復讐劇『破』:人攫い

 ヴィクトーリアが去ってすでに一週間が経過していた。その間ウィリアムはほとんど家に帰らず、尋常ならざる働き振りを見せていた。周囲の誰一人がついていけないほどの仕事量。それでいて指示や他者への仕事の割り振りも的確なのだ。戦場で勇名を馳せた男が、まさか王都でより輝きを見せるとは誰が思っただろうか――

「ラコニアへの資材輸送、ようやく目処が立ちました。あわせて北方の内乱もシュルヴィア百人隊長が赴き未然に防いだ形となり、これで目下、大きな問題はそれなりに見通しが立ったかと」

「これで春先まで安泰ですね。冬季のうちにラコニアの強化をオストベルグ側だけでも進めておけばそれだけで大きなアドバンテージになる」

 部下たちの言葉にウィリアムが反応する。

「引き続き警戒を怠るな。冬季だからといって敵国が攻め込んでこないとも限らない。その不文律はそれを打ち立てたはずの超大国ガリアスが自ら破ったのだ。まあヤン軍団長、おっと今は特例で準大将閣下だったな、彼が守っている以上抜かりはないだろうが」

 部下たちが一斉に押し黙る。

 そう、ガリアスを筆頭に七王国や他の国々が百年以上前に作り上げたルールのひとつが冬季不可侵であった。他にもさまざまなルールがあり、四年に一度各国持ち回りで行われる王会議にて制定される。それを破らば七王国を、大陸すべてを敵に回すことになる、ゆえに誰もがこれらのルールを守っていたのだ。

「必要ならばこちらもルールを破る。それくらいの気構えは要るってことだな。まあ破った代償は高くついたみたいだがな」

 サンバルトを乗っ取ったアークランドに攻め入った際、総大将を務めていたのはガリアスが誇る百将の中でも上位の一人『王の鎧』と謳われたアドリアン。彼は敗戦後何とか生きて帰ったものの、敗戦どころか冬季に『無断』で攻め入った罪を咎められ斬首されている。建前としてはアドリアンの暴走という体で片付けられたのだ。しかしアドリアンは他国にも名が轟いている名将にして忠臣、王命なくばそのような行為に及ぶはずもなく、ガリアス本国が本気でアークランドを潰そうと考えていたのだろうことがわかる。

「ルールは破っていい。しかしリスクと秤にかけろ。そうすれば結果はどうあれ自分の中で納得は出来るだろうさ」

 これはウィリアム自身にも言い聞かせた言葉であった。ウィリアムはある程度ルールのぎりぎりを歩いてきた男である。時にはそれをまたいだこともあった。結果は今のところ上々、しかしルールを破るということは直近だけの影響にとどまらない。今はまだ成功と呼べる、さりとてこの先それが足かせにならないとも限らないのだ。

「とにかくひと段落だ。俺は一時帰宅する。何かあればユリアンを走らせろ」

 仮眠のためこの場にいないユリアンにまたしても微妙な仕事が押し付けられた。出自も頭の出来も武芸も微妙なユリアンであったが、こういう使いっぱしりとしては重宝されていた。何事も適材適所、使えない人材などないのだ。

「お疲れ様です、ウィリアム様」

「ああ、お疲れ様。お前たちも区切りをつけたら休め」

 ウィリアムは喧騒の場を抜けて、誰も待つ者のいない静寂の場へ赴く。


     ○


「にいちゃんみっけ!」

 静寂の場であったはずの自身の邸宅は、一人の小さな怪物に占拠されていた。

「どうして俺が帰ってくることを?」

「毎日きてた」

「え?」

 ウィリアムが正気を取り戻して周囲をうかがう。部屋は荒らされており、自分のものでない人形など小さな怪物の持ち物がちらほら、持参してきたのであろうお菓子類も置いてある。確かに一朝一夕の仕業ではない。

「にいちゃんにものもうします」

「あ、ああ。べつにかまわ、構いませんが」

 小さな怪物、マリアンネはウィリアムが来た瞬間喜色を浮かべていたが、急に真剣な顔を作ってウィリアムをにらみつける。出来れば早く寝たいウィリアムとしては最大の難関であった。

「ヴィクトーリアをいじめた?」

 ウィリアムの頬がぴくりと跳ねる。いじめたわけではないが良好な関係ではない。別れ際のことを考えないよう仕事に忙殺されていたというのに台無しである。

「ヴィクトーリアは、今どうしているのかな?」

 一応気を使っている様子を見せるウィリアム。気になっているわけではない。

「ねて、おきて、お菓子つくって、マリアンネと遊んで、ねてる」

(すげえ普段通りじゃねえかあのくそアマァ)

 ウィリアムはなぜか濁流のように湧き出してくる怒りに飲み込まれていた。一応これでも最後が最後だけに引っかかりはあったのだ。もちろん今後のベルンバッハとの関係にとってどうなるかということで、本人に対し何か思うところがあるわけではないが。

「でも、たまにしゅんとしてる。だからマリアンネはものもうしにきました。ひまなときに」

 おそらくマリアンネは毎日暇なのだろう。姉の目を盗んでは来ていたに違いない。そうでなければこれほど我が物顔で他人の家を占拠できるわけがないのだ。暇であっても普通ならこうはならないのだろうが――

「確かに、俺とヴィクトーリアにちょっとしたすれ違いがあったのは事実だ。でも普段通りに過ごしているんだろう? ならそこまで気にしなくてもいいよ。時間が解決してくれる」

 我ながらひどい回答だと思うが、ウィリアムは早々に睡眠をとり、早急に王宮へ戻る必要がある。大物がひと段落ついたということは、ようやく小物に取り掛かれるということ。仕事がなくなることはないのだ。

「でも、お菓子に塩をいれてたよ?」

「よくあることじゃないか」

「お菓子のときはなかったもん!」

 マリアンネはじっとウィリアムをにらむ。ウィリアムは視線に耐え切れず視線をそらした。涙目になりながらもウィリアムを問い質す。いくら多少仲がよくてもあくまでヴィクトーリアを通した関係でしかない。そういった相手にこうやって喰らいついてくるのは、ウィリアムの想像以上にマリアンネの信頼を勝ち得ていたか、ヴィクトーリアという姉への愛が強いか、はたまた両方か――

「時間が作れたら会いに行くよ」

「いつ!?」

「いや、いつとは明言できないけど……今は忙しいんだ」

 マリアンネはぎゅっとスカートのすそを握り締める。

「いつも、大人はそうやってにげるんだ」

 ぼそりとつぶやかれたマリアンネの言葉がウィリアムに刺さる。自覚はあった。結局のところウィリアムからヴィクトーリアに会いに行く理由がないのだ。損得の世界では。会いに行くとすれば己の信条が揺らぐ。彼女は外側の人間、ブレるわけにはいかない。

「にいちゃんのばか!」

 てててと姉に似た動きで走り去るマリアンネ。その後姿があまりにも『彼女』に似すぎていて、ウィリアムは手を伸ばしかけた。その行動に気づきウィリアムは手を引っ込める。

(バカか、俺は)

 自嘲するウィリアム。最近の己はブレ過ぎている。それを痛感してしまうような行為。引き止めて、会いに行って、それで自分に何が出来るというのか。どんな言葉を発することが出来るというのか。

「……寝るか」

 幾度もこの家に一人で訪れているマリアンネならば帰りも大丈夫だろう。決して送った際にヴィクトーリアと会うことを恐れているわけではない。気まずい状態に気後れしているわけではない。自分はそこまでおかしくなっていない。

 ウィリアムは、そう自分に言い聞かせていた。


     ○


 マリアンネはとぼとぼと帰路についていた。時折後ろに振り向くも追いかけてくる気配はない。そのことでさらにしょんぼりするマリアンネ。大好きな姉のための行動であったが、マリアンネとしてもなんだかんだで構ってくれるウィリアムが好きだったのだ。たいていの大人があしらうだけで済ませるようなことを、ウィリアムはそれよりも半歩程度踏み込んで接してくれていたから。

 きっと根っこは優しいのだ。そう、思っていたのだ。

「おとーさまとかわらない。にいちゃんなんてきらいだ」

 マリアンネは末っ子でありエルネスタや何人かの姉と同じく正妻の娘ではない。そして、愛する妻を失う前のヴラドを知らないのだ。知っているのは娘を政略の道具としか思っていない欲望の怪物。愛などなく、愛情の欠片すら注いでもらったことはない。それはエルネスタも、契機となったヴィクトーリアについても同じである。

「お嬢さん、少しお尋ねしたいのだが」

「いまいそがしいからごめんなさい」

 目を伏せていたマリアンネは知ることすらなかった。男が一人ではなかったことを。男たちが貴族街にいてもおかしくない商人のような格好で、人相がつかみづらい帽子を全員が被っていることに。そしてたくさんの袋が敷き詰められている荷馬車――

「謝るのはこっちの方さ」

 男は手刀でマリアンネを気絶させた。あまりの手際のよさ、動きの自然さに注視している仲間ですら、人攫いの現場だと思えなかった。いわんや周囲のものがそれを解することもない。そっと荷馬車の陰で気絶したマリアンネを袋につめて、何食わぬ顔で荷馬車を走らせる。

「旦那ほどの使い手が、どうして直接ヴラドを殺しに行かなかったんで?」

 仲間がぼそりと問う。先ほどマリアンネを寝かしつけた男は苦笑いをして、

「殺しに行ったさ。そして返り討ちにあった」

 男は服をまくる。そこにあった傷を見て全員が絶句した。

「普段やつは滅多なことがない限りあの使用人をつけている。離している時は自分の安全がある程度担保されているとき、だ。俺も昔は戦場で鳴らした軍人だった。百人隊長の首を取ったこともある。それでも、あの使用人、ヘルガには勝てる気がしなかった。逃げ延びられたのはすぐ近くにまばらだが人通りのある通りがあったこと、やつが人目を嫌ったこと、それだけだ」

 腹の傷はおぞましい状態であった。肉が引きちぎられたのか異様にくぼんだ傷跡を、焼いて出血を止めたのだろう酷い火傷が覆っていた。そういう処置をせねば死んでいた大傷。どういう攻撃を喰らえばこうなるのか見当もつかない。

「な、なるほどな。得心がいったぜ」

「もしやつがヘルガを引き連れてやってきたら、俺が何とか止めてみせる。その隙にヴラドを殺せ。何分も止められるとは言わんが、十秒程度なら止めてみせる」

 彼ら全員が復讐をした後に生き延びる気はない。この道を選んだ時点で死ぬ覚悟は出来ている。あとはヴラドを引きずり出すだけ、もう後には引けないのだ。

 彼らは知らなかったヴラドの娘が複数人あの屋敷に出入りしていることを。彼らは確認を怠った。対象の娘の年齢や人相を。身なりに気を使った男もまたその点に気が回らなかった。こうして因果は思わぬほうに歪んだのだ。


     ○


 ウィリアムが目を覚ました時、すでに日は傾きかけ赤い空が天を覆っていた。ウィリアムはぐっと背を伸ばし眠気を払った。体の調子はいい、目覚めとしては良い部類に入るだろう。ウィリアムは先に夜の分の修練をしてしまおうかと考えて、軽装に着替えて庭に向かう。本当ならばカイルと稽古をしたいところだが、まだ世情が予断を許さぬゆえそこまでの余裕はなかった。

 軽い稽古を終える。顔を洗い布で水をぬぐった。

「少しなまったか? 最近しっかりと時間が取れていないからな」

 ウィリアムは朝夕の鍛錬を欠かしたことがない。この忙しい状況においても質や量はさておいて一日二度かかさず続けている。とはいえそれ以外も戦場を駆け回っていた時期に比べるとあまりに不足している。

「肉体的にはとっくにピーク、後は精神の問題ってところまで来たのに、肉体が落ちてきたんじゃ笑い話にもならん」

 ウィリアムは自分の肉体の限界に気づいていた。とうの昔に限界に達している。そこからの伸びは精神面での成長、これ以上を望むならば肉体の安全を度外視せねばならない。

(一度俺は『それ』を経験している。あの頃の俺はあまりに未完成だったし、あの男にすら届いていなかった。だが、あの時ほど精神的な意味で力を引き出せた状態はない)

 あの時は『自分』に飲まれていた。理想と現実のギャップで心が折れかかった弱き己。大将軍ストラクレスというあまりに遠い存在を見てしまった、知ってしまった。それにより理性を見失い、己の本質をさらけ出した愚挙。しかしそれゆえに引き出せた限界の先――

(肉体的に充実した今、目指すべきはあの状態、それを超える更なる高みだ)

 肉体の、精神の、リミッターを外していく作業。まかり間違えば体を、心を壊してしまう。万全の先への挑戦、とうとうここまで来たのだ。長き修練の果て、研鑽の果てに、やせっぽっちの少年はここまで成長した。

(普通の戦場での経験は十分に積んだ。これからの俺に必要なのは巨星や大将クラスの化け物との戦場だけ、それ以外から学ぶことはない)

 ある意味で今回の人事は好都合であった。ウィリアムは戦場から離れるが、同時に大きな戦場には容易く駆けつけられる状況を手に入れていたのだ。王都はアルカディアの中心、ラコニアで戦が起きればそちらへ向かえばいい。ブラウスタットで戦が起きても向かうことが出来る。戦場を選べる立場になっていたのだ。

「さて、王宮に向かうか」

 ウィリアムは白騎士のイメージに沿った服装をいつも着用している。これらはすべてルトガルドが見繕ったものであった。戦場の鎧姿も、宮中での正装も、稽古などで用いる軽装でさえ、イメージを統一してあるのだ。それらはすべて白騎士というブランド作りのため、長き時を見据えた戦略である。

 とにもかくにもウィリアムは比較的正装に近い軽装を選択。王宮とはいえ向かう先は仕事場でしかない。別に改まって行く様なところでもなかった。

 さっさと着替えて外に向かう。外にはユリアンに時間指定で寄越させてある馬車がある。それに乗り込みまた喧騒の世界に身をやつす。さすがに今回は一週間も帰らないことはないだろうが――

「ウィリアム・リウィウス!」

 ウィリアムがユリアンに用意させていた馬車に乗り込もうとしている最中、ウィリアムの予期せぬ人物がウィリアムを呼び止めた。

「マリアンネがさらわれたのよ。何か、知ってること、ない?」

 息を切らせているのは走ってきたからなのか、ヴィルヘルミーナ・フォン・ベルンバッハが現れた。同時に衝撃の言葉を告げる。

 ウィリアムは馬車に乗せていた足を止め硬直した。

「たまに、こっちに来てたって、ヘルガが言ってて、もしかしたら、って」

「……昼前に、此処に来ていました」

 ヴィルヘルミーナは大きく目を開ける。そのままウィリアムのズボンのすそを掴んだ。ぎゅっと、震える手で、

「どうして、どうして一人で帰したの!?」

「…………」

 ウィリアムは答えられない。此処は貴族街のはずれだが、腐っても貴族街である。貴族の子弟が歩いていても特に問題はない。そもそもマリアンネはよく一人で歩き回っていたようだし、今までも一人でこの家までやってきていた。なぜと問われればそう返すしかない。そしてそう返しても無駄なのは双方がわかっていることである。

「状況を教えてください。まずは馬車へ」

 そう言ってヴィルヘルミーナに手を差し出す。ヴィルヘルミーナも口から出そうになった言い訳、弱音を退けて、ウィリアムの手をとった。

「御者、行き先を変更する。ベルンバッハ邸へ向かえ」

 因果の揺らぎは彼らにどういった過程を、結末を与えるのだろうか。

 今はただ駆け抜けるのみ。


     ○



「なるほど、状況は理解しました」

 ウィリアムは難しい顔をしていた。話を聞けば聞くほどに深まる眉間のしわ、何かを言いたそうな、言い辛そうな顔をしていた。

「……ヴラド伯はどういうご判断をなされましたか?」

 ヴィルヘルミーナの顔がさっと曇る。それを見てウィリアムは状況の全貌を理解した。

「今、巷で話題になっているヴィクトーリア様を誘拐、身代金の要求。ここまではわかります。大公家に嫁ぐ可能性を考えれば迷う必要なく払えばいい。しかし、そこで対象を取り違えてマリアンネ様をさらってしまった。ここで問題がややこしくなってしまう」

 ウィリアムはあえて口に出すことにした。黙っていてもベルンバッハ邸につけばいやでもわかってしまうこと、そこで切り出すのでは遅すぎる。

「ヴィクトーリア様の価値とマリアンネ様の価値は等価ではない。まだ社交の場にも出ていない御息女、貴族的にはないものという判断もできます。大公家との婚礼が決まるかもしれない微妙な時期に、問題を抱えたくないとヴラド伯が切り捨てることも、理解はできます」

 ヴィルヘルミーナがウィリアムをキッとにらむ。きつい視線であったが同時に弱さも感じられた。強そうに見せているが内心弱気なのだろう。金や家の面子が絡む以上、ここから先は男の論理で構築された世界なのだ。この世界、この時代においては。

「もちろん、私もマリアンネ様とは知らぬ仲ではありません。出来る限りの協力はしましょう。さすがに軍を動かすなど公的な力は使えませんが、私個人の協力ならば」

 ウィリアムは申し訳程度の協力を告げる。これは暗に全面的な協力は出来ないと言っていた。そのニュアンスがヴィルヘルミーナならば通じるとウィリアムは判断したのだ。案の定ヴィルヘルミーナは渇いた笑みを浮かべて「ありがとう」とこぼす。これでマリアンネの命運は決した。

「……ねえ、あの子たちと私たち、母親が違うって知ってる?」

 唐突な言葉。ウィリアムはヴィクトーリアから一度聞かされていたので頷く。

「そう、じゃあこういうのも知ってる? ヴィクトーリアから下の子は、父親も違うって」

 ウィリアムは目を見開いた。そんなことは聞いたことがない。本当であれば大問題である。

「血とかそういう問題じゃないわよ。でも、ある意味で、だからこそかわいそうなのだけれど。ヴィクトーリアが生まれてから、私たちの母親、つまりヴラドの正妻だった人の体調が悪くなったの……それでも笑顔を絶やさない、すごい人だった。みんなの憧れで、綺麗で、美しくて、みんなが好きだった人。その人が死んで、あの男は変わった。父親として、人間として、変わってしまったのよ。昔は優しい良い父親だった気もするけどね。遠い過去の話だけど」

 ヴィルヘルミーナの顔に憎悪が浮かんでいた。ウィリアムはあの男にもそんな時代があったことに内心驚いていた。同じ血であっても、同一人物であっても、喪失前と喪失後では人間が違う。どこかで、聞いたような話である。

 どこにでも転がっているつまらない話。それで罪が消える道理はないのだから。

「ヴラド伯爵の悪癖、貴方は知ってる?」

 ウィリアムは少し迷ってから頷く。首を振るべきかと思ったが、宮中にいればいやでも耳に入ってくる情報の一つ、最近なりを潜めているが、昔はだいぶ派手に壊していたらしい。奴隷の女であったり、農民の娘であったり――

「そりゃ知ってるわよね。でも、今もやってるって知らないでしょ? あれは隠すのがうまくなっただけよ。多少おとなしくはなったけど……あとは別のことで発散できるようになったから、かな? 権力を見出す前のヴラドは酷かったわ。肉親でも容赦なく巻き込んで……本当に許せない」

 ヴィルヘルミーナの憤怒は尋常ではなかった。話のつながりは良く見えないが、静聴するに越したことはないだろう。この怒りが自分に向いたらなかなか怖いものがある。

「テレージアお姉さまが一番被害をこうむっていたわ。二番目のお姉さまは未だにあの男と目が合わせられないそうよ。あの男は娘のことなんて愛していなかった。もう誰も愛していない。権力だけを愛している哀れな男。ねえ、貴方は、どう思う?」

 ウィリアムは即答できない。ヴラドの悪癖なぞある意味で一番よく知っている。生きている分、テレージアなどは楽なものだっただろう。もちろん貴族の娘としてはあまりに過酷な出来事だっただろうが。そういうことではなく、この場でどう明言すべきか、どう発言するのが正解なのかがわからない。理屈なら即答できる。しかし彼女たち女性という生き物はどうにも理屈だけで動いてくれないのだ。

「……発言に詰まるところが男って感じ。だから嫌いなのよ。なんで思ったことをそのまま言えないの? ありのままで何がいけないの?」

 ウィリアムは難しい顔をする。ありのままで語ることなど『ウィリアム』という男ができるはずがない。全て本音で話せる間柄など内側でさえありえないのだ。ヴィルヘルミーナだって嘘の一つや二つくらいつくだろう。ありのままを見せるというのは彼女の考えるほど生半可なことではない。

(自分のすべてをさらけ出す、か。そこまで強い心を持っていたら、こんな生き方を選択してはいないさ)

 やましいから隠す。弱いから隠す。本当の強者であれば隠す必要はない。未だ自分は弱いから隠す必要があるのだ。世の中嘘であふれている。皆が皆、弱いからだ。それをウィリアムは否定しない。弱いなりの生き方がある、自分が一番それを知っているから。彼女の言っていることは暴論であり感情論でしかない。彼女の聞きたい言葉は本音ではなく、彼女の望む言葉でしかないのだから――

(あんたの言葉には嘘がないか? あんたたちの関係に嘘がないと絶対に言いきれるか? 貴族と言う虚飾がもてはやされる世界に住まいながら、お前たちは嘘を嫌う。貴族の、その身勝手さが嫌いだ。嘘を利用して君臨しているくせに。俺から見ればこの世界なんて全てが嘘の塊だ。絶対の関係なんて……ありえないんだよ)

 ウィリアムは自身の手を見つめる。そこにあるのは昔のようにぷにぷにした、優しさや愛情、希望を掴み取れるような手ではない。指先の造詣こそしなやかであるが、手のひらはごつごつとしており嗅ぐものが嗅げば血の臭いすらするだろう。この手を持つものが絶対を口にして良いはずがない。内側であるカイルたちでさえ、絶対に守るとはいえないのだから。

「答えられない?」

「質問の意図が理解できません」

「そう、そうね、その通りだわ」

 そう言ってヴィルヘルミーナは押し黙った。あきらめのような表情を浮かべて。ウィリアムもまた口をつぐむ。この件はマリアンネを見捨てて終わる。そう決まっているのだから。はじめから、人質を取り違えた時点で。

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