幕間:ルトガルド・フォン・テイラー

 ウィリアムは一人、アルカディア首都のアルカスを歩いていた。特に何か考えがあるわけでもない、ただただぶらりと露天街をふらつく。あまり無駄を好かないウィリアムとしては珍しい無為な時間。考えるべきこと、課題が多すぎて、一時的に頭がまったく働いてくれていないのだ。

(カイルは闘技場で仕事、ファヴェーラもギルドメンバーの不始末でてんやわんや。なんともなあ……そもそもこの前――)


「厳しいことを言うようだが、そういうことは誰かに教えてもらうことじゃない。出来る奴は出来るし、出来ない奴は永遠に出来ない。才能とか、センスとか、その類のものだ」

「……そりゃテメエ、俺に才能が無いってのか?」

「そうは言ってない。むしろ、お前はあり過ぎる、と俺は思う。普通知覚出来るならすぐにでも使えるようになるはずなんだがな。まあ、使えるってのも語弊があるか」

「わけわからねえよ。わかるように説明してくれ」

「それは無理だ。お前だって俺の全てを知るわけじゃない。逆もまた然り、だ」

「……ケチ」

「悪いな。まあひとつアドバイスをするとすれば……自分を受け入れろってこと、か。…………いや、忘れてくれ。お前にそれはあまりに酷だ」

「意味がわからん」


 ウィリアムは先日していたカイルとの会話を思い出していた。結局何も掴めなかったことが、未だにウィリアムの中でしこりを残す。

「あーあ、手っ取り早く強くなれねえかなあ」

 ウィリアムにとってある意味初めてのどん詰まり。どん底はいくらでもあったが、思考を張り巡らせれば、努力すれば、大体のことは突破できた。学がなければそれを手に入れられる環境を入手し、線が細いなら栄養価の高いものを摂って適切に鍛えてやるだけ、知識の取得、実践。それで事足りた。

「これからどうすっかね」

 いつまでもテイラー家に厄介になるわけにもいかない。一軒家は無理としても、借家という選択肢は当然考えるべき。外国人なら貧民街でも分相応だし家賃も安い。

(いや、小さな紛争でも出張ることはあるし、今は宿暮らしでも……でも結局高くつかないか? 本当に安いボロ小屋でもこの際……さすがに奴隷じゃねえんだし世間体が――)

 こんな簡単なことでさえ、頭が回らない所為で答えをはじき出せない。

(何が世間体だよ馬鹿馬鹿しい。本格的に焼きが回ってきたな。早く冷やさないと、どんなミスするかわかったもんじゃねえ)

 ウィリアムは頭を掻く。どんな時でも機転が利くのが自身の強みであった。今はその強みが死んでいる状態。早く何とかせねばと思っても、思考がどうしても『あれ』に行き着く。不可思議な力の差、そして、瞳に映った醜い自分の貌。

(くそっ、今は忘れろ! 考えるべきことはたくさんあるだろうがよ!)

 それでも、頭にこびりついて離れてくれない。

 ウィリアムは苦悩していた。


「困りますよお嬢さん。商品に言われもない難癖つけて……安くして欲しいなら正直にそう言って欲しいですがねえ」

「いえ、その、あの」

「うちの評判が落ちちまったらどう責任とってくれるんですかい」

 ウィリアムは視線を上げる。目の前に出来ていた人垣。その中心には布を取り扱っている露天。おそらく客との揉め事。普段のウィリアムなら当然首を突っ込むことはしない。しかし――

「どういう状況ですか?」

 今のウィリアムはイライラしていた。

「ああ、こっちのお客さんがね。うちの商品に文句をつけてきたんだよ。この布はネーデルクス産じゃねえってんだ。こんな美しい絹織物、ネーデルクス産じゃなけりゃあ何処産だってんだい、なあ兄さん?」

 露天の店主のほうに歩み寄るウィリアム。布に文句をつけた客人をちらりと見るが、下を向いており顔をうかがい知ることは出来ない。ウィリアムも興味はない。

 あくまで――ストレス発散である。

「なるほど、美しい織物ですね。少々触れさせていただいても?」

 店主は一瞬躊躇する。この瞬間、ウィリアムはどちらに非があるかを察した。

「なに、決して疑っているわけではありません。私には布の良し悪しはわかりませんから。美しく貴重なモノに触れてみたいだけです」

「あ、ああ、もちろんかまいませんよ」

 あとは潰して発散するだけ。

「なるほど、これは良い絹織物だ。ところで店主、これは……どういう織り方をしていますか? いえいえ、参考までに、ですが」

 その瞬間、店主の顔色が変わる。背後のクレームを入れた客人もぴくりと反応を見せた。

「そんなもんどーでもいいこったろ! あんたは関係ねーんだ。さっさとそれ置いてどっかに行きな!」

 ウィリアムは笑みを浮かべた。それは一見すると好青年然としているが、

「ネーデルクス産の絹織物といえばサテン、朱子織です。こちらの布は同じ絹織物ですが平織り、どちらが良い悪い、良し悪しをここで語るつもりはありませんが、ネーデルクス産という売り文句は嘘と言わざるを得ないでしょう」

 一皮剥けばどす黒い感情に満ち満ちている。悪魔の笑み。

 店主の顔が蒼白になる。

「あ、あんた布の良し悪しはわからないって……」

「ええ、わかりませんよ。良し悪しは、まるでわかりません。ただ、知識があるだけです。ネーデルクス産は朱子織のサテンで、アルカスの北西部で生産される絹織物は平織りのもの。市場価格は……同じ絹織物でも倍は違うでしょう。どちらが高いかは、言うまでもありませんね」

 ぐうの音も出ない店主。周囲の人垣が一斉に攻撃的な視線を店主に向けていた。こうなってしまえばもうここで商売など出来ないだろう。

「まあ、平織りは丈夫ですしモノ自体は良いものだと思いますがね。素人目ですが」

 そう言ってウィリアムは露天に背を向けて歩き出した。がくりとひざをつく店主をちらりと窺い、暗い欲望が充足されていく感覚に身を任せる。

(あーすっきりした)

 先ほどより幾分か回るようになった思考。他者を降し、蹴落とし、人生の一部を喰らい取る。勝つことの気持ちよさを再認識し、ウィリアムはほんのり上機嫌になっていた。

(しかしこんな露天街に来るような中下流の連中がよく真贋を見極められたもんだ)

 サテンと平織りの絹織物では色々異なるが、同じ絹織物であることに違いはない。一級市民らが訪ねる専門店で扱っているなら問題だが、二級、三級、市民でないものまで訪れる露天街で、絹織物の差異などわかる者がいたのは想定外であろう。

(そもそもこんな場所で指摘するほうが間違ってる。高級品なんてあるわけがない)

 客引き用の贋物はあっても、このような露天に高級品などあるわけがないのだ。それをわざわざ指摘するのだから空気が読めていない。店主にも舐められるはずである。

「……さーて、頭も回ってきたしひとつ物件でも漁ってみますかね」

 ウィリアムはひとつ伸びをして、少しすっきりした気分を増幅させる。

「……ぁの」

(まずは部屋を借りるかな。やれることからこなしていこう)

「あ、のぉ」

 ウィリアムの袖がぴくぴくと動く。

「ん?」

 ウィリアムの視線は、はじめは動いた袖口、次にそこをつかむ細くきれいな指、華奢な腕をたどって、一人の人物にたどり着いた。その瞬間――

「なっ!?」

 ウィリアムの顔面が硬直した。

「ぁ、先ほどは助けていただいて、ありがとうございました」

 ぼそぼそと小さな声でしゃべるのは、ルトガルド・フォン・テイラー。ローラン・フォン・テイラーの娘であり、現在ウィリアムとともに軍で働くカール・フォン・テイラーの妹である。

「い、いえ。私はただ本当のことを言っただけです。ええ」

 頬をひくひくさせ、へたくそな作り笑いをするウィリアム。あまりの不意打ちに、先ほどまでとは別の意味で自身の制御ができないでいた。

(ま、まずいところを見られた。いや、見られたというか、こいつがクレームを入れた張本人か。うかつ過ぎるぞ、俺)

 ウィリアムは失礼にならない程度にルトガルドを見る。改めてルトガルドを見て、そのあまりのオーラのなさに愕然とした気持ちになる。群衆にまぎれれば一瞬で見失ってしまうほど、美人でありながら人としての雰囲気といったものが感じられない。

(大都市アルカスで、しかもこんな場末の露天街で、貴族の、しかも知り合いの女性と遭遇する確率ってのは如何ほどもんだよ!? クソったれ!)

 内心で悪態もつきたくなるというものである。

「ぁの、先ほど物件を漁るという言葉が聞こえたのですが?」

 現れたのが突然ならば、質問も突拍子ない。

「え、ええ。いつまでもテイラー家にお世話になるわけにもいきませんし、せっかくカール様ともども正規の軍人としてお給金もいただけるようになったので、そろそろ住む場所を考えようかな、と思いまして」

 話を聞いていくうちに、ルトガルドの表情が露骨に曇る。その表情を見て、何かうかつな事を言ったかと、ウィリアムは内心慌てふためいていた。

「迷惑なんて……家のものは誰もそう思っておりません、たぶん」

 消え入りそうな語尾。あまりにも小さな声なので、聞き取るので精一杯である。

「そ、それに、ぉ、お金はある程度の余裕ができるまで、貯めておいたほうがいいです。余裕ができたら土地やモノに変えるべきですけど、ぃ、今はまだ焦る必要はないと思います、はい」

「いや、しかし……」

「…………」

 ルトガルドは無言で袖をつかみ続ける。いったい何が彼女をこうさせるのか、ウィリアムには理解できない。そもそも行為の意図がつかめない。

「と、ところでルトガルド様は何用でこのような場所へ?」

 ウィリアムがこの謎の状況を打開すべく、特に興味もない話題を振る。ルトガルドはもぞもぞと顔を上げた。

「……買い物です。その、家は服飾関係の商会をまとめている関係で、私も裁縫やデザインも少しできて、友達にパーティ用のコーディネイトをしてほしいと頼まれて、それでその、買い物をしていました。まだ布も買えてないのですが」

 布を買うという行為上、おそらくルトガルドは一から服を作るつもりなのだろう。服を見繕うのと、服を作るのとでは当然意味合いは異なる。推測だが、友人は前者を依頼したのだろう。しかしルトガルドは後者だと判断して、貴族の娘でありながら、こんなところまで一人で買い物に来ていたのだ。

 ちなみにこの推測、大外れであることが後に判明する。先の話であるが。

(ば、馬鹿すぎる)

 ウィリアムは頭を抱えたくなる気持ちであった。ルトガルドは、ウィリアムの想像する貴族のお嬢様とは別の次元で浮世離れしていた。この手合いはウィリアムが一番苦手なものである。予想や計算ができないのだから――

(しかもまだ袖を離さない。わけがわからん)

 このままではこうしているだけで日が暮れてしまう。どうにかしてルトガルドを動かす方法を、この指を離させる方法を考える。導き出される答えは、

「買い物、御邪魔でなければお付き合いしてよろしいでしょうか?」

 妥協。とりあえずいろいろ置いといて相手の用事に乗っかる。その隙に逃げ出す機会もあるだろう、とウィリアムは考え出した、もとい妥協した。

「邪魔じゃ、ないです。すごく、ありがたいです」

 ルトガルドはふわりとした笑みを浮かべる。相変わらず袖を指がしっかりつかんでいるのはご愛嬌。

「それでは行きましょう。ところでその……歩きづらくないですか?」

 言外に指を離せと言ったつもりであったが、

「そう、ですか?」

 まったく伝わらなかったようである。

 先導する青年とその袖をつかみうつむいて歩く少女の、奇妙な買い物が始まった。


     ○


 買い物は多岐に渡った。ルトガルドはそれこそ金属細工以外のすべてを自前でやるつもりらしく、布だけで何種類も購入し、糸や髪飾りに使えそうな石なども必要分そろえた。荷物は増え、貴族の娘に持たせられない量になったとき、ウィリアムは逃げ出すのを断念し、荷物運びに専念した。

「ずいぶんな量ですね。ルトガルド様もパーティには参加なされるのですか?」

 大荷物を一人で持つウィリアム。ルトガルドは幾度も半分もつと提案したが、さすがにそれは固辞した。世間体と男としてのプライドがあるのだ。

「いえ、お誘いはあったのですけどお断りしました。あまりパーティとか表に出るのは苦手で……そろそろ出なきゃとも思うのですがなかなか」

 だとするとこの荷物の量は変である。いぶかしげなウィリアムに気づいたのか、ルトガルドが付け加える。

「一着分だけじゃなくて何着か作って選んでもらうつもりなんです」

 あっさりと言い切ったルトガルドだが、そのあまりの労苦にウィリアムは苦笑いを浮かべるしかない。どれほど大事な友達なのか知らないが、あまりにも手間隙をかけすぎである。もしこれが無償だとしたら、本格的に馬鹿が極まっている。

「ぁ、あそこも見ていいですか?」

 ルトガルドがてくてくと歩み寄った先は、仮面屋。

(不気味だな。というかパーティってのは仮面舞踏会(マスカレード)だったのか)

 露天にはいくつもの仮面がぶら下がっており、その目や口の空いた部分から深淵が覗く。ウィリアムにとって仮面なるものは縁遠いもの、つけたこともつけようと思ったこともない。

「仮面は木彫りであったり陶器や金属など色んな材質があります。木彫りならともかく他の素材を一から加工するのは難しいので、モノを買ってから加工したいと思っています」

 先ほどからウィリアムが思うのは、普段寡黙で声の小さいルトガルドだが、服飾関連のことには少し饒舌になるということ。どうやら本当にこの手のモノが好きなようである。

「仮面、ねえ」

 ルトガルドが一心不乱に仮面を品定めしている間、ウィリアムも手持ち無沙汰なので仮面を見る。ルトガルドの言ったように、木彫りや陶器などさまざまな材質が見受けられる。そしてどれもが、どこか不気味さをかもし出しているのだ。

(自身の貌を秘するためのもの。表情も読み取れないし、相手に気取られることもない。便利っちゃ便利だが)

 しかして仮面をつけるということは、隠し事がありますと言っている様なもの。

(俺には不要だろう。わざわざ怪しまれる要素を作る必要もない)

 ウィリアムは自身の結論に納得し、仮面から視線を外した。

 空は重苦しいほどの曇天。周囲は雨が降るのではないかとそわそわしている。屋根のついていない露天などは早々に店じまいするところも見受けられる。

 ぽつり、雨粒がウィリアムの頬を打った。どうやら降り出してくるらしい。

「仮面は自身を秘匿するものでもあり、自分の内面を省みるものでもあります」

 ウィリアムは話し始めたルトガルドのほうに視線を向ける。背を向けたルトガルドの表情はウィリアムからは見えない。

「仮面と言うものを一枚はさむ。その薄皮一枚の境界。しかしそれによって自身を客観視でき、第三者的な視点を得ることができるんです。自分の存在を認識するためにこそ、仮面はあるのだと思います」

 ウィリアムの脳裏には暴走する己の姿が、醜く変じた己が貌が浮かぶ。

 雨が、強まる。

「自分にだって自分自身が理解できているわけじゃない。私は私がわからないし、貴方はきっと貴方がわからない。そんな惑いの、一助になれば好いと、思います」

 ルトガルドが振り向く。今までどこに隠していたのかというほど艶やかな笑み。ウィリアムはごくりとのどを鳴らす。理解していた気であったルトガルドの、見たことのない笑みを見て――

「どうぞ。きっと、似合うと思います」

 ルトガルドが手渡した『それ』は白の仮面。目元を覆う『それ』は独特な形状をしていた。一見して騎士のヘルムに近しい雰囲気だが、どこか頭骨のような不気味な白さ、形状をしている。仮面を彩るような形で引かれた赤のラインは、戦場の炎を、夥しい血肉を彷彿とさせた。

「これを、私に?」

「はい、貴方に。今日買い物に付き合ってくださったお礼です」

 ただの人には、この仮面を見て騎士を想像するだろう。美しさと強さを兼ね備えている『それ』は、まさに騎士がつけるにふさわしい。

 しかし、ウィリアムから見た仮面の印象はまったく異なる。亡者の王、死霊を統べる王、まるで『自身』の映し鏡。ぞくりと粟立つ気分であった。これほど自分にぴったりな代物があっただろうか。

 雨が強まる。ほとんどの露天は急いで店仕舞いをし、すでに目の前にあった仮面屋も姿が消えていた。この場に立つのは濡れ立つ二人の人間のみ。

 ウィリアムは気づけばもらった仮面を装着していた。胸には服の内側に隠していたはずのルビーが揺れる。どちらもルトガルドからの貰い物。そしてどちらも、ウィリアムという男に似合いの品。それは外面も、そして内面も――

 冷たい思考が帰ってくる。外界から半枚隔離されたことにより、より自身を明確に客観的に捉えることが出来る。雨の冷たさを普段より鋭敏に感じ取ることが出来る。触角が雨粒の感触を、嗅覚が雨天の匂いを、聴覚が雨粒が地を敲く音を、味覚が染み出した雨の味を――

 視覚が目の前の雨に濡れた少女を映す。

「父には気をつけてください」

 仮面をつけたウィリアムにルトガルドが語りかける。

「父は家のためならば何でもすることが出来る人間です。テイラー家は、父の代で多くの財を築きました。男爵、子爵の中では並ぶ者がいないほどの財を、です。しかし父は、ローラン・フォン・テイラーは、まだひとつも満たされておりません。どれほど金を持っていても所詮は成金、父が真に欲しているのは格です。この国で真に認められるためにはそれが必要なのだと、言っておりました」

 ウィリアムのルトガルドへの印象は大きく変じていた。ただの浮世離れした少女、寡黙で人見知りで、空気の読めない愚か者。それらはすべて打ち砕かれた。

「父にとって人間は使える者かそうでない者か、です。私やアインハルト兄様、カール兄様は後者に区分されます。表面上は愛されていますが、アインハルト兄様以外期待をかけられたことも、愛されたこともありません。それを理解しているアインハルト兄様は反抗して学者の道を志しました。それを父は快く快諾しています。……何故ならば、その判断をした兄様に興味がなくなっていたからです。私も、早いうちから見切られたと思います。貴族の娘として、華に欠ける、と。格の高い家に嫁がせることは無理だ、と」

 話の中身は悲惨だが、ルトガルドの表情には暗い雰囲気など一切ない。むしろうれしさすら滲んでいる。そんな気が、した。

「しかし貴方の存在を知って、父はカール兄様の値札を変更しました。ウィリアム様の補助があれば、武勲を立てることも可能だと、テイラー家の格を上げることも可能だと、父は考えたからです。父は貴方に期待しています。だからこそ気をつけてほしいのです。父は貴方を使える側の人間だと判断した分、警戒もしています。貴方を使って格を手に入れたその後、父は貴方をどうするか、どう判断するか」

 ルトガルドは言葉を濁したが、答えなどわかりきっている。『上』の椅子は定数が決まっている。テイラー家が『上』に行くためには椅子に座る者をどかさねばならない。そして、これから椅子に座ろうとするものを排除せねばならない。テイラー家が椅子に座った後、ウィリアムを放置するとは考え難い。

「肝に、命じておきます」

 何故ルトガルドがそんなことをウィリアムに言ったのかはわからない。それすらローランの罠なのかもしれない。それでも、胸に留めておく必要がある。ローラン・フォン・テイラーは、ウィリアムが考えている以上に厄介な存在である、と。

「ところで、こんなことを何故今私に?」

 ウィリアムの問いに、ルトガルドは先ほどとはまた別の、無垢な少女の笑みを浮かべ、

「助けてもらった、御礼です」

 にっこりと答えた。その表情に、ほんの少し既視感を覚えたウィリアムであったが、何かを思い出すということはなかった。

「ああ、二人ともびしょ濡れですね。帰りましょう、ね?」

「ええ、そうですね」

 ルトガルドはウィリアムの袖をぎゅっと握る。気づけば違和感も不快感もなくなっていたその行為、そして結局テイラー家に厄介になることを押し通された形に、ウィリアムは仮面の下で苦笑いを浮かべた。

(なるほど、これは便利だ)

 ウィリアムは存外、この仮面も、ルトガルドという少女も、気に入っていた。

(さて、どう利用してやろうかな?)

 今ウィリアムが浮かべている下種な表情も、仮面が覆い隠してくれる。口元にさえ気をつければ、誰に気取られることもない。ウィリアムは二つの武器を手に入れていた。仮面とルトガルド。信用する気は一切ないが、利用価値は、ある。


     ○


 びしょ濡れになってテイラー家に帰ってきた二人を、家人は温かく迎えてくれた。ふかふかの布で濡れた体を拭き、煌々と燃え盛る暖炉の前で温まる。あたたかなシチューをコップ一杯いただき。そして二人は分かれた。

 一人は友人の服を製作するために自室へ。

 もう一人は借り物の部屋へ。

「やあウィリアム君。少しお話してもいいかな?」

「ええ、もちろん」

 ウィリアムの借りている部屋。その扉の外に、ローラン・フォン・テイラーが立っていた。部屋の中に入る気はなく、扉によしかかっている。

「今日はルトガルドを助けてくれたそうで礼を言うよ。ありがとう」

「いえ、お世話になっていることを考えれば当然のことです」

「あはは、そうかい」

「ええ」

 しばらく沈黙が二人の間に下りた。こういう場合うかつに口を開いてはならない。沈黙は金、『弱い方』が先んじて口を開いて良いことなどない。

「ルトガルドは賢いだろう? あれで男なら役にも立ったろうにねえ」

 ローランの雰囲気が、突如変じた。

「あの子が言ったことは大体予想がつく。そしてそれらを否定する気はないよ。君はテイラー家を利用する。テイラー家は君を利用する。非常にわかりやすいウィンウィンだ。すばらしき蜜月。お互いの性格などこの際置いておこう。これはビジネスだ。そしてこれが崩れぬ限り、私は君に『期待』しているよ。君には是非、『期待』に応えてもらいたいね」

 温和で優しいローランも、一皮剥けばこれである。知った以上隠す必要はない。剥きだしのローランは、ウィリアムの想像以上に大きく、そして歪んでいた。

「心得ておきます」

 ウィリアムはそう答えるしかない。いろんな意味で、今は勝てない。勝てない勝負は仕掛けなければいい。戦わなければ負けることはない。

 ウィリアムは仮面をなぞる。驚くほど冷静に己が欲求を抑えて、勝てない戦いを避けることが出来た。冷静に、客観的に状況を判断することが出来た。最近狂いっぱなしであった冷たい思考が知らぬ間に戻っている。

(いつか勝てばいい。最後に勝てば、俺の勝ちだ)

 ウィリアムはどす黒い笑みを浮かべる。そしておそらく扉向うのローランもまた同様の表情をしているのだろう。お互いの利を喰い合う関係。

 最後に喰らうのはどちらか。


     ○


 仮面を手に入れて初めての夜。ウィリアムは夢を見た。

 黒髪の小さな少年がひざを抱えて泣いている。周囲には少年に怨嗟の声を投げかけ、その手でくびり殺そうとする亡者の群れ。憎しみが膨れ上がり、憎悪がその身を焼く。永劫の悪意の中、少年はただただ怯え泣く。

 それをたった一人、たった一人の亡者が守っていた。

「大丈夫、貴方は悪くない。貴方のせいじゃない」

 優しい言葉を投げかけてくれる乙女。少年と同じ髪を持ち、少年と同じ眼を持つ。

「ほんとに? ぼくのせいじゃない?」

 亡者はにっこりと笑い頷く。周囲からは怒号が舞う。怨嗟の声が膨らみ押し潰そうとするも、黒髪の乙女がすべてから少年を守っていた。

 仮面をかぶったウィリアムは、ただただその光景を見る。一見すると美しい愛情劇の一幕に見えるが――

「……ギリィ」

 ウィリアム・リウィウス、アルにとってどちらの光景が救いか。どちらの光景こそ相応しいか。亡者か、乙女か。滅びか、救いか。悪意か、愛か。

「ふざけるなッ!」

 ウィリアムは手を伸ばす。黒髪の乙女はそれをちらりと見て微笑む。周囲の亡者たちはそれに気づき、少年の代わりといわんばかりにウィリアムに殺到する。

「くっ!? お、俺は!」

 亡者の波に呑まれるウィリアム。意識が飛ぶすんでのところで、最後の最後で黒髪の乙女がウィリアムを抱きしめる。抗えぬ悪意の群れから、身を焼く憎悪の群れから、少年と同じようウィリアムを守るように。

「…………」

 乙女は何をしゃべらない。少年をあやすような言葉は言ってくれない。ほんとは言ってほしいのに、語り合いたいのに、乙女の口からウィリアムへの言葉はない。あるのはただ微笑みのみ。

「ねえさんッ!」

 その瞬間、ウィリアムの世界が反転した。


「はっ、はっ、はっ、はっ」

 悪夢。悪夢なのかもわからない奇妙な夢。

 ウィリアムが起床したとき、全身は汗だくで鏡に映る貌はあまりにも醜かった。

「嗚呼」

 ウィリアムはのどを鳴らす。何が起きたのか、何を意味するのか、何も理解できない。ただ不快感と抗い難い幸福感が複雑に絡み合っていた。

「……酷い貌だ」

 ウィリアムは仮面に手を伸ばす。この表情を人前に晒すわけにはいかない。ウィリアム・リウィウスを演じる上で、今の状態は決していいとは言えなかった。

「……」

 ウィリアムは仮面を通して世界を見る。その限られた視界、暗闇に縁取られ外界と薄皮一枚隔絶された視界によって、ウィリアムの思考は正常に戻る。

「……ふう」

 落ち着きを取り戻したウィリアム。日課をこなさねばならない。重い腰を上げ、立ち上がる。

「まったく、最近の俺はどうかしてる」

 ウィリアムは自身の不安定さに呆れ、やれやれと首を振り、日課の訓練をこなすために自室を出た。


 これより先、ウィリアムはこの悪夢と永劫ともにせねばならぬことを、今の彼は知らない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る