幕間:血濡れの獣

 ウィリアムはブリジットを発見した。

 裏路地の片隅、行き止まりのような場所で、ブリジットはじっと待っていたのだ。その眼を見て、ウィリアムは苦虫を噛み潰したような顔になる。何らかの手を打たれた。ゆえに、最後の場所を此処と決めて待っていたのだろう。

『奴隷から、人の名を奪って騎士様になった気分はどう?』

 その言葉もまたウィリアムの思考を打ち砕く。

『……どういう意味だ?』

 ブリジットは嗤う。この期に及んでシラを切れると思っている相手に。

『貴方が異人なら、そもそも名を奪う必要はなかった。もちろん他国で犯罪を犯したってなると話は別だけど……白髪の犯罪者なんて目立つ人相、片田舎の国境ならまだしも七王国の一角、王都アルカスの敷居はまたげないでしょ』

 ウィリアムは相手を舐めていた。腕が立つ武人、しかし頭は足りてない。それがウィリアムの評価である。しかし、相手はウィリアムの想定を大きく超えるほど冴えていた。これが死に際の底力なのかどうか、ウィリアムには判断できない。一つわかることは――

『ま、奴隷は、戦場に出られないものねえ』

 全てを知られてしまったということ。

 ウィリアムは嗤った。嗤うしかない。もう、どうしようもないのだ。

「く、くく、俺が、この俺が、こんなところで躓くのか? これからだったんだ。これから、俺の名が世界に轟く時が、あと少しで」

『貴方の名じゃない。私の、ウィリアムの名よ。気安く騙らないでくれる?』

「もう俺のものだ! 俺が奪った! 俺が喰らった! あの赤髪の、間抜けなウィリアム君はもういない! だったらいいじゃないか! 俺に、『僕』にくれたってさァ!」

 ウィリアムの顔が歪む。どうしようもないほど、ウィリアムの仮面は崩壊していた。構築していた、白騎士という仮面、騎士の、戦士の、ウィリアムの、仮面が剥がれ落ちていく。残ったのは名も無き白き獣。それすらも崩れ落ちる。

『醜いわね。でも、いけ好かない気取った屑よりそっちの方がましよ』

 ブリジットは左手で剣の柄に触れる。最後の、全てをそこに注ぎ込むように。

 崩れ落ちた名も無き青年は呆けていた。すべての仮面、ペルソナは剥がれ落ちている。残ったのは自分でもわからない存在。アルでもなくウィリアムでもない。ナナシ。誰も知らぬ、この青年の本当の姿。

「……ああ、ありがとう。そっか、僕は、負けたんだね。よかった。これで終われる」

 青年は空虚な笑みを浮かべた。

「……そうだ。昔話をしよう。ずっとずっと前の、愚かな少年の話を。昔ね。この薄汚い裏路地の向うに、二人の姉弟が住んでいたんだ」

 ウィリアムの声は、先ほどまでと様子が違っていた。優しい、少年のような柔らかな響き。醜悪な表情はなりをひそめ、哀しそうな顔をしている。自らの名を捨てた空虚な男がそこにいた。

「仲の良い姉弟だった。姉は綺麗で優しかった。弟は姉が大好きだったんだ。そんな姉弟が、この薄汚れた掃き溜めに住んでいた」

 そんな中でもお互い、剣から手を放さない。

「貴族の気まぐれで全てが奪われた。姉は買われ、好き放題弄ばれ、死体になって帰ってきた。僅かな金と絶望を残して。それが僕の終わりであり、俺の始まりだ」

 ウィリアムは渇いた笑みを浮かべる。それを見てブリジットもまた同じ笑みを浮かべた。

『それを私に語ってどうするの? 同情して欲しい?』

 そんな話を聞いて、大事な人を奪われた側の人間が許すはずも無い。

「まさか。ただ、君に知って欲しいのさ。君の眼を見ればわかる。俺は、負けたんだ。君という小石に躓いた。万全のつもりが穴だらけだった。自ら追わず、白龍に追わせていれば良かった。もっと言えば、君に機会を与えるべきではなかった」

 ウィリアムの頭を埋め尽くす言い訳。事前に暗殺するという至極簡単な手をウィリアムは取れなかった。これは甘さである。同じ復讐者に対して、知らぬ間に同情していたのか。自分でもわからない。それでも、この結果は自分が招き寄せたものであり、今となっては納得してしまう間抜けな自分もいた。

 結局、こうして語り合いたかったのかもしれない。自らが作った自らと同じ存在。復讐者という人種と。シュルヴィアとは違う。本物の復讐者との会話を。

「君の、ウィリアム・リウィウスを奪ったのは二度目だ。一度目に奪った男の名を騙って、ウィリアムに近づいた。他人になる必要があった。天を掴むために。だからウィリアムを奪った。そこからは君が知るとおりだ」

『白仮面、白騎士、そして今。躓いた貴方を見ていると、痛快で痛みも消えるわ』

「くく、そうだろうな。俺でもきっとそう思う」

 ブリジットはあざけるような笑みを消す。

『一つだけ教えて。貴方のそれは復讐なの? その貴族を殺すだけなら、名を奪う必要はなかったはず。此処まで大勢を、多くの業を積む必要なんてなかった。違う?』

 ウィリアムは嗤う。当然である。

「そうだな。もしかしたら、俺のそれは復讐じゃなかったのかもしれない。最初は許せなかった。貴族も、それを許す世界も、姉のいない世界すべてを破壊したかった。でも、今はわからない。奪い過ぎて、でも満たされなくて、何もかもが、わからなくなった」

 ウィリアムですら、もはや何のために自分が戦っているのか、天を目指すのかわからなくなっているのだから。奪い過ぎた。さまざまなものを。喰らい過ぎた。見知らぬ大勢を。それでも満たされぬ、餓えて渇いて仕方がない。天へたどり着けば満たされる。そんな夢想すら、近づいてしまったがゆえに抱けない。

「嗤えよ。嗤ってくれ。もし出来るなら、君の手で俺を殺してくれ」

 そう言いながら、ウィリアムは剣の柄を握る手を緩めない。殺してくれとのたまいながら生への渇望を捨てられない。喰らうこと、奪うことをやめられない。

『嗤わない。だって貴方、それで楽になるじゃない。だから嗤わない。でも、殺してあげる。私のために』

 ブリジットは一歩、前に進む。

『貴方が奪ったものは、貴方にとってただの他人だったかもしれない』

 さらに一歩。

『でも、私にとって、ブリジット・レイ・フィーリィンにとって、剣鍛冶の家に生まれたウィリアム・リウィウスはかけがえの無い人だった。好きで好きで仕方なくて、そのくせ素直になれなくて、私は、取りこぼしてしまった』

 ウィリアムの目が細まる。結局のところ二人は同じなのだ。同じ後悔の中、生きている。あの時、離れないでと伝えていれば、あの時、私を守ってと伝えていれば、強がらずありのままを相手に伝えていれば――

『奪った貴方が許せない。素直じゃなかった自分が許せない』

「幸せが、常にそこにあるものと錯覚していた自分が許せない」

 二人は此処にいなかった。殺し合うことも無く、小さな幸せと共に生きていたのかもしれない。そんな未来が、別の選択肢の中には存在していた。それゆえの後悔。

 二人は構えながら剣の範囲に至る。両者の射程内。

「『許せない』」

 二人は復讐者であった。許せないのは結局のところ自分自身。防ぐ手段はあった。後悔せず幸せに生きる未来があった。それを取りこぼしたのは――

 二人は笑い合った。極限まで至った復讐者同士でしかわからない感覚。悲しみと後悔の果てに二人は至った。終わりを前にして、仇を前にして、二人は通じ合ったのだ。

 だから――殺さねばならない。たとえそれが無意味であったとしても。

 取りこぼしたものは返ってこない。そんなこと、とっくの昔に知っている。


     ○


 ユリシーズは倒れ伏す。体の至るところを削り取られ、そのたびに激痛が走る。相手が強過ぎた。しかもユリシーズが相手取ったことの無い人種。その動きの軽妙さ、それに対して重過ぎる一撃。全てがユリシーズのキャパシティを超えていた。

「そろそろ終わりにしよう。子供にしては、よく粘った」

 口下手な白龍にとって最大級の賛辞。実際、此処まで粘られるのは想定外であった。さっさとケリを付けて追跡に参加、ウィリアムを陰ながらサポートするのが自身の主の意思。白龍もまた少しだけ焦っていたのだ。

「ま、だ、まだァ」

 立ち上がろうとする若獅子。その意地に白龍は指を鳴らして応える。もはや言葉は必要ない。本気で相手取る。

「まも、るんだぁ」

 血反吐吐き、なお立ち上がる。その姿を美しいと思う。そういう存在になりたかったと白龍は心より思う。そして我が身を振り返り思うのだ。

「笑わせるな。一度堕ちたものは、二度と上がれぬ。それが闇だ」

 白龍は臨戦態勢を取る。先ほどまで見せていた無表情は消え、凄絶な――


「好い月である!」


 白龍の動きを、天頂で構える男の引力が止めた。白龍は視線を合わせる。

 その男――

「少々仕事の分を超えた表情であるなァ。光を欲するなら自分の手でつかめィ。出来ぬ苛立ちを子供にぶつけるな東方の武人よ」

 アーク・オブ・ガルニアス。屋根の上で仁王立つその姿は威風堂々。このような裏路地がとことん似合わぬ男である。月光より輝くその姿はまさに王。

「ならば仕事を果たすまで」

 白龍は再動する。最速で殺す。アークの位置からでは止めること叶わず。

「それは困る。しばらく獅子の小僧は我が預かるのだからなァ。止めよ!」

「御意」

 別の建物から降り立った騎士。それが白龍とユリシーズの間に割って入る。その華麗な身のこなし、立ち居振る舞いにユリシーズは眼を奪われた。黒き滑らかな髪が流れる。

「抜くぞ、オートクレール」

 騎士が引き抜いた剣は無骨であり流麗。その剣技もまた流れるような太刀筋。美しくも儚い留まらず流れる清流の如き剣。白龍の無音豪速の抜き手と重なる。

「ほう、ランスロの剣で切れぬか。鬼神の如し抜き手よな」

 相殺し火花散る。両者の間で咲く花は、美しくやはり儚いものである。

「ぬるいわランスロォ! このゴーヴァンが圧殺してくれる!」

 白龍が即座に身を翻した瞬間、地面が爆ぜた。それほどの勢いでゴーヴァンと名乗る騎士が飛び掛ってきたのだ。握られた剣は背中で担ぐほどの大剣。装飾は華美で太陽のように黄金が輝く。短く切りそろえられた髪の色もまた剣と同じく黄金であった。

「……ガルニアスの三騎士。『湖の騎士』ランスロ、『太陽騎士』ゴーヴァン。いったいいつこの国に招きいれた? 俺たちも警戒していたはずだ」

 騎士王の懐刀。白龍たちとて入国には目を光らせていた。国境を越えられた程度ならまだしも、王都アルカスにまで立ち入られたなら問題である。アーク一人なら老王の一人旅で済むが、この二人を帯同しているとなると話は大きく変わってくるのだ。アークの懐刀である三騎士は皆まだまだ若い。もちろん青年の域は越え壮年に達してはいるものの、武人としても将としても脂の乗った時期。先の短いアークよりも、この二人の方が警戒に値する。

 何よりもこの二人――

(……アークよりも、強い)

 両名とも僅かばかりアークを上回っている風に白龍は感じた。力はゴーヴァン、技はランスロ、経験値はアーク。しかしながら年がら年中戦争を続けているガルニア出身の二人。同年代の中では経験値も飛び抜けているだろう。危険度は非常に高い。

 白龍は身動きが取れなくなった。一人でさえ勝てるかわからない相手が三人。死に体とはいえ先ほどまで自分を止めていた少年が一人。四人を相手取るのは――

(割に合わない)

 金貨の重みとてこの四人の重みには釣り合わない。かといってこの場で退くのも暗殺者の矜持が許さない。何よりも主の命に背くことになる。

 ゆえに動けない。

「アーク殿! 私は構いません! ブリジット殿を、彼女をお救いください!」

 ユリシーズの言葉に、仁王立つアークは目を向けることすらしない。

「君ならばどうやって救う?」

 ランスロがユリシーズに疑問をぶつけた。

「守ります。白騎士を討ち果たし、それで――」

 ゴーヴァンはその返答を聞き鼻で笑った。

「討ってどうする? それで救われるか? 馬鹿馬鹿しい。復讐者とかいう愚者共はその道を選択した時点で救われぬものだ。失ったものは戻らぬ。そしてそれなしでは生きられぬものが復讐者となる。貴様が救う? 笑わせるな小僧」

 アークから伝え聞いた話だけ、それだけしか知らぬ二人であったが、二人には容易に想像ができた。以前、両名とも同じタイミングで喪失を経験し、復讐者の道に堕ちかけたがゆえに――

「生きながらに死んでいるのが復讐者だ。そして死人を救う手立ては無い。もはや彼女には守るものも、愛するものもいないのだから」

 ランスロの言葉は諭すような響きであった。ユリシーズの顔が崩れる。ユリシーズとてわかっていたのだ。心の底で。とっくに手遅れなのだと。

「だが、そこな小僧はやれぬ。かの娘と違い小僧には未来がある。潰すには惜しい。ゆえ我が貰い受ける。何、この国で邪魔はせぬよ。戦場では、どうなるかわからんがな」

 アークが白龍に声をかける。その言葉は白龍を通して、別の何かに語りかけるようであった。その裁量を持つ人物、闇の王に。

『通せばよい。これ以上かき回されても迷惑じゃからのう』

 ユリシーズは身震いした。全身に怖気が走る。ランスロ、ゴーヴァンも表情を険しくした。突如現れた、『死』そのものを前にして。

「侮る必要はないが、恐れる必要もない。こやつは亡霊、天命を告げることは出来ても、それを弄ることはできぬ」

 アークの言葉に、ニュクスは笑みを浮かべた。

『ほう、わしを恐れぬか。さては天命を知っておると見える。死出の旅路は良きものかの。視え過ぎて、選ぶることすらかなわぬ愚者よ』

 ランスロとゴーヴァンの顔色が変わった。ゾッとするほどの殺意。白龍がそれを防ごうと立ちはだかる。伯仲する両陣営を他所に二人の王は笑みを崩していなかった。

「良いものである。様々なものを見た。これからも見る。我はまだまだ死なぬよ。充足には程遠いゆえになァ」

『充足して死ぬるモノは少ない。そしてぬしはすでにその選択を捨てておろうが。まあ、そなたの旅路、せめて意味の有るものとなることを祈ってやろうぞ』

「ガハハ! 亡霊に祈られても仕方が無い! さて、旅の続きである」

『達者でのう。白龍、痕跡をすべて消すのじゃ。一片たりとも懸念を残すでないぞ』

「ハッ!」

 白龍が去り、ランスロとゴーヴァンもユリシーズを担いでこの場を離れた。

 残ったのはアークとニュクス。

「随分御執心のようであるな。それほどか、白き怪物は」

 ニュクスは嗤う。

『わしが対等に語るのは王のみ。そういうことじゃて』

 アークは眼を細めた。

「かの娘の秘中、ウィリアム・リウィウスの化けの皮を剥がした風に見えるが?」

 ニュクスは決壊したように爆笑した。歪んだ笑みは喜劇を通り越して悲劇を見ているかのよう。あまりにも哀れすぎて、あまりにも哀しすぎて、もう嗤うしかないとでも言わんばかりの貌。

『届かぬよ。あの坊やの天命を歪めるには、ただの復讐者では足りぬ。王を殺すには次代の王でなくばのぉ。望む望まざるに関わらず、王は勝利を引き寄せる。今宵それが一つ証明されたのじゃ』

 アークもまた笑い出しそうになる。おそらく今回の件、目の前の怪物は手を出していない。ウィリアムが持つ引力だけでブリジットの勝利を覆した。それはもう一介の騎士が持つ力の領分を越えている。

 この国に、王が生まれつつある。今の王から玉座を簒奪できる力が育ちつつある。七王国の伝統ある王家すら覆してしまうほどの――

『ぬしは偽者ではないが、頂点ではなかった。他のものも同様にのぉ。じゃが育ちつつあるぞ。地を知り天を掴む、天地合わせた王が。我がアルカディアから生まれようとしておるのだ! わし『ら』の悲願が叶う。愛しても愛し切れぬわ!』

 ニュクスの正体をアークは知っていた。遥か昔、七王国が建国されたほどの時代。その時代に国産みのため人柱になった王家の血縁。アルカス・レイ・アルカディアの――

 アークは亡霊に背を向けた。大笑いするニュクスに背を向けて。遠くの決着を見るように。その眼は哀しみで揺れていた。


     ○


 ウィリアムとブリジットの決着は一瞬であった。互いが死力を尽くした復讐者同士の得るもの無き戦い。喪失の果てにたどり着いた極致にて二人は刃を交わした。一方は利き腕を失い、一方は相手に有利な領域での戦いを強いられた。とはいえもはやこの二人にとっての戦いはそういう次元に無い。

「ぐ、ぎィ」

 わき腹から血が噴き出す。受けた手のひらも半分ほど切り込まれている。苦悶の表情を浮かべているのはウィリアムであった。今にも崩れ落ちそうな様子。

「…………」

 対するブリジットは笑顔であった。清々しいほどの、晴れやかな笑顔で――

「ヘタクソ」

 両腕を喪失し立ち尽くす。

 決着は一瞬であった。互いが居合い術で向かい合った結果、速かったのは利き腕を失ってなおブリジットであった。逆手での居合い術。流石に利き腕ほどの速さも威力も望めないが、それでも使ったことの無い左手での居合い術は死力を込めた一撃に相応しいものであった。

 ウィリアムはそれを見越していた。相手の方が上手だと、自分の刃が届く前に相手の刃が届くと、それゆえ身体と左手で刹那の時間を稼いだのだ。わき腹の傷も手のひらの傷もかなり深い。しかし全てを切り込まれる前にウィリアムの剣がブリジットの最後の腕を断った。

 生きようとした方が勝った。生にしがみ付く、欲深い方が勝った。

「言い残すことは?」

 ウィリアムは問う。

「シネ」

 ブリジットは笑顔で応えた。それを見てウィリアムも笑う。

「いずれ、な」

 ウィリアムの剣がブリジットの首を刎ねた。血が噴き出る。己が血とブリジットの血にまみれるウィリアム。刎ねた腕から剣を奪い取り、二本の血濡れの剣を握り立ち尽くす。

「く、くく、くははははははははははははははは!」

 ウィリアムは嗤う。目の前の死を、この血濡れの世界を、何よりも自分自身を嗤う。世界は狂っている。そしてそれ以上に自分は狂っている。とっくの昔に理の外にいた。そんな自分を嗤った。此処まで来て、生きようとこの世界にしがみ付いた己を嗤った。

 名も無き白き獣が血の涙を流し嗤う。


     ○


 死の間際、ブリジットは夢を見ていた。遠き日の記憶を。

 美しい紅葉が広がっていた。世界は黄金と紅に染まり、朗らかな陽気は胸を躍らせる。この世界は争いから遠かった。そこかしこに幸せがあった。欲をかく必要のない世界。皆が笑顔で、ブリジットもまた笑顔であった。

「何してるのよ?」

 そんな世界で、赤い髪の少年は剣の稽古をしていた。その姿は少女にとって複雑に映った。少女が剣を学び、少年は剣鍛冶を学ぶ。そういうかっちりとした関係を少女は望んでいたのだ。相手の気持ちがうつろう事があっても、そういう関係なら離れることは無い。だから少女はぶすっとしてしまう。

「え、と、修行だよ。僕だって頑張れば強くなれる。強くなって――」

 少女はその先を聞くのが怖くなってしまう。強くなって、少女から離れてしまうのではないかと危惧してしまったのだ。

「無理。ウィリアムは強くなれない。才能が無いもの」

 だから、こんな酷いことを言ってしまった。でも少年は苦笑するだけ。それで安心してしまう。ウィリアム・リウィウスが自分の前からいなくならない。そんなことはありえない、と。

「大丈夫よウィリアム。剣は私に任せなさい。私がずっと守ってあげ――」

 少女はそこで言葉を詰まらせる。少年の眼を見て、少年の苦笑を見て――

(嗚呼、私はやっぱり馬鹿だなあ)

 ブリジットは嗤った。今度は、間違えない。

「……どうして、強くなろうとしているの?」

 ブリジットの変化に、ウィリアムは目を丸くした。もじもじと恥ずかしそうに、頬を落ち葉のように赤く染めながら、それでも勇気を出してブリジットに目を合わせた。

「君を、守りたいんだ。男だから、君が好きだから、君に認めてもらえる男になりたいんだ。だから僕は――」

 ブリジットは抱きついた。もう、離さぬように。

「ありがとう。私も貴方を愛してる。もう二度と離さない。私を守って。ずっとそばにいて。それだけで、充分私は幸せだから」

 二度と離さない。このぬくもりを。この幸せを。

 そんな、夢を見ていた。

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