるために奔走している最中なのです。一次ソースを手に入れれば全てが解決する。それどころか今の市場を塗り替えることすら可能になる……かもしれません」
流れが変わった。明確に変貌した。ヴラドの目がぎらりと輝く。
「だが、動いているのは君だけではあるまい。それこそ君と敵対している商会も動いているだろう。他の大貴族だって指をくわえて見ているだけではないはずだ」
ヴラドはウィリアムの隙をつく。しかしこれは本気ではない。ヴラドは期待してしまっているのだ。ウィリアムが先回りしていることを。ヴラドの思考を超えて解決策を用意しヴラドに益を与えることを――流れに、自らを委ねようとしている。
「大貴族はこの際置いておきましょう。彼らと戦っても勝てはしない。彼らの動きは遅いが、動き始めたならば強引に引っ張ってしまう。私は全体の五割程度が我ら商会の、下位の貴族が得ることの出来る取り分と考えております。そこの奪い合いを我らはすべきと考えます」
北方と一口に言ってもかなりの広さがある。鉱山の数はアルカディア本国よりも多いかもしれない。採掘は北方ゆえ困難を極め手付かずの土地も多い。採掘できる潜在能力はこれからの調査次第になるが今よりも増加するのは間違いない。五割と言ってもかなりの規模になるだろう。それを瞬時に頭の中で勘定するヴラド。涎が湧き出てしまう。
「商会同士の引っ張り合い。当初の私は二割を押さえることを目標としていました。それだけでも大きいですが、それでは伯爵も物足りないと思われるでしょう」
ヴラドは二割と聞いて小躍りしそうになった自分を諌める。まだ、先があると言うのだウィリアム・リウィウスは。
「今は、五割全てを手中に収めるべく動いております」
ヴラドはぽかんとしてしまう。五割全て、確かに理想だろう。大貴族が押さえなかった残り全てを手中に収めようというのだ。しかしそれはありえない。競争相手がいるのだ。しかも現状ウィリアムよりも商の世界では強い相手が。
「私の敵である五商会が擁した男は商の怪物と呼ばれたローラン・フォン・テイラー。そして私が先兵として動かしているのはアインハルト・フォン・テイラーです。二人は熾烈な争いを繰り広げております。現状は……ローラン優位でしょう」
その話を聞いて腰砕けになるヴラド。ローラン優位であるならば全然勝てていないということ。五割など夢のまた夢である。
「ローランと五商会の契約は五商会の全面的なバックアップの下、獲得した半分を自分たちに、残りの半分をローラン個人に分配するという内容になっております。この契約はきわめて個人的なものであり、テイラー商会ではなくローラン個人が結んだものなのです」
ここでウィリアムは歪んだ笑みを浮かべる。
「少し、おかしなことだと思いませんか? もちろんローランはテイラー商会の長ではなくなりました。実質的にカールがアルカスにいない以上彼が回すしかないでしょうが……それでも彼はテイラー商会の一員であり、これほど大きな案件は商会同士で結ぶのが通例。なのにこの契約は商会と個人の契約なのです。どうです、引っ掛かりませんか?」
ヴラドは、ウィリアムの目に浮かぶ炎の虜になりつつあった。少しずつ聞こえ始めてくる金の音。じゃら、じゃら、歩み寄る金銀財宝たち。
「もし、この案件、初めから私とローランで仕組んだ、一種の茶番であったとしたら……伯爵はどう思われますか?」
ヴラドの貌には欲望のしわが刻まれる。欲深きものが沼へ堕ちた。
「ま、まさか……いくら、君であっても、いや、そもそも個人の契約であってもそれを反故にすることなど出来るはずがない。ローランが得る五割のうちいくらかを手に入れることが出来るだけでも、いや、しかし」
欲望にまみれた思考。ここでウィリアムは確信する。ヴラドは堕ちた。あとはゆるりと満たしてやるだけ。上げて上げて、地獄の底まで堕とすための準備をするのだ。
「ローランは病です。しばらく商の前線から離れていたのはそのため。そして去年の暮れから病状は悪化しております。長くてこの冬、短ければ今すぐに死んでもおかしくない状況。どちらにせよ冬は越せないだろうとのことです。これを知っているのは家人では娘のルトガルドと使用人長、そして私と専属の医者だけ」
ヴラドはさらに飲まれていく。深く深く、もはや自覚すらないだろう。
「ローランと私の約定は、自身が死ぬことで消え去る契約を反故とし、ローランが獲得した資源を全てリウィウス商会およびテイラー商会のものとすること。商会本体をアインハルトに継がせること。そしてその上に……私が立つことまで許容していただきました」
あまりにもウィリアムにとって都合の良い絵図である。何か裏があるのではないかと疑ってしまうほどに。
「ローランの願いは家の繁栄。武の方面はカールがこれ以上ないほど理想的な状態。逆に商の方面に関しては今ローランを失えばテイラー商会は終わりを告げる。そうすればカールの強みのひとつである財力もなくなってしまう。それは絶対に避けねばならない。必要なのはアインハルトを呼び戻すこと。ただ呼び戻すだけではなく、自分を超える商人となってテイラー商会を繁栄させること。だからこそ、今回はローランにとっても都合の良い状況なんですよ。アインハルトを鍛えることと鉱山を得て商会を磐石にすること、この二つが同時に行えるのですから」
ヴラドは一瞬で事の真理にたどり着いた。ローランは家の繁栄のためにウィリアムの下につくことを決めたのだ。カールを失っても商会の重鎮としてアインハルトが残る。アインハルトを失っても今までの経緯からウィリアムはカールを支えることになるだろう。双方失っても、最悪テイラー商会と言う器は残る。なればルトガルドが子を産めばいずれまた再起することも可能。
「ローランは今回文字通り命がけで動いています。アインハルトもまた憎き親を超えようと全力を傾けている。この二人が全力を賭している以上、他が入り込む隙はない。そして二人のどちらが勝ろうが、私は双方の取り分全てを手に入れることになる」
この下地を組み上げるのにこの男はどれほどの労力を割いたのだろうか。ウィリアム・リウィウスの歩いた道が、そこで生み出してきた繋がりが、今花を咲かせようとしているのだ。大輪の花を。莫大な力、金を生む仕組み。
「まあまだ確定した話ではありません。話半分にお聞きください」
確定していない。などとウィリアムは思っていない。これは規定路線。それこそレオデガーが左大臣になることと同様の。そういう説得力がこの男にはあった。
「もし、全てがうまくいったとして、少々問題があるのです。これについては正直私には如何ともし難い。ヴラド伯爵のおっしゃられたように、私は異人で成り上がりの男爵。土地を獲得したとしても、果たして王侯貴族の皆様が納得してくださるか。最悪、大貴族や王家に接収される可能性もあります」
ヴラドの頭に満ちるのは自分でも制御できぬほどの、想像もつかぬほどの、大欲。ヴラドが足を捕られていたのは沼ではなく大海であったのだ。深く広く、果てのない欲望の海。
「そこで私は、ヴラド伯爵に、貴族の中でも一定の地位を持ち、伝統と格式を持つベルンバッハに、私が獲得した鉱山を所有していただきたいと思っているのです」
ヴラドは堕ちた。完膚なきまでに堕ちた。
「もちろん管理は私共がやらせていただきます。鉄の値段も市場を良く知る私共が決めさせていただきます。市場を制覇するために一度この国の価格を破壊する必要がある。規模に対して利益は減るでしょう。それでも、大元であるヴラド伯爵には莫大な益を約束いたします。私と組んでいただけるなら、座して大金が舞い込んでくるのです」
ヴラドは蕩け出しそうな顔を保つのに精一杯であった。思考など意味を成さない。ウィリアムに乗れば大金が手に入る。そして将来の大将との関係をこれ以上なく強固とすることが出来る。ヴラドの中の選択肢はウィリアムによって潰された。
「ベルンバッハの伝統と格式、そこに莫大な資金が加われば、ベルンバッハは王都でも並ぶ者のない貴族となるでしょう。そしてそこに私の武力が加われば、磐石は完成する」
ヴラドの長年の夢であったベルンバッハを高みに押し上げること。そのために娘たちをさまざまな家に嫁がせてきた。それで今の地位を得たが、もはやこの話を聞いた後では物足りない。ウィリアムは、それらとは比較にならぬ実利をヴラドに与えてくれるのだから。
「あともう一点、私に切れる札があるとすれば、そうですね……かなり不確実な話になりますがお耳には入れておこうと思います。実は、私とエアハルト殿下との関係はひとつ別の人物をはさんでいるのです。これを公言するのは初めてのことなのですが」
ヴラドの思考はとっくに壊れている。だが、さらに壊す。跡形もなきように。
「私が以前、たびたび王宮へ足を向けていたのは、エアハルト殿下の妹君である第二王女、エレオノーラ様との約定のため。今も内々に関係は続いております。無論、恋仲と言うわけではありません。まだそのような年齢ではないでしょう。しかし、将来的にどうなるかはわかりません。彼女が私に惹かれているのは……鈍感な私でもありありと手に取れますので。さて、これで私がヴィクトーリア様の求婚をひらひらとかわした理由もわかっていただけたと思います」
ヴラドは怒涛に押し寄せてくる事実の羅列に言葉を忘れていた。
「私はヴィクトーリアが欲しい。しかし、王女との関係は捨てがたい。今求婚を受け入れれば、エレオノーラ様は私への想いを断ち切るでしょう。まだ淡く、想いが消え去るのにさしたる時間は必要ない。……聡明なヴラド様ならばお分かりになるはず。王女を正妻に持つ男の第二夫人か、成り上がりの男爵の正妻か、どちらがベルンバッハにとって得か、を」
ヴラドの頭に踊るのは自分が王族の仲間入りをする姿。レオデガーは大公家である。そちらを取っても王族の血縁であることに変わりはない。しかし距離が違う。直系である王女と大公家では血の濃度が違い過ぎる。
「私の心はヴィクトーリアのもの。王女に取り入るのは実利のため。ひいてはそれがベルンバッハのためでもある。これが私の全てでございます、ヴラド伯爵」
もはや取るべき道など決まっている。何一つ不確かなれど、つくべき相手を間違えるほどヴラドは愚かではなかった。されど、愚かではないが智者でもない。結局のところ彼は理解できなかったのだ。ウィリアム・リウィウスの底を。欲望の海の底から覗く一滴の憤怒を。
「さあ、御精査ください。私か、レオデガーか、すべては貴方の差配次第でございます」
堕ちた男は暗い笑みを浮かべていた。どうしようもないほど、ウィリアムの提示した話は魅力に満ち満ちていたのだ。どれほど狡猾に、慎重に、冷静を装いこの場に臨んだ男でさえ、最後は白き獣の掌の上。滑稽に踊るしかない。
「き、君だ。私は君を取るぞ。よかろう、ヴィクトーリアなどくれてやる。他の姉たちでも、妹でも、君の好きにするといい。その代わり、私を満たせ。我が騎士」
「喜んで、我が君」
まるで餌を待つ犬のような顔をする仇の姿はなんと滑稽なことか。これで下準備は整った。あとはゆるりと一年かけて溺れさせるだけ。夢を見させて、最後に真の絶望を与えるのだ。さらに、これによってヴラドの耳にヘルガの言葉は届かなくなった。決定的な証拠なき言葉では欲望の海に堕ちた男には届かない。むしろその言葉がヘルガを殺す可能性すらあるだろう。
(そこまで馬鹿ではあるまい。もう少しお前たちには踊ってもらうぞ、溝鼠とその主人にはなァ)
扉の外で聞き耳を立てているヘルガの動きを制し、これでウィリアムの立場はまたしても磐石となる。むしろ以前より強固となった足場。ベルンバッハの利用価値を新たに創出し、必要な状況も形成できた。終わってみれば今宵、ウィリアムは多くを得たのだ。多くを得るように動いた。ただではこけぬという意地である。
「ただ、私はヴィクトーリアの心も尊重したい。彼女が私から離れるというのならば、私はそれを引き止めたりはしません。もちろんそれは彼女の意思だけに限りますが。その場合でもこのお話は継続させていただきます。繋がりが必要に感じるならばエルネスタでもいただければ」
「うむ、やはり君は好青年だ。ちゃんと嫁のことも考えてくれる。まさに理想の婿殿。万が一にもヴィクトーリアが貴方を拒絶することなどないでしょうが、その時はエルネスタを差し上げよう。いやはや、今日は良い日だ。とても気分が良い」
ヴラドはどさりと椅子に座る。そこで深呼吸をひとつ。表面上は落ち着きを取り戻すヴラド。そしてウィリアムも座るように手招いた。
ウィリアムが座ったと見るやぶどう酒をグラスに注ぐヴラド。相当上等のものなのだろう。しかし、ほのかに香る匂い。血の、薫り。ウィリアムは一瞬で感づいた。これはヴラドの悪癖の一種、上等のぶどう酒と新鮮な血のブレンドである。
ウィリアムが気づいたことを悟り、ヴラドは笑みを浮かべる。
「私の趣味を知ったのはいつかね?」
ヴラドの試すような目。あれだけの醜態をさらして、今更少しでも上位に立とうとしているのだ。その滑稽さにウィリアムは苦笑しそうになる。
「伯爵にお会いしてすぐのことです。私になりに伯爵のことを調べさせて頂きました」
「ほほう、それで、こういう趣味は嫌いかね?」
「いえ、私も強きが弱きを踏みつけることに快感を覚える性質でして……伯爵のお気持ちは共有できることと思います」
ヴラドはにんまりと微笑んだ。
「それは結構。いずれ上物を振舞わせていただこう。何、これもまた貴族の嗜みだよ」
「その時はご教授願います、御義父さん」
「もちろんだ我が息子よ」
グラスを重ね一気に飲み干す両者。
ご満悦のヴラドに対するのはこちらも笑顔のウィリアム。しかしヴラドは知らない。その笑顔と言う仮面の下に眠る暴発しそうなほどの怒りを、絶望を。だがウィリアムはそれをぐっと押さえ込む。溜め込んでいるのだ、復讐するその時にまで――
絶望の深淵。白き獣が生まれた場所まで、引きずり込むための下準備である。
○
ウィリアムはヴラドの私邸をあとにし、着替えるために自分の屋敷に戻った。
そしてそこには当然のごとく――
「お帰りなさい、ウィリアム」
向日葵のような笑顔で出迎えるヴィクトーリアの姿があった。そこにいるだけで場が華やぐ、ただの一声だがすっと自分の領域に入り込んでくる。ウィリアムはそれを心の中でしっしと追い払い、頑として踏み込ませてなるものかと強い意志で抵抗していた。
「もう一度、ここにおいていただけますか?」
ヴィクトーリアは不安げな顔を見せる。いつも明るいヴィクトーリアだが、その心は決して強靭ではない。人並みに傷つくし、人並みに脆い。それを奮い立たせてウィリアムの前に立っているのだ。なるほど、愛するというのはなかなかに困難な道である。
だからウィリアムは――
「いやだ」
「え!?」
それを笑顔で拒絶した。あわてるヴィクトーリア。一応ヴィクトーリアの中では葛藤した結果勝算があったらしい。なんとなくそれに乗っかるのは癪なので、とりあえず拒絶から入ってみる。
「い、いやです! ここにいます!」
「ここは俺の家なんだが? 何をするにも裁量は俺が持つと思うぞ」
「ひ、ひどい。ウィリアムの意地悪! ヴィクトーリアは断固居座ります!」
まあこの程度で退くようならウィリアムも興味は持たない。何しろ妹一人に命を差し出す女だ。家族の親愛と男女の愛はまた異なるかもしれないが、ちょっと冷たくした程度で折れる相手とはウィリアムも思っていない。
だが、ここでこの女にはひとつ決意表明をせねばなるまい。ウィリアム・リウィウスの障害として、ある意味で最悪の敵として立ちはだかるというのだ。
ウィリアムはヴィクトーリアの目を正面から見据えた。じっとその瞳の奥を覗く。
「俺はお前が嫌いだ。『無関心』ではいられないほど、俺はお前が嫌いになった」
ヴィクトーリアの表情が、
「愛想が尽きたらいつでも出て行って構わない。伯爵にはちゃんと話を通してある。俺としてもそれが一番好ましいからな」
ぐしゃりと歪んだ。涙が零れ落ちる。すごく、すごく嬉しそうな泣き笑い。嫌いと言ってくれた。無関心ではいられなくなったと言ってくれた。それだけでヴィクトーリアにとっては充分なのだ。充分すぎる御褒美である。
「絶対出て行かないもん。絶対、ぜーったい、私は貴方を好きでいつづける」
確信はさらに強固になる。
「馬鹿が。後悔しても知らんぞ」
そう言ってヴィクトーリアの横を通り過ぎるウィリアム。あわててヴィクトーリアはボロボロになったマントを外してやる。ちょっと前までの習慣どおり、しかし二人の距離は変化していた。先へ進んだのか、後退したのか、それは誰にもわからない。
「不束者ですがどうぞよろしくお願い致します」
ちょっと嫁気取りであった発言にウィリアムの眉がぴくりとはねる。
「……調子に乗るな」
ウィリアムのデコピンが炸裂した。「うぎゃ」と言って倒れるヴィクトーリアを無視してウィリアムは着替えを探しに一人歩む。その背をせかせかと追うヴィクトーリア。ウィリアムは不機嫌そうな顔、ヴィクトーリアは満面の笑顔――
当面この関係は変化しそうにない。
○
ファヴェーラが男を引き連れて現れたとき、ウィリアムの目は驚きに大きく見開かれた。色々と情報を抜くために拷問を行ったのであろう、顔色は土気色であり体調はすこぶる悪そうに見える。年月も経っており当時の面影は薄い。
しかし、それでも男の顔をウィリアムは忘れていなかった。
「へ、へへ、ウィリアムの旦那ァ。俺ァ、ヴラドにこそ見切りをつけましたが旦那のような優秀な御方に付き従いたいとずっと思ってたんでさあ」
手枷をかけられている男はこびへつらう目でウィリアムを見る。まるで餌を待つ犬のような所作。これを愛玩動物ではなく一人の中年が行っているのだから醜い話である。
「こいつはヴラドを裏切ってユルゲン・フォン・フリューア侯爵に取り入ろうとした。……どうしたのウィリアム? 顔色がおかしい」
ファヴェーラが心配そうにウィリアムを見る。心配そうな顔つきでもなければ心配そうな声色でもないが、ウィリアムと後ろに控えているカイルにはわかった。
「いや、たいしたことじゃない。そうか、ユルゲン侯爵か。以前誕生パーティで少し話したが……ヴラドとは旧知の仲と言っていたぞ」
「それなんです。ユルゲン侯爵はヴラドと旧知の仲ですが、ずっと下に見ていたそうなんでさ。だけど最近ヴラドが調子付いてきて、なんと大公家から求婚までされた日にゃユルゲンも黙っていられなかったようで。それで俺みたいなクズにお声おかけていただいたんでさ、へえ」
割って入ってきた男。ここが勝負どころと思っているのだろう。どうにかしてウィリアムに取り入ろうとしてくる。その姿の滑稽さに、ウィリアムは笑みをこぼした。それを良い方に捉えて男もまた「へへ」と笑う。
「なるほど。ならば前回とは関連性がない、な。そもそも前回の暗殺に比べると多少頭の弱さが露呈していた。上手くないんだ。タイミングも、やり方も」
ウィリアムは事実確認をし、事実に紐付けをする。前回と無関係であるならば好都合である。結局、暗殺ギルドもその先にいる依頼 者もまだあせっていない。つまり刻限をきっちり待っているのだ。ニュクスや白龍がどういう説明をしたのかはわからないが、依頼者はかなり頭が切れる、そし て長期的な視野にたって物事を考え、かつヴラドを相当憎んでいることになる。
ウィリアムに現状心当たりはないが、なかなかに厄介な相手であると再認識した。ユルゲンに関しては論外。突発的かつ刹那的、頼った相手もこの男だ。
「わかった。ありがとう。ところで、有能な君を買い取りたいのだが侯爵にはいくらで買われたんだ?」
「あ、銀貨、いや、金貨一枚でこぜえます旦那ぁ」
ここで盛ってくるあたり本物の愚者である。しかしウィリアムは微笑みを持って懐から金貨一枚を取り出した。
「今日から君は俺の部下だ。いいね?」
金貨を受け取り有頂天になる男。
「もちろんでさあ! 旦那に一生を捧げますぜ」
「そうか。それは良かった。じゃあ死ね」
男の顔が歪む。泣き笑いのような顔。
「へ、は? な、なんでですか? いや、確かに俺はヴラドを裏切りました。しかしこれからは心を入れ替えて旦那に仕えようと。俺ァなんでもしますよ!」
男は手枷をされているにもかかわらず、地面にはいつくばってウィリアムの靴をなめ始めた。一心不乱に汚れをなめ取るさまを見て、カイルやファヴェーラは視線をそむける。ウィリアムだけはそれを冷淡な目で見下ろしていた。
「ヴラドを裏切ったことなんて死ぬほどどうでもいいんだ。だって俺もあいつを殺すからな。一年もしないうちに」
男の舌が止まる。「え、なんて」と顔を上げ、其処に浮かぶ貌を見て、その貌が意味する感情を捉えて、男は絶句した。
「なあ、俺が何でヴラドを殺すと思う? お前はその理由の一端を知っているんだぜ」
男は精一杯努力して笑みの形を保つ。
「ヴ、ヴラドの悪癖で大事な人を奪われたんですかい? でも旦那ァ、俺は悪くねえ! あいつが命令したんだ! 俺みたいな平民じゃ断れなかったんだよ! わかるだろ旦那も、だから差し出したんだ、あんたも、大事な人を」
その瞬間、鬼の形相をしたカイルが男の髪をつかんで腹に拳を叩き込んだ。本気ではない。しかし剣闘王の一撃は男の許容量を容易く超えた。
「やめろカイル。ファヴェーラも手に持ったナイフをしまえ」
カイルは憤怒の形相で男を投げ捨て、男は地面でとしゃ物を撒き散らしながらのた打ち回る。
「お前の言うとおりだ。俺には止める機会があった。それを逃したのは俺の責任。お前やヴラドにそれを擦り付ける気はない。きっかけは其処だが、今は仕事でやつを殺すんだ。関係者だから俺がお前を殺す、ってのはないぞ」
ウィリアムはにこりと微笑む。男もそれに釣られてにこりと微笑み――
「お前を殺すのは別の理由だ」
ウィリアムの居合いに気づくこともなく笑っていた。自分の手が撥ね跳び、手枷の重みが片手に全て乗って、ようやく男は気づいた。
「あ、いあ、お、俺の手、俺の手がァァァアアア!」
男の叫びを聞き流してウィリアムは剣についた血をぬぐう。
「お前は俺に金言を与えてくれた。俺を人間じゃないとののしり、僕の大事なねえさんを蹴り飛ばした。お前が僕に教えてくれたんだよ」
ウィリアムの顔が歪む。ウィリアムではなく『アル』の笑みが、絶望に彩られた最初期の記憶がよみがえってくる。
「奴隷は牛や馬以下。非人間。ありがたかったよ、あれで世界を知った。この国で僕がどうあるべきか、どうであったのかを知ることが出来たんだァ」
男は、記憶の深淵に眠っていたものを、思い出して戦慄する。
「お、おまえ、あの時のガキ、か!?」
男の記憶の片隅にもいなかった黒き髪の少年。男を睨み付ける眼と、その後聞こえてきた咆哮に気味の悪さは感じていたが、まさか名を変えてこの国で成り上がっているなどとは思考の端にもなかった。
「お久しぶりです名もなき敗者よ! 僕の靴を一心不乱に君がなめていたのはすこぶる滑稽だったよ。君が言うには僕は非人間らしい。その靴をなめる君は、いったい何なのだろうねえ。非人間以下の、この世界にはびこる有象無象はいったいどんな生き物なのだろうかねえ」
アルは哂う。始まりの衝動が身体を充たす。
「俺が王になった時、世界を制した時、それがこの世界の死だ、人間世界の終わりだ! お前の言う人間は全て滅びるんだよォ!」
ウィリアムは吼える。すべての頂点に己が立った後の世界を想像する。全てが自分にへりくだり、全てが自分を崇め奉る。その滑稽な地獄を想像して悦に浸るのだ。全てを足蹴にした景色を求めて――
「お前のおかげで今の俺がある。今となっては取るに足らぬ小物だが、それでもきっかけであることには変わるまい。お前にチャンスをやろう。手枷を外してやったんだ。お前は、自由だぞ」
ウィリアムは耳元でささやいてやる。それを聞くや否やすぐさま立ち上がって逃げ出す男。生命力の感じさせる動きである。理性なき、ただ生き延びようとする本能に支配される哀れな獣。
「さあさあ逃げろ逃げろ。お前は自由だ!」
男は自らがやってきた入り口に向かう。訓練場にはひとつしか扉がない。そこに向かって全力疾走する。誰よりも早く、何者も自分には追いつけない。
「しかし環境は人間の自由を束縛する。それもまた理だ」
ファヴェーラは怪我の完治こそしていないが、そこらの一般人に速力で劣る足ではなかった。扉の前に立ち、男を威嚇する。
「どけ女ァ!」
狂乱する男にファヴェーラはナイフを突きつけた。一瞬の早業、男の首元にナイフが添えられる。途端血の気が引いて後退する男。
「お前があいつをこうしてしまった。受け入れろ、それが貴様の業だ」
後退した先にはカイルがいた。カイルは男の頭を掴んで扉から遠ざかるように放り投げた。着地点はウィリアムの足元。カイルはそれきり視線を外す。
「あ、あへ、た、たしゅけてくだしゃい」
ウィリアムの足元にひれ伏し、幾度も頭を地面にこすり付ける男。勢いのあまり額から血が出てくるが気にも留めない。
「それは難しい相談だ。俺は君を金で買った。つまり君の所有者だ。君は昔俺に言ったね、買ったものをどうしようと買ったものの勝手だと。私はその言葉に深い感銘を受けたんだ。だから殺すことにした」
ウィリアムは手枷のついた方の腕も剣で切り飛ばした。
「因果はめぐるねえ。正直今の今まで俺は君を忘れていた。忘れていたわけじゃないが捜そうとまで思わなかった。それが今こうして俺の所有物として死ぬんだ」
「こ、こんな金は要らない! 返す、返すから許してくれェ!」
「俺に返すことが出来たら許してやってもいいぞ」
手のない男は自分の状況に絶望する。胸ポケットに入っている金貨を取り出そうと懸命に身体をよじる姿は芋虫にも似ていた。
「次は足だ。その次は鼻をそごう。ちょっとずつ、ちょっとずつ、壊してあげるよ。名も知らぬ我が所有物よ」
カイルもファヴェーラも一切止める気はない。彼らは常識人だが、彼らにとっての親友を奪い去った元凶の一人、優しいアルをここまで堕とした世界の歪み。それを助けることなどありえない。
「いやだぁぁぁああああ!」
金貨一枚の命。この男にしてはあまりにも過分であった。それでも価値を決めたのは男自身。安易に命を売ったこの男もまた、アルや他の復讐者たちと同様愚かであったと言わざるを得ない。愚者の末路は往々にして決まっているのだ。
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