10 お兄ちゃん、と桂木ドクターが言った
成田毅は格納庫の簡易ベッドに腰を落としてタブレットを見ていた。
運送荷物を確認している。総重量は十九トンある。機器類は線維化されているので、思っていたより軽量だった。水とバッテリーが想像していたより重い。だがこの二つはなにより重要だ。嵩張っていたのは、折り紙式手術室だ。移植手術には、手術環境が重要なのだから仕方がない。
蜘蛛型輸送歩行機は型番が65JR771だ。蜘蛛型輸送歩行機では最新鋭の機種と記されてある。全長10メートル、重量5.2トン。バッテリー、発電装置込みの重量だ。
短時間で、これだけの機器と手術用資材を揃えるのは大変だったに違いない。桂木ドクターとは何者なのだろう。
「成田タケシさん、お邪魔してよろしいでしょうか」
桂木が扉の外でボトルとグラス二つを持って立っている。視線が合うと、彼女はボトルをかざして成田に微笑みかけた。成田は倉庫の奥から小さな丸テーブルと金属製の椅子を二脚持ってきて、ベッドより離れた場所に置いた。
桂木はボトルとグラスをテーブルに置くと、椅子に腰かける。成田はベッド脇にあった充電式ランタンをテーブルに置いた。
「あなたを指名したのは、わたしなの」
桂木はボトルの蓋を開けながら言った。
「そうらしいですね」
成田はボトルを桂木から受け取り、二つのグラスに注ぐ。
「バーボンですね。この香りと、独特の味が好きです」
成田はバーボンを口に含み、ごくりと飲んだ。
「わかってほしいの。このプロジェクトには、信頼できるリーダーが絶対必要だから」
「前にお会いしたことが、ありましたか」
「うん、ある。四十五年ほど前のことだけどね」
四十五年前というと、自分が二十七歳のころのことだ。彼女は子供だったろう。
彼女はポシェットから将棋の駒を出してテーブルに置いた。それは歩だった。
「お兄ちゃん、将棋の駒無くしたでしょう」
彼女は悪戯っぽく笑った。
「ああ……」あの時の女の子。
「たしか、草野……奈津子」
「正解」
彼女は声を出して笑った。
「やっとわかったのね。もっと早く気づくと思っていたのに」
「ドクター、お願いがあるんですが」
「何? なんでも言って」
「背中に軟膏を塗っていただけますか。南の戦場で火傷したんです」
桂木は成田の顔を見つめて一瞬真顔になったが、すぐ口に手を当て笑い出した。
「わかった。背中を見せて」
成田はシャツを捲りあげ、桂木に背中を向けた。
「あー、これは、ジャンがあなたを助けたときの証だ。あなたの命の証だね」
成田はショルダーバックからガーゼの束と軟膏の瓶を出して桂木に渡した。彼女はガーゼ―を一枚手にして、ベッド脇にあった成田の水筒の水で濡らした。成田の背中を拭きあげる。
「まだ、あの将棋の駒持っている?」
桂木は軟膏を塗りながら訊いた。
「なくしました」
「残念、わたしは、こうやって大事にしていたのに」
今まで、あのときの将棋の駒のことは忘れていた。関東直下型地震の時に亡くなった祖父が買ってくれたものだ。いつどのようにして無くしたのか思いだせない。
「将棋崩し、わたしのほうが強かった。五勝一敗」
桂木はそう言って笑った。
富士山が噴火して火山灰が東京に降り注いだ日、成田は東京から避難し、千葉県柏市を北海道に向かって歩いていた。水戸まで辿りつけば、常磐線で青森まで行けるかもしれない。青森まで辿り着ければ、北海道に渡る手段があるだろう。
取手市を通り抜け、二キロメートルほど行った道端で、草野奈津子に会った。彼女は路傍に腰を落とし、膝を抱えていた、歳は十歳ほど、幼い少女だった。成田は彼女の隣に並んで腰を落とした。その時、両親を待ってじっと耐えているのだと思った。
成田は、リュックからおにぎりを一つ出して彼女の手に握らせた。彼女は驚いた表情で成田を見つめた。
そうだ、あの時の目だ。桂木ドクタ―の眼差しは。
「一人なの」
「うん」
「お母さんは?」
「いない。東京で死んだ。お父さんも」
「どこへ行くの?」
「仙台」
腹が空いていたのか、彼女はおにぎりにかぶりついた。
「仙台に誰かいるの?」
「お爺ちゃんとお婆ちゃん。病院をやっているの」
「ここまで、歩いてきたの?」
少女は成田を見つめたまま大きく頷いた。
今はっきり思いだした。あの時、少女の目に涙があふれていたことを。
おにぎりを食べつくすと、成田が差しだした水筒の水を喉を鳴らして呑んだ。
彼女を背負うと、救護所のある佐貫に向かって歩きだした。
「あと、三日ほどで、治療しなくても済みそうですね」
桂木は成田にガーゼ―と軟膏の瓶を戻した。
「結婚したんですね」
「はい。彼も医者でした。もう亡くなりましたけど」
「今はおひとりで?」
「いえ、娘が一人います」
成田は一口一口舐めるようにバーボンを呑み続ける。久しぶりに心が和んだ。
成田から目を逸らさず、桂木はためらいがちに話を続けた。
「よく、この仕事引き受けましたね。わたし、あなたの顔を見るまで不安でした。先の見えない危険な任務でしたから」
「わたしが断っていたら、どうするつもりだったんですか」
「そうね。ジャンを頼りに行くことになったと思います、わたしに断る選択肢がなかったから」
「何か、特別な事情があったのですか」
「話したくないけど、仕方がないか。……娘がね、二十歳になるんだけど、明日へも知れぬ重い心臓病なの。移植するしか望みがなかった。それで、優先順位を一番に上げてもらったの。娘のためだったら、わたしなんでもするわ。わたしは、どうなってもいい」
桂木は成田を見つめて笑みを浮かべた。
「再会を祝して、乾杯しましょう。お兄ちゃん」
桂木は成田のグラスにバーボンを注ぎ、自分のグラスを手にした。
「失礼します」
開かれた格納庫の扉に、黒いスーツを着た初老の男が立っている。
「わたしは、寺島家の執事、北原と申します。桂木ドクター、成田タケシさん、総裁がお呼びです」
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