復讐劇『破』:最悪の日
寝ているマリアンネを見た瞬間、男の顔が歪んだ。顔が真っ青に、それを通り越して土気色になる。背中を震わせ、元兵士であった男の胸倉を掴んだ。
「テメエ、何を間違えてやがる! こいつは十二女のマリアンネだ! どうやったら九女のヴィクトーリアと間違うってんだ!」
元兵士の男はその手を無造作に払いのけた。軽くやったつもりであったが鍛えていない男にとっては、勢いがあったのか後方へ倒れこんでしまう。
「何日か観察していたがこの娘以外の出入りはなかった。貴族にとってこの程度の年齢で嫁に出すのは珍しくないだろう。この娘だと俺たちは判断したまでだ」
男は乱れた襟元を正す。
「それに十二女であろうと九女であろうと問題ないだろう。娘であることには変わるまい」
下卑た顔をした男はさらに顔を歪ませる。
「ふざけろよ。あの男が、あの怪物が娘一人のためにリスクを犯すわけがねえだろうが! こんなちんくしゃまた生めばいいんだよ! 必要だったのは大公家に目をつけられている娘であって、まだ社交の場にすら出ていないクソガキじゃねえんだ!」
彼らは貴族ではなかった。そして家族を愛しているからこそこの場に集まった。だからこそヴラドという男の考えを測り間違えたのだ。娘であれば父親が出てくるはず。金があるのだ。救うための金が、かの家には。貧しさに負けて娘を売った男もここにはいる。しかしそれは家族を守るためであり、貧しさに負けたからでしかない。根底では愛していたし手放したくなかった。金さえあれば、幾度もそう考えた。
「……ヴラドは出てこないというのか」
その金を持っているはずの男が、そこまで法外ではなく、怪しまれない程度のお金、かの家から考えればはした金すら出し渋って娘を見捨てるなど、彼らの思考にはなかった。
「出てこねえよ! 引渡しの場所に人すら送ってこねえさ。これで終わり、俺もお前らも、みーんなまとめて打ち首、か……暗殺者の世話になるかのどっちかだぜ」
男は自嘲する。そのままふらふらと立ち上がり、外に向かった。
「俺は逃げるぜ。絶対に生き延びてやる。こんなところで、使いっぱしりで終わってたまるかよ。ま、実行犯のお前らはどうやったって死ぬ運命だし、せいぜいがんばってくれよな」
立ち去ろうとする男に向かって、ナイフを向ける仲間を制した元兵士の男。手でナイフを押さえ首を横に振って止める。一瞥もせず消え去った男の様子を見るに、おそらくヴラドは来ないのだろう。
「どうする? このままじゃ」
元兵士の男は考え込む。だが名案は浮かばなかった。
「とりあえず俺が引き渡し場所の様子を見てくる。娘には手を出すなよ」
彼らはこの作戦にかけるしかなかった。彼らの引き出しではこれ以上の作戦は出てこない。どうにかして一矢報いる。一縷の望みをかけて作戦を続行する判断を彼らは下した。
○
ウィリアムがベルンバッハ邸に着いたときにはテレージアやエルネスタが門の前で待っていた。そこにはレオデガーも青い顔でその場に立っていた。
「どうしたのテレージアお姉さま」
ヴィルヘルミーナが驚いて馬車から身を乗り出した。ヴィルヘルミーナがウィリアムを迎えに行ったのは彼女の独断であったらしい。こうして出迎えがあること自体少し妙な話であった。
「ヴィクトーリアがマリアンネを探しに行ったきり戻ってないの」
テレージアの言葉にヴィルヘルミーナは大きく目を開けた。ウィリアムはわが耳を疑う。いくらヴィクトーリアが愚かであっても、そんなふざけた話があるだろうか。あまりに短慮が過ぎる。
「いつ頃出かけられましたか?」
ウィリアムの登場にテレージアとエルネスタ、レオデガーは驚きを見せる。そんなことは無視してウィリアムは馬車から降り立った。
「ヴィクトーリアが動いたとなれば伯爵も動かれるはず」
「ヘルガが探索に向かっています」
エルネスタの答えにウィリアムは頷いた。ヴラドが動かせるとしたらその駒しかないだろう。
「伯爵は?」
「この家にはいません」
ヘルガを離すかわりに姿を隠しているのだろう。おそらくヴィクトーリアがつかまってでも自分が姿を見せることはない。彼にはやましいことが多すぎるのだ。復讐を必要以上に恐れている。
「ヴィクトーリアは……相手から送られてきた手紙の内容を?」
「見ています」
「……まずいな。ヘルガが間に合えば良いが」
ヘルガがヴィクトーリアを抑えねばヴラドにとって大きな痛手となる。ここに駆けつけたウィリアムとしても何をしていたのだという話になってしまうだろう。不本意ながら世間的にはヴィクトーリアの婚約者で通っているため都合が悪い。
「とにかくヘルガを待とう。今、闇雲に動いても仕方がない」
「いや、金は僕が用意した。引渡し場所へ行こう」
レオデガーの申し出。ヴィルヘルミーナの顔がぱあっと華やぐ。
「準備もなしに金は渡せません。それに彼らの要求から考えて、狙いは金じゃない」
レオデガーは不審げな顔をする。ウィリアムはテレージアが顔を背けるのを見逃さなかった。彼女はわかっているのだろう。この事件がどういった意図で引き起こされ、このままならばどういった結末に終わるのかを。
「金じゃなければなんだというのですか!?」
「狙いはヴラド伯爵。伯爵を名指しで金の引渡し相手としたのは彼を引き出すためでしょう」
レオデガーが思考する。金ではなく狙いはヴラド、であるならば浮かんでくるのは金ではなく命のやり取り。この回りくどいやり方から考えるに――
「……ヴラド伯爵が恨みを買っていると?」
「誰でも恨みは買いますよ。恨み、もしくは嫉妬心、大公家にお声がかかった……なんて日にはうらやましいと思うものは少なくないでしょう」
レオデガーは押し黙った。彼とて自分の影響の大きさは重々承知している。もちろんこうなることは想像すらしていなかっただろうが、決してありえない話ではない。まあ今回に関しては復讐が本線で大公家との絡みは便乗だろうとウィリアム個人は当たりをつけているが。
(もしくは大公家の一件で痺れを切らした可能性はある。五年は確かに長すぎた)
ウィリアムの思考には二つの犯人像が浮かんでいた。
(ニュクスを通して釘を刺しておくか。まだ殺すには早い)
ウィリアムの思考はすでにどう処理をするかに移っていた。たとえヴィクトーリアが死んでも構わないのだ。要はヴラドと密な関係であればいい。ヴィクトーリアの死でそういった関係が喪失した後でも特別扱いしてやればむしろ信頼は増すだろう。ヴィクトーリアが生きていて大公家に嫁ぎ、そちらに意識をとられるよりも有意かもしれない。
そういった思考の紐付けが出来るとウィリアムは安心してしまう。自分はブレていないと再認識できるから。冷たい思考の中で弾き出した答えこそ己が進むべき道。彼女たちは切り捨てる。そちらの方が有意であるとウィリアムの思考が答えを導き出した。何と言うことは無い。いつものことである。
○
ヘルガがヴィクトーリアをつれて戻ってきたのは、ウィリアムたちがベルンバッハ邸に腰を落ち着けてまもなくのことであった。ヘルガに噛み付いたり蹴ったり、およそ淑女とは程遠い姿での帰還に姉たちは頭を抱えていた。
「ヴィクトーリア様をこの家に軟禁せよとの伯爵のご命令です」
ヘルガがヴィクトーリアを拘束していた腕を外す。ヴィクトーリアは家からの脱出を試みようとするも、その体はヴィルヘルミーナにがっしりと押さえられていた。
「後はお任せします。ロード・リウィウス」
「万事お任せあれとお伝えください」
ウィリアムの返答を聞いてヘルガは姿を消した。ヴラドのもとに向かったのだろう。
「離してヴィルヘルミーナお姉さま!」
「ふざけないで! 貴女までつかまったらどうするの! おとなしくしてなさい!」
「でも――」
「でもじゃない! 私たちがどれだけ心配したと思っているの?」
「じゃあマリアンネのことは心配じゃないの!?」
「っ!?」
いつになく攻撃的なヴィクトーリア。返答に窮したのはヴィルヘルミーナの方であった。テレージアに増援を頼むべくちらちらと姉の方を見るヴィルヘルミーナ。テレージアはため息をついてヴィクトーリアに視線を合わせる。
「お姉さんを困らせないで、ヴィクトーリア」
やさしげな声にヴィクトーリアは言葉を詰まらせた。
「仕方がないことなのよ。貴女の代わりにマリアンネがさらわれたことも、お父様が家のためにマリアンネをあきらめたことも、全部仕方がないこと。あきらめなさい。それが貴族の娘というものです」
ウィリアムはうなだれるヴィクトーリアを見る。衣服はぼろぼろ、おそらくスカートは邪魔だったのか自分で千切ったのだろう。走るのに邪魔だったのか靴を脱ぎ捨て、靴下はぼろぼろ、足の裏からは血がにじむ。
「マリアンネは、家族なのに……どうしてあきらめるなんて言うの!? 何が仕方がないの!? 私にわかるように言ってよ!」
テレージアの言葉を聞いてなお、ヴィクトーリアは折れなかった。テレージアは額を押さえる。いやな役目である。それでも当主が決めたこと、守らせねばならない。それがベルンバッハに生まれたものの定めなのだから。
「わかるように言ってやろうか、ヴィクトーリア」
それを遮ったのは、この中で家族ではない二人のうちの一人、ウィリアムであった。いつも不必要なまでに慇懃な男が、ヴィクトーリア以外には初めて見せる顔を向ける。
「マリアンネは小さく婚約者どころか社交の場に出たこともない。貴族の娘としては無価値に等しい。欠けたなら、必要ならば、また産めばいい。それだけのこととヴラド伯爵は判断された。金も手間もかける必要はない。そう判断されたんだ」
ウィリアムの顔は冷たかった。他のものが口を挟めぬほどに。あまりの言い草であったが、レオデガーでさえ口を挟む度胸は備わっていなかった。絶対零度の視線が向けられる。しかし、ヴィクトーリアはひるまずに睨み返してきた。
「お父様の判断なんて関係ない。私が助けなきゃって思うから助けるの」
「貴女はベルンバッハの娘だろう。当主の命は絶対だ」
「なら家を出るだけ。そしたら本当に関係ないでしょ」
絶対に引かない姿勢を見せるヴィクトーリア。その目に一切の揺らぎはない。その目にウィリアムは苛立ちを覚えていた。
「そして捕まって、マリアンネを危険にさらすのか? お前が捕まればマリアンネに価値はなくなる。取引材料はひとつでいい。彼らも無駄な荷物は背負い込みたくないだろうからな」
ヴィクトーリアはうつむく。ぎゅっと裾を握りしめて――
(マリアンネと似ているな。いや、マリアンネが真似しているのか)
その姿はマリアンネとそっくりであった。仲の良い姉妹なのだろう。しかしそれは命をかける理由にはなりえない。姉妹とて所詮他人なのだ。
「じゃあ、どうしたらいいの?」
ぽつりとヴィクトーリアはこぼす。ウィリアムは止めとばかりに――
「あきらめろ。それ以外の道はない」
ぽろぽろと泣き出すヴィクトーリア。顔をくしゃくしゃにして、端正な顔立ちも、明るい笑顔もそこにはない。あるのはどうしようもない現実をぶつけられて、それでもあきらめ切れなくて、でもどうしようもなくて、悔しくて、苦しくて――
「貴方に、大切な人はいないの?」
ぐしゃぐしゃの顔をウィリアムに向ける。
「私にはいるよ。大好きなお姉さまたち。大好きな妹たち。マリアンネだってそう」
「所詮他人だ。自分の命を捨て去るほどじゃない。血のつながりなんてたいしたものじゃないだろう。現にヴラド伯爵はマリアンネを切り捨てた。その程度のものだ」
「じゃあ、何でウィリアムはそんなに辛そうな顔をしているの?」
ウィリアムはとっさに自分の顔を触る。不愉快さで歪んでいるだけ、決して何かに感化されたわけではない。自分はブレていない。ブレていいわけがない。
「ウィリアムにだって大切な人がいるはずだよ。そうじゃないと、そんなに大きな、ぽっかりとしたがらんどうになるわけが――」
ウィリアムは無意識のうちにヴィクトーリアの胸倉を掴んでいた。誰が止める隙もなく。
「お前が俺を語るな。よりにもよって……貴様が、俺の」
ウィリアムは自分の愚行に気づく。すぐさま手を離して、ヴィクトーリアから距離をとった。自分が震えているのがわかる。あまりにも狂い過ぎて、失言をしたことに気づいていなかった。
「マリアンネは私と似ているの。誰からも愛されず、物心ついたときには愛してくれるはずの相手はいなかった。姉たちの気を引くためにわざとバカをやったり、いつも笑って不快な思いをさせないように……きょろきょろと周りを見ている。愛して欲しくて、だから、自分から思いっきり愛そうとするの。その代わりに、愛して頂戴って」
ウィリアムは初めてヴィクトーリアの深淵に触れた。それはあまりにも歪な本性であった。愛されたいから愛そうとする。全力で、めいいっぱい。
「それがお前たちか。随分、歪んでいるな」
「うん。でも、私がマリアンネを助けたい理由、わかったでしょ」
ヴィクトーリアという女は愛に飢えている。マリアンネもそうなのだろう。歪みはおそらく姉のほうが上、そういう生き方になってしまっているのだ。愛し愛され、愛さなければ生きていけない。マリアンネはヴィクトーリアを愛している。ならばヴィクトーリアはそれに応えたいと思う。自分に似た妹だからこそ――
「だから行くね。小さなマリアンネが愛に失望しないように」
ヴィクトーリアは自分の涙をぬぐった。絶対にあきらめない、いつもの勇往まい進するヴィクトーリアの顔がそこにあった。全力で愛を証明する。そういう生き方なのだ。例えそれが貴族の令嬢として間違っていたとしても。
「僕も行きます。お金は用意してますし、交渉ごとは仕事柄得意です」
レオデガーも賛同する。彼もまた燃える目でヴィクトーリアを見つめていた。こんな歪んだ本性を見せられて、それでも愛が継続、それどころか深まろうというのだから彼も本物である。
「歪んでいるな。本当に歪んでいる」
「ウィリアムだって相当だよ」
そのままきびすを返して家を出ようと――
「動くな。これが最後の警告だ」
ウィリアムは剣を抜いていた。それを走り出そうとするヴィクトーリアの首筋に添える。ヴィルヘルミーナの悲鳴、レオデガーの叫びがこの場にこだました。
「貴様らも騒ぐな。この場は俺に任されている。この家の主であるヴラド伯爵が召使を通して任せるとおっしゃられた。だからこの場は俺が支配する。ゆえに――」
ウィリアムは剣をのど元に突きつけながら、ヴィクトーリアの正面に回る。
「あきらめろ。でなければ貴様を殺す」
ウィリアムの顔には何の感情も浮かんでいない。対するヴィクトーリアは燃える瞳でウィリアムを見つめ返す。ヴィルヘルミーナが飛び掛ろうと動き出すも、テレージアがそれをとどめた。長女だけがわかっていたのだ。これは、二人の問題であると。
「あきらめない」
「ならば死ぬぞ。お前の価値は確かに大きい。大公家とのつながり、なんとしてでも成立させたい縁談だろう。普通なら成り上がりの男爵風情が剣を向けることなど出来ないし、しない」
エルネスタはごくりとのどを鳴らす。普段自分の暮らしている争いのない世界で、まさかこのような光景が生まれるとは思ってもみなかったのだ。
「だが、俺ならば出来る。俺には力がある。ヴラド伯爵を充足させるに足る力が。過分なほどに……力を与えることが出来るのだ。俺は五年もしないうちにこの国の大将になる。十年もしないうちにこの国の武力を支配する。俺の名はアルカディアを超えて、世界に轟くだろう。これより先は戦の時代、乱世だ。俺の価値は時代と共に何処までも昇り続ける。時代が俺を選び、俺こそが時代と成る。そのうち誰もが理解する。俺との繋がりこそが金であり、それ以外は有象無象に過ぎないと」
ウィリアムの言葉をレオデガーは否定できない。それほどに白騎士はこの国で大きな存在になりつつあった。オストベルグのストラクレス、ネーデルクスの青貴子、死神、急伸するアークランド、他にもさまざまな勢力が入り乱れる戦国の世。ここで輝くであろう白騎士は誰よりも重宝されるだろう。実利は優先されるのだ。
「ゆえに、俺はお前を斬れる。数多の首を断ってきた、数多の夢想を絶ってきた。俺ならば!」
ウィリアムの咆哮。周囲を寄せ付けぬ血の臭いがあたりを支配する。常人ならざる道を歩んできた、真の怪物のみがこの雰囲気を身につける。その膨大な殺意の刃が、ただの少女に向けられているのだ。
力を持たない、抗すべき何も持たない少女に――
「斬ったなら、マリアンネを助けてくれますか?」
少女は何も持たない。その身だけが彼女の持つもの。
「何を、言って」
少女はその刃に手を触れる。そしてそれを首の方向に押し込んだ。
「き、さま、ふざけるな!」
ウィリアムは咄嗟に反対側に力を入れた。しかし剣は両刃、引き合う形と成り彼女の手から血がにじんだ。ウィリアムは微妙な力加減に手の震えが止まらない。いや、これは力加減の問題なのだろうか。もっと別の――
「ふざけてないよ。ウィリアムが脅すから私も脅してるだけ」
その笑みに揺らぎはなかった。その顔に迷いはなかった。四肢は死への恐怖からか震えている。それなのに彼女は笑い、真っ直ぐにウィリアムを見つめる。死を目前として、その上で前に進もうと言うのだ。どう考えても狂っている。
「マリアンネを助けてください。それが出来ないなら私を自由にしてください。あの子はきっと怖いよりも悲しいを感じている。誰も来ない状況で、愛のない世界で泣いているかもしれない。私はそれが許せない。あの子はいい子よ。いつか誰かに愛されて、幸せになるべき可愛いマリアンネ。私の大事な大事な、かわいい宝物」
ウィリアムの震えが止まった。ウィリアムはようやく苛立ちの原因を理解した。これは、ウィリアムの失った世界なのだ。最愛を失い、この世に存在しないと思っていた唯一無二の世界。アルとアルレットの構築するアルから見た幻想、もはやアルレットがどう思っていたのかを確認するすべはない。ウィリアムという理性はそれをないと断じる。アルレットも一己の人間。なれば打算があるはず。そう、思っていた。確認できないからこそ、証明のしようがないからこそ――
そう思うことで自らの業を一部正当化できていた。
「手を、離せ……このバカ女が」
そうでなければいけないのだ。ウィリアムは道を逸れてしまった。アルレットを失った喪失感から始まった道。本来復讐にすべてを傾けねばならぬが、ウィリアムはその道で充足できなかった。出来るはずがない。なぜならば知れば知るほどこの世界には愛がなく。あるのは際限のない欲望とそれを求める飽くなき亡者ども。醜悪で強欲、愛など欠片も持たず、全てが利害で証明できる世界。
その世界でウィリアムは勝ち続けてきた。これから先も勝ち続け、常に奪い続ける。奪うモノが無くなるまで、全てを奪い尽くし破壊し切るまで――
その考えが揺らぐ。目の前に愛が現れたのだ。しかもそれは己が例外としている親友たちではない。それどころか因縁ある仇の娘ときたら笑うしかないだろう。目の前の少女にウィリアムは亡き姉の幻影を見る。失った愛の幻想を見てしまう。
「……ウィリアム?」
ヴィクトーリアは手を離した。震えが止まり、硬直しているウィリアムの異変に気づいたのだ。雲散霧消する死の気配、崩れかける業の塔。その高きに君臨する白の王が揺らいでいた。
ウィリアムは剣を地面に落とす。そして手で強く頭をかきむしり、
「亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜ッ!」
思いっきり、力の限り叫んだ。何もかもを吐き出すかのように。腹の底から絞り出した声は他を圧倒した。そしてウィリアムはすべてを吐き出した後、大きく息を吸ってヴィクトーリアを見つめる。
「……良いだろう。認めよう。今日は俺の負けだ」
ウィリアムは思いっきり顔を歪めた。これ以上ないくらい不快げな顔。
「だが、俺はお前を認めない。いつか必ず、必ずや貴様を折ってみせる。この俺の生き方に懸けて、ヴィクトーリア・フォン・ベルンバッハに勝利する!」
ウィリアムは目の前の相手を敵と認めた。超えねばならぬ、ここから先のステージに赴くためには、疑問や懸念を完全に潰していかねばならないのだ。
「じゃあ私はウィリアムに勝ち続けるね。ぜーったいにあきらめない」
ウィリアムは苦笑した。この少女に勝利するにはかなり骨が折れるだろう。何しろ死を前にしても揺らがなかったのだ。まあ肉親であるマリアンネと他人の自分が同列とは思わないが、それにしたって厄介きわまる相手であることは間違いない。
「お前はこの場を動くな。汚れを落としてベッドで寝てろ。そしたら枕元にちびを放り込んでやる。意味はわかるな?」
「うん! ありがとうウィリアム」
満面の笑み。それを見るウィリアムの胸中は、敗北感半分、自身への嘲笑三割、残り二割の思いを、ウィリアムは自覚できなかった。したくなかったと言ってもいい。
「あと、これを拾ったの。場所は南側のちょっと汚い路地裏で。えっと……近くには果物が売ってたよ。赤いりんごがいっぱい」
ヴィクトーリアが懐から小さな靴を取り出す。それはマリアンネが履いていた靴であり、それが落ちていたということは、少なくともその場所を人攫いが通った証拠でもあった。そして南側の貧民街はウィリアムの庭である。その果物屋にはちょっとした因縁があった。よくそこで盗みを働いていただけだが――場所は理解した。
「受け取ろう。皆様には醜態を見せました。謝罪は後日、用向きを終えたらさせていただきます」
ウィリアムはこの場の全員に頭を下げる。見せてはならぬ自分の本性、それを垣間見せてしまった。もはや皮をかぶっても仕方がないが、多少修正を利かせて取り繕う必要もある。現段階で大公家に喧嘩を売ったようなそぶりを見せたのは軽率であった。
「では失礼」
ウィリアムはとうとう動き出してしまった。動くまいと決めていた今回の案件。自分を曲げさせられた大きな屈辱、敗北を喫したに等しい。だが曲げたからには自分の優秀さを示さねばならない。動くからには助けたという実利が要る。意味のない動きを白騎士はしないのだ。
「……絶対に動くなよ」
動き始めたが、馬鹿な少女を信じきれずちょっとだけ振り返る。
「動かないよ。だってウィリアムが約束してくれたもん」
ヴィクトーリアは男を信じ切っていた。先ほどまで自分に刃を向けていた相手を。その底抜けの愚かさがウィリアムにはまぶしく映る。
(約束、か。この不確実な状況で、俺はなんてことを言っちまったんだ。マリアンネが死んでたらどうする? やつらが見つからねばどう言い訳をする?)
頭の中にめぐるのは数多の理屈、理性、冷静なる思考。
「ああ、そうだな。……約束だ。俺を信じろ。必ず連れて帰る」
それら全てを放り出して、ウィリアムは放ってしまった。自分を縛る鎖を。ウィリアムは不確定な約束など滅多にしない。契約をするときは絶対に遂行する目処が立っているとき。今は確かなものなど何もない状況。本来なら絶対に口にしないはずのタイミングで零れた言葉。
「信じられないか?」
「ううん。信じてる」
それでも放ったからには全力を尽くす。この程度の状況も覆せず何が天をつかむ男か。
因果がさらに歪む。本来なら絶対に動かなかったはずのカードが動いた。計算高く利に聡い男が、一銅貨の得にもならない状況で動き出す。
○
ウィリアムは走った。時間は限られている。リミットはわからないが、遅くなればなるほどにマリアンネの生存率は下がっていくだろう。もう死んでしまっていることは考えない。普段のウィリアムならばいの一番に考えてたであろう最悪の可能性。あえて排除して前に進む。今日の己は己にあらず。
「白龍、そこにいるんだろ?」
走りながらウィリアムは建物の影に声をかける。浮かび上がるように現れた暗殺者がウィリアムと並走する形で疾駆した。
「先に言っておくが今回の件は請け負えんぞ。それどころかあのお方は大層立腹なさっている。らしくない行動だな」
ウィリアムは自分を鑑みて自嘲した。
「その通りだ。俺らしさの欠片もない。今日はウィリアム・リウィウスの人生で最悪の日だ。本当に、どうしようもない愚行だよ」
そう言ってウィリアムは白龍から視線を外した。
「確認だけだ。もう消えていいぞ」
白龍はいぶかしげな顔をした。
「闇が貴様の頼みの綱じゃないのか? お前の子飼いの兵士程度じゃ手抜かりどころか最悪の結末に至るぞ。そもそも連中の足取りすら掴めんだろう」
「言われずともそっちは使わん。別の伝手を使うさ」
「別の伝手? そんなもの貴様が持っているわけが――」
ウィリアムは顔を歪める。その顔は苦悩に満ちているようであり、これから起こる事態に胸躍るようであり、もうどうにでもなれと何もかも放り捨てるかのような、そんな貌をしていた。
「絶対に頼るまいと心に決めていたんだがな」
吐き捨てるような言葉に、そこに込められた意図に、白龍はようやく至った。
「貴様、まさか……『猫』を使う気か」
ウィリアムは無言。白龍はそれを肯定と受け取った。
「その選択は王の逆鱗に触れかねんぞ。あのお方は貴様がそちら側へ向かうことを憂慮なされている。わかっているのか? 王を怒らせるというのがどういうことなのか」
ウィリアムとて重々承知している。今の自分が他の者よりも優位を築けているのはニュクスとの関係ゆえ。その大きすぎるアドバンテージこそアルカスにおけるウィリアムの武器であった。
それを失う、敵に回せばウィリアムは容易く沈んでしまうだろう。
「知るか。今日は最悪の日だ。だから多少上塗りしても……大して変わらん」
ウィリアムはさらに速度を上げた。普段鎧を着こんで身軽に動く男が軽装で動き回ることの意味を如何なく発揮する。その速度は、暗殺者の頭目である白龍すら驚くほどの速さであった。
残された白龍は歩みを止めて立ち止まる。
「今まで針の穴を通し続けてきた男がな」
白龍は嘲笑のような、皮肉のような、ほんの少し羨ましそうに口角を歪めた。
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