幕間:とある日のベルンバッハ邸にて

 ウィリアムは自身の現状を理解できないでいた。何故、自分が他人の家で厨房に立っているのか。何故、白騎士と呼ばれる自分が、剣ではなく包丁を持ってウサギを捌いているのか。理解に苦しむ状況。頭を抱えたくなる。しかし仕方がない。世の中には成り行きというものがあるのだから――


 事の発端はベルンバッハ家に訪問したことであった。

 週に一度は欠かさず訪問しているが、今日はあいにくヴラドが不在。少しばかりヴィクトーリアに挨拶をして帰ろうと考えていたのだが――

「こほ、こほ、あ、ウィリアム様だぁ」

 ヴィクトーリアは風邪をひいていた。この時点で悪い予感しかしなかったが、無視をして帰るのも目覚めが悪い。というよりも自身とベルンバッハ家の力の差を考えたなら、そんな選択肢はありえないだろう。

 だからベッドの端に座り、辛そうなヴィクトーリアの話を聞いてやる。時折相槌を打つが、内容はほとんど頭に入っていない。そもそも話しに内容がない。昨日食べたお菓子だとか、昨日妹たちと庭で雪遊びをしたとか、そんな他愛もない話の数々。

 それらを怒涛の如くしゃべり倒すのだ。途中、「疲れては身体に毒です」と、いさめるも一瞬黙るだけですぐさま話し始める。ウィリアムはひっそりとため息を重ねていた。

「それで二番目のお姉さまの子供が可愛くて、この前一緒にお菓子を作って――」

 その瞬間、ヴィクトーリアのお腹が鳴った。さっと頬を赤らめるヴィクトーリア。一応羞恥心は持ち合わせているようである。そのことに失礼極まることだがウィリアムは驚いていた。悪いのはそう思わせる方である、とウィリアムは考える。

「……お腹が空かれましたか?」

「……ちょっぴり」

 ウィリアムは立ち上がる。離れようとする気配を察したのか、ヴィクトーリアは無意識に袖を掴んだ。その感触は既視感に溢れていて苦笑を誘う。

「給仕のものに何か作るよう伝えてきます。すぐに戻りますよ」

 その言葉を聞いてヴィクトーリアはしぶしぶ手を放した。

 背後に視線を感じながらも、ウィリアムはヴィクトーリアの部屋から退出した。


 そして今に繋がる。

 何と現在ベルンバッハ家には人がいなかったのだ。給仕やコックは買出しなどで出払っており、使用人たちも気を利かせようとしたのか外へ出ていた。なんとも間の悪い状況であったが、何も成果を残さずヴィクトーリアの元へ戻るのはウィリアムの矜持が許さず、結果何故か厨房に立つことになっていた。

 この時点でウィリアムという精密な男の歯車は狂っていた。ヴィクトーリアと会うといつも何かがずれてしまう。今日もそれを思う存分自覚無しに味わっていた。

「…………」

 ウィリアムは料理をあまりしない。料理にかける時間を何か別のものにあて、料理は基本的に外注してばかりであった。食材を買う時間、調理する時間、あまりにもったいない。と言っても料理が出来ないわけでもない。

「…………」

 料理は得手であると自身では思っていた。

 ウィリアムは知識と実践のスペシャリストである。手順書に従って身体を動かすことは得意中の得意。現在のウィリアムを築き上げたのはその積み重ねである。そして料理とは知識と実践を完璧にこなせばまずいものなど生まれない。下手を打たないからこそ、確実に美味い物ができる。

 しかし、此処で完璧なウィリアムに衝撃が走る。

「……まずいな。何処に何があるのかわからないぞ」

 ウサギをさばいたまではいいが、その先の味付けの段階に至り頭を悩ませる。塩と胡椒のありかがわからない。ないはずはないが、勝手に厨房を荒らすわけにもいかず、立ち尽くすしかなかった。ちなみにウサギはすぐ目に付く場所にぶら下がっていたので捌くことが出来た。厨房を荒らすことはためらうくせに、ウサギに対して躊躇がなかったことは永遠の謎である。

 ウィリアムにしては段取りが悪い。あまり料理は得手でないようだ。

「あの、何をしていらっしゃるのですか?」

 ウィリアムはびくりと驚きながら振り返る。何かやましいことをしているわけではないが、勝手に調理場を使ったのは事実。ぶら下がっていたウサギをこれ幸いときっちり捌いてしまったため言い訳のしようがない。

「……り、料理を」

 ウィリアムは苦しげに答えた。問いを発した少女はウィリアムも幾度か見たことある少女。この家の家人である。つまりはベルンバッハの娘であろう。

「え? ウィリアム様が、ですか?」

 相手も自分の事は知っているようで、警戒心は抱いていない。警戒よりもウィリアムが厨房に立って料理をしていることに驚いているのだろう。ウィリアム自身も驚いているのだから無理もない。

「ええ、ヴィクトーリア様がお腹を空かせているので、簡単なものでも作ろうと思ったのですが……勝手に調理場を使ってしまい申し訳ございません」

 ウィリアムに頭を下げられておろおろする少女。一通りおろおろした後に、ちょこちょことウィリアムの前まで歩いてきた。小動物的である。

「あの、お手伝いします」

 少女の申し出にウィリアムはありがたく思う気持ちと、自身だけで完遂できなかった気持ちが複雑に絡み合う。もちろんここで断るという選択肢はありえない。流石に歯車の狂ったウィリアムとてその程度の分別はつく。小さな少女とてベルンバッハの娘。好意を踏み躙るなど言語道断である。

「ありがとうございます。失礼ですがお名前を伺ってもよろしいでしょうか?」

 ウィリアムはあえて此処で名前を問うた。家人を把握しきってなかった自分の落ち度は反省しつつ、これからの関係で最も傷の浅い選択肢を取ったのだ。こういう場合の知ったかぶりはふとした拍子に致命になりかねない。開き直って聞いたほうがマシというもの。

「これは失礼を。ヴラド・フォン・ベルンバッハの十女、エルネスタです。以後お見知りおきを」

 ちょこんとスカートをつまみお辞儀をするエルネスタ。ヴィクトーリアを大輪のひまわりとするなら、此方はすみれのような少女であった。ヴィクトーリアよりかなり年下に見えるが、年は一個違いでしかない。年齢とは逆にヴィクトーリアと比べて礼儀作法は得意のようである。


     ○


 エルネスタは優秀であった。ウィリアムの欲するものをいち早く察知し、すっとウィリアムの手に届きやすい場所に置いておく。決して主張しない部分も好印象である。淑女とはかくあれ。ヴィクトーリアの妹とは思えない少女であった。

「シチューですか」

「ええ、風邪をひかれているなら汁物が良いと思いまして」

「良いと思います。ヴィクトーリア姉さまもシチューは好きだったはずです。特にお肉の入っているものはいつもおかわりしています」

 ウィリアムはエルネスタの助力の下、ウサギのシチューを作っていた。給仕たちが買い出しに行っているほど食材は少なく、作成できる料理は限られていた。その上で病人に対する料理となればシチューを置いて他にないだろう。

 そう思うほどウィリアムはシチューが大好きであった。塩で煮込めば大体美味い。が、ウィリアム迷言の一つ。以前カールに「それは極論じゃ……」と言葉を濁されたが、ウィリアムはシチューという料理に絶対の信頼を置いていた。

(食材の全てを摂取しようとすれば、煮るという選択肢しかありえない。熱を通すと食材は小さくなる。小さくなるということは何かが抜けている証拠。それを封じ込めるならスープの中で熱を通すべき。抜けたものはスープにしみこむはずだ)

 ラコニアでは週に三回はシチューで栄養を取っていたウィリアム。今でも週に一度はシチューをどこかで食べている。

「シンプルな味付けですね」

 大した手間も食材も使わず完成したシチュー。エルネスタに味見をしてもらったが少し薄味が過ぎるかもしれない。ただ、何となくウィリアムはこの味を崩したくはなかった。

「御令嬢の御口には合わないかもしれませんね」

「そんなことはありません。優しい味です。きっと姉さまも喜びます」

 エルネスタのお墨付きももらったのでこれで一安心。お世辞の可能性は大きいが、まずくて喰えないものではないだろう。間違ってもラコニアで食べたあれよりは美味しく作れた自信があった。

 あとはこれをヴィクトーリアに食べさせるだけである。


     ○


「……くぅ」

 ヴィクトーリアは寝ていた。ウィリアムとエルネスタは苦笑しあう。簡単な料理とはいえ病人が起きて待っているには長い時間。寝てしまうのも無理はない。

「起こしましょうか?」

 エルネスタがウィリアムを気遣って提案する。ウィリアムは無言で首を振った。

「わかりました」

 ウィリアムの意図を汲み取り、そっと扉を閉めるエルネスタ。寝られるうちに寝た方が良い。しっかり睡眠をとってこそ病気も治るというもの。

「そろそろ私も御暇させていただきます。会食の予定が入っておりまして。申し訳ありませんがシチューは適当に処理しておいていただけますか?」

 まさかこのようなチープな代物を、家主であるヴラドの目に入れるわけにはいかない。誰もいなかったからウィリアムが作っただけで、コックや給仕ならもっと美味しく栄養満点なものを作るだろう。今食べないのなら残しておく必要はない。

「そんな、もったいないです」

「もったいないというほどのものではありませんよ。コックたちには勝手に食材を使用して悪かったと伝えてください。あとヴィクトーリア様には遅くなってしまい申し訳なかったと。この埋め合わせはいずれ必ず、とお伝えして頂けますか?」

「承知致しました」

 少しの関わりだけで聡明さがにじみ出てくるエルネスタ。姉との違いに内心苦笑しながら、ウィリアムは「失礼します」と会釈をして背を向ける。

 今日はヴラド不在、ヴィクトーリア病気であったが、存外実りはあった。ほぼ絡みのなかったベルンバッハの家人と関わりをもてたのだ。悪くない収穫である。

(エルネスタか。少しルトガルドに似ていたな。器量にかなりの差はあるが)

 姉と比べて華に劣る。が、聡明かつ真面目。女性としての価値を問うならばヴィクトーリアよりも上かもしれない。まあ価値が上であろうが下であろうが、ウィリアムにとってはどうでもいいことだが。

(……腹減ったな。少し飯屋にでも寄るか)

 ウィリアムは歩きながら、何を食べようかと模索していた。


     ○


 ウィリアムが去った後、ベルンバッハ家には大輪の花が犇いていた。

 ベルンバッハ家の誇る十二の華。その中でも一際輝きを放つのが一女であるテレージア、四女ヴィルヘルミーナ、そして諸々の問題はあれど九女のヴィクトーリア、この三名の輝きは美女の多いベルンバッハ家の中でも格別。そしてその三名と十女エルネスタ、まだ幼い十二女マリアンネの五名と使用人が一堂に会する。

「体調はどう? ヴィクトーリア」

 テレージアが心配そうにヴィクトーリアに問いかける。「えへへ」と歯を見せて笑うヴィクトーリアは少し寝てかなり良くなった様子。

「歯を見せて笑わない! 何度言ったらわかるのヴィクトーリア!」

 四女ヴィルヘルミーナの叱責が飛ぶ。びくりと縮こまるヴィクトーリア。「まあまあ」とテレージアが宥めてやる。穏やかなテレージアときついヴィルヘルミーナ。ベルンバッハ家の飴と鞭である。

「それで? この貧相なスープは何?」

 ヴィルヘルミーナはぎろりと給仕を睨む。慌てる給仕たち。ちなみにヴィルヘルミーナ、この性格なのでよく夫と喧嘩をし、そのたびに実家へ帰ってきては当り散らす厄介者であった。本日もご他聞に洩れず喧嘩後の家出中、つまり不機嫌真っ只中である。

「すいませんヴィルヘルミーナお姉さま。こちらを用意したのは私です」

 エルネスタが頭を下げる。意外そうな顔でヴィルヘルミーナとテレージアがエルネスタに視線を合わせる。ヴィクトーリアはお腹が空いているのか、小さなマリアンネと共にスプーンとフォークを手に持っていた。かなりはしたない。

「貴女が料理をしたの? まあそれならいいんだけど」

「エルネスタの料理なんていつぶりかしら。美味しそうね。貴女一人で作ったの?」

 テレージアの問いに、エルネスタは一瞬ヴィクトーリアのほうに視線をやった。その視線に気付くこともなく、ヴィクトーリアはそわそわと食事の時を待つ。

「え、と。ひとりでは、ないです」

「でしょうね。貴女一人ならもっと気の利いた物を作ったでしょ。で、あなたの足を引っ張ったお馬鹿さんは何処の誰なの?」

 凄く答えづらそうな様子のエルネスタ。だが黙っているのもおかしいのでためらいながらも口を開く。その葛藤もなんのその、ヴィクトーリアとマリアンネはフォークとスプーンを握り締めている。

「ウィリアム・リウィウス様です」

 ヴィクトーリアはスプーンを落とした。テレージアは笑顔のまま固まり、ヴィルヘルミーナも顔を硬直させる。よくわかっていないマリアンネだけはスプーンとフォークをぶつけて遊び始めていた。とてもはしたない。

「……お菓子あげたのに。秘蔵の、大切なお菓子だったのに、酷いよエルネスタ!」

 泣き出すヴィクトーリア。意外と元気である。突如泣き始めたヴィクトーリアに驚いたのかマリアンネはスプーンとフォークを落としてしまう。

「ち、違うのヴィクトーリアお姉さま。ウィリアム様は風邪で倒れているヴィクトーリアお姉さまのことを思ってシチューを作ったの。私はそのお手伝いをしただけで」

 ヴィクトーリアは泣きながら考える。浮気ではないかと勘繰ったヴィクトーリアであったが、そもそもウィリアムとヴィクトーリアは付き合ってもないし婚約もしていない。という事実はヴィクトーリアの頭にはない。

「これを私のために?」

「はい」

「浮気じゃない?」

「もちろんです」

「やった! ウィリアム様の手料理だ!」

 現金なものでヴィクトーリアは一瞬で泣き止み、満面の笑顔がほころぶ。エルネスタは姉の変化にほっとしたような顔になった。

「……ヘルガ。これ捨ててちょうだい」

 使用人であるヘルガにヴィルヘルミーナは命じた。それを聞いてヴィクトーリアはむっとした顔で姉を睨む。エルネスタも、少し嫌そうな顔をしていた。

「ヴィルヘルミーナ。それを捨てることは私が許しません。ヘルガも下がりなさい」

 テレージアの顔に笑顔はない。それだけでヴィルヘルミーナは退いてしまいそうになる。本気で怒っているのだ。それが普段笑顔を絶やさないテレージアが笑みを消すということ。しかし――

「私はあの男がヴィクトーリアに、ベルンバッハに相応しいとは思えない。何処の誰とも知らない馬の骨。騎士位だってお父様が与えなければただの平民。姉さまはそんな男がヴィクトーリアに見合うと思ってるの? 私はそう思わない!」

 普段絶対テレージアに逆らわないヴィルヘルミーナであったが、ここは引き下がらなかった。テレージアとヴィルヘルミーナはにらみ合う。

「お父様の決定です。たとえ不服であっても、当主の命は絶対。ヴィクトーリアかエルネスタ、どちらかが婚約して軍との繋がりを得る。それは決定事項です」

 伯仲する二人。そこに――

「おいしい!」

 険悪な空気を裂くように、マリアンネの声が響いた。皆の視線がマリアンネに集まる。小さなマリアンネは待ちきれずシチューを食べていたのだ。

「あ、一番槍が! 私のウィリアム様なのに!」

 マリアンネにすら対抗心を燃やし食べ始めるヴィクトーリア。すると――

「うわあ。おいしい! すっごく優しい味」

 ヴィクトーリアの顔もほころぶ。流石に怒る空気でもなくなったのか、なし崩し的に押し黙るテレージアとヴィルヘルミーナ。エルネスタもあえて食べ始めることで流れを決定付けた。面倒な話は此処で終わり、食事にしようということである。

「ほんとね。凄く優しい味だわ。シンプルで、たまにはいいわね」

「単純、粗野、薄い。話にならないわ」

 など色々と言っていたが、なんだかんだ食事に専念し始める五人。

「生業でもないのに殿方でもお料理が出来るのねぇ。しかも病人に気遣ってちゃんと食べやすいものを作ってくれている。良い殿方みたいね」

「えへへ。世界で一番かっこいいよ」

「良い人だと思います」

「……取っちゃダメだよエルネスタ」

 わいわいと気付けば仲良く食事をする五人。結局この姉妹は仲良しなのだ。結婚して家から出てなお、姉妹はこうして集まって食事を取る。世間話に花を咲かせる。

 楽しい食事の時間が訪れていた。

「……どうしましたヴィルヘルミーナお姉さま?」

 黙りこくりスプーンを止めるヴィルヘルミーナに声をかけるエルネスタ。

「なんでもないの。なんでもないし、どうでもいいんだけど。これ、どこかで食べたことのある味じゃない?」

 ヴィルヘルミーナはゆっくりと口の中でシチューを転がす。

「あ、私も思った。ちょっと懐かしいなあって。うんと昔に、今日みたいに風邪をひいてた時だったと思うんだけど。食べたことある気がする」

 ヴィクトーリアも既視感に襲われていた。

 五人の輪の外。ヘルガはぴくりと反応する。

「あら、ヴィルヘルミーナはともかく、ヴィクトーリアも覚えているのね。凄く昔のことよ。十年以上前のこと。私も大好きだった使用人さんが、こっそり作ってくれたシチューにそっくりなの。特にこの優しい味が」

 ヴィルヘルミーナはぽんと手を打つ。

「ああ、いたわね。私あんまり使用人とか気にしないんだけど、あの人は何故か印象に残っているわ。さらさらの黒い髪が羨ましかったっけ」

「ええ、憧れていたわ。あの人に、凄く綺麗だった。名前は確か――」

 ぽかんとするヴィクトーリアとエルネスタ、そして考えることもせず一番に完食してご満悦のマリアンネ。

「「アルレット」」

 テレージアとヴィルヘルミーナの声が重なる。二人の記憶もまた重なった。黒い髪と、彼女たちに引けを取らない美しさを持った女性。とても優しく、上の世代の姉妹が大好きだった使用人。

 黒髪の乙女、アルレット。

 ウィリアムの、アルの姉。始まりの女性である。

「まあこんなシンプルな味付けだし、似ることもあるでしょ」

「そうね。まあたまにはこういうシンプルなお料理も悪くないわ」

「おかわり!」

「あらあらマリアンネったら」

「おかわり!」

「貴女は年齢を考えなさいヴィクトーリア。はしたない」

 すぐに姉妹の中では過去になる黒き幻影。世間話の一幕、大した意味はない。

 彼女たちは知らない。そのアルレットがどうなったのかを。彼女たちは知らない。その犠牲が何を生んだのかを。彼女たちは知らない。知ろうとしない。

 年長者である二人ですら。

「アル、レットォ」

 隅で凄絶な表情をしているヘルガ。そしてそれを視界の端に捉えるテレージア。

 彼女たちは知らない。己が父の罪を。そしてそれが生んだ化け物を。

 彼女たちが知ることはない。


     ○


 ウィリアムは一軒のぼろい建物の中にいた。隙間風だらけ、調理場の湯気が暖房代わりという非常に嫌悪感溢れる店であった。もちろんウィリアムにとっても不快である。それにこの店、ぼろさに加えて致命的に――

「まずい! おかわり!」

 まずかった。質より量を極めた先。餓えて死ぬ前なら行っても良いかな、と言われるほどに美味しくない店。知る人ぞ知るアルカスの暗部である。

「よくこんなまずいもんおかわりできるな」

「店主が言うなよ。まあ、まずくても肉は肉、シチューであることには変わらない。食事は体作りの一環。美味いまずいは二の次だ」

 店主は「そんなもんかね」と視線を外し適当に皿に盛り付ける。器から溢れるシチュー。ごろごろとサービスのつもりかいつも多めにお肉を入れてくれるところが素晴らしい。これで味が良ければアルカスで天下が取れただろう。

「お待ち」

「まずい!」

 このやり取りも幾度目か。すでに何年も行きつけの店。ラコニアから換算するといったいいつから通っているのか。ウィリアム自身数える気にもならない。

 そう、この店はラコニアからアルカスに移転したまずい食事処であった。主力メニューはウサギ肉のシチュー。突き抜けてまずいがその分量は半端ではない。飢えを凌ぐにはうってつけの店である。リピーターは少ない。

「まずいであります!」

 離れた席で小柄だが妙に存在感のある青年がまずさのあまり倒れた。それを見てげらげら笑う女性。異国の言葉で馬鹿にしているのか聞き取りづらい。

(ん? この言葉――)

 かすかに聞こえた言葉。引っ掛かりを覚えたウィリアムは耳をそばだてる。

「店主! 我はウサギ肉のシチューを所望する! この御仁と同じくらいの量で頼む」

 どさりとウィリアムの隣に腰掛ける大男。明らかに常人とは異なる雰囲気。ウィリアムはちらりと横目で見ただけで判断する。今の自分では勝てない相手だと。

「お待ち」

「ふむ。どれどれ……ガハハ! これほどまずいシチューは初めてであるな!」

 店主は特に気にした様子もなく。黙々と料理を作っていた。

「ところでそこな若者。来年、何処まで昇る?」

 謎の質問。他の誰に問われてもウィリアムは疑問符を浮かべただろう。しかし横にいる男の言葉は理解できた。推し量っているのだ、ウィリアム・リウィウスという人間を。

「さて、何のことやら」

 ウィリアムは勘定を置いて立ち上がる。このまま話し続けて自身を掘られるのは得策ではないという判断。相手が厄介であると思うが故の行動である。

「我が娘は大陸に戦火となり押し寄せんとしておる。ガリアスの姫君は若手を率いかの黒羊のキモンから都市ひとつを勝ち取った。黒狼のヴォルフは知っての通り『苛烈』を討ち取り名を上げた。そして青貴子は――」

 ウィリアムは去ろうとする足を止めた。別に意地になったわけじゃない。男は間違いなく『自分』を引き出そうとしている。だから煽っているのだ。他の者と比較すれば少し出遅れているのは事実。若さゆえ、そこを突けば脆いと踏まれた。

 そう思われたことが癪だから――

「俺はそいつらとは違う。目指すべきところが、な」

 ウィリアムと男の視線が一瞬交わる。

「いずれわかる」

 そう言い残してウィリアムは店を出て行った。その後姿に、男は何を見るのか。

(ふむ。あの男、武人ではないな。あくまで狙うは『天』、か)

 男は顎をさする。ある意味で未だ真の姿を見せていない新星。『白仮面』も『白騎士』も仮の姿でしかないのだろう。目指すべき場所は初めから決まっている。それはアルカディアの玉座ですらない。目指すべき到達点は――

『アーク。今の男、噂の白騎士ってやつ?』

 突っ伏している少年を捨て置き、赤い髪のブリジットが声をかける。

『そのようだ』

 顎をさする男、『騎士王』アークはブリジットを見る。

『……そう』

 ブリジットの眼が、

『彼がルシタニア出身のウィリアム・リウィウスってこと』

 ぎらりと輝くのを見逃さなかった。それは暗く何処までも深い絶望。今はまだ一縷の望みをかけて奔走している。だがブリジットはうすうす勘付いている。望みは果たされず、もはやこの世界に幸せはないことを。

『薄汚い白い髪ね』

 腰に携える剣を撫でてやる。優しく、そして宥めるように。

 今にも爆発しそうなモノを落ち着かせているように――


     ○


 ウィリアムは視界の端に捉えていたものを見逃さなかった。自分を見る眼、気配は消していた。あくまで同じ店にいる珍客に目を向ける程度。白い髪が珍しかっただけにも見えた。そういう視線は最近では慣れたものである。だからこそ――

(あの眼はそういう類のものじゃない。何かを探っている眼だ)

 ウィリアムはこれから始めて会う貴族の情報を一旦頭から消す。

(赤い髪、アルカディアの人間じゃない。罵倒している言葉もこっちの言葉じゃなかった。思考するには情報が少なすぎるな。少し、動かすか)

 ウィリアムは立ち止まる。建物と建物の間、その闇に目を向ける。

「金は払う。だが未熟なものでは気取られるだろう。まとわりついているあの巨漢の男はもちろん、寝ていた小僧も良い雰囲気をまとっていた。お前が動け」

 闇が蠢く。

「俺は高いぞ」

 ウィリアムは笑う。

「払う価値がある。この俺の、ウィリアム・リウィウスへの投資だからな。あの女程度路傍の小石でしかないだろう。だが俺は小石にも気を抜かない。俺の道の妨げになるものは全力で排除する」

 ウィリアムは懐に手を伸ばし、袋を掴んだ。その中身を確認もせず闇に放り込む。

「前金だ。あとは得てきた情報によって成功報酬を渡す」

 闇が掴んだ袋の中にはすべて金貨が詰まっていた。一般庶民が生きていく上で、ほとんど手にすることのない金という硬貨。それがぎっしり詰まっている。

「承った」

 そのまま消えていく闇。ウィリアムは満足げに視線を外した。

「さて、小石のことは一旦頭から消して、今からのことを考えるとしよう」

 ウィリアムは歩む。その道に隙はない。

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