55 さよなら愛しのジャン
空は抜けるように青く、広い。
寒く乾燥した空気が唇を襲う。喘ぎながら歩く。渇ききった口の中に、砂粒が溢れてくる。
手首のモニターを見た。午前十一時。アルタイ山脈を左にして、夜通し六十キロの道のりを歩いてきた。遠くに見える青い靄、山脈の白い頂、裾野に続く丘陵地帯。その景色は、いくら歩いても一向に変わらない。
黒崎桜子は激しい疲労と睡魔に襲われていた。
綾人が座り込んだ。桜子はリュックサックから水筒を出して、綾人に渡した。ロボットスーツを着用していない綾人は体力的にもう限界だ。
南方から馬一頭とレッドが歩いてくる。スカイは馬の背中にとまっている。
あとの馬二頭とは離れ離れになってしまったか。それでも、一頭でも残っていたのは助かる。
黒崎桜子と綾人はそこで昼食にした。食料は後三日分しか残っていない。節約して五日間分になるように小分けする。水も貴重だ。二人の水筒に目盛りをつけた。
敵の姿が見えない。ここで仮眠をとることにした。温かい日差しの中で微睡む。
目の前にジャンの顔があった。
手首のモニターをみる。午後二時。三時間近く眠ったのか。
「サクラコ」
ジャンが語りかけてきた。
「何?」
「サクラコは、日本に帰ったら、何をしたいですか」
桜子は上半身を起こした。
ジャンの右目が痙攣を起こしている。左顔面から銀色の皮膚片がこぼれ落ちる。
「日本政府の一員になって、日本をもっとよくしたい」
ジャンの片眼が桜子を見つめている。
「企業連合国家なんて、絶対よくない。政府は、国民全員の投票で代表者を選ぶべきだ。わたしは、日本を民主的な国にする」
桜子には、ジャンがほほ笑んだように見えた。
「サクラコ、お別れです」
ジャンは立ち上がった。
「わたしの電磁波感知機能が劣化していました。敵が四、五十分ほどの所まで迫っています。気付くのが、遅すぎました」
ジャンは桜子の背中から電磁波発生シートを剥がし、自分の腹部に張り付けた。綾人からも剥がし、腹部に張り付ける。左肩のポケットを開け、五センチ角、厚さ一センチのハードデスクを取り出した。
「これを、わたしからだと言って、タケシに渡してください」
桜子は受け取るとズボンのポケットにいれ、ジャンを見上げた。
「いいですか、ここからまっすぐ南下して、できるだけ早く、二百キロ地点に到達しなさい。そこまでいけば、敵は武器を使わなくなります。西中国共和国の防衛ラインに入るからです」
「ジャン、何を考えているの」
「サクラコ、あなたとインターフェースをした日のこと、覚えていますか。わたしが言ったでしょう。全力を挙げて、あなたを守り抜く、と」
「ジャン、一緒に帰るって言ったでしょう」
「わたしが、ここで時間をかせぎます。サクラコの任務は、少しでも、遠くに逃げることです」
桜子はジャンに抱きついた。
「サクラコ、約束してください。必ず、日本に辿り着く、と」
ジャンは桜子を突き放すと、電磁波砲を右手でぶら下げて、北に向かって歩き出した。左手の肘から、回線がぶら下がり、火花を散らしている。体を揺らしながら遠ざかっていく。
「ジャーン、約束する。必ず日本に辿り着く」
桜子はジャンの背中に叫んだ。ジャンが電磁波砲を掲げた。
桜子は綾人を馬に乗せ、リュックサックを背負い、もう一つのリュックサックをぶら下げる。
「レッド、スカイ、行くよ」
とぼとぼと歩き出す。
馬とレッドがどんどん先を進んでいく。
一時間ほど歩いた。涙も声も出なかった。ただ黙々と歩いていく。
後方で大きな破裂音が響いた。
桜子はそっと振り返った。
火柱が半円を描いて立ち上がっていく。銀色の煙が舞い上がる。それが、風にのって流れていった。
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