復讐劇『破』:激務と別離、そして暗雲

 ウィリアムは業務に忙殺されていた。続々と入ってくる新情報、サンバルトを蹂躙したアポロニアはその同盟国であるガリアスと交戦、冬季でありながら異例の開戦に世界が驚いた。その戦にアポロニアは勝利し、超大国ガリアスの顔に泥を塗るという幕切れ。もはや驚くこともない。アポロニアはそういう次元の化け物であった。それだけのこと。

「しばらくはガリアスもサンバルト、否、アークランド対策に追われるだろう。サンバルト軍は、海軍だけは七王国でも上位、ガリアスとて容易く抜ける相手ではない。陸ならば山脈を越えるか狭い峡谷での戦い……これはアポロニアの領域だ」

 サンバルトで起きた出来事がアルカディアに波及するのは遅いはず。そう思って貴族会などはのんびりとしたものだが、軍部はそうもいかない。ガリアスがアークランドに手一杯となればオストベルグが空く、つまりラコニアの再興を急がねばならないのだ。それにオストベルグが動けばネーデルクスも攻めてくるだろう。エスタードの動き次第では両方の主力と戦う羽目になる。

「急ぎラコニアに資材を送れ。雪の中での移送は高くつく? 馬鹿が、金などいくらでも出してやれ。前と同じじゃ駄目なんだよ。前よりも強い要塞に仕上げねばならない。何人凍死者を出そうが知ったことか。この状況、時は何よりも優先される」

 逐一命令とバルディアスから与えられた権限を駆使して承認を繰り返す。第二軍の動き全体をウィリアムが頭として制御せねばならないのだ。それに加え――

「用意していた資材が第三軍、および第一軍に接収されました!」

「随分と舐めた真似をしてくれるな。風前の灯でしかない三軍風情が。……追及は後回しだ。時間がもったいない。他から手を回せ。第一軍には俺が話をつける」

 各軍との調整がある。ブラウスタットも可及的速やかにルーリャ川を横断できる大橋の建造が急がれている。第一軍と第二軍がぶつかるのは理解できる。急いでいるのは双方同じなのだ。しかし第三軍は違う。今の第三軍はカスパルを失って存続の危機にある。廃止の方向で進めたい第二軍と歴史ある自分たちを守ろうとする第三軍。この件で第三軍は第一軍に恩を売りたいのだろう。味方とするために。

「時間は有限だ。各自最善を尽くせ!」

 ウィリアムの檄が現場を木霊する。エルネスタの誕生日パーティから三日、ウィリアムは一度として帰宅せず、そもそも寝てすらいなかった。


     ○


 ウィリアムは移動中の馬車で仮眠を取り、自身の商会に降り立った。アインハルトが不在である以上、自分が舵をとらねばならない。ディートヴァルトたちは優秀な商人だが、好き勝手やらせられるほどの信頼は双方ともにない。放っておけば商会が乗っ取られる可能性すらある。

「……凄い顔じゃな」

 ディートヴァルトが驚くほどウィリアムの顔はやつれていた。

「仕事を持ってきた。軍備の増強が確定してな。俺が差配できる部分はすべてこの商会を通す。国内で用意できぬならば国外から入手しろ」

「今は冬だぞ。そんな簡単に輸出入できる状況じゃ――」

「出来る出来ないじゃない。やれ。ただし他の五商会には絶対仕事を振るな」

「無茶苦茶な……わかった。やればいいんだろ。何とか用意してみせる」

 途端に忙しく動き出すリウィウス商会。大きな仕事である。これを乗り切ればある程度実績ができる。一滴もこぼさず仕事をこなせば他の商会が押さえている鉄も多少はこちらへ流れてくるだろう。必要なのは勝利、それだけである。

「オーダーは承った。後のことは俺たちに任せろ。何、変な気を起こせるほどの余裕は今の俺たちにはない。そして今の貴方がこの場で出来ることもない」

 ヴィーラントの言葉にウィリアムは頭を下げた。そのままふらふらと外に向かう。彼を襲っているのは睡魔か、そんなものを超越した何かか。

「酷い状況だ。手を広げすぎでは?」

 ジギスヴァルトはウィリアムがいなくなった後、やれやれと頭を振る。

「いや、此処が勝負どころなのじゃろう。此処で勝ち切れば先が見えてくる。負ければそれまでよ。無論あやつ一人ではないぞ、我ら全員が勝ち切って初めて勝利じゃて」

 遠く北方にいるアインハルト、この国の中枢であるアルカスにいる四人、全員が勝ち切ることが勝利の条件。分が悪いなどと言う状況ではない。

「さて、わしらは何処までいけるのかのぉ」

 ディートヴァルトは笑みを浮かべる。その笑みの若々しさは老獪な重みには欠けるが、年齢を超越した若々しい挑戦的な炎を宿していた。他の二人もまた同じ炎を宿す。

 勝てば存続、負ければ消滅。スリル満点の綱渡りが続く。


     ○


 ウィリアムは三日ぶりに自身の家に戻った。目的は睡眠をとること。それを果たせば現在進行形で降り積もっているであろう、仕事をこなすために王宮へと戻る必要がある。心身ともにやつれ果てているが、すべてこなさねば王国の危機、ひいては己が積み上げてきた立場も危うくなってしまう。

 玄関の前まで到達して初めて、ウィリアムは門や扉に鍵がかかっていないことに気付いた。そこに一抹の驚きを浮かべる。とっくにこの家は無人になっていると思っていたのだ。

 扉を開けるとそこには――

「おかえりなさいませ」

 いつものようにヴィクトーリアがそこにいて笑っていた。いつもより弱弱しい笑みではあるが、あれだけのことがあって一人三日も残っていたのは想定外である。

「……てっきり一度お帰りになったものと思っていました」

 ウィリアムが正直な感想を述べる。

「えへへ。少し、お話したいことがあって……お休みになられた後、少し時間を頂けますか?」

 ヴィクトーリアの申し出、ウィリアムの予定に空きはない。だが、ヴィクトーリアの気配にただならぬものを感じたウィリアムはしばし考え――

「今すぐに話せるのならば」

「ありがとう、ウィリアム」

 満身創痍の体に活を入れる。必要なのは思考である。ヴラドがどんな結果をはじき出したかはわからないが、その答え如何によっては己が身の振り方も変わってくる。ウィリアムの思考の中ではレオデガーにヴィクトーリア、エルネスタあたりを自分へというのが自然な流れだと考えていた。

「疲れてる?」

「そちらもかなり顔色が悪い。寝ていないのですか?」

「寝てるよ。むー、ちょっと他人行儀じゃない?」

 おそらく嘘である。そんなこと顔を見ればわかる。彼女の目の下の隈が雄弁に語っているのだ。

「そういうお話を、今からすると思っていますので」

「……そうだね」

 二人は貴族の住まいとしては小さな庭の中にある小さな池の前に並んだ。まるでおもちゃのような庭、そのまま二人の関係を表している。どうしようもなく、気持ちや周りだけが先行した関係。

「ヴラド伯爵から何を言い渡されました?」

「なんにも。だってレオデガーさんが時間を下さいって言ってたし、お父様にどんな考えがあっても、今は動かないし動けないと思う」

 ウィリアムにとって意外な答え。てっきりヴラドの差し金で不承不承話をする形だと思っていたのだ。そうでないのならば――

(心変わりか? 確かにいい男だったし、金も地位もあるだろう。そういうことなら話は早い。そして何よりもわかりやすい)

 ヴィクトーリアの心変わりであるとウィリアムは読む。そうであるならばウィリアムとしても気が楽なのだ。こちら都合で追い出すのは論外として、外的要因よりも内的要因の方がヴラドへの貸しになる。一応こちらの面子に泥を塗られる形となり、自らは何もしないで良い分、非常に助かるというのが本音。

「ならばどういったお話ですか?」

 ヴィクトーリアは顔を伏せている。揺らいでいる水面の反射ごしだから歪んで見えるのか、それとも何か別の要因があって――

「初めて、好きって言ってくれた」

 ウィリアムの想定を大きく外れた発言。一瞬聞き間違いだと勘ぐってしまう。

「愛しているって、言ってくれた」

 ウィリアムは頭をかく。あんな方便を真に受けて無駄話をしようとしているのかとあきれてしまったのだ。あまりにもお花畑、自分とは生き方が違い過ぎてかみ合わない。

「ええ、もちろん。愛していなければ女性と居を共にしたりはしません」

 ウィリアムは馬鹿らしくなっていた。レオデガーが好きになりました。自分にとって好都合ゆえによし。ヴラドに言われてレオデガーのもとに嫁ぎます。想定のど真ん中、わかりやすくていい。そうではなく、あのような場での方便を真に受けて愛を確信しました。薄っぺらすぎて反吐が出る。

「また言った。……ねえ、私ってそんなに馬鹿に見えるかな?」

「え?」

 ウィリアムは、ヴィクトーリアの顔を見ていなかった。先程からずっと、あえてそうしていたのか、無意識にそうしていたのか、誰もわからない。それでも事実として目をそらしていたのだ。ヴィクトーリアという人の顔から――

「ウィリアムが私を好きじゃないって知ってるよ。ウィリアムがお父様の機嫌を損ねないために私を丁寧に扱ってくれているのも知ってる。無理やり押し入って、苛立ってたのも知ってる。私の好きが、迷惑だってことも知ってた」

 ウィリアムは、ここに来て初めてヴィクトーリアの顔を見た。その顔に映っている虚無めいた笑み、からっぽの、渇いた笑みを見て、ウィリアムは理解した。自分が大きく誤ったことを。

「でも、あの夜、手を繋いでくれたこととか、最近少しずつだけど近づけているような気がしてた。勇気をもって呼び捨てにしたり、ずっと玄関で待ってて、少しでも会う回数を増やして、ほんの少しだけ前進したかな……って」

 ウィリアムは最近の自分を鑑みる。確かに、無意識下でウィリアムからヴィクトーリアへの遠慮は消えていた。無論、それは遠慮をする意味がない、相手のことを軽んじてそうなっただけ、そのはずである。

「私の好きも、意味があったのかなって、毎日すごく楽しくて――」

 ヴィクトーリアの顔が歪む。笑顔を、保てなくなって、隠していた顔が浮かんでくる。

「――だから、油断してたの。少し近づけたと思って、忘れてた。ウィリアムがこれっぽっちも私を好きじゃなくて、わかってたはずなのに、全然近づけてなくて、最初に会った日から、一歩も」

 声が、震えていた。涙が、零れ落ちていた。

「あの、愛している、は、すごく痛かったの。他にどんなことを言われてもいい。馬鹿でも間抜けでも、うるさいでもなんでも……嫌いって言われても、むしろ嫌いだったら喜んじゃうかも……だって、無関心からは進歩したってことだから」

 いつも笑っていた人間の泣き顔はこれほど強力なものなのかとウィリアムは慄いていた。ウィリアムの生涯でこういう涙は初めてであったのだ。根源がマイナス方向の涙はいくらでも見てきた。それを踏みにじりここまで来た。だが、こういう、愛情というものが根源である涙はどうすればいいのだろう。

 ウィリアムは戸惑う。

「痛くて、今、うまく笑えない。こんな顔してるお嫁さんは駄目だよね。いつだって笑ってないと、みんなを明るくしないと、お母さんみたいになれない」

 ヴィクトーリアは涙をぬぐう。

 そしてへたくそな、あまりにもへたくそな笑みを浮かべて――

「だから一度帰ります。わがままでごめんなさい」

 ぺこりと頭を下げる。それをウィリアムは見下ろすことしかできないでいた。

「笑えるようになったら、また会いに来ます。その時は、貴方の声が聞こえたら、どんな声でもいい、本当の声が聞こえたら……ううん、頑張りますね」

 今できる精一杯の笑み。その歪んだ笑みを見てウィリアムは声を発することができないでいた。いつもならよく回るはずの口もまったく動いてくれない。そもそも動いたところで何ができるというのか。己は何をしようと考えているのか。

「すいません。自分のことでお時間を取らせてしまって」

「いや、構わない。送ろうか?」

「大丈夫です。最近運動不足なので歩いて戻ります」

「そうか、気を付けて」

「はい! ウィリアムもゆっくり休んでくださいね」

 何も、出てこない。何を出したらいいのかわからない。これほど解決法が見出せないのは初めての経験であった。どんな相手でも口で言いくるめてきた男が、口で駄目ならば実力行使で解決してきた男が、すべてを解決してきた男が――

 てててと走り去っていく背を、見つめ続けることしかできなかった。


     ○


 久方ぶりの睡眠を終え、居間の扉を開ける。普段なら黙っていても騒がしいはずの場所は、物音一つしない静けさの空間に様変わりしていた。本来なら静寂を好むはずのウィリアム。しかしその顔に笑みはない。むしろ――

 一人身支度をしてウィリアムは静寂の世界から飛び出した。


     ○


 薄暗い路地の一角に目立たない家屋が存在した。そこは現在空家であり、立地の悪さと建屋が汚いことも相まって一向に売れる気配すらなかった。そもそも持ち主が判然とせず、ここが貧民街ということもあり国も積極的には関与しない。そしてとある噂もあって浮浪者すら寄り付かない空間と化していた。

「これがヴラド伯爵のやり口だ。俺ァよく知ってるんでね」

 その空家の地下、誰もいないであろう場所に数人の男がいた。一人は多少身なりに気を使った、しかし顔から下卑た雰囲気の出ている男。他の数名は着ているものこそ襤褸だが眼光は鋭く、その目に浮かぶ熱は今にもはち切れそうなほどであった。

「あんたも関与していたのか?」

 身なりに気を使った男はあわてて首を振る。

「俺は知らねえよ。そういうことをしていると知ったのも最近だし、だからこうしてあんたたちに教えてやろうって思ったんじゃないか。疑われるのは心外だぜ」

 男たちは一応納得したのか、向けていた殺気を収める。それを感じたのか感じ取れなかったのかわからないが、小奇麗な男は一息ついて周囲に目を向けた。

「いいか、ヴラドは今有頂天だ。自慢の娘がとうとう大公家にまでお声がかかったらしい。うまくすりゃ娘が大公夫人、王族の血脈に混じれるって寸法よ。そういう状況だからこそ、娘を拉致する意味がある。その娘を拉致すりゃヴラドはたやすく引きずり出せるからな」

 下卑た顔がさらに歪む。

「計画はこうだ。リウィウスの屋敷から出てきた金持ちっぽい娘を捕まえる。捕らえてここに監禁して伯爵家に手紙を送る。娘を返してほしければ本人が金を持って指定の場所に来いってな。後はのこのこやってきた伯爵を捕らえて、煮るなり焼くなり好きにすりゃいいのさ」

 下卑た顔をした男を除いた全員の目が暗く輝いた。彼らは肌の色や髪の色が異なったり出自もまちまちである。一見して共通項が無いように見えるが、彼らにはある共通項があったのだ。

「お前が何者で、どんな意図があるのかはわからない。知りたいとも思わん。俺たちにとって重要なのは……愛する妻を、娘を奪ったあの憎き男を殺せるかどうか、だ。その作戦で本当にヴラドを引きずり出せるのか?」

 それは復讐者であること、彼らはヴラドの悪癖により家族を奪われた男たちであった。

「成功すれば引きずり出せるさ。昔は厄介者だったあの娘も今じゃ金の卵、金で換えられない価値を持っている。金で済むならいくらでも払うだろうよ」

「なるほどな。いいだろう、お前の話に乗ってやる。みなはどうだ?」

 全員が賛同する意を発した。これで計画は動き出す。

 すべての因果はめぐる。そして大抵のものは予期せぬ形として現れるのだ。

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