青貴子対英雄王:震撼する世界

 三貴士たちはたまたま本陣を守るために下がっていた。それほどに逼迫した状況だったのだ。その判断が、彼らの命を救った。

「な、んだこれは」

 マルスランは呆然と声を絞り出す。焼ける森は敵も味方も区別なく飲み込んでいく。本陣を守るという選択をしなければ、おそらくマルスランたちはあの中にいただろう。

「聖ローレンスが放った? いや、ありえないわね。風向き的にはありえるけど、こんなことするまでもなく勝てていた戦。早攻めの妙は流石だったわ。なのに――」

 言葉にならない。この光景を見て言葉が湧いてこない。火計はあらゆる戦局で有効な戦術の一つ。しかし使い方を誤れば今のような惨劇を生み出してしまう諸刃の剣。このような無差別なやり方は、軍隊でなくとも決してしてはならない禁じ手。

「風向きが北からの風になっています。このようなご都合、為せるはただ一人」

 ラインベルカだけがこの惨劇を生み出した張本人を理解していた。敵も味方も、自分すらもどうでも良いと考えている人物。圧倒的自己中心的行動、その中でわずかに垣間見える破滅願望が透けた光景こそが、燃え盛る炎。

「ルドルフ・レ・ハースブルク」

 ジャクリーヌは初めて心底人間を恐ろしいと感じた。こういうことの出来る人間がいることに恐怖を覚えた。共に戦ってきた戦友を敵諸共焼き殺す。そんな鬼畜の所業を他人事のように行える心根に恐怖した。

 何よりも、三貴士どころか子飼いのラインベルカすら知らされてなかった今回の火計。退いてなければ皆まとめて焼け死んでいた。そのことが恐ろしい。

「だが、これで我らの勝ちだ」

「良くて痛み分けでしょ。まあ、それでも充分だけどね」

 失った戦力を考えるとネーデルクス側も聖ローレンス側も大差ない。戦での損耗は圧倒的にネーデルクスの方が多いが、度重なる不運と今回の火計によってそれはイーブンになった。それをどう捉えるかは人に寄るだろう。

「ところで件のルドルフ様は何処にいる?」

 マルスランが疑問を述べる。本陣にルドルフはいなかった。ジャクリーヌも見ていない。

 ラインベルカはハッとして駆け出した。

「追わんでいいのか?」

「わたくしが追う必要あるかしら? あーもう、この戦ほんとに疲れたわ。戦った気もしないし、気味が悪いったらありゃしない」

「そうだな。まるで通じなかった。先代が決して手を出さなかった理由もわかる。あれは人を超えている」

「こっちの大将も別の意味で人じゃないわよ。まったく、こんな悶々とした気持ちで冬に入るなんて……お肌に悪影響が出そうだわ」

「安心しろ白薔薇の。お前の皮膚はそこまでやわじゃない」

「何ですってこのクソ鬼!」

 二人は言い合いをする。炎から視線を外し、まるで現実逃避でもするかのように。それも仕方ないことであろう。この戦、戦と呼べるものかわからない何かは、とうに彼らのキャパシティを超えていた。理解も納得も遠く、ただ結果だけがある。それを不気味に思わない人間などいない。


     ○


 勝者なき戦場。全てが燃え尽くされ、勝者も敗者もこの場にはいない。

 残っているのは二人の絶対者。爛々と燃える世界にただ二人だけが君臨する。

「やあはじめまして。『英雄王』ウェルキンゲトリクス」

 見下ろす者。断崖の上に立つ。

「貴殿が『青貴子』ルドルフ・レ・ハースブルクか。お初にお目にかかる」

 見上げる者。断崖の下に立つ。

「でも存外貴方ももってるねえ。こんな周り一帯火の海なのにここまで来れるなんてさ」

「運はあまり良い方ではない。全て力にて掴んできただけだ」

 ウェルキンゲトリクスは火の海を掻き分けて進んできていた。部下は何人も火の海に沈んだ。気付けば単身。それでもひと目、ひと目だけでも見ておかねばならないと歩を進めた。そしてこの場に至る。

 ルドルフは当然の如くこげ痕一つ無いが、ウェルキンゲトリクスはいくつか火傷の痕も見受けられ灰やこげ痕まみれであった。天で悠然と下界を見下ろす神と、地上で醜くもがく人間の構図そのものが此処にある。

「だから僕には勝てない。貴方がどれだけ強くても、生きる上で一番重要な天運が無いからね」

 ウェルキンゲトリクスはその言葉に薄い笑みを浮かべる。

「かもしれぬ。ゆえに試させてもらうぞ」

 ウェルキンゲトリクスは弓を構えた。堂に入った構え。構えた瞬間からわかる。これは必中の弓。相手に死を与える必殺の矢。

「当たらないよ。それが当てられるなら、僕も貴方も此処にはいない」

 距離は少し離れている。かつ対象物が上にある。しかも風向きは北から吹く向かい風。確かに当てにくい状況。それでもこの場を、少しでも武をかじったものが見たならばこう答えるだろう。「英雄王は外さない」と。

「貴殿が神か否か。これは人の試練である」

 ルドルフは平然としている。当たらない予感があった。そしてその予感が外れたことなど人生で一度としてない。

「無駄さ」

 ウェルキンゲトリクスも構えたまま不動。恐るべきプレッシャー。対峙するものを硬直させる英雄の圧力。ただそこにいるだけで、人は恐れ戦く。

「射ればわかる」

 風がやんだ。世界から音が消える。背後に渦巻く炎も遠く、静寂がそこにあった。

「俺は神など信じない。信ずるは人。この世は人のものだ」

 ウェルキンゲトリクスの言葉に目を見開くルドルフ。その一瞬の揺らぎ、英雄王は絶対の自信と共に弓を放った。それは下方から打ち上げたとは思えぬほどの破壊力で持ってルドルフに殺到する。英雄王の引力をまとった矢。それは吸い込まれるようにルドルフへ――

「だからさ、これが当たるなら僕は退屈してねーんだよォ!」

 肉が爆ぜた音の後、ルドルフの顔を血煙が覆う。ルドルフの顔には笑み。ウェルキンゲトリクスの顔には――

「あーあ、僕の綺麗な顔がびちゃびちゃだよ。くせーしさ。あ、でも死んでくれた鳥さんに感謝しなきゃね。ありがとう見知らぬ鳥さん。まあ僕鳥類全般嫌いなんだけどさ」

 矢の射線上に突如現れた鷹。それが盾となりルドルフは生きた。まさに神の子。世界は彼を偏愛し過ぎてる。もはや人ではない何かであろう。

「ってかさ、腐っても神に仕える神の使徒なら、さっきの言葉はまずいんじゃないの? 僕、笑っちゃったよ」

 顔を血で濡らしながら、けらけらと笑うルドルフ。

「俺は一度として神を信じたことは無い。神を利用してはいるがな。そもそも神が居るなら俺がいの一番に殺す。嫌いなんだよ、神が。それを信じる奴らも」

 ウェルキンゲトリクスの雰囲気が変わった。あの静謐な神々しさは消え、その笑みは人間の獰猛さを凝縮したもの。強欲で、貪欲で、渇ききった人の笑み。

「認めよう。お前は神の子だ。ゆえに殺す。俺が殺す。神が地上にいてはならないのだ。我らが信ずる姿なき虚像のみが、唯一無二の存在でなければならない」

「あっはっはっは! 存在しないのに唯一無二の存在ときたか! 良いね、あんた最高に良いよ! つまんねえ奴だと思ってたけどところがどっこい! まさに人、人を凝縮した存在、人の中の英雄じゃないか!」

「その通りだ。俺は『英雄王』ウェルキンゲトリクス。愚かで脆弱な人々を導き、俺の愛する唯一無二を守ることこそ絶対の行動原理。ゆえに強いぞ。俺こそが最強だ。半世紀、それが揺らいだことは無い」

 本性を現したウェルキンゲトリクス。もう一度弓を構える。その圧力、その引力、初めてルドルフの顔に変化が現れる。風が吹き荒ぶ、背後の火がウェルキンゲトリクスを燃やそうと火勢を強める。大地が揺れる。

 それでも、揺らぐことの無い人の王。凄絶な笑みと人を凝縮した瞳がルドルフを射殺す。

「人の世に神は要らぬ。死ね、ルドルフ・レ・ハースブルク!」

 その圧力に負け、ルドルフは一歩だけ後退した。その一歩に、ルドルフは愕然とする。

「この、僕が?」

 矢が放たれる。先ほどより条件の悪い世界を、先ほどより速く強い矢が奔る。それは英雄王の見せたことの無い表情であった。ずっと秘してきた真の姿。隠し通してきた己が素性、そこに秘めし愛こそがウェルキンゲトリクスの原動力。

 神は要らぬ。要るは人のみ。この世は人のものである。

「そうか、僕は――」

 ルドルフの顔に、初めて諦観のような、ほっとしたような本当の顔が浮かんだ。

「ルドルフ様ァ!」

 そこに立ち入る黒き風。ウェルキンゲトリクスも、ルドルフ自身も驚いていた。

 大鎌が矢を砕く。全力疾走を続けていたのか息も絶え絶え。しかしその瞳は下にいるウェルキンゲトリクスへと向けられていた。許さぬと、殺してやると、強烈な殺意がその場を支配する。

「ライン、ベルカ?」

 ラインベルカは速く走るため、武装は必要最低限のパーツだけをまといこの場に参じた。死神になるためのフルフェイスの兜もなく、本来なら意識が邪魔をして他の三貴士にさえ劣る力しか出せない状態。それでもなお滾らせるは殺意の嵐。死神の時よりも強烈な――

「よくも坊ちゃまを。貴様を殺すぞウェルキンゲトリクス!」

 息も絶え絶えに唸るラインベルカ。その殺意の嵐にウェルキンゲトリクスは――

「く、くく、くっはっはっはっはっはっはっは! なんだ、面白いじゃないか死神の少女よ。以前会った時とは雲泥。その顔は良い、実に良い。この殺意に秘められた愛はとても心地よいぞ、若く未熟、だからこそ胸を打つ」

 大笑いするウェルキンゲトリクス。その様を見てもラインベルカは警戒を解かない。絶対に主を守ろうと全力で威嚇している。

「どうやら貴殿を殺すのは俺ではないようだ」

 ウェルキンゲトリクスは躊躇いなくルドルフたちに背を向けた。ラインベルカは追撃をかけようと崖から足を――

「だが、俺の領域に立ち入れば殺す」

 ウェルキンゲトリクスの背から放たれる重圧。それがラインベルカを後退させた。

「俺に三の矢を撃たせるなよ。俺は俺の国に危害を加えぬ限り動かぬ。此度はあくまで試しの場。貴殿を推し量るだけの場に過ぎん。確かにネーデルクスに神は在った。それは認めよう。だが、本気の俺は……神すらも凌駕する」

 その言葉が嘘でないことを、英雄王の背が何よりも雄弁に語っていた。その双肩に乗せられた期待や重圧、国家の威信をすべて背負い、それすら輝きに変えてしまうものこそ英雄。その中でも最強の王こそがこの男――

「じきに来る騒乱の時代。その波に飲まれず、しっかり己の中の神を殺してもらえ。すでに神話は絶えた。残り火を呼び覚ましたとてひと時の夢。人の世に根付くことは無い。ストライダーがただの名と成ったように。いずれ全てが消えゆく」

 ルドルフやラインベルカには理解できない。この場、否、世界を見渡してもウェルキンゲトリクスだけがルドルフの中身を、その神を殺す刃をも見抜くことが出来た。それは自身の長き経験の中からか、それとも今なお続くものなのか、それは誰にもわからぬが。

「ようこそ人の世へ。さらばだ神の子よ。戦場で出会わぬことを祈っているぞ」

 ウェルキンゲトリクスが退いていく。悠々と火の海の中へ消えていく。その背の遠きは遥か彼方。人を極めし人の王、ゆえに人は彼を英雄王と呼ぶのだろう。

「……くそ、知った風な口を叩きやがって」

 ラインベルカは英雄王が去ったのを確認し、すぐさま自身の着衣を噛み千切り、その布でルドルフの顔をぬぐう。物凄く嫌そうな顔のルドルフであったが、それに気付いているのかいないのか、構わずせっせと汚れをふき取り、怪我をしていないかを確認していく。

「誰が来いと言った?」

 ルドルフの眼はやはり冷たい。ラインベルカは口をきつく結び、

「申し訳ございません」

 それでも顔を拭く手を止めない。それがルドルフを苛立たせる。自身の命令を遂行するだけの手駒。その中で飛びぬけた資質があったから優遇しただけ。何か特別な感情があったわけではない。そんなもの、ルドルフにあるはずが無い。

「誰が助けろと言った?」

「申し訳ございません」

 ルドルフの冷たい声がラインベルカの耳朶を打つ。それでも、手を休めない。

「僕が負けると思ったのか? この僕が、ルドルフ・レ・ハースブルクが負けると」

「思いませぬ。出過ぎた真似をして申し訳ございませんでした」

 ラインベルカはルドルフに傷一つ無いことを確認し、ようやく手を休めた。今の彼女にルドルフの眼を見る勇気は無い。うつむき、主の怒りを待つ。命令されていないことをしたラインベルカが悪い。こういう出過ぎた真似をルドルフは一番嫌う。わかっているのに、全部わかっているのに、それでもラインベルカは同じ過ちを繰り返す。

「……疲れた。おんぶ」

 ラインベルカはその言葉を聞いて顔を上げる。そこには苦虫を噛み潰したような顔をしながら、それでも普段と同じルドルフがいた。

「お任せください坊ちゃま!」

 ラインベルカは嬉しそうに笑う。面倒ごとを命令されただけなのに、決して楽しいことではないはずなのに、それでも嬉しそうに笑う。

「揺らさないでね。僕もう寝るから」

「はい!」

 雪がルドルフとラインベルカの頬を撫でる。気付けば空には厚い雲、北の方を見れば一面が白くなりつつある。耐え忍ぶ季節がやってくる。どの国も生きるだけで手一杯となる季節、それゆえの平穏がやってくる。

「雪、冬が来ましたね坊ちゃま」

 ルドルフを背負い立ち上がるラインベルカ。声をかけられたルドルフは――

「ぐう」

 速攻寝ていた。それに微笑み、ラインベルカもまたその場を去る。


 冬が来た。雪が世界を覆う。火も、疫病も、すべては雪に埋もれて消えていく。白が世界を覆い、血も、涙も、何もかもを覆い隠してしまう。

 冬が来た。つかの間の休息である。


     ○


 今年最後の戦。その結果に世界が震撼した。

 結果としてみれば侵攻したウェルキンゲトリクスが追い払われた形。相応の痛手は負わせたものの、戦術目標を達成したのは防衛側である。過程や被害を鑑みればネーデルクス側が何とか引き分けに持ち込んだ。それは世界も理解している。

 問題は――


「この俺やストラクレスでさえ引き分けが関の山。それほどの男が……何故このようなガキと引き分けている! 領土という戦果も手放し、撤退したという結果だけが残った。このような無様を晒した奴と、この俺様が同列だというのか!」

 エル・シド・カンペアドールは激怒していた。此度の結果、耳に入った時は何かの間違いかと思った。『英雄王』と『青貴子』の一戦。いくら神の子とはいえ巨星の前では無力。開戦した当時、ウェルキンゲトリクスという名を聞いただけで結果が見えていた。

 そしてその予想が覆ったのだ。

「結果だけ見れば敗戦ではないか。あの男が、この俺様でさえ勝ったことのない男だぞ奴は! それがこのざまとは何事か!」

 烈日の怒りは恐ろしかった。冬が来たというのに聖ローレンシアに自軍を差し向けようとするほど、エル・シドという男の心は震えていた。激情が迸る。自身でさえ土をつけたことのない怪物。それに土をつけるという偉業をネーデルクスの若造が成し遂げた。

「俺たちは三大巨星ぞ! 誰かに負けるならせめて同じ巨星でなくばならない。よりにもよってあやつが敗走。新たな時代の幕開けとでも言うつもりか!」

 エル・シドの考えていた絵図と、世界は早くもズレ始めた。『騎士女王』アポロニアは連戦連勝でガルニアを来年には手中に収めそうな勢い。『黒狼』のヴォルフはサンバルト王国に雇われ、エル・シドの部下であったエスタード将軍、『苛烈』のデシデリオを討ち取り名を上げたばかり。そして『白仮面』改め『白騎士』ウィリアム・リウィウスも戦果を上げようやく百人隊長になり、王から直接騎士位を授かる名誉を得たこともあいまって、国民から絶大の支持を得ている。ガリアスの将も血が入れ替わり始め、若手が多くなりつつある。

 時代の流れは加速している。巨星の考えを超えるほどに。

 極めつけは今回の一件。『青貴子』が『英雄王』と競り合ったという事実。戦の中身を見ることが出来ぬ以上、結果という外面だけで判断せねばならない。なればウェルキンゲトリクスが撤退し、領土も何も得ておらぬ以上――

「この俺のあずかり知らぬところで時代の流れを進めよって……実に気に喰わん!」

 結局のところこの男、その戦に参戦できなかったことに憤慨しているのだ。戦争狂、特に強い相手との戦こそエル・シドの望むもの。実はエル・シドにとってルドルフはいろんな意味で相性の良くない相手なのだが(戦えばおそらく数刻もしないうちに興味が失せて帰る)、そんなこと知る由も無いので、勝手に怒って勝手に暴れまわっていた。

「誰でもいいから俺様と戦しろォォォォォォオオオ!」

 近隣諸国から恐れられ、近づいただけで白旗が揚がる昨今の戦場。エスタードが誇る巨星は退屈の極み、その中にいた。


     ○


 ストラクレスは大笑いしていた。時代の速さに、世界の加速に、笑いでもって応える巨星。実際に楽しみで仕方が無いのだろう。来るべき戦の時代が。

 今回の一件はその幕開けの年を飾るに相応しい派手なものになった。半世紀以上、英雄王の歴史に敗北の文字は無かった。今回も敗北というには少し難しい状況であったが、英雄王を若き新星が弾き返したのは事実。

「わしはこの流れ、征することが出来るか?」

 自身に問いかける。武人である己は間髪要れず「応!」と叫ぶ。しかし将としての、上に立つものとしての考えは異なる。揺らぎ始めた自身の足場。打ち崩しにかかる若き新星たち。老いたとて未だ全盛期。今まではこれと似た流れを何度も征してきた。

「じーじ、お菓子を食べよう」

 オストベルグの王、エルンストがお手製のお菓子を持ってストラクレスの下に現れる。激動の世にあって何とも暢気な姿。

「ガハハ。なし崩し的にその呼び名で通しますのお」

 ストラクレスの座る長椅子の前に立つエルンスト。

「気に障ったなら謝るよ。でも僕にとって貴方はやっぱりじーじなんだ。おひげがぼーぼーで、声が大きくて、身体も大きくて、弱い僕をいつも支えてくれた」

 エルンストはそのままストラクレスのとなりに座る。ついでにお菓子も広げる。

「わしは老いた。いずれは先に逝きますぞ」

 お菓子をつまむストラクレス。幸せそうに目じりを緩める。

「それは……耐えられるかなあ?」

「耐えねばなりませぬ。それが王である者の使命じゃからの」

 王は大勢の生と死の上に立つもの。ストラクレスとて例外ではない。王あっての国家。間違えてはならない。この世に平等など存在しないのだから――

「せめて死ぬときは僕のそばで。ベッドの上にしてよ、じーじ」

「それは約束できかねますの。わしは戦士ゆえ」

 哀しげに顔を歪めるエルンスト。それすら抱き笑うストラクレス。

「陛下は民を愛せばよい。それだけで民は陛下を愛すじゃろう。民を律するはわしやキモンがおこないまする」

「わかっているよ。僕にはそれしかないからね」

 溢れる温かな空気。これこそがエルンストの唯一にして最大の武器。貴族であろうが奴隷であろうが関係なく己に取り込んでしまう。この空気感こそエルンストがオストベルグの王となった要因。

「世界は動き始めておる。わしもそろそろ、高めていかねばな」

 ストラクレスは笑う。己が主は台頭し始めた新星の中で最も弱い光しか放たない。しかしその光は万人を包み癒す。絶大な輝きは時として人の心を壊してしまう。人を操るにはそれが効率的かもしれないし、ストラクレスもまたそういうタイプであった。

 だが、もし人が命を懸けて、この優しき王を身命を賭して守り戦ってくれたならば、それは何者にも負けない最強の存在になるだろう。そういう意味ではエルンストは綺羅星となる資質を備えている。あとは輝くまで誰が守るか――

(それこそがわしの最後の仕事じゃて)

 『黒金』のストラクレスは静かに牙を研ぐ。絶対の庇護者として。


     ○


 ウェルキンゲトリクスは躯なき部下たちの墓の前に立っていた。

「ウェルキン、さびしそうね」

 穏やかな空気をまとう初老の女性が隣に立つ。ウェルキンゲトリクスもまた穏やかな表情を浮かべていた。二人の間に静謐さも神々しさも、英雄王がルドルフらに垣間見せた人の英雄としての顔も無かった。あるのはただ長き年月を重ねた大樹のような穏やかさとおおらかさ、それだけである。

「セレスタンを失いました。他にも大勢を。そして結果は敗走。この罰はなんなりと」

「ふふ、貴方を罰したらこの国は一瞬でなくなるでしょう?」

 ウェルキンゲトリクスがいるからこの小国は七王国に数えられている。英雄王が勝ち続けているから、この国は国としての形を保てているのだ。その英雄王が揺らげば大国に囲まれた小国一つ、消滅するのに数日も必要ない。聖ローレンスが英雄王をどうこうすることなどありえないのだ。とっくの昔に双方一蓮托生なのだから。

「何故神の子を見逃したのですか? 貴方はいつだってこうと決めたらてこでも意見を変えなかったのに。それほどまでの相手でしたか?」

 ウェルキンゲトリクスは己の手を見つめる。

「いえ。おそらく仕留める事はできたと思います。もちろんかなり厄介な相手でしたが。懐刀の死神も、私との実力差に見た目ほどの開きは無いですが、まだ私の方が上でしょう」

「であれば何故?」

「神の子を殺すべきは、人の悪しき面ではなく人の善き面であった方が、美しいかと思いました。私が昔、貴女に殺されたように」

 驚いたように目を丸くする女性。それを見てウェルキンゲトリクスも薄く微笑む。

「あらまあ。そういうこと。じゃあ仕方が無いわね」

「そうですね。セレスタンらには申し訳なく思います。いずれ謝罪に赴く時も来るでしょう。そしてそれは、思っていたより早く来るやもしれません」

 年を取った。長き年月を互いがこの国に捧げてきた。そして終わりが近づきつつある。セレスタンが成長すれば、もしかしたら変わっていたかもしれない潮目。

(いや、セレスタンでは変えられまい。今生まれ出でる新星たちの中では埋もれてしまっただろう。此度死したは神の宣告か)

 血の入れ替えが無かった聖ローレンス。絶対的柱である国王と教皇がカリスマ過ぎた。特に国王が絶対者として長く君臨しすぎた。もはや流れは変わらない。後はその流れの中でどう生きるか。

「それでも、俺が君と、君の守りし人々を守ろう。半世紀そうしてきたように」

「無理はしないでねウェルキン。貴方に神のご加護があらんことを」

 聖ローレンス王国は元の版図を取り戻して以降、一度としてその領土を広げたことは無い。それは今回のような例外的な状況でも変わらなかった。今の広さが限界なのだ。ウェルキンゲトリクス一人の引力が届く範囲は。これ以上広がれば他国に付け入る隙を与える。そこから切り崩されることもあるだろう。

 ウェルキンゲトリクスの目的は守ること。この国の守護者として、まだ死ぬわけにはいかない。見た目の若さはそのまま全盛期の力を有している証。人同士の戦なら、まだまだ負ける気はしなかった。

 最強の守護する聖ローレンス王国。この国が楔となっているゆえに七王国のバランスは保たれている。今回の件はそれに揺らぎを与えたが、それでも最強が君臨している事実は変わらない。

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