復讐劇『破』:疾走騎士

 男が目覚めて要らぬことをぺらぺらとしゃべり倒した頃、同時に猫の鼻がマリアンネを捉えた。靴に残るほのかな花のかおり、本来このような場所にはそぐわない高貴なにおいである。かすかな香りであろうとここまで異質なら猫は逃さない。

「……『ウィリアム』に伝えて。目標発見、裏も押さえた、と」

 男の証言と盗賊の鼻が合致した。なればそれは正答である。

「ファヴェーラが伝えないのか?」

「私は少し用がある。関係ない用向きだから気にしないでと伝えて」

「わかった」

 風の一部がウィリアムの待つ引き渡し場所に向かう。

 それをファヴェーラは見送って――

「初めまして、お噂はかねがね……『風猫』のファヴェーラ」

「貴女の話も知ってる。『握魔』のヘルガ、超一流の暗殺者」

 背後に現れたヘルガのこめかみがぴくりとはねる。今のヘルガは、実情がどうあれ大いなる主につき従うパートナーだと思っている。過去の自分は否定すべきもの。それを引き合いに出されれば苛立ちも募る。

「今からお散歩の時間だから……用があるならついてきて。ついてこられるなら、ね」

 ファヴェーラは挑発的な笑みを浮かべる。滅多に見せない感情表現、彼女もまたヘルガの動きについて思うところがあった。明らかに不合理な動き、何かを探るようなそれは――

「くひっ、上等だよ盗賊風情がァ」

 そしてファヴェーラに接近したのが決定打。敵意むき出しで、話を聞くこともなく部下を殺した。その愚行がファヴェーラの琴線に触れたのだ。こいつは、『自分たち』にとっての敵である、と。

「今日は最高の日」

 月下にて踊る二つの影。猫と悪魔の追いかけっこが始まった。


     ○


 ウィリアムはファヴェーラの仲間から話を聞いてすぐに行動を開始した。風と同等の速さで疾駆するウィリアム。並走する風を横目にウィリアムは口を開いた。

「安心しろ。用事が片付いたらすぐにあいつのフォローに回る」

「いや、俺は何も言って――」

「本当に関係ない用向きならわざわざ言わんさ。関係あってかつ巻き込みたくないから、気にするなって無駄口をたたく。あいつらしい間の抜け方だ」

 風は驚いたような顔をする。仲間である彼らでさえファヴェーラのことを理解できたのは最近のこと。幾度も仕事を共にして、ようやく少しだけ理解するに至った。だが隣の男はすべてわかっているような、確信にも似た何かをもっている。

 怪訝な表情をする男に、

「俺を探れば俺はお前を殺すことになる。一つ言えるのは俺とファヴェーラは敵じゃない、つまりお前たちとも敵対関係じゃないってことだ」

 ウィリアムは釘を刺す。もし彼らが自分を探れば連鎖してファヴェーラすら巻き込むことになりかねない。彼らがそこまで愚かではないと信じて、ウィリアムは念を押していた。愚行はするな、と。

「理解しました、ウィリアム・フォン・リウィウス。ただ、今日、あの人はすごくうれしそうでした。……それだけは申し添えておきます」

「あいつの表情が読み取れるなら一人前さ。仲間として、友人として、あいつを支えてやってくれ」

 風は頷いて別の道に入った。彼らは自身の友人にとって良い仲間であり、彼女が自分たち以外とも良い関係を築けていることにほっとした。これで心置きなく邁進できるというもの。まあ今日は大きく道を踏み外しているが。

「さて、間に合ってくれよ。この俺が矜持を捨てたんだ。結果くらいは出さんと割に合わない」

 ウィリアムは立てかけてあった木材を足蹴に宙に浮いた。そして屋根に登り屋根伝いに走り出す。夜闇を切り裂いて白き騎士が疾駆した。


     ○


「なあ、結局ヴラドは動かないんだろ?」

 男たちの中の一人がポツリとこぼした。それは波紋となって全員に広がっていく。不安はあった。希望は限りなく少ない。

「そもそもあの男に人並みの善意を期待するほうが間違っているんじゃないのか? あんなむごいことを平気でやるような男だぞ。しかも一人二人じゃない。この集まりだけで十人以上、黙ってる連中を含めたらどれだけの人数になるか……それをあんな、あんな」

 娘の亡骸を思い出したのか泣き出す男もいた。

 ヴラドに奉公させる時、彼らは望んで送り出した。貴族のお世話を出来るのだ。貧しい暮らしの中で擦り切れさせるよりよほど幸せに違いない。そう思って送り出した者もいる。貧しさのあまりどうしようもなく、娘や妻を売りに出すしかなかった者もいる。いろんな理由があった。そしてそれらは全て絶望と後悔で埋め尽くされてしまったのだ。

「四肢をもがれていた」

「目玉を抉り出されていた」

「乳房を切り取られ、顔は絶望に彩られていた」

「炭になった娘の死体を見た。まだ十歳ほどだった」

 絶望の眼がマリアンネを覗き込む。

「丁度この娘ぐらいの年さ」

 マリアンネはびくりとひるむ。それによって意識が戻ったことをこの場の全員が理解した。彼らの顔に浮かぶのは絶望の色。結局ヴラドを引きずり出すこともなく、仇をとるどころかこのままでは何も出来ずに打ち首になるだけ。

「やめろ。この娘は関係ないだろうに」

 元兵士の男が制止する。しかしこの場の雰囲気は――

「関係ない? ヴラドの娘なのにか? この娘の血肉の一部に俺たちの娘や妻が入っているかもしれないのにか? なあ、血のつながりってのはそんなに軽いもんじゃないだろ?」

「そうだ。そもそも俺たちはその血のつながりが絶たれたことで、それで絶望してここに集まったんだろう。家族を奪われたんだ。無残に、凄惨に、人のすることじゃない。鬼畜の所業だ。本当なら本人に、何倍にもして返したかった。でも無理だ。あいつは用心深く、狡猾で、俺たちとは違う人種だ」

「その通りだ。あいつに愛はない。だからこの娘を殺しても無駄なんだ。娘が死んだところであの男は何も思わないだろう。無意味なんだ」

「そうは思わないね。たとえば、俺の娘がやられたように四肢をもいでみよう。あんたの妻がやられたように乳房を抉り取ってやろう。眼を焼いて、歯を抜いて、爪をはがして、あいつのやったことを全てこの娘にするんだ。そしたら……少なくとも俺たちの怒りはこの娘を通してあの男に伝わる。他の者にも伝わるだろう。ヴラドは、娘がこんな酷いことをされるくらい憎まれているんだって、世間に伝えることが出来る」

 この場の全員が正常は思考を逸していた。彼らは絶望のふちに立っている。ヴラドへの復讐心で人の形を保っていた。復讐をする相手と同じにはなるまいという意志があったのだ。だがそれは復讐がなされる前提の話。復讐が失敗に終わった今、彼らの胸に宿るのはどす黒い暗闇。このまま何もなさずつかまって打ち首になるよりも、人を脱ぎ捨てて怒りを娘の体に刻み込むほうが意味のある行動ではないか。

 彼らはそう考えてしまった。

「お前の父親はおいらたちの娘にひどいことをしたんだ。わかるかい? 今から君もおんなじことをされるんだよ。泣いても、誰も助けない。叫んでも、狂っても、死んですら……尊厳は踏みにじられたままッ!」

 男の醜い顔がマリアンネに近づく。首を振るマリアンネ。その顔を見て、彼らの心に暗い炎が揺らめいた。本来上位であるはずの貴族の血統。しかし今彼らはその上に立っている。今この場において上位であるのは自分たち。そのことに彼らは暗い悦びを得る。

「まずはくりくりとした目玉か? それともやわらかそうな小さな手か?」

 ナイフでは足りぬと肉を断つ包丁を取り出す。鴨や兎を幾多もさばいてきたものだが、人はおそらく初めてであろう。よく切れるのか、切れずに幾度も叩きつけることになるのか。そんなことを考える彼らの倫理観は完全に崩壊していた。

 マリアンネは良心の残ってそうな元兵士の男を見る。しかしその男はゆっくりと首を振った。自分は手を出すつもりはないが、止める気もないのだと表情で伝える。彼もまた復讐者、八方塞な状況でこうなってしまうのは理解できてしまうのだろう。

「やだ、ちかづかないで」

 震えるマリアンネ。恐怖で小便を漏らしてしまう。それすら人を捨てた彼らにとっては余興でしかない。本来善良であった男たちはヴラドの与えた悪意によって歪んでしまった。そしてこの状況が彼らに人を失わせたのだ。

「たすけてヴィクトーリア!」

 一番仲の良い姉の名を叫ぶ。それは地下室に反響するも外には漏れない。漏れたところでここは貧民街。貴族の味方などいないのだ。

「だぁれも来ない。お前は一人ぼっちなのさ」

 男の顔に浮かぶ笑みをマリアンネは知っていた。昔一度だけ、今よりずっと小さかった頃、あの男が自分の母に向かって同じ笑みを浮かべていた。下卑た笑み、欲望が張り付いた、恐ろしい貌。その後すぐにマリアンネの母は亡くなったのだ。

 マリアンネの心は砕けかかっていた。唯一信じられる姉たちがこの場に現れたところで死体が増えるだけ。ヴラドがヘルガを引き連れてくれば状況は一変するだろうが、そんなことはありえないとマリアンネも理解している。

「まぁずはァ、右手だァ」

 血走った眼、口の端からはよだれが滴っている。

「たすけて」

 誰も頼れない。頼れる相手がいない。

「だすげて」

 誰かいないか、必死に考える。小さな頭で必死に考える。

 たった一人だけ、マリアンネの脳裏によぎった。それは――信頼するには日が短く、愛し愛されるには関係が希薄であった。自分の大好きな姉が好きだと言ったから、信じてもいいかなと思った。最初に会ったときの印象は、お菓子をくれた人。お菓子というよりも砂糖の塊だが、お子様には甘ければいいのだ。それだけの印象。しかし、何度か会っていくうちに、ちょっとずつ子供ながらにわかってきた。否、子供だからこそわかってしまったのだ。

「たすけて――」

 マリアンネの腕を押さえる男の手。血走った眼がマリアンネを凝視する。包丁を思いっきり振り上げる。そしてそのままの勢いのまま――

「――にいちゃん」

 マリアンネの顔に血飛沫が炸裂した。


     ○


 マリアンネは痛みを感じなかった。恐怖がそれらを上回ったのだ。目をぎゅっと閉じて痛みが来るのを今か今かと待っている。この時間が苦痛で仕方がない。時間が経てば経つほどに募っていく痛みへの恐怖。これからされることへの恐怖からも目を背ける。まだ十歳にも満たない少女ならば仕方がないことである。

 怖くて怖くて、ちょっぴり悲しくて――

 だから驚いたのだ。

「よく生きていたなちび」

 痛みが来ないこと。そしてこの絶望の間にふさわしくない明朗な声が、よく知った声が聞こえたこと。こわごわと目を開けた先で――

「あとは安心して寝てろ。そろそろガキは寝る時間だ」

 一番欲していた救いが現れたことに。まだ関係は浅い、それでもマリアンネは彼に小さな望みを抱いていた。自分の一番好きな姉が、今まで男に対して無理矢理好きになろうとして、結局かみ合わなかった姉が、今何よりも欲している相手なのだ。無理をせず自然に一番好きだと豪語できる、そんな相手なのだ。

「し、白騎士! ウィリアム・リウィウスだァ!」

 ようやく姉が愛せた男。きっとその人は、姉と同じように優しいに違いない。ならばきっと自分もちょっぴり愛してくれるかもしれない。二番目三番目でもいい、自分をほんの少しだけでいいから見て欲しい。正面から――

「今日はウィリアム・リウィウスにとって最悪の日だ。そしてお前たちにとっても最悪の日となる」

 いつか、きっと――

「にいちゃんだぁ」

 白銀の剣が腕に刺さりうめく男の横で、マリアンネの恐怖や悲しみがウィリアムの登場で完全に掻き消えた。


     ○


 ウィリアムは屋根伝いに全力疾走する。戦場では重装備ゆえ発揮する機会に乏しいが、本来のウィリアムは身軽さが強みであった。もちろんファヴェーラには到底及ばないが、それでも並の人間とは一線を画す動きである。

(話によると見張りは五人。そのうち四人は各路地の見張りで無視していい。問題は建物の木窓から屋根や通路を覗く目……こいつは厄介だ)

 屋根を走ることで見張り四人を無力化。しかし最後の一人は依然として脅威である。ウィリアムを発見し下の階にいる仲間へ報告、マリアンネを使ってうまく立ち回られたなら、その時点でウィリアムが動いたことで裏目となり、状況を悪化させた愚か者になりかねない。

(ギリギリまで高低差や建物の影などを使って近づき――)

 ウィリアムは音もなく影のごとき動きを見せる。ファヴェーラや白龍に見られると駄目出しされるだろうが、素人の中では一級品、三流の暗殺者程度には動けていた。

 影から陰へ、上へ下へとするすると動く。音のでない動きは幼き頃からさんざん練習していた。必要悪、りんごや卵をちょろまかす際必須の動きなのだ。

(ここが限界。ここから木窓に飛びつくまで全力疾走で十五歩程度か。中央突破はないな。迎撃ではなく報告の動きを取られた場合俺が詰む)

 ウィリアムは自分の装備をチェックしていた。愛剣が一振り、武器として持ってきたのはそれだけである。他は金貨二枚に銀貨五枚、銅貨多数――ようするに普段着であった。

(装備は十分、やるか)

 それでもウィリアムは装備は十分と判断する。ウィリアムは金貨一枚を手に取り、自分と敵とを結ぶ一辺から対角になるよう放り投げた。銀貨、銅貨に比べ金貨は重い。落下した際の音は多少なりとも大きくなる。そして――

「ん?」

 星明りや月光を反射した際、ウィリアムの持ち物の中で一番目立つのだ。

 視線の動き、それを確認するより早く――

(まず十歩)

 音は限りなく消しているが、視界に入れば簡単に見つかってしまうだろう。一気に距離を詰める。男の視線は金貨に釘づけ――

「囮か!?」

 にはならなかった。見張りの男は素人ではなかったのだ。ファヴェーラとは別グループだが盗賊ギルドに所属する男で、この場で数少ない場数を踏んだモノであった。

(十歩、そしてその動きは織り込み済みだ)

 視線がこちらを捉えようとする最中、ウィリアムは銅貨を指ではじく。投擲するよりも早く、限りなく直線に飛翔する銅貨は、

「くかっ!?」

 男の喉を捉えた。声を潰して、動きも止める。

(し、しまった!? いったい誰が、どうやってここまで近づいた!?)

 声が出ない以上思考で叫ぶしかない。喉に与えられた衝撃のせいで、失われた空気を吸い込まねば声を発することすら出来ないのだ。

「さらに五歩、計算通り十五歩だ」

 視線だけが、その姿を写し取る。耳もまた男のささやくような声を捉えた。一瞬だけ、一瞬さえ息を吸えば叫ぶことが出来る。それで目の前の男を砕くことが出来る。木窓に勢い良く飛び移ったにもかかわらず物音ひとつ立てない怪物――

「ウィリアム・リウィウス!」

 男はやったぞと嬉々とする。これでたちまち仲間がやってくるだろう。そいつらは殺されるかもしれないが、状況を察したものが娘を盾にウィリアムをくじくはず。白騎士に勝った。あの新進気鋭の英雄に自らが勝ったのだ。

(あれ? 俺の、からだ、なんで?)

 反転する視界。其処に映っているのは血しぶきを上げる自分の身体。そこに己が頭部は存在しない。そもそも自分が自分の身体を見つめるということがありえないはずである。

(そうか、俺は。そりゃそうだよな、こいつは……本物な、ん――)

 薄れ行く視界の中で男が見たのは倒れこむ男の身体を優しく抱きとめ、音の出ないように細心の注意を払い床におろす怪物の姿であった。無音の惨劇、それをこともなげに達成する様はまさに怪物のそれ。

 息を吸う一瞬にきらめいた斬撃は男の理解を寄せ付けぬ速度で首を断った。その際、男の口を手で押さえながら断ち切り、弾み飛ぶはずの首をしっかり手で確保。身体ともどもゆっくりと地面に置く。それをやすやすとウィリアムは行って見せた。

 男の最後に見た光景は、月光の煌きで哂う美しき怪物の姿であった。

(さてと、進入成功。ここまでは頭で描いた作戦通り。問題はここからだ)

 ウィリアムは顔についた血をぬぐい頭を切り替える。ここまでは事前の情報から自分で描いた絵図通り。ここから先は情報がないためアドリブが求められてくる。

「たすけてヴィクトーリア!」

 ここからの動きを考えている最中、マリアンネと思しき悲鳴がウィリアムの耳に届いた。悲鳴は下の階から、声の減衰、響きから察して二階建てのぼろ家に地下室があることを瞬時に察知する。

「ちっ、時間がない!」

 切羽詰った様子の声。思考する時間すら惜しい。

 ウィリアムは音を立てないような動きをやめた。その代わり速度が跳ね上がる。階段を全て無視して全段抜かし、出来る限りひざで衝撃を吸収、さらに反動を利用し――

「えっ?」「は?」「ん?」

 瞬時に三人を切り伏せる。ちょっとの物音よりも速度を優先する。一階にいる人間は机に固まって食事を取っていたため思考が追いつく前に殺せた。

 そして彼らが倒れる音を立てる前に――

「まぁずはァ、右手だァ!」

 下卑た声をウィリアムの耳は捉えた。その声を聞いてウィリアムは笑みを浮かべる。不快な声であったが十分な収穫があった。『まず』、つまり手始めということ。まだ、傷つけられていない可能性が芽生えたがゆえに。

「たすけて――」

 ウィリアムは地下の扉を蹴破った。手近な二人を切り殺し、視界を確保する。

「――にいちゃん」

 ウィリアムの耳が、眼が、マリアンネの姿を捉える。それと同時に醜悪な顔をした男が肉切り包丁を今にも振り下ろさんとしていた。ウィリアムの登場に思考の追いついていない者たちの中に、一人だけ反応し剣を引き抜いた男がいた。

「…………」

 無言にて突貫してくる男。落ち始める包丁。男は見たところかなりの手練である。すぐにでも応対せねば自分の命が危うい。この場合、ウィリアムという男はいつだって必ず他者を切り捨ててきた。それを平然と行ってきた男である。

 それなのに――

(馬鹿か、俺は)

 ウィリアムは剣を投擲していた。自らを守るための唯一の武器を。その行動に目の前の男も驚いた顔をして剣を止めた。そして剣は吸い込まれるようにマリアンネの前にいる男の腕に、手首に突き刺さった。剣の勢いに引っ張られ男の包丁はあらぬところを斬る。そのまま倒れこみ、自分がどうなったのかわからぬまま呆然としていた。噴き出る血を見つめて。

 マリアンネは飛び散った血を自分のものと思っているのか、目を閉じたままであった。

「よく生きていたなちび」

 マリアンネがこわごわと目を開けた。その目の色を見て、その色の変化を見て、ウィリアムは苦笑してしまう。もし、姉が拷問される前に自分が今のよう颯爽と登場していたら、もし姉のピンチに駆けつけることが出来たのならば、

「あとは安心して寝てろ。そろそろガキは寝る時間だ」

 最愛の姉はあれほど嬉しそうにしてくれただろうか。そんな夢想をしてしまう自分を振り払って、目の前の敵を、

「し、白騎士! ウィリアム・リウィウスだァ!」

 ままならない己を、

「今日はウィリアム・リウィウスにとって最悪の日だ。そしてお前たちにとっても最悪の日となる」

 戒めるかのように言葉を発した。忘れてはならない。これは今日限りの暴走、今日の己は最悪であることを自覚せねばならない。ヴィクトーリア・フォン・ベルンバッハに飲み込まれてはならないのだ。あれは捨て去ったモノ。不要のモノでなければならない。

 今日という日を忘れるな。捨て去るためにも忘れてはならない。この日を踏みつけて、天へ昇れ。それが己の道である。

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