復讐劇『序』:停滞、そして前進
ウィリアムは戦勝記念のパーティーに参加していた。此度の戦は東方との小競り合いであったが、小国とはいえ一国を落としたのでこのような派手な催しとなっていたのだ。
主役はギルベルト・フォン・オスヴァルト。敵将軍を討ち取り、文句なしの第一功を獲得していた。今回、ウィリアムは配置場所の関係で裏方に徹するしかなく、もちろんそれなりの活躍はしていたが、今回だけならば昇進するには少し弱い。
「あら、白仮面様よ」
「仮面の下はお美しい御顔なのでしょう? 今宵のお相手はいるのかしら」
名を呼ばれなかったウィリアムは、誰にも見えないよう顔を伏せ舌打ちした。今回だけならば昇進は出来ない。それは納得できる。しかし今までの積み重ねを考えた場合、とっくに自分が百人隊長に任命されてもおかしくないと思っていた。少なくとも先ほど最後の方に名を呼ばれ、百人隊長に任命された端役よりも、活躍の少なかった此度の戦でさえ比較すれば上を行くだろう。
貴族の女性たちにも受け入れられ始め、多少色者扱いではあるが社交界でも居場所が出来つつあった。白仮面を知らぬものなどいない所まできたのだ。アルカディアの第三市民の英雄。市民階級には絶大な人気を誇る。だというのに昇進できないのは、承服しかねる現実であった。
「ウィリアム。気を落とさないでよ。次こそきっと昇進できるよ」
前回の戦で昇進したカールはすでに上級百人隊長。ギルベルトは今回の戦で師団長にまで昇進した。ヒルダやアンゼルムは筆頭百人隊長、グレゴールは伸び悩み気味だが上級百人隊長で同世代では出世している方である。ウィリアムだけが一向に前進できていない。
「気にしてないよカール。それよりも後でギルベルト様に一言お祝いしなきゃな」
「そうだね! でも、今は近寄れないなあ。周り人だらけだし」
「落ち着いたら二人で行こう」
「うん!」
カールがウィリアムのそばを離れた後、独りになったウィリアムは壁に寄りかかる。正直、今回に限らずさっさと昇進して、上を目指していくつもりであった。どう考えても総合力の面でウィリアムを超える存在はいない。単独の武力ならギルベルトの方が勝るかもしれないが、軍対軍でギルベルトに劣る気はない。
(確かに最近でかい戦もないし、大きな武功も上げていない。にしてもこれは――)
ここまで昇進できないのは何か裏がある。しかしウィリアムにそれを確認する術はなく、誰が見ても文句なしの武功を上げるまでこのまま停滞し続けるしかない。
こうしている間にも、ガルニアではアークランドがとうとう最後の一国を相手に戦をしており統一も時間の問題とされ、ヴォルフ率いる『|黒の傭兵団(ノワール・ガルー)』は七王国最弱であるサンバルト王国の傘下としてエスタードと戦をし、第一功上げる大活躍。サンバルトから勲章を授与されていた。
世界が動く中、ウィリアムだけが停滞している。
アルカディアとネーデルクスの一戦から、すでに一年と半年が経過していた。
○
「おめでとうギルベルト! 大活躍だったね」
カールの言葉を聞いて振り返るギルベルト。顔にはほんのりと笑顔が――
「貴様もいたのか、下種」
ウィリアムを視認した瞬間、穏やかな色を浮かべていたはずの眼が蛇蝎を見る目に変貌した。カールが「まあまあ」と宥めるも、ギルベルトの表情は変わらない。ウィリアムも外面は笑顔だが、中身は(死ね頭猪戦士め! 親の七光り坊ちゃん!)とまで罵っているからお互い様である。
「大した相手はいなかった。たまたま先頭に立っていた小国が滅びただけ。俺が何をしたというわけでもない。まあ、攻城戦に参加しなかった貴様よりかは活躍したが、な」
ウィリアムめがけて思いっきり嫌味を言うギルベルト。ウィリアムの頬が引きつる。
「ごめん。僕、後ろで待機って言われたから」
ぐすんと泣きべそをかき始めるカール。当たり前だがウィリアムが参加していないということはカールもしていないということ。実は結構気にしていたので、ギルベルトの言葉が思いっきり刺さってしまったのだ。
「す、すまん。そんなつもりはなかった。貴様らのように後方で守りを固めてくれる人材がいるから攻め手が自由に戦えたのだ。だから胸を張っていい」
さっきと言っていることが百八十度違う。
「ほんと?」
「もちろんだ。そうだろうウィリアム、ぐん」
物凄く嫌そうな顔で同意を求めてくるギルベルト。何が彼をそこまでさせるのか、まあ主の機嫌を取らねばならないウィリアムにとっても渡りに船であることには違いない。
「もちろんですカール様」
公の場で様を着けることは忘れない。公私はちゃんと区切らねばならないのだ。
「そっかー。でもそろそろ活躍しないとウィリアムがかわいそうだからね。どうにかならないかなあ」
本人が活躍することなど頭の隅にもないカール。いつまでもウィリアムほどの男がこの状態で良いはずない。ウィリアムの優秀さを一番知る者として、昇進させてあげたいという思いが日に日に高まってきていた。
「……そうか。そうだな。少しこのゲ、ウィリアムを借りるぞ」
「え? 別に構わないけど。いきなりどうしたの?」
「ちょっと話があってな。貴様も構うまい? それとも貴婦人と踊りたいか?」
「いえ、お供させていただきます」
呆然とするカールを置いてギルベルトとウィリアムはこの場を離れていった。
○
戦勝パーティーが行われているのは今回の総大将、コンラート軍団長の私邸であった。コンラート軍団長は貴族でもあり、伯爵を冠する歴史あるアルカディアの貴族。その邸宅は華美ではないが、きちんと整えられており、二人が眺める庭一つとっても貴族らしさが見受けられた。
その中庭を歩くギルベルトとウィリアム。
「……貴様が昇進できない理由を教えてやる。その解決方法もな」
いきなりの発言。ウィリアムは胡散臭いものを見る目でギルベルトを見た。仮面の下ゆえ、視線はわからぬと踏んだが、おそらくギルベルトには意味がない。
「その代わり、ひとつ条件がある。まあ、飲まんと言う選択肢は無いがな」
「条件を言ってくださらないと飲めるものも飲めませんが」
「貴様の命に関わることではない。金に関わることでもない」
条件を言うつもりはないようで、一方的に飲ませるつもりなのだろう。そもそもウィリアムが断らないという前提に立ったやり取り。その通りだが、ウィリアムにとって見通し辛いこの状況は、少し腹立たしいところもあった。
「どのような条件であれ、飲まざるを得ないようですね」
「そういうことだ。貴様が口ではどう言おうと、上を目指しているのは俺でも理解している。昇進して自分の百人隊を持ちたいと心の底から思っている。だから貴様は断らん」
中庭にぽつんと置いてあった椅子に座るギルベルト。促されたのでウィリアムも座る。
「まず貴様が昇進できない理由だが……貴様も理解している通り簡単な話だ。貴様が外国人で、優秀、この二点。何か理由があってアルカディアに招かれた異国の客人以外、アルカディアが異国出身のものに百人隊長の地位を与えたことはない。つまり前例がないのだ。そして優秀であるということ。百人隊長の地位は軍部の上層部が推薦して与えられる。貴様はそいつらに好かれていない。むしろ畏れられている。御しきれぬと判断されたのだ」
ほとんど想像通りであったがゆえ、ウィリアムではどうしようもない状況であった。賄賂を贈ろうにも伝がなければ送ることすら出来ない。送ったとしてもそれを受け取ってもらえるとは限らないのだ。否、この状況で受け取ってもらえると考える方が愚かである。
「テイラーはあれで父親が精力的に金をばら撒いている。子の知らぬところで、な。だから出世も早い。もちろん武功を上げること前提だが。そしてテイラーは腐っても貴族だ。加えてただの貴族でもない。金を持った貴族だ。恩を売りたい貴族は腐るほどいる。軍関係に特化した貴族は、比較的貧乏貴族も多いからな」
推薦が必要。そしてそのようなコネを持たないウィリアムにとって八方塞な状況。明白ゆえに如何ともしがたい現実が其処に横たわっていた。
「今の貴様に存在する選択肢は、大きな武功を上げるか、貴様の庇護者であるテイラーが相応の地位に着くか。どちらにしろ運が絡むし遠い話だ。何よりも、俺にとっても不都合でな。今回は協力してやる」
ギルベルトは席を立ち、ウィリアムの前に近寄る。ウィリアムを見下ろす形になった。
「クルーガーを頼れ。奴は貴様に協力的だ。相応の見返りを求められるだろうが、その辺は自分で何とかしろ。一応、俺からも話を通しておく」
アンゼルム・フォン・クルーガー。かの俊英を頼れとギルベルトは言う。
「奴は俺と違ってクルーガー家の次期当主だ。俺がオスヴァルトを動かせば角も立とうが、奴がクルーガーを動かそうといずれトップに立つなら問題にならん」
ギルベルトの表情をウィリアムがうかがうことは出来ない。出来ないが、どういう表情をしているのかくらいは想像がつく。おそらくそれは――
「ご助言ありがたく頂戴いたします。それで、条件の方は?」
ギルベルトが話を通すという以上、アンゼルムも無下には出来ないはず。解決の糸口は見えた。あとはギルベルトの条件だけ。もちろんアンゼルムのことも考えねばならないが、それはまた別の話である。
「貴様にとっても損のない話だ。そして、貴様が何を言おうと条件は果たされる」
ギルベルトはそのままウィリアムの横をすり抜け、パーティー会場のほうへ戻っていった。残されたウィリアムは天を仰ぎ――
「く、くく、くはは。ようやく、俺も前に進める。感謝するぜお坊ちゃま」
おそらく条件はウィリアムの考えている通り。そうでなくばこのような回りくどいことはしないはず。時を動かしたかったのはギルベルトも同じなのだろう。しかしいずれは後悔してもらう。頂点に二人は立てないのだから。
○
ウィリアムはクルーガーの邸宅に来ていた。定刻通りの到着。すでに門前にはアンゼルム本人が待ち構えていた。
「ご無沙汰しております。まさかご本人がお待ちしていられるとは思っても見ませんでした」
「こちらこそご無沙汰しております。積もる話もあると思いまして。こうやって待たせていただいた次第。ささ、大した家ではございませんが、お上がりください」
アンゼルムは謙遜しているが、クルーガーはさすが歴史ある大貴族の名に恥じぬ門構えであった。派手でなく無骨な内装はまさにアンゼルムを輩出したクルーガーの家。武門らしく質実剛健の中に、ほんの少し貴族らしいところを混ぜているのが憎らしい。
「この辺りは妹の趣味でして。元々姉の部屋にあったものをこうして通路に飾っているのです。すでに姉は嫁ぎましたから、妹もさびしいのでしょう」
「なるほど。妹君がおられましたか。あとで挨拶させてください」
「気を使わなくても構いませんよ。あれは表に出すには少しじゃじゃ馬で……まだ社交界にすら出せぬ始末。そろそろそういうことも考えねばならぬ年齢なのですが」
ウィリアムは仮面の下で苦い顔をしていた。このアンゼルム、ギルベルトやグレゴール、ヒルダたちと違い一切本当の顔を見せない。隙があまりにも少なく、それゆえウィリアム自体あまり好んで近づこうとはしなかった。好かれているのか、嫌われているのか、まったく読めないからである。
アンゼルムとウィリアムの前に仕立てのいい燕尾服を着た老人が現れた。しっかりと洒脱な角度の一礼をして、二人に視線を合わせる。
「若様。広間を暖めておきました。アンネリーゼ様もお待ちしております」
「そうか。だがすまぬ。今日は込み入った話ゆえ、私の離れを使う」
「は、離れを、でございますか?」
「誰も近づけるな。もちろんアンネリーゼもだ」
「はは。仰せのままに」
離れを使うと聞いて、老人の顔色が変わった。それが驚きなのか、それとも別の感情なのか、初対面のウィリアムにはわかりかねるが、普通ではないということだけは理解できた。警戒するに越したことはない。
「こちらです。ウィリアム殿」
「ええ。それでこの前の――」
他愛のない世間話をかわしながら、相手の品定めに徹する。しかして隙を見せないのがアンゼルム。厄介な相手だとウィリアムは見えぬところで汗をかいていた。
○
クルーガー家の邸宅。当然の如く庭付きであるが、その庭の隅にぽつんと建つ一軒の小屋があった。遊びのない実直な構え。
中に入ってみると、暗がりの蝋燭が一本煌々と輝いており、暗がりの理由は周囲を囲う布。これで日光を遮っているのだろう。中心には小さな円卓が一つと、奥にこの部屋に似つかわしくない豪奢な椅子が一つ。それ以外の家具は見当たらない。
(……少し、油の匂いが)
変わった内装の小屋。これがアンゼルムの言う離れなのだろう。
アンゼルムがドアを閉める。これで外界から、完全に遮断された。
「此処は私以外誰も近づきません。代々当主自らが管理する……秘密の部屋とでも言いましょうか。よく逢引などに使われたそうです。そして、それがわかっていても家人であるならば近づけない。そういう、場所です」
ぬらり。何かがウィリアムの頬を撫でる。
「もう少し早くにお声かけいただけると思っていたのですが……もちろんそれはウィリアム・リウィウスの矜持が許さなかったのでしょう。わかります。とてもわかります」
暗がりゆえ、蝋燭の周りしか見えない。アンゼルムが、背後で何をしているのか。見ることは適わない。しかし、雰囲気が変わったことだけはわかる。
「お座りください。そこが貴方の席です」
「いえ、椅子が一つしか見当たらぬようなので。どうぞアンゼルム殿が――」
どさり。ウィリアムの背後で何かが落ちる音がした。
「いえ。それが貴方の椅子なのです。さあ、お座りを」
ぴちゃぴちゃ。何かの音がする。おぞましい雰囲気が場を支配していた。
ウィリアムは警戒しながらも椅子に腰掛ける。まるで拵えたかのようにぴったりと、ウィリアムに座りやすく作られた椅子。座り心地だけでわかる。これは高価で非常に上質な特注品であることが――
「お話はギルベルト様より伺っていると思います。此度は――」
ウィリアムはぞくりと嫌なものを感じ取った。暗がりで見えないが、そこにいるであろうアンゼルムから発される雰囲気。
「貴方様が他者に様などと。言ったはずでウィリアム様。ここは外界から閉ざされた場所。誰も近づけぬ、私たちだけの場所です。なればどうしてギルベルト如き矮小な男に敬称を用いねばならないのですか? たとえそれがエアハルトであっても……貴方様らしくない」
ウィリアムは、アンゼルムの変貌っぷりに驚きを隠せないでいた。武人として、将として、鑑たらんとする存在。そういう無骨で実直な姿を、アンゼルムの本性と見てきた。
「おっと……申し訳ありません。少し興奮し過ぎました。そうそう、お話でございましたね。もちろん理解しております。クルーガー家は全面的に貴方様の支えになることを約束しましょう」
あっさりと手に入った百人隊長への道。ウィリアムは拍子抜けしそうになる。
「ただし、ひとつ条件がございます」
ウィリアムは顔を引き締める。当然あると考えていた条件。金は商会に用意させているし、出来ることならばどんなことでも為す覚悟はある。あとはその内容を知るだけ。
「条件とは如何に?」
暗き闇が、じわじわとウィリアムの方ににじり寄って来る。ほの暗い、闇の中で燃える黒き炎。まるで陽炎の如く、実体なく揺らめいている。
「簡単でございます。この私、アンゼルム・フォン・クルーガーを――」
ウィリアムは生唾を飲む。
「貴方様に最も近いしもべとして欲しいのです」
ウィリアムは突然のことに頭の処理が追いつかなかった。しもべ、どちらがなるのか。自分がしもべとなるのか、それとも――
あまりにも唐突ゆえ、思考の外側ゆえ、ウィリアムをして驚き思考が飛ぶ。
「私を貴方様の影として欲しいのです。貴方は光り輝く存在だ。今は月光の如く妖しく光り輝く存在だが、いずれその光は太陽を喰らい、世界をあまねく照らす真の光となる。その影として私は働きたいのです」
アンゼルムの言葉はあまりにウィリアムの理解を超えていた。ウィリアムをして目の前の男は狂っていると断言できる。それが本当であったならば――
「それを私に信じろと? 私に一切のデメリットがないこの取引。タダより高いものはないとロード・テイラーには教わっている」
ウィリアムはこの取引に裏があると見た。そうでなくばありえない。何か考えがあって、アンゼルムはウィリアムを利用しようとしている。そうとしか考えられない。常識から鑑みれば――
「信じてくださらないのは残念ですが、疑われることは最もな話。それでこそウィリアム・リウィウス。それでこそ我が主、我が君」
影が動く。鞘から剣が引き抜かれる音がした。ウィリアムは立ち上がり腰に手を伸ばす。幾度か何かが切れた音がする。白銀のきらめきが見える。それはウィリアムを狙ったものではなく、別の、何かを狙ったものであった。
「私の忠誠。その一端をお見せしましょう! 御覧あれ! 我が王よ!」
部屋に光が差す。アンゼルムが斬ったのは部屋を覆っていた布であったのだ。そして、それは日光を遮るものではなかった。用途は別であった。
布の下から現れたもの、それを見てウィリアムは絶句する。
「貴方様の軌跡。ラコニアから現在に至るまで。私の知る得る全ての光景を絵師に描かせました。これから先は私自身の目でそれを見届けたい。我が願いはそれだけなのです」
部屋に光が満ち、壁一面に飾られたウィリアムを題材にした絵の数々が顕わになる。ラコニアでの戦い。攻城戦。北での戦い。『白熊』との一騎打ち。バルディアスの邸宅での暗殺者との戦い。その立ち姿は色んなカットを描かせていた。ネーデルクスでの戦いもある。もちろんただの肖像画も多く、とにかく狂ったような数の絵を取り揃えていた。立っている絵、座っている絵、横向きの、後ろ向きの――
「こ、れは……仕込みにしては手間がかかり過ぎていますな」
「影に敬語は不要。ぞんざいに扱ってください。我が主」
いつの間にかアンゼルムはウィリアムの足元にへりくだり、靴を舐め始めていた。よく見れば先ほどの水音、ウィリアムの足跡を舐めていたのだろう。床に湿っている部分がある。
「あれは……私が前に使っていた仮面、ですか?」
丁重に飾ってあるもの。ウィリアムの記憶にあるルトガルドに選んでもらった最初の仮面。その半分は拾ったのだろう。もう半分は暗殺者を仕留めた証拠として提出したもの。そちらもしっかり揃えている辺り、本気であった。
アンゼルムが心底嬉しそうに、宝物を見せ付けるようにそれを抱き掲げる。
「その通りです。あの時の暗殺者との一幕。私は心惹かれました。心底美しいと、私の心はその時初めて動いたのです。ただクルーガー家の跡取りとして生きてきた、それだけの私が。あの月光を反射するまばゆき白髪。麗しの御顔を拝見し、堕ちた」
芝居がかったように崩れ落ちるアンゼルム。もちろん仮面には傷一つつけないよう細心の注意を払っているのが見て取れる。
「貴方様の影として、力不足は重々承知しております。私自身、もっと高める必要があることも存じております。その上で、影の分際で交換条件などと不敬極まりないですが……どうか私をそばに置いてください。必ずや貴方様のお役に立ちます。あの、カール・フォン・テイラーなどとは比較にならないほどに」
カール・フォン・テイラー。その名が出た瞬間、少し、ほんの少しだけ声に震えが出た。ウィリアムはそれを聞き逃しはせず、それによって今回の真偽を見極めた。
「もちろんだ、アンゼルム・フォン・クルーガー。お前を影と出来ること、ありがたく思う」
その言葉を聞いた瞬間、アンゼルムは嬉しさのあまりのけぞった。「もったいなきお言葉。恐悦至極に存じますぅ」と絶頂する。それを見てウィリアムは頭を抱えたくなったが、このような相手でも頼らねばならない現状があるので、笑顔を崩さない。崩さないが、正直引いていた。
(まあもう少ししたら落ち着くだろう。流石にこれからずっとこんなテンションの奴とは付き合っていきたくない)
ウィリアムは百人隊長への道を切り開いた。が、それと同時に黒い影をも身の内に入れることになる。毒にも薬にもなりうる存在。本性を表した黒き炎。招き入れざるを得ないが、しかしてその結果がどう転ぶか、今のウィリアムには想像もできない。
○
「くっく。面白いものを身の内に入れ込んだようじゃのう」
ウィリアムの対面でお菓子をついばむのは夜の王ニュクス。土産として持ってきたものだが、この一時間の間であらかた喰らい尽くしていた。
「アンゼルムのことか。相も変わらず恐ろしい。何処から漏れたのやら」
ニュクスは表の礼節とやらを重要視しない。昼には昼の夜には夜のルールがある。敬語等々はニュクスにとって無意味に等しく、それを理解した上で話す際はこのように気楽な風に言葉を発していた。
「漏れた訳ではない。アルカディアで起きた事柄はすべてわしの耳に入るだけのこと。ぬ、足りぬのお。次回はもっと量をもってまいるのじゃ。よいな」
「仰せのままに。ところでニュクス。そろそろあのルビー、返していただきたい」
ウィリアムは用意していた別の袋をニュクスの前に置く。中身は当然金貨。ルビーと比するだけの金が詰まっている。
「もう用意しよったか。商才があるのう」
くすくす笑うニュクス。意外そうに言っているが、このタイミングでウィリアムが用意することなどわかっていたに違いない。
「最初から勝てる戦だった。それだけのこと。まあ、此処からは楽しく勝負させてもらうさ」
ウィリアムの頭の中には新たな戦の絵図が浮かんでいた。溜め込んだ資金は次の商売へ、そこでも勝って次へまた食指を伸ばす。喰っても喰っても飽き足らない。自分の性分がとことん貪欲であることをウィリアムは自覚していた。
「結構気にいっとるんじゃがのお。わしにくれ」
「断る。俺もそいつは気に入っている。似たような奴ならくれてやってもいいがな」
「それはいらんのお。わしはこれが欲しいんじゃ。ぬしの欲しがっとるこれがのお」
つくづくニュクスは自分と似ている、とウィリアムは考える。誰も欲しがっていない貴金属に価値はない。欲しいのは皆が欲しがっているもの。その羨望の価値こそを欲しているのだ。極論すれば同じ価値であるならば路傍の石でもかまわない。人とはそういうものだと二人は考えている。
「やれんよ。今後、俺も着飾る必要があるんでな」
ニュクスから奪い取るウィリアム。「うう、いけずう」と手放す辺り、ニュクスとて商売上の約定を違える気はないのだろう。
「昼はなかなか面白き状況。ぬしも早く掻き回せ。わしは退屈じゃ」
ふわあと欠伸をするニュクス。だらしなくごろごろしている姿を、ウィリアム以外が見たことがあるのか、少し興味深い。
「そして忘れるな。ヴラドのこと」
「もちろん。ただなかなか取っ掛かりがなくてな」
「残り三年。約定を違えればぬしを殺す。死体からルビーも剥ぎ取る。ぬ? わしとしてはそっちの方が良いような気がしてきたのう。どうじゃ? 死なんか?」
軽々しく飛び出る死という言葉。ただしニュクスが言うと重い。
「死なんし、ちゃんと殺す。そろそろ動くさ。動くための目処もついた」
アルカディア軍の百人隊長ともなればほとんどが貴族であり、外での扱いも貴族相応になってくる。その地位があれば、貴族相手にでも積極的に動けるようになるだろう。ようやく、長い時をかけて、スタートラインに立つことが出来た。
「うぬ。忘れておらんならそれでよい。釘は刺したが、わしはぬしをひとつも疑っておらんのじゃ。面白い話じゃろ? ぬしほど抜け目ない男はおらんのに、ぬし以上に信頼できる男もおらん。矛盾じゃて。かか」
ごろごろと揺れ動くニュクス。川のように流れる黒き髪もまたそれに応じて揺れる。ふと、ニュクスは何かを思い出したかのように手を打った。
「ふむ。そう言えばわしから祝いをやってなかったのぉ」
何に対する祝いか、百人隊長なのか、それとも別の――
ニュクスが唐突にウィリアムの眼前に現れ、口の中に侵食してきた。
「もがが!?」
一応形式上接吻に当たるのだろうか。実は此処に至るまで姉以外と接吻などしたことなかったウィリアム。これで童貞だというのだから世の中わからない。
「ぶは!? な、何をする! いきなり……はしたないぞ!」
慌てふためくウィリアムは普段とはまったく異なる顔つき。顔を真っ赤にしてたじろいでいた。まるでその姿は『アル』のような――
「これが死じゃ。人は愛とも言うがの。まあ慣れておけ。今後使うこともあるじゃろうて。ぬしが望む望まずとも、人は死ぬし人は愛する。楽しめ、現世をのぉ」
ふわあと欠伸をして、いつの間にかいつものベッドの上に戻っていたニュクス。ウィリアムはふくれっ面だが、それをニュクスが楽しそうに見ているので、逆に平静を取り戻す。機嫌を損ねれば損ねるほど玩具にされるだけなのは理解していた。
「次回はより多き菓子を所望する。ではの」
「ああ、毒入りで殺してやるさ」
「かかか。わしを殺せる毒があるならば、それもまた面白きことじゃて」
そう言っていつも通り面会が終わる。最後に見たニュクスの顔はしてやったりとご満悦の表情であった。
堅く閉ざされた扉の前に立っているウィリアムは、隣に立つ白龍の方を見る。
「あんな奴より俺に仕えないか? 報酬は弾むぞ」
「調子に乗るな。殺すぞ」
いつも通りの言葉の応酬。ウィリアムとて本気で言っていない。白龍はニュクスに心酔しているのだ。それゆえ寵愛を受けているウィリアムが許せない。殺せるものなら殺したいとすら思っているだろう。だが、その愛ゆえウィリアムに手を出せないのはまさに皮肉。
(実に不自由。俺は違うさ)
ウィリアムは取り戻したルビーを首にかける。久方ぶりだがしっくりくる感覚に、取り戻したという実感が湧いた。未だ道半ば、これからもっと事業を拡大し、もっと金を稼ぐ。剣で戦し、金で戦する。
(さあ、楽しくなってきた)
ウィリアム・リウィウスはようやく前に進み始めた。
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