巨星対新星:騎士の覚悟
ユリシーズは三人に唆されたとおり単身『黒の傭兵団』の根城に突っ込んだ。何人かを剣の腹で打ち倒し、集団の中心に躍り出るユリシーズ。突然の闖入者に驚くものもいるが、大半は酒を飲みながら「またか」とばかりにニヤニヤしている。
「腕試しであります」
単刀直入。その大胆不敵さに「ほう」と声を上げるものもいた。
「よーし坊主、俺が相手をしてやろう」
大柄な男が立ち上がった。面白半分の様子にユリシーズは眉をひそめる。
「名は何と申しますか?」
それでも礼儀として名を問うた。
「坊主が勝ったら教えてやるよ」
男の茶化した物言いに、ユリシーズは――
「それは難しいでありますな」
刃で応える。
ユリシーズは地を這うように加速する。元々小さい身体にそう動かれたのでは大柄な男では対処に困る。足元をすり抜けざまに後頭部へ鞘での一撃を叩き込まれ、あえなく崩れ落ちたのは大柄な方。
「私自身未熟でありますゆえ、名を聞けるよう手加減できぬのであります」
気絶し倒れ伏す男を見下ろす形でユリシーズは立つ。
「へえ、結構やるじゃん。あんたより強いんじゃない? 手合わせしてみれば?」
「かもしれんな。若いのに良く鍛えてある」
男か女か見分けのつかないニーカと隻腕のアナトール。両名とも傭兵団の要である。ユリシーズも敵の強弱は見分けられる。この二人、強い。
「だが、俺が手を出すわけにもいかんだろう。我らが主はやる気満々のようだ」
鉄の足音が上から響いてくる。その重厚な音に、ユリシーズは我知らず喉を鳴らした。一歩一歩が重い。震えが、寒気が、ユリシーズを襲う。そして、対峙する。
黒狼の戦備え。黒き鋼で打ち鍛えられた鎧。幾多の傷が数え切れぬ戦場を超えた事を示している。何故、このような場所で鎧をまとっているのか、そんな疑問は抱きようが無い。狼が毛皮をまとっていて何が悪いのか、その程度の話である。
問題は――
「この完璧なるイケメンのお兄さんが遊んであげよう」
その中身であるのだから。ふざけたようなしまりのない顔をしているが、一皮剥けば獰猛な狼が潜んでいる。それを隠すことなく、しかしおおっぴらに見せ付けるでもなく、ただあるがままで相手を威圧してしまう。
生き物としてこの男、何かが違う。
ユリシーズは硬直してしまった。彼我の戦力差を自覚してしまったがために。
「おいおい。ぼーっとしてんなよ。……こっちから、攻めちゃうぜ?」
その狼がちらりと牙を見せた。それだけでユリシーズは無意識のうちに動き出してしまう。手負いの獣が決死の覚悟で手向かうが如く。猛りながら長剣を相手の首めがけて打ち込む。全速力、そこから跳躍し体重も乗せる。速度と重さ、すべて乗せた一撃。
「ちびにしては重い。ちびにしては、な」
それを片腕だけの力で受け止めるヴォルフ。ユリシーズは驚きに眼を見開いた。
「双剣使いってのは二倍つえーのよ。まあ、人より二倍つえーやつ以外が使ってもクソ弱いし意味がねえって話だけどな」
ヴォルフは双剣の扱いを極めていた。片手で長剣を扱うという愚行を命がけで続けた結果、長身痩躯の見た目に反して異様なまでの力を得るに至ったのだ。当時より速く、強い。シンプルにヴォルフは成長している。
「ほーれ、しっかり受け止めろよ……ちびすけぇ」
ユリシーズが地に足を付けるまで待ってあげてからの、片腕での攻撃。ユリシーズは咄嗟にマインゴーシュのほうを抜いた。受けるにはあまりに強過ぎる攻撃。その判断は正しかった。その上で――
「なるほど、ね。でも加減はなしだぜ。弟君」
レオンヴァーンの秘剣ごとユリシーズをぶち抜いた。逸らしきれず吹き飛ぶユリシーズ。宙に舞うマインゴーシュはひしゃげて使い物にならない。一撃、しかも片手の一撃でユリシーズは破られた。
「ま、そいつはうちのニーカも使ってるからな。見慣れてるし、やり慣れてる。破るコツはもってんだが、それでもニーカが使うとなかなか厄介だ。一発で破れたってことは、ちびすけがヘタクソってことなんだぜ、わかるよな?」
差が、あった。埋めようも無い差が。それはあまりに大きな差であった。白騎士でさえユリシーズはある程度抵抗することができていた。それがこの差では自分が弱くなったのではと勘違いしてしまう。何故なら、白騎士と黒狼は互角と見られているのだから。
「俺は強いぜ。なんたって超絶天才児であるところのこのヴォルフ様が戦争だけに注力してんだ。どこのどいつと比較して青ざめてんのかしらねーけど、色んなもんに首突っ込んでる白頭にゃまけねーよ」
明らかに誰と比較されたのかを察している台詞。
「タイマンなら俺が勝つ。んなもん当たり前だ。一対多でも――」
突如、傭兵団が詰めている家屋に突撃してきた二人の騎士。両方ともユリシーズと比較して相当開きがある実力者。それらが挟み込むようにヴォルフめがけて突貫してくる。
「俺が勝つ」
両側からの攻撃に、両腕を交差させて受け止めるヴォルフ。剣を振るったのはランスロとゴーヴァン。両名ともガルニアで名を馳せた騎士の中の騎士。すでにその二人分を受け止める度量と実力をヴォルフは備えていたのだ。
「だが、多対多は、わからねえ。だからやり合ってみたいのさ。もう一度、死力を尽くして、な」
かっこよく決めるヴォルフ。ユリシーズはその姿に、少し、ほんの少しだけ見惚れてしまった。自身が目指す強き者。それを持つ男に見えたから。
「……で、実は結構限界なんだが。これ以上ってなると流石に一人ってわけにゃいかねーぞじいさん」
騎士王アークが戸口に立っていた。
よく見ると腕がぷるぷる震えているヴォルフ。それを見て団員たちは「だはは」と笑いながら酒を飲む。ただし、先ほどまでと異なるのは、じいさん、騎士王アークが動けば今笑っている全員が動き出す体勢を取っているということ。見えざる敵意が渦巻いている。
「ようこそサンバルトへ。アルカディア旅行は楽しかったかな、ご老人」
少し両手から感じる剣圧が増す。一瞬、傭兵団側が殺気立つ。
「剣を引け、ランスロ、ゴーヴァン」
ランスロは無表情、ゴーヴァンは物足りなそうに剣を引く。そのまま自身の主の後ろまで下がる両名。
「我が名はアーク・オブ・ガルニアス。旅のものである」
「俺の名はヴォルフだ。お会いできて光栄だぜ、ガルニアの王」
「なに、そうかしこまらんでくれ。今更我に何が出来るわけでもない。今は何も持たぬただのじじいである」
(ただのじじいか。よく言うぜ)
「サンバルトには何用で?」
「ただ見てみたかっただけである。新たなる時代の担い手をな」
ヴォルフとアークの視線が交差する。どちらもその瞳から何かを抜き出そうと何かを得ようと注視する。ぴりぴりとひりつく感覚は、ただ二人の視線によるものであり、行き交う情報量は当人同士にしかわからぬもの。
「で、俺を見た感想は? あんたの娘やあんたが見てきた全部と比べて……俺をどう感じた?」
ヴォルフは威嚇するでもなくただ問うた。ただそこにいるだけでその身から溢れ出る自信と力。充足している。充実している。はち切れんばかりの自分を見て、歴戦の王はどう答えるのか、聞いてみたかったのだ。
「強いな。ただただ強い。それでいて未だ完成には遠い。これほどの力を持ちながら未だ果てない伸びしろ。我の知る限り強さでは比類なきものである」
ヴォルフは意外そうな顔をした。ヴォルフとて己の力には自信を持っている。それでも自分の知る限りウィリアムと自分に飛び抜けた差があるとは思っていない。それにアークの娘アポロニアとて自分より強いから王位を渡したはずである。なればやはりそこまでの開きがあるとは思えない。比類なきものという表現はいささかリップサービスに過ぎるよう聞こえた。
「無論現段階では我が娘の方が強いがな」
ヴォルフは「なるほど」と合点がいった。伸びしろ込みで比類ない強さと評されたのだ。やはり自分は想像通り強かった。強くなる存在であった。かの騎士王をして比類なきと言っているのだ。ランスロ、ゴーヴァンという強き騎士を従えた男が。アポロニア、ウィリアムを見たはずの男が、ヴォルフが一番強いと評した。
疑っていたわけではない。しかし確信を得た。
「そう言えば娘さんのほうはなかなか難儀な状況みたいだな」
「愚。ただその一言に尽きる」
先日、アークランドの船団とエスタードの船団が衝突、アークランドが大敗したことは記憶に新しい。とうとう動き出した第三勢力であったが、その勢いは完全に挫かれた結果となる。この一敗によりアポロニアの評価も地に堕ちた。
「まあ、烈海相手に策無しはやべーよ。つーか策があっても烈海とはやりあいたくねえ。海で陸の生物が海の生物に勝てる道理がねえからな」
「しかし勝たねばならん。抜けねば、大陸への道は拓けぬのだから」
ある意味でアポロニアにとって一番高い壁が烈海なのかもしれない。海で陸の生物が海の覇者に勝つ。それがどれほど難しいことか、アポロニアは身をもって感じただろう。
「勝てると思うか?」
「そう思わねば王位など譲るまい」
それでも、アークは微塵も疑っていなかった。身内びいきをする男ではない。数多の騎士王が存在したガルニアであえて『騎士王』と呼ばれた男。その見立てに間違いなどあろうはずも無い。
「なるほど、ね。やりあうのが楽しみになってきたぜ」
「存分に楽しめ。死力尽くす戦ほど素晴らしいものは無い」
ヴォルフとアークは笑い合った。死力尽くす戦の醍醐味、知る者同士の笑みである。
「お話は終わったようですね」
表から現れたのはユーウェイン。旧知の仲である三名をあっさり素通りさせたヴォルフの右腕である。悪びれる様子は一切ない。
「おかげさまで。まだ聞きたいことは残っているけどな。ニーカ、酒の用意!」
群れの王が命ずる。普通なら逆らわない。逆らえない。だが――
ニーカは別であった。軽快に机に飛び乗り、一瞬の迷い無くヴォルフめがけて、
「テメエでしろよ」
とび蹴りを放つ。思いっきり顔面に受けて転げまわるヴォルフ。鼻血も出ている。
「……俺がする。だから許してやれ。客人の前でこれ以上は、な」
傭兵団一番の常識人であり気苦労が絶えないポジションに収まっているアナトール。そのポジションを押し付けることが出来てホクホクなのは元苦労人のユーウェインであった。
それを見て大爆笑する傭兵団一同。
「……なんとまあ」
部下にとび蹴りを喰らうという驚きの展開。王と臣下の関係ではありえない光景に、アークたちは面食らってしまう。一見するとリスペクトが薄く感じてしまう。そうでないのは先ほどの空気から感じ取っているが。それにしても――
「ニーカ、テメエ……折角かっこよく締まりそうだったのによ」
「知るか。かっこつけ。気負ってるのばればれだっつーの」
そのまま喧嘩に突入。アナトールは頭を抱える。傭兵団はどちらが勝つかを賭け始めていた。
そんな光景に面食らっているユリシーズ。その横にユーウェインが立つ。
「面白いだろうユーリ。これが私の選んだ主だ」
「……兄上、今からでも選び直した方が」
ユリシーズにとっては念願かなった感動の再開。しかしもうそんな水っぽい空気ではない。てんやわんやの大騒ぎ、喧騒が支配する空間。その中心ではしゃいでいるのが自分の兄の王だと言うのだ。獅子候と呼ばれた自慢の、憧れの兄が選んだというのだ。
(……悪い夢であります)
ユリシーズはこっそり頭を抱えていた。
○
「久方ぶりだな、ユーウェイン」
なし崩しで宴会が始まり気付けば日も落ちていた。その喧騒の輪から外れたところでユーウェインとランスロは月光の下酒を酌み交わす。
「そうですね。エル・シドに敗れ去り、貴方も私も騎士として王としての尊厳を失ったあの日以来ですか。十年近く前……月日がたつのはあっという間です」
二人の頭には忘れたくとも忘れられぬ記憶があった。若く力も満ち満ちていた時代。名を馳せようと大陸に躍り出たガルニアの騎士たち。筆頭たる『騎士王』、その妻たる『戦乙女』、側近たる三人の騎士、傘下たる『鉄騎士』、『白鳥』、『獅子候』――
黄金の時代であった。ガルニアが世界に挑戦するにはまたとない機会。
そしてその全てが蹴散らされた。理想も、名誉も、愛も、誇りも、全てが幻想であると教えられた。失ったものは数え切れず、血も涙も枯れきった。
「王ではなく騎士を取ったか」
「王の器ではない。あの日私は痛いほど学びましたから」
ユーウェインは敗れた後、逃げるようにガルニアから姿を消した。それを咎める者は少なくない。それでも同世代の友人でありライバルであり戦友であった者ならばわかる。彼は道を捜しに往ったのだ。喪失したものか、はたまた新たなる道か――
「それでも、最初から騎士になるつもりではなかったんですよ。自分に足りないものは何か。エル・シドという怪物を生み出した大陸で何かを掴もうと思っていただけなんです。その旅の途中で様々なものを見ました。数多の戦場を、その影で苦しむ弱者を、王であった頃には見えなかった多くを見ることが出来ました。そして――」
ユーウェインが思い出すのは旅の終点。戦場跡で死肉を喰らい武器を拾い集めていた少年、少女との出会い。細く小さく、今に死んでもおかしくなさそうな、そんな彼らの眼を見た瞬間、ユーウェインは知った。
「ヴォルフと出会った」
ユーウェインはちらりと己が主の方を見る。あの頃とは比べ物にならぬほど大きく強くなったヴォルフ。今の彼が天を掴むといっても誰も笑えないだろう。それだけの力を身につけた。それだけの功績を積み上げた。だけどユーウェインは知っている。彼は一度として軸をぶらしたことが無い。変わったのは世間の目だけ。数多の修羅場を越えて揺らがなかった。ゆえに強くなった。それを誇りに思う。
「世界の底辺にいる彼らの眼は、私など及びもつかない天を見上げていた。その時私は知ったのです。私に無いものは彼らが持つ底抜けの貪欲さ。地の底でもがき苦しんだ、地の底で大切なものを喪失した、そこから派生する『欲』なのだと」
ユーウェインとてヴォルフの全てを知るわけではない。彼が胸にかけているロケットの中身、おそらくヴォルフの『欲』の原点をユーウェインは知らない。だが彼がぶれないことは知っている。己が牙の折れる日まで、己が死するその時まで――
「彼は止まらないでしょう。彼の強さはそこにあります。何処までも突き進んだ先、私はその終着点を見てみたいのです。彼をそこまで運ぶ一助となりたいのです。騎士として」
ユーウェインの言葉には何処までもヴォルフについて行くという覚悟があった。大きく変化した友の顔を見てランスロは無言にて酒を注ぐ。ユーウェインもまた微笑みながら注がれた酒を一気に飲み干した。
「貴方はどう生きますか? 『湖の騎士』ランスロ」
ユーウェインの問いに答えを窮すランスロ。
「……わからぬ。あの日以来、私の心は一度として動いていないのだ」
ランスロが喪失したものはユーウェインとは異なる。未だ立ち上がることの出来ない戦友を見て、その傷の深さを再確認する。
ユーウェインは無言で注いでやった。「頂戴する」と言って飲み干すランスロ。
「無理に動かす必要はないでしょう。来るべき時が来れば貴方は出会う。かの『烈日』に一太刀浴びせたガルニア最強が、このまま時代に取り残されるわけも無し。待てば時代が貴方を呼び戻しますよ。その時までゆっくりお休みください」
ランスロの無表情が和らぐ。時代のうねりを二人は感じ取っている。いやがおうにも二人は巻き込まれるだろう。相応の力を持つがゆえに。その時嫌々剣を握るか、喜々として剣を握るか、その時にならねばわからない。
「なァにを二人でしんみりしている! このゴーヴァンの酒を飲めェ!」
真っ赤な顔をした戦友の登場に二人は苦い顔をして笑った。
もう二度と彼らがくつわを並べることは無い。それでも同じ時代を駆け巡った戦友同士、通じ合うものはある。おそらく、彼らの邂逅はこれが最後になるであろうことに。
○
エル・シドは己が顔に刻まれた一筋の傷を撫でた。幾多幾重にも刻み込まれた戦傷。されど顔という致命的な部位まで剣を寄せられたのは『あれ』が初めてであった。
「いやー、なかなかに厄介そうですな父上」
エル・シドの前に座るのは自身五十二番目の息子、ピノ・シドである。エル・シドとは似ても似つかない優男だが、特異な技能を有し数少ないエル・シドの後継者としてシド・カンペアドールの名を継いでいた。烈海と呼ばれる猛者である。
「海で貴様に苦戦を強いたか」
エル・シドの問いに苦笑するピノ。
「苦戦はしておりません。が、それでも向かってきました。負けるとわかっていても、突っ込ませることの出来る王です。突っ込むことの出来る騎士です」
海では圧倒した。しかしこれで終わる相手ではないとピノは言う。エル・シドはピノの見立てを信頼していた。自身の後継者になりえる存在であるから同じ名を与えた。その他大勢の意見ではない。
「ガルニアの残り火、か。頭の片隅にでも置いておこう」
そう言ってエル・シドは傷を撫でる。それを見てピノは一礼して席を立つ。
「残り火が燃え広がらぬよう完全に踏み潰してまいります」
エル・シドは「ふん」と鼻を鳴らす。気遣われたことが透けて見えたためである。傷に触れているときのエル・シドは、今までで一番心躍る戦に思いを馳せている状態なのだ。安易に乱せばエル・シドの逆鱗に触れかねない。ゆえにピノは席をはずす。
しかし思い返したように扉の前で立ち止まるピノ。
「……もし私が負けるような事があれば、きっと父上の満足いく戦場が現れるでしょう。吉報をお待ちください」
去っていくピノ。その背を見て傷の疼きが止まる。
「……出来の良い息子よ。もう少し欲深くとも罰は当たるまいに」
頭を駆け巡るのは凄絶な死闘を繰り広げた騎士王本隊との戦。激烈な騎士王と戦乙女の攻め。それを支える三人の騎士。『弓騎士』が前に立つ以上遠距離戦は分が悪いと見てエル・シドは接近戦を敢行。数多の傷を受けるも騎士王に一太刀浴びせ、とどめを刺そうと打ち込んだ二撃目に戦乙女が割って入った。そこまででも記憶の中ではかなり上位に来る戦であった。甘美なる時間、熱き闘争の果てに――
『貴ッ様ァァァァアアア!』
鬼神が生まれた。復讐鬼と化した怪物。流麗な剣技はなりを潜めるも、その攻撃は苛烈の一言。彼と彼に付き従う者たちがいなければ騎士王はその戦場で死に絶えていただろう。しんがりとして残ったその男が刻んだ戦傷。巨星を除けば、おそらく完熟したエル・シドに最も近づいた男。それを蹂躙した時の爆発しそうな快感。
「あの戦と同じ熱を、もう一度味わってみたいなァ」
忘れえぬ興奮。絶頂にも近いあの感覚をもう一度経験したい。
燃え盛る炎。落ち着けねばならない。まだ、エル・シドを滾らせる相手は育っていないのだから。折角待っていたのだ。もう少し、もう少しだけ――
「失礼しますエル・シド様。『鮮烈』セルフィモ・アロンソ師団長が敗れ去りました」
突如入室してきた伝令にエル・シドは運命的なものを感じた。セルフィモはエル・シドの三十八番目の子供である。惜しくもシド・カンペアドールを与えるに至らなかったが、優秀な男であった。腕も立つ。
「セルフィモ……確かサンバルト方面であったな。誰が喰らった?」
それを破った相手。
「またしても『黒狼』のヴォルフでございます」
幾度となく耳にした相手。まだ熟していないと我慢してきたが――
「そうか。下がってよいぞ」
今日は間が悪かった。たまたま、倦怠の中にいたエル・シドの心は燃えていた。戦うべき相手の不在。せめて自分が戦に出ないことで後進が育つのを待っていた。ヴォルフのような極上の才能はじっくりと育つのを待つはずだった。しかし――
伝令が下がった後、やり場のない熱情を酒樽にぶつけるエル・シド。拳により爆裂する酒樽、ぶどう酒の噴水を思いっきり浴びる。されど熱情は留まる事を見せない。ありえないことであるが彼の身についたぶどう酒が沸騰して蒸発しているようにも錯覚してしまう。
エル・シドは笑みを浮かべていた。凄絶な笑みを。
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