37 わたしの名はローランマ―ラである
九月十六日の朝、スパイダ―の展望室から見える広場は、雨にけむっていた。ジュンガルに来て初めての雨だった。黒崎桜子はスパイダ―から出ると、マントのフードを被ってドームへ歩いて行く。
ドームの出入口にたむろしていた住民の間をすり抜け中に入る。
治療室のベッドに、ローランが寝ていた。呼吸器が外されている。自発呼吸ができるようになったのだ。
「お早うございます」
桜子が声をかけた。
ベッドの脇でローランを見ていた桂木が、桜子に顔を向け笑みを浮かべた。
空間ホログラフィーモニターのバイタルは、血圧142、脈拍75、血中酸素濃度99を示している。
ローランは目を開け、天井を見上げている。
「ローラン、わたしが、誰だかわかる?」
桂木がローランの目を見つめて問いかける。
ローランは暫く桂木を見ていた。
「ドクター、……カツラギ」
「ローラン、もう少し、眠りましょう」
桂木がローランの頬に手をやって微笑んだ。
ジャンが点滴袋を交換する。ローランは再び眠りに落ちた。
桜子は桂木の手を引いて滅菌室に入った。
「ドクター、綾人のこと、いつ話せるのですか」
「明日には、なんとか……。でも、正常の反応ができるかどうかは」
「ローランの精神状態に異常はないですよね」
「今のところはね」
「よかった。心配していたんですよ」
「それより、マ―ラが目覚めたことを、カリムゴロフキンに伝えなければならないわ」
「わたしが、外の兵士に伝えてくる」
桜子は外にとびだした。
昼過ぎになって、成田が昼食パックを二つ持って治療室に現れた。
「交代しましょう」
彼は桜子と桂木に昼食パックを渡す。
「目覚めましたか。これで、我々の命も繋がりましたね」成田はそう言って、桂木の耳元に囁いた。
「マイクロRNA26エクソソ~ム、どうなっています?」
「今のところ、異常ない」
カリムゴロフキンが葡萄を木製の皿に入れて持って来た。桜子が一房持つと、昼食パックの上に載せて治療室の片隅の椅子に座った。
「ドクター、ローランはいつ自立できますか?」
カリムゴロフキンが訊いた。
「明日から、リハビリを始めます。三日ほど経てば、杖をついて歩けるようになるでしょう」
「そうですか。ありがとうございます」
彼は笑みを浮かべた。
午後四時になって、ローランは再び目覚めた。
桂木が語りかける。
「痛くはありませんか」
「痛くない」
「わたしは、幻覚を見ているの? それとも、これは現実なの?」
「現実ですよ、ローラン。手術は成功したんですよ」
「わたしは、生きているのか……。まだ。夢の中にいるようだ」
「明日から、飲み物、流動食を食べますよ」
「うん」
「それから、リハビリを始めます」
「リハビリ?」
「起きあがり、そして歩くことです」
「そうか」
翌十七日午後、ローランに水を飲ませ、ベッドから上半身を起こす訓練を始める。それを何度も繰り返す。午後五時、ローランは両脇を桜子とカリムゴロフキンに支えられて、十数歩歩いた。
「綾人は、いつ解放してくれますか」
ベッドに横たわったローランに、桜子が尋ねた。
ローランは目を閉じる。
「ドクター、いつになったら、わたしの心は、自律できるようになる?」
「あと、二、三日すれば」
「それは、訓練すれば、早めることはできるのか」
「はい」
「サクラコ、その答えは、明日まで待ってくれないか」
「わかりました」
「カリムゴロフキン、七時になったら、広場で住民に感謝の気持ちを伝える。準備をしてくれ」
カリムゴロフキンは桂木の顔を窺う。
「一、二分なら。外に出るときは、ローランの体を温かくして、抱いていってください」
「わかりました」
ドーム前の広場は、雨が降っていた。羊の毛皮の外套を纏った群衆が広場を埋めている。カリムゴロフキンが、ローランを抱えて広場の祭壇に向かう。広場は静まりかえった。ローランを椅子に座らせる。
「ジュンガルの民よ。わたしは、マーラの命を受け継いで、生を頂いた。わたしは、ジュンガルの民と、マーラに感謝する」
群衆の歓声がわき上がる。
ローランはカリムゴロフキンと兵士の手をかりて立ち上がった。ローランの体が、篝火に浮き上がる。
声を振り絞って叫んだ。
「わたしの名は、ローランマ―ラである」
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