61 ジュンガルの天使と日本のジャンヌダルク
できるだけ遠くに行かなければならない。そう心の中で繰り返しているうちに、黒崎桜子は眠りに落ちてしまった。
ドルマーに起こされた。空は赤みをおびている。手首のモニターを見る。午後四時十分。綾人はまだ眠っている。安堵感が、深い眠りを誘ったのだ。アルタイ山脈の南端、西中国共和国の国境まで、百二十キロ。馬を走らせて二、三時間かかるだろう。暗くならないうちに辿り着かなければならない。
「犬が来る」
馬上のドルマーが言った。
桜子はドルマーの指さす方向を見た。点にしかみえない。ドルマーは視力が優れているのだ。桜子は馬に跨り、ヘルメットの上部から双眼鏡を目の位置まで下ろした。確かに犬が一頭よろよろ歩いてくる。目を凝らした。犬ではない。ドックロボだ。
「レッド……」
体を揺らし、必死に脚を引きずり歩いてくる。
桜子は手綱を引き、腹を蹴って、レッドの方角に馬を走らせた。
レッドが立ち止まった。
桜子はレッドを見つめたまま、息を弾ませて、馬を追い続ける
レッドが赤い目で桜子を見上げる。桜子は飛び降りると、レッドを担ぎあげた。レッドから力を抜いて、ぐったりと桜子を見つめ続ける。
「レッド、一緒に帰ろう。もう置き去りにしないから」
馬上にレッドを持ち上げる。桜子は馬の背に跨ると、左手でレッドを支え、右手で手綱を握った。
スカイを北の空に飛ばした。追跡してくる者がいないか、探索するためだ。
三十キロ先の夕闇の中に、崩れかかった城塞砦が篝火に照らされ、浮かび上がっている。あの砦を越えれば、西中国共和国の土地。追撃の魔手から逃れることができる。
西方十キロの地点を飛んでいたスカイから連絡が入った。騎馬隊が五十七頭、東に向かっている、と。桜子は手首のモニターで画像を見た。騎馬兵はジュンガルの白マントの軍服を着ている。肩にはライフル銃を掛けている。
先頭に立っている人物を確認する。ララモントだった。
桜子たちは、東に向かって馬を走らせた。
だが、その距離は徐々に縮まってくる。武器は如意棒しかない。まともに戦っても勝ち目はない。
桜子は綾人にレッドを抱かせた。
「アヤト、先に行ってくれ。わたしが、ララモントと、話をつける」
桜子は耳から如意棒を出し、一メートルに伸ばした。
綾人とドルマーが東に向かうのを確認すると、桜子は西に向きを変えた。ララモントが追いつくのを待つ。
ララモントが馬を走らせて、目の前に来た。
「観念したか」
「何故、私たちを追いかける」
「日本に帰らせないためだ。面倒なら殺してもいい」
「あなたは、何者? なんのために」
「わたしの役割は、お前たちをおびき寄せることだけだった。ところが、戸倉恵美がへまをやった。おかげで、このざまだ」
「なんのために、わたしたちを、追い詰める」
「寺島を、日本から消滅させるためだ。寺島は、わたしの一族を、日本から追い出した。同じ運命を寺島に味合わせてやる」
「アヤトを処刑することを、ローランマーラに進言したんだ。ところが、われらの最高指導者魔女、ローランマーラは自分の野望のために、おまえたちを、日本に帰してしまった」
桜子は如意棒を強く握り締めた。
ララモント配下の四騎が、綾人を追いかけていく。桜子は如意棒を向けた。
「パワー二」
騎兵が四人、馬上から落ちた。
銃声が鳴った。
ララモントが天に向かってライフル銃を発射したのだ。桜子にいくつもの銃口が向けられている。桜子の動作がいかに機敏であっても、銃弾の速さにはかなわない。
「その武器を捨てろ。サクラコ。命が欲しくないのか」
桜子は如意棒を構えたまま、ララモントを見つめた。
「アヤトを諦めろ。そうしたら、おまえの命はとらない」
桜子は覚悟を決めた。如意棒を握りしめた。
「アヤトを殺せ」
ララモントが叫んだ。
五騎が飛び出していく。如意棒に力を込める。
東方の城塞砦から、銃声が鳴った。
騎馬兵が飛び出してくる。その数、百以上。兵士たちの松明に、掲げられた旗が輝く。赤い生地に白い星が七つ。西中国共和国の軍旗だ。軍旗が近づいてくる。兵士の軍服はガルバンの軍服だった。
先頭の隊長格の兵士が声高に叫んだ。
「ここは、西中国共和国の領土だ。おまえたちは、ここで何をしている」
もう一人の兵士が松明を桜子の顔に向けた。
隊長各の兵士が、笑みを浮かべた。
「ジュンガルの天使……」
西側後方から、松明が揺らいで押し寄せてくる。無数の騎馬隊が目前に現れた。
「そこに、いるのは、日本のジャンヌダルク、か」
聞き覚えのある声だった。
アジムアカフエ……。桜子は呟いた。
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